【脱獄物語】そこらじゅうにある絶滅①
第二章である。
わたしが自分の発明を悪用されたことにショックを受け、松平にスタンガンで気絶させられた後からだ。
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目が覚めたとき、真っ白い天井が見えた。空気の中に、微かだが消毒薬の匂いが流れていた。
それでここがどこだか分かった。
ここはおなじみの医務室だった。
医務室にだけは看守の姿はなく、囚人たちにとっては刑務所で一番くつろげる場所であった。
窓の隙間からはレースのカーテンをかすかに揺らして、涼しく新鮮な空気が入ってくる。ゆっくりと深呼吸すると、頭の中がすっきりと晴れわたってきた。
そしてわたしが発明した爆弾のこと、その爆弾で死んでいった人達のことを思い出した。
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「……たいした事じゃないさ……」
それはわたしの口癖だった。
つらいと思ったときには、よくそう口にしてきた。
だが今度ばかりは何の効果もなかった。
五千人の命がなくなってしまったのだ。
わたしの心はボロボロだった。
「たいした事じゃない、たいした事じゃないさ……」
白衣のポケットをさぐると、くしゃくしゃになった緑色のハンカチが入っていた。
「……たいしたこと……そんなワケないじゃないか……」
わたしはそれを目に当てると、声を殺してまた泣いた。
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「お目覚めですか、博士?」
その声にわたしはゆっくりと首をめぐらせた。
そこに立っていたのは、倉井【小さな夜の子?】小夜子という女医だった。
名前の解説をしたいところだが、ちょっと意味が分からない。
ちなみに彼女もまたここの囚人の一人である。
背の低い小柄な女性で、分厚いめがねをしょっちゅうずり上げている姿は白衣を着た小学生のようにも見える。
しかしその中身は遺伝子工学の専門家で、誰もが百年に一人の天才と認める医学者だった。
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「あたしが誰かわかりますか?」
ちなみに彼女の声もなんだか子供のような声だ。
「もちろんだよ、小夜子先生」
「ここがどこか分かりますか?」
「もちろん。刑務所」
私の答えに彼女はあきれたように微笑んだ。
「まぁ、実際はそうですけどね。一応、研究所ですよ、ここは」
彼女は白衣のポケットに両手をいれ、ちょっと首をかしげて微笑んだ。
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ちなみに彼女がこの刑務所にやってくるきっかけになったのは、女性を不妊化させるウィルスを作り出したためだ。
そのウィルスはゆっくりとではあるが、確実に人類を絶滅させることが可能だ。何しろ子供が出来ないのだから、今いるすべての人類が老衰で死を迎えれば、あとには人類の痕跡がまったく残らなくなる。
それは言ってみれば究極の殺戮兵器である。
彼女がここに閉じ込められたのは、この発明を兵器として利用されないよう、彼女の身を守るためでもあった。
少なくともそう言うタテマエだった。
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ついでに言うと、その不妊ウィルスは現在、地球から遠く離れた月面にあるウィルス保管所に眠っている。
どうしてそんな物騒なものをわざわざ保管しておく気になるのか理解に苦しむが、使い切れない核爆弾をめいっぱい抱え込んでいることと大して違いはないのだろう。
ひょっとしたら、いつか必要になるかもしれない。
その時のために大事に取っておこう。
そんなことを考えるやつがいるせいだ。
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さらに付け加えておくと、この月面の保管所にはもう一つ極め付きのウィルスが眠っている。
といってもこちらは生物ではない。
世界中のすべてのコンピューターを一瞬でダウンさせる、強力な感染力のあるコンピューターウイルスである。
開発者本人から聞いた話ではこのウィルスが外に出れば、すべてのコンピューターが簡単な足し算一つ出来なくなってしまうという。
今や全てのものがコンピューターと直結している時代である。軍事コンピューターを手始めに、政治、経済、家庭生活に関わる全般と、とにかくあらゆる情報が暴走し、寸断される。
コンピューターに頼りきっている現在、予想されるのは未曾有の大混乱だ。
