【脱獄物語】チャールズとスケイプ③
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『チャールズ』といい『スケイプ』といい、この二つの名前がこのタイミングで登場するというのは、偶然というレベルを超えている。
この事実はわたしに更なる確信を抱かせた。
われわれの運命はアトランティスへつながっている。
わたしの足元から、確かに一本の道が伸びているのだ。
だからわたしは彼女にこう言った。
「一緒に行こう、アトランティス大陸へ」
「はい!博士!」
小夜子は涙を袖でごしごしとふき取ると、にっこりと答えた。
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だが話はこれで終わりではなかった。
「そういえば、わたしをこの部屋に呼んだのには、ほかに理由があるんじゃないのかね?ずいぶんと思いつめていたようだったけど」
「あ、実はそうなんです。あの、博士、ちょっとそこで待っててもらってもいいですか?」
「ああ、もちろんかまわないよ」
「おいで、スケイプ!」
小夜子はそう言って寝室へと入っていき、バタンとドアを閉めた。
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わたしはなんだか居場所もなく、その場に黙って突っ立っていた。
扉の向こうからは、なにやらごそごそと音が流れてくる。
時おりスケイプが小さく吠えているのも聞こえる。
待つこと五分。やがて扉のノブがそっと回り、小夜子が姿を現した。
「お待たせしました、織田博士。ちょっと着替えに時間がかかっちゃって」
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「……」
口は開いたのだが、声が出なかった。
彼女は見るからに怪しい格好だった。
真っ黒のトレーナーの上下に、新品の黒のスニーカー、頭にはつばの長い真っ黒のキャップをかぶり、目には大きなサングラス、口元はすっぽりマスクで隠している。
さらに背中には黒のバックパック、左手に大きなスポーツバッグ、右手には散歩用のリード(これも黒い)、もちろんリードの先にはスケイプがつながれており、この格好は……夜逃げだろうか?
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「どうですか?博士?」
マスク越しの彼女の声はくぐもって聞こえた。
「あ、いや、とても似合っているよ」
「よかった!わたし、脱獄って始めてだからどんな格好していいか分からなくって……ずいぶん悩んだんですよ」
と言っているものの、顔のほとんどが隠れていて表情は読み取れない。だが、彼女はたぶん真剣だ。
「うん、ばっちりじゃないかな……それだけ黒いと……きっと、目立たないんじゃないかな?」
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「やっぱり来てもらってよかったです。こんなことカフェテリアじゃ聞けないし……そう、荷物はやっぱり二個ぐらいが限度ですよね?」
「そうだろうね」
「スケイプはもちろん連れて行っていいんですよね?」
「もちろんさ。わたしも自分の猫を二匹とも連れて行くんだ」
「博士は猫を飼ってるんですか?」
「ああ、サイとコロっていうんだ」
「面白い名前ですね。サイコロだなんて」
「一人は細いからサイ、もう一人はコロコロしているからコロっていうんだ」
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と、不意に小夜子がチラチラッと周囲をうかがい、足音を消してササっと、わたしのそばにやってきた。
そのただならぬ雰囲気に、わたしにも緊張が走った。
(だれか来たのか?)
