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アトランティスのつまようじ  作者: 関川 二尋
第三幕
13/66

【過去物語】ネコとの別れ

 輝男は小学校に入学する半年前に、東京都から神奈川県に引っ越した。

 幸子の育ての母だった『叔母』が、二人を呼んだのである。

 幸子にとってはつらい思い出ばかりの実家に戻る事であり、あまり気の進む話ではなかった。それでも当時の幸子はひどく病気がちになっており、また輝男のこともあったので、同居を決意したのだった。


   □


 この叔母は三年ほど前に夫をガンで亡くしており、同じく夫を亡くした幸子の境遇に同情を感じていた。それに一人で暮らすことに寂しさと不安を感じていたのも、二人を呼びよせた理由の一つだった。

 彼女の子供嫌いは変わっていなかったが、年をとった幸子に対しては、友情にも似た感情を抱けるようになっていた。

 それは幸子にしても同じことだった。親子としてはうまくいかなかった二人だが、お互いに年をとり、同性の友人として付き合えるようになったのである。

 だが輝男だけはそうはいかなかった。

 彼だけはまだまだ子供だった。


   □


 輝男は突然母親と『おばあちゃん』の三人で暮らすことになった。

 輝男はおばあちゃんが自分を避けていることをすぐに感じとった。

 おばあちゃんは母親とはいろいろ話すのに、自分にはだけは話しかけてこなかった。まるで自分が存在してないように無視されていた。

 だが事情を知らない輝男はなんとかおばあちゃんと仲良くできるよう努力した。だがその努力は報われないどころか、かえって逆効果だった。

 話しかければ、うるさいと怒られたし、手をつなごうとすれば甘えるんじゃありませんと拒絶された。食卓でなにかを話そうとすると、黙って食べなさいといつも怒鳴られた。


   □


 輝男はすぐにその理由を理解した。

 たぶんおばあちゃんは母親と同じなのだ、子供そのものが嫌いなのだ、と。

 だから母親が助けてくれる見込みは全くなかった。母親もまた輝男に関してはまったくの無関心だったからだ。


   □


 輝男はしだいに母親やおばあちゃんと口をきかなくなった。

 ご飯を食べる時は自分の存在が消えるように振る舞った。

 二人が話している時はそっとその場から立ち去るようにした。

 黙ってご飯を食べ、食べ終わると自分の茶碗をさげ『ごちそうさま』だけ告げて、すぐに自分の部屋にこもるようになった。

 それは母親の幸子が幼い頃にとった行動と全く同じものだったのだが、おばあちゃんも当の母親もそれには全く気づいていなかった。


   □


 だが輝男にはまだ救いがあった。

 それがネコの存在だった。

 自分の部屋に戻ればいつでもネコと会うことができた。

 ネコは輝男が呼べば姿を現してくれたし、ご飯を食べていてふと泣きそうになると、頭の中に電話をしてきて慰めの言葉をかけてくれていた。

 ネコだけが輝男の話し相手であり、輝男の言葉を聞いてくれる唯一の友達だった。


   □


 輝男は幼稚園の途中で引っ越したため、小学校に入学するまでの約半年間は幼稚園に通わなかった。その期間中、輝男は一日中ずっと家の中にこもり続けた。

 家にいれば一人でいることが多かったから、自然と自分の部屋にこもるようになり、それだけネコと会う時間も増えていった。

 二人は飽きることはなく、何時間でも一緒に過ごした。


   □


 だがネコが頻繁に現れるようになるにつれ、おばあちゃんは輝男の異変に気がつくようになった。

 輝男はネコと話しているときは軽いトランス状態になっており、言葉にならない独り言をつぶやいていたからである。

 おばあちゃんは輝男がそういう状態になると、じっと耳を澄ますようになった。

 食事が終わるとこっそりと輝男の後をつけ、閉じこもった部屋の扉に耳を当てて中の様子を盗み聞きした。

 やがて彼女はネコの存在を知ることになった。


   □


「輝男、ネコってだれだい?」

「ネコ?ぼく、ネコなんてかってないよ」

「ごまかすんじゃないよ。ちゃんと分かってるんだから」

「しらないよ……」

「嘘をついてもわかるんだよ、言わないとお仕置きするよ」

 そういって覗き込んでくるおばあちゃんの瞳はゆらゆらと揺れ、見開いた眼は動物の目を見ているようで本当に恐ろしかった。

「ネコは……ともだちなんだ」

「それ、やっぱり嘘をついてんだね。いいかい、そんなモノは最初からいないんだ。だからもうそいつとは二度と話すんじゃない!」

「でも……ネコは……」

「いないよ、そんなモノは。お前はビョウキだよ!」


   □


『ビョウキ』


 その言葉は輝男の胸を抉り取るようなつらい言葉だった。

「そんなんじゃないんだよ、ネコはね……」

 輝男は説明した。ネコは大事な友達だ。いつでも優しくしてくれる、たった一人の友達なのだと。

 しかしおばあちゃんは全く取り合おうとはしなかった。

 輝男は泣きながら、ネコのことを説明した。自分にどうしても必要な友達だということを。

 その時、初めておばあちゃんは輝男の頬をたたいた。


   □


「いい加減におし。これだから子供は嫌いなんだ。とにかく二度とそのネコとは会うんじゃないよ!」

「でも、違うんだよ!」

 そう言ってすがりつこうとした輝男はおばあちゃんに再び叩かれた。