それはハイテク時代にもっともふさわしい絶滅の形かもしれない。
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ちなみにこのウィルスの発明者の名は田中【イチバン】一という。
彼こそがこの収容所を作るきっかけになった人物で、最初の囚人である。
偶然とは恐ろしいもので、彼は名前どおり囚人番号一番となってしまったのだ。
ちなみに収容当時、彼はまだ中学生だった。
それからの二十五年間、彼はずっとこの収容所で暮らしてきた。
この収容所の一番の古株にして、わたしの知る限り本物の天才だ。
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今、思い返してみれば、あの刑務所にはそこらじゅうに絶滅の種があった。
それこそ科学者一人につき一つは、絶滅の原因となる発明、もしくは実現可能なアイデアを抱えていた。
一般の人は知らないことだが、あの収容所にはそんな科学者がざっと二百人は収監されていた。つまり二百回は人類を絶滅させうる可能性を秘めていたということだ。
当時の世界はそういう危ないバランスの上に成り立っていたわけだ。
常に綱渡りをしながら歩んでいたわけだ。
さて余談はこれくらいにしておこう。
ちなみに田中一はあとですぐに出てくることになるから、そのときにまた説明を追加することにする。
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「まだ頭がはっきりしませんか?」
小夜子はちょっとジャンプするように、ベッドの足元に腰掛けた。その足は空中でぷらぷらと揺れ、つま先にはウサギのぬいぐるみスリッパが危なっかしく引っかかっている。
ちなみに彼女はこういう動物スリッパのコレクターだった。
彼女は毎日の五百円の小遣いを、全てこれにつぎ込んでいるという噂だった。
「いや、大丈夫だよ。ちょっと考え事をしていたんだ」
「でも織田博士、寝ている間もずっと泣いてたんですよ」
「そうか……じつはね、また悲しいことがおきたんだよ」
「爆弾の事ですよね。聞きました。悔しいですよね……せっかく素晴らしいものを作ったのに……」
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彼女はわたしの悲しみを本当に理解していたと思う。
以前に彼女が話してくれたのだが、彼女の発明も最初はHIVウィルスの完全な根絶を目的としていたのだという。その過程で作られたのが、細胞の分裂そのものを抑えるウィルスで、これがすべての生物を不妊へと追い込む効果があったというのだ。
もちろん彼女が望んでいたのはそんなウィルスではなかった。
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「政府の人って、いつだって悪いことしか考えないんですよね。どんな素晴らしい発明だって、どうやって悪いことに使おうかって、そればっかり。博士はみんなのために発明したのに、そういう事は誰も考えてくれない……昔からそう、ずっとそう」
そう言う彼女こそ今にも泣きだしそうに見えた。
「そうだね、それでもわたしは自分を責めたくなるよ。わたしがアレを作っていなければ、少なくとも犠牲者が出ることはなかった」
彼女は眼鏡の奥からじっとわたしを見つめた。そして彼女はわたしの悔しさを思って涙を流してくれた。
「どうして、あたしたちが閉じ込められなくちゃならないんでしょうね?本当に閉じ込めなくちゃいけないのは、それこそ原爆を落とすような人達のはずなのに……」
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その言葉がわたしの心に引っかかった。
なにか運命の歯車が、カチリと一つ動いたような感じだった。
わたしはふいに思った。
今こそがその時ではないかと。
脱獄計画を始めるのは、今まさにこの瞬間ではないかと。
その計画は長い間、わたし一人の心の中で時を刻んでいたものだった。
それがこの瞬間、その計画を実行に移すべきだと、誰かに計画を打ち明け、ともに進むべき時が来たのだと、そう思えたのだ。
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「……まったくだよ、君もここを出たいかい?」
その言葉はわたしの口から自然に流れ出た。
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彼女はびっくりしたようにわたしを見た。
わたしはまともに彼女の視線を受け止めた。
彼女の瞳の中ではいろいろな可能性が検討され、分析され、診断されているようだった。