小夜子は小さな体をさらにかがめた。
小声で話すという意味だろう。サングラスにマスク姿、緊迫感が伝わってくる。
そして小夜子はマスクの奥からさらに小さくささやいた。
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「ところで、脱獄はいつするんですか?」
小夜子はすっかり脱獄者になりきっていた。たぶん服装がそうさせるのだろう。
「7月31日の予定だ」
もちろんわたしもささやきで返す。
「もうすぐですね。今日が23日だから、あと9日」
「そうなんだ。でもまだ準備が出来てないんだよ。脱獄に必要な道具の発明はこれからだし、細かい計画はまだなにも決まっていない」
「日付だけが決まってるんですか?」
「まぁね。7月31日っていうこの日付が重要なんだ。一日早くても遅くてもいけない。たぶんこの日だけが脱獄を可能にするんだ。ずいぶん非科学的だけどね」
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「あ、分かりました!その日は聖脱獄記念日なんですね、あの物語に何度も出てきた……」
「そのとおり。聖脱獄記念日とは、わたしが、仲間の科学者すべてをこの監獄から逃がす日のことだと思うんだ。それが自分の運命だと思っている」
「運命!非科学的だけど、あたしはそれを信じますよ」
小夜子はにっこりと笑って答えた。
もちろん全て囁き声でのやり取りである。
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「そうだ、博士!」
「なんだい?」
「わたしになにかお手伝いできることはありませんか?わたしもなにか手伝いたいんです」
「ありがとう。でも今はまだないよ。準備段階なんだ。今は脱獄用の道具を発明してるところでね」
「田中さんにはもう脱獄のことは話してあるんですか?」
「いや、まだ話してない。みんなには直前まで隠しておくつもりなんだ。情報がどこから漏れるか分らないし、大塚長官はおそろしく地獄耳だからね」
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ちなみにこの部屋に監視・盗聴装置はない。
最初はついていたそうだが、それを鋭子が聞いて激怒したのだ。
女性の部屋にそんなものをつけるのは、絶対許さない。なにがなんでも外させる!
それは大塚長官にすぐに報告され、装置はすぐに撤去されたという。
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「なるほど。じゃあ、しばらくはあたしと博士だけで計画を進めていく計画なんですね?」
「そういうことだね」
「その脱獄に使う道具ですけど、田中さんと他に誰が研究しているんですか?」
「それがね、ここの全員でやる予定なんだよ」
「全員って?収容所の全員?」
さすがのスケールに小夜子も驚いている。もちろんわたしもそうだった。だがアレはそれだけの頭脳がないと作れないということだ。
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「ああ、二百人ぐらいになるだろうね。実は今日カフェテリアにいたのは、田中君とその打ち合わせをしていたからなんだよ。その道具を作り出すには、全員で取りかからないと出来ないそうなんだ」
「じゃあ、これから全員にその研究をするように、交渉するってことなんですか?本当の理由を話さずに?」
「ああ、だが正直、ここの連中は気難しいのばかりだからね。研究を頼んでもすんなり引き受けるとは限らないわけさ。でも全員の協力がどうしても必要なんだ。それで今頭を悩ませているわけだよ」
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「なるほどね。ということは……は・か・せ……」
小夜子はサングラスを外し、その下にあったぶ厚い眼鏡も外した。
眼鏡に隠された小夜子の目は、とても美しかった。
よく、近眼の女性の目は美しいというが、小夜子の場合は典型的だった。
焦点が合わないせいか、まっすぐにこちらの目の中を覗き込んでくる。それがなんとも妖艶な感じだった。
「……それならわたしにも手伝えそうですよ」
小夜子は芝居っけたっぷりに微笑んで見せた。うふふ。という笑い方だ。
普通だったらわざとらしい笑いだが、小夜子の場合は実にかわいらしく見えた。
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「博士、こう見えても、あたしは刑務所のマドンナなんですよ」
「まぁ、自分で言うセリフじゃないけどね」
「ふふっ。こうしましょう。まずは博士が研究を頼むんです。それで駄目なら、あたしに言ってください。あたしが一人一人呼び出して、研究を頼むんです!」
「それはその、色仕掛けってやつかね?」
「そうです。ほら、よくあるでしょう。狂気の天才科学者の隣にいる、黒バラの美人助手ですよ!」
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黒バラ?いったいどんな本を読んだか知らないが、とにかくいいアイデアだった。
マドンナじきじきの頼みとなれば、それも一人一人にお願いするということになったら、まず断る研究者はいないだろう。
とにかくここの連中は女性という存在に決定的に弱いのだ!
まぁわたしも人のことは言えないが……
「では改めてよろしく。美人助手さん!」
わたしは右手を差し出した。
「こちらこそ、織田博士!」
彼女はわたしの右手を力強く握り返した。
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第五章はここでやめておこう。
まぁ一段落ついたわけだ。これでわたしには田中一と小夜子という強力なパートナーができた。
あとは実行あるのみ、という訳だ。
だがいつだって実行するのが一番大変だ。