「あたしに触るんじゃない!」

 もう、どうにもならなかった。輝男は涙をこらえて自分の部屋に行き、扉を閉めて声もなくただただ泣いた。

 するとその背中をさする手の感触があった。


   □


 顔を上げると、そこにネコがいた。

「だいじょうぶだよ、テルオ……」

 輝男は涙を拭いて、ネコを見上げた。

「……ぼくはずっといっしょにいる」

 ネコはそう言ってうなずいてみせた。

「だいじょうぶ。ぼくたちはともだちだ。だれにもじゃまはできないんだよ」

 ネコはそう語ってまたテルオの背中をさすった。


   □


 輝男はそれから慎重に振る舞うようになった。

 それでも我慢できないような時が何度もあった。

 つい泣いてしまいそうになると、ネコを呼んだ。

 そんな時おばあちゃんはそれを目ざとく見つけて、竹の杖で輝男の腿をたたいた。

 その頃、おばあちゃんは足が悪いわけでもないのに杖を持ち歩いていて、食事の時も常に右手のそばにそれを置いていたのだ。

 その指導は容赦なく、徹底していた。

 少しでもその兆候が現れると、食事中であろうと杖を振り上げた。

 このことに母親の幸子は全く関与しなかった。目の前で息子がたたかれても止めなかった。

 自分でたたくことだけはしなかったが、むしろ叔母の教育に感心しているくらいだった。


   □


 これは考えるまでもなく異常な環境である。

 だがこれとよく似た環境は昔から世間に満ちあふれていた。

 賭け事に夢中になって、子供を放置する親。

 泣きやまないといって赤ん坊を虐待する親。

 再婚の邪魔だといって子供を殺してしまう親。

 交際相手の連れ子を虐待する親。

 子供を預かっておきながら虐待を繰り返すベビーシッター。

 この時代には大人が子供を殺してしまう事件は日常的だった。


   □


 驚くべきは、輝男がこの二人を理解していたということである。

 輝男はこの二人がかわいそうな人たちだと理解していたのである。

 そして二人を許した。

 竹の杖がビュッとうなるたびに、その瞬間に、二人を許した。

 そういう生活は半年あまりも続いた。

 そして半年後、輝男は小学校に入学した。


   □


 だが小学校という環境もまた、輝男に辛くあたった。

 最大の原因は担任の女教師だった。

 彼女は五十代のオールドミスで、自分の教育方針に絶対的な自信を持っていた。

 彼女はいつも生徒を完全に支配し、管理して、これが社会生活だと教え込むのを得意にしていた。

 体罰こそしなかったが、言葉と屈辱的な罰で子供たちを管理し、子供の自主性というものは完全に無視した。


   □


 いじめられている子がいれば、いじめられている子供の問題点をクラスの会議にかけ、その欠点を自分で直すように指導した。

 もちろん輝男にも同じ指導がなされた。

「いじめられるのはあなたにも問題があるからよ。だからみんなに、あなたのどこがいけないのかを教えてもらいなさい。それを直せば、みんなだってあなたを友達として扱ってくれるわ」

 その時彼女はクラスの生徒の前で輝男にそう告げた。

 彼女はそういう教師だった。


   □


 この女教師は最初から輝男をマークしていた。

 もちろん独り言、トランス状態などの理由からである。

 彼女にとって輝男は危ない子供だった。

 そして彼女は輝男のそういった兆候が現れると、まず耳をつねり上げた(これは彼女の中では体罰からはずれる行為だった)。

 廊下に立たせることもしょっちゅうだったし、時には硬いイスの上に授業が終わるまで正座させたりもした。


   □


 輝男はこの先生がとても怖かった。

 だから授業中の間はなるべくネコを呼ばないようにした。

 その代わり、休み時間や昼休みに屋上に上がってネコと会うようにした。だが屋上には先生のスパイの生徒がいて、彼は輝男がネコと会っているのを見つけるとすぐに先生に報告した。


   □


「ネコ、みんながぼくたちをみはってるみたいなんだ」

『そうらしいね。ぼくはがっこうにはこないほうがいいみたいだね』

「ごめんね、ネコ。きみをよんでるのは、ぼくのほうなのに」

『いいって、ぼくたちはいつでもあえるんだしさ』

「ごめんね、さびしいおもいをさせて」


   □


 それ以降、輝男は学校でネコを呼び出すのはやめた。

 頭の中の電話も受話器を下ろしたままだった。

 それ以来輝男は独り言を言わなくなったし、呆然としていることもなくなった。

 だが教師のしつこい罰はやむことはなかった。なにかと理由をつけては輝男を前に立たせ、みんなの見ている前で叱った。

 ネコと会うことをやめたというのに、事態は何も変わらなかった。


   □


 どうしてぼくはいじめられるんだろう?

 どうして先生は、学校のみんなは、僕をいじめるんだろう?

 

 僕はたぶん憎まれている。

 たぶん理由はないけど、ただただ憎まれている。


 あるとき、輝男はふっとそれを理解した。

 それは悲しかったけれど、少なくとも理由は分かった気がした。

 そして対処の方法がないことも思い知った。


   □


 それは本当につらい時期だった。


 輝男はどんなにいい点をとっても褒められることはなかった。

 それどころか逆にカンニングの疑いをかけられた。


 鮮やかな色をふんだんに使って花壇の絵を描いた。

 だが親が手伝ったと決めつけて、最低の評価をもらった。