が、やがて彼女の瞳はスゥッと暗く翳った。
「ええ。でも、やっぱり……あたしはここにいたほうがいいみたい。ううん、あたしだけじゃなくて、あたしたち全員。だって悪い科学者と思われているんだから……あたしね、もう利用されるのは嫌だし、逃げ回るのもいやなんです。ここなら安全だし、世間から憎まれることもないし」
だがそういう彼女はだんだんとうつむいていった。
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まぁ彼女の意見ももっともだ。
彼女がそう考えてしまう理由もわかる。
わたしだってこの刑務所の中で、誰にも関わることなく、ひっそりと生きた方がいいのかもしれない。
そんな未来を想像してみた。
発明なんてやめて、好きな本を一日中読んで暮らす。
それは悪くない生き方のはずだ。
もう誰も傷つけることがない。
それでなくたって、わたしはもう多くの人の命を奪ってしまった。
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だがわたしがそれを考えたのはほんの一瞬だった。
わたしは立ち止まれない人間だった。
わたしはある理由から自分の運命の一部を知っていた。
いつかわたしがこの刑務所から脱獄するという運命を……
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ちなみにわたしの知るその運命によれば、わたしはここの連中を全員引き連れて脱獄させることになっていた。
そしてこの計画が成功することも分かっていた。
だが肝心な『どうやって脱獄するのか?』ということが分かっていなかった。
だがもう一つだけ分かっていることがあった。
それは『いつ脱獄するのか?』ということである。
それが何年なのかは知らないが、日付は【七月三十一日】なのである。
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ちなみにその日は一週間後に迫っていた。
脱獄の決行が今年か、来年か、それとももっと先になるのかまでは分からないが、とにかく七月三十一日なのだ。
ずいぶんと非科学的な発言だというのは分かっている。
だがとにかくわたしの運命によれば、わたしはこの脱獄に成功するらしいのである。そしてわたしはここに来た時からずっとその脱獄の方法を考え続けてきたのである。
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「それは本心かな?」
わたしは小夜子にそう尋ねた。
「わかりません。でもどうせここからは出られませんよ」
彼女はブンブンと首を振りながらそう言った。そしてため息とともに諦めたような笑顔を浮かべた。
「ねぇ小夜子先生、ちょっと耳を貸してくれないかな?」
わたしがそう言うと、小夜子はうれしそうに笑った。こういうところも実に子供っぽいところがあった。
「なんだか懐かしいですね、内緒話って」
わたしは起き上がると、小夜子の耳を両手で包み込み、そっとささやいた。
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「わたしがここから出してあげるよ」
彼女の小さなこめかみがヒクリと動いた。
すると今度は小夜子がわたしの耳を包み込んでささやき返した。
「それって、脱獄するってことですか?」
わたしはうなずいた。
「ああ……しかもここの科学者全員でね」
彼女の眼鏡の奥で目がまん丸に見開かれた。
が、すぐにその驚きの色は消えてしまった。
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この刑務所に長くいると、誰もがこういう反応を示すようになる。
何か希望を求めても、それが叶えられることが絶対にないからだ。
だったら最初から希望なんて持たないほうがいい、それは重荷になるだけだから。
そして彼女もまたそう考えた。
「でも……やっぱり無理ですよ。ここから出るなんて」
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この刑務所は規則こそ緩やかだが、警備は厳重そのものだ。
なにしろココの科学者を一人さらうだけでも、人類を滅亡させることができる。国の危機なんてレベルは簡単に超えている。つまりそれは、世界を支配することのできる究極の武器を手に入れることと同じなのだ。
だからこの刑務所では、世界中のあらゆる特殊部隊やテロリストから科学者の身を守るために、それはそれは厳重な警備体制を敷いていたのだ。そういう組織を中に入れないために、そして科学者を外にださないために。
