【脱獄物語】閉じ込められた科学者②
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さて、ずいぶんと長い前置きになってしまったが、この瞬間からわたしの脱獄物語は始まる。
わたしが脱獄を考え始めたのはこの刑務所に入った瞬間からだったが、実際に脱獄計画が動き出したのはこの瞬間からだった。
このときの情景、空気、音、匂い、その全てがいまもわたしの脳裏に鮮明に焼きついている。
それはこの瞬間が大事な一瞬だったからだ。
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わたしは慌てて彼女の口をふさごうとしてアクリル板にパンチをしてしまった。
わたしはそそっかしい人間ではないと思うのだが、動揺しやすい性格ではある。
パンチはすごい音がしたが、彼女はぴくりとも動かなかった。アクリル板の向こう、頬杖をついてニンマリと、実に楽しそうに口角を上げて微笑んでいる。
「だいじょぶ?すごい音したけど?」
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「あ、ああ。もちろんだよ。それより勘弁してくれよ。ここでそういう冗談は。だいたい脱獄なんて考えるわけないだろ……」
わたしはアクリル板に顔を寄せ、ささやき声でそう言った。
「あら、ほんとにぃ?あんまり動揺してるから、本気かと思ったのに」
彼女はサングラスをずらし、今度はその美しい目をいたずらっぽく細めてみせた。
繰り返すようだが、彼女のその表情がまたなんとも可愛らしいのだ。もちろんいい歳にはなっている。でもかわいいのだ。これは実際に見てもらわないと分からない。
「そりゃ動揺もするさ。ここは刑務所なんだから、そういう冗談は場所を考えてもらわないと」
そう言いつつも、わたしの心臓はさらにドキドキと脈打っていった。
たぶん顔もどんどん真っ赤になっていったと思う。
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「なーんだ、ちょっと期待してたのに」
彼女はそう言って、まだ試すようにこちらを見ている。
で、わたしはその視線に耐え切れずにうつむいてしまう。
それは彼女に見つめられたせいばかりではない。
もちろんそれもあるのは確かだが、図星だったからだ!
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実はこの数日、わたしはあっと驚く脱獄方法を考えていたのだ。
それも科学者らしい、しかも未来にきっと役立つ技術を使った脱獄方法である。
もちろん彼女がそれを知っていたはずはないのだから、これは驚くべき偶然である。が、彼女にはそういうところがあった。なんだか物事の核心にいきなり切りこんでくるようなところが。
それこそが彼女『山川鋭子』の本当に怖いところ。
名前の通り、まったく鋭い女なのである!
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そしてわたしは背後に立つ看守の方をちらっと振り返った。
看守の名前は松平【すこやか】健。
彼もまたこれから物語のキーマンになる。
ということで名前解説だ。
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たぶん彼の両親は息子が健康に育つことのみを願ったのだろう。
その願いどおりか、彼は実に健やかな感じの男だ。歳は三十歳。ボディービルダーのような筋肉と体格で、一年中真っ黒に日焼けしている。さらにかなりのナルシストでもある。
制帽をいつもハスに頭に載せ、なんでも見下したいのか、やたら胸を張り、下目遣いで人を見るのが癖になっている。
さて、そんな彼は警棒を手の平にペチペチと打ちつけながら言った。
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「なぁおい二十八号……物騒な事を考えちゃだめだぜ?この刑務所を脱獄したら、次は本物の刑務所が待ってんだ。分かるだろ?本物の囚人たちがいる刑務所だぜ?」
彼はこの刑務所の中で、囚人も職員も合わせて一番歳が若いのだが、誰よりも偉そうにしている。
「わかってる、って。健さん」
わたしは慌ててそう言った。
「ここは刑務所とは名ばかりのユートピアみたいなもんさ、だがな、ホンモンの刑務所はこうはいかねぇ」
「そう思ってるよ、脱獄なんて考えもしないさ」
「それならいいんだけどよ。だいたいこの監獄から逃げられないことくらい、あんたならもう分かってんだろう?なんたってアンタ天才なんだからさ」
彼は『天才』の所をまたずいぶんとイヤミったらしく強調した。
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そしてわたしはふたたび横目で鋭子を睨んだ。
彼女はニヤニヤと嬉しそうな目でわたしを見つめ返した。
「……だから言っただろ。たのむから、ここでそういう発言はやめてくれないと……」
わたしはアクリルボードにあいた小さい穴に、ひそひそ声をすべりこませた。
「……そういうこと言うと、よけいに疑われるわよ……まるで本当に考えてたみたいじゃない?」
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そしてわたしはと言えば、すでに頭にびっしょりと汗をかいていた。
「か、考えてないって!」
そう言ったが、わずかにどもってしまった。
む。これはまずいな。ますます疑われるかも。
と思ったところで、
「ごめん、ちょっとイジワルしすぎたわね」
鋭子が急ににっこりと笑って、看守の松平を見上げた。
「ごめんなさいね、松平さん。わたしたち幼馴染でね。こんな冗談ばっかり言ってるの。だけどね、この人実際に脱獄なんてする勇気なんてないから安心して」
急に名前を呼ばれた松平は大きくうなずいた。
そして彼女にではなく、わたしに向かって言った。
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「ええ。もちろん分かっていますよ、山川さん。ここの囚人達はみなおとなしいんです。あなたが寄付してくれた実験設備があるから、毎日実験して遊んでいるんです。まったく呑気なもんです。ここを出ようなんて考えるはずがないです」
鋭子はうなずきながら、サングラスをかけた。
「でもごめんなさいね、びっくりさせちゃって。あなたの立場なら冗談に聞こえないものね」
これはもちろん演技である。だが松平はハッと感激した表情を浮かべ、それからヤレヤレと首を振った。
「そんな風に謝らないでください。ただあなたの演技力がうますぎてつい真に受けてしまっただけなんです」
「あら、松平さん、嬉しいこと言ってくれるのね」
鋭子はパッと顔を輝かせた。言うまでもないがこれも演技だ。
だが並みの男ではこれには勝てない。
「そ、そんなことはないですよ……」
松平健は真っ赤になってうつむいてしまった。
ほらね。
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「ところで松平さん。これから少し、企業秘密の話をしたいのよ。少しはずしてもらってもいいかしら?」
「え?ええ。もちろんです。ただし面会時間の三十分は守ってくださいよ。時間になったらまた来ますから」
「わるいわね」
「いいんです、これがわたしの仕事なんですから」
松平は自分が最高だと思っている笑顔を、どういうわけだか鋭子ではなくわたしに見せた。
そして腰の警棒を抜き出すと、集まっていた科学者連中に振り回し、面会室から追い出しにかかった。
「おまえら、ここまでだ。さっさと部屋から出るんだ!ほら」
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白衣の科学者達は残念そうに背中を丸めて、ぞろぞろと部屋を出て行く。
そして最後の一人が扉の向こうに姿を消し、松平が扉を閉めると、面会部屋の中にいるのはわたしたち二人だけになった。
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そう、やっと二人きりになれたのだ。
ようやくわたしは少しリラックスして、背もたれに背を預けた。
「やっと二人きりになれたね」
そんな軽口も自然と出てきてしまう。
「うれしい?」
彼女もちょっと嬉しそうにそう答える。
「もちろんさ。今日のドレス、とてもよく似合ってるよ」
彼女に対してだけはこういう言葉がすらすらと出てくる。これは自分としては意外な感じなのだが、彼女にだけは昔から思ったことのすべてを口にすることができた。
「ありがと。褒めてくれるの、あなただけよ」
もちろんそんなことはない。
彼女の美貌をみれば、誰だって褒めたくなるはずだ。
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「でもね、今日はそれだけじゃないの」
そう言って、鋭子は小さなハンドバックからハンカチを取り出した。鮮やかなグリーンでプリントされたイタリー製のハンカチだった。
鋭子は台の下にある引き出しにそれを入れると、わたしの方に押し出してよこした。
「またハンカチのいる話なんだね。もうずいぶんたまってしまったよ」
わたしは目の前に突き出された引き出しから、ハンカチを取り出した。わたしの手はその時から少し震え出していたと思う。
そのハンカチはこれからつらい話が始まるという合図だった。
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「いいニュースから聞かせるわね。この前あなたが発明した特許がアメリカ政府に買い取られたわ。これでこの先三十年間、わたしたちの会社が潰れる心配はなくなったわ」
彼女はそう言ってサングラスを外した。
その美しい瞳は涙でぬれていた。
わたしの中でいいようのない吐き気が込み上げてきた。
まさか……またなのか?