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繰りかえすようだが、この当時、人類絶滅への種はそこらじゅうにあった。
それはなにも刑務所の中に限ったことではない。世界中の国が核爆弾を欲しがっていたし、作りたがっていた。なにより使いたくなるような状況をいつも作りたがっていた。
さらに言えば、人類は総がかりで地球のあらゆる資源を食い尽くしていた。最初は森林、次は石炭、さらに石油と続き、それがなくなると無謀は承知でウランにまで手を出した。
食べ物を捨てる国がある一方で、餓死者を出している国が存在していた。食べ物でお腹を膨らませた子供がいる一方で、飢えでお腹を膨らませている子供がいた。
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われわれ人類は何度もこんな愚行を繰り返してきた。
何度も何度も懲りることなく同じ失敗の歴史を繰り返してきた。
そのたびに人類は反省したが、しばらくするとやはり同じ間違いをしでかした。
残念なことだが、それは明らかだ。
人類はこれまでなにも学ぶことが出来なかった。
いや、学ぶ気すらなかった。
わたしの言っていることは間違っているだろうか?
では問おう。
いつになったら戦争がなくなるのだ?
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だからこそ、我々アトランティス人は違う道を選んだ。
われわれは限りある資源をみんなで有効に分かちあい、科学技術の力をすべて平和利用に振りむけている。
ここでは科学は悪魔の力ではない。
みんなが科学の正しい力を信じている。
科学は全てを解決する万能の道具として生かされている。
ここで人は初めて愚行という歴史の連鎖から解放されるのだ。
わたしは、そしてわたしたちアトランティスの科学者はそれを信じている。
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またずいぶんと横道にそれてしまった。
話の続きだ。
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「まぁね。映画のような脱獄は無理だろうね」
わたしは小夜子にそう告げた。たぶん彼女はわたしが冗談を言ったと思ったに違いない。
「そうですよ。だいたい脱獄したってどこへ逃げるんですか?あたしたちが隠れられるところなんて世界中どこにもありませんよ」
そう言って、またあきらめたような笑顔を浮かべた。
だからわたしは答えた。
それが冗談ではないことを証明するために、まっすぐに彼女の目を見て答えた。
「それがあるんだよ。誰にも知られていない大陸がね」
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その言葉に小夜子は首をかしげた。疑わしそうな視線もついてくる。
「タイリク、って言いましたか?」
「ああ、大陸だよ。まだ誰にも発見されていない、衛星を使っても絶対に見つからない大陸があるんだよ」
「ありませんよ、そんなところ。大体ありえません」
「それがあるんだよ。君も知ってる大陸だよ」
「うーん。なぞなぞは苦手なんですよね……あと、地理も」
「じゃあ正解だ。それは【アトランティス大陸】だよ」
「そんな大陸があるんですか?」
「そんなのないって言わないだけましな質問だね。あるんだよ」
「どこにですか?」
「普通の人には見つけられない場所さ。だからこれまで誰にも知れてこなかったんだ」
小夜子の目はまだ疑っていたが、少し信じ始めてもいた。
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「アトランティス大陸は実在するんだよ。そこへみんなと一緒に逃げるんだ」
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わたしはベッドから立ち上がった。そして窓辺に歩いていくと、窓を開け放った。
風がどっと吹き込んで、わたしの周りでレースのカーテンが激しく揺れた。その瞬間、わたしは白い光の中に包まれた。
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あの瞬間のことはよく覚えている。
なにかが始まるという感覚。
まっすぐに運命が伸びているという感覚。
その運命が自分に微笑みかけているという確信。
だから自信を持ってはじめればいいのだと、あの瞬間がわたしに確信させた。
「小夜子先生、わたしと一緒に行こう、アトランティス大陸へ」