わたしはすでに最悪の結末を予想した。
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「それは……放射能を完全除去する爆弾の事だね……」
もうわたしは彼女の顔を見ることが出来なかった。
「そう。残念ながら早くも実証されたわ」
彼女の声はずいぶん遠くから聞こえてくるようだった。
「……なんてこった……」
それは予想できないことではなかったのだ。
だがわたしはその発明が悪い方向に使われないと信じていたのだ。
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「……馬鹿どもが……またわたしのアイデアを、わたしの発明を、悪い事に使ったんだね……」
わたしはハンカチを口に突っ込んで、叫び出したいのをこらえた。
涙がボロボロ出てきた。
悔しかった。
放射能除去爆弾は核爆弾や原発事故の恐怖から人類を救い出すために、ただそれだけのために発明したものだったのだ。
それなのに……
「アメリカはテロ組織の本拠地に原子爆弾を投下したわ。そしてきっかり一時間後、今度は除去爆弾を投下して、戦争は終わった。発表によれば、テロ組織の施設全てを破壊、テロリストとその訓練所の兵士たち五千人あまりが死んだそうよ。これでテロリストとの戦争は終決したって」
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(馬鹿どもが……馬鹿者どもが!なんでそんなこと!)
わたしはハンカチの奥に叫んでいた。
死んでいった五千人のために。
わたしの発明のせいで死んだ五千人のために。
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彼らだって殺されるために生まれてきたわけじゃない。
彼らだって自分達が幸せに、自分達の子供が幸せに、楽しく生きていけるように、戦っていただけなのに。
誰に命の価値をきめる権利があると言うのだ?
アメリカにあるというのか?
原爆を三度も落とした馬鹿者達に?
ない!あるわけがない!
そんなの絶対にない!
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わたしは叫んだ。
心がとても痛かった。
自分の発明したものがあまりに多くの命を奪ってしまった。
後悔が肺の中いっぱいに膨らんで、息がつけなくなってきた。
でも叫びはいつまでも腹の底からあふれ出てきて、とめることができなかった。
息が吸えなくなった。
胸の中に大きな塊があって空気が入ってこないのだ。
でも涙も叫びもとめられなかった。
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「しっかりしてテルオ!」
彼女の叫びが遠くに聞こえる。
わたしはもはやイスに座っていられなくなった。
わたしはイスから落ち、ハンカチをノドにつまらせたまま、まわりじゅうのイスをはねとばしながら,もがいていた。
だいぶ騒音を立てたせいだろう。すぐに松平がやってきた。
彼は腰のホルスターからスタンガンを抜いた。二本の鉄線の間に、青白いスパークがはじけるのが見えた。
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「やめて、乱暴なことしないで!」
鋭子の叫び声が聞こえる。
涙でぼやけた視界の中、アクリルのボード越しに彼女の真っ赤なワンピースがにじんで見えた。
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わたしはやはり愚か者なのだろうか?
これまで何度となく、頭に浮かんできた疑問だった。
果たしてわたしは正しい事をしているのだろうか?
青白いスパークはまっすぐわたしのお尻めがけて近付いてくる。
誰か答えてくれ!
誰でもいい、答えを教えてくれ!
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「ほら、あんまり手を焼かせるなよ!オッサン」
松平の手がゆっくりと近づいてくる。
スタンガンに小さな青白い火花が走り、頭の中が白く爆発した。
「……誰か……教えて……」
そしてわたしは気を失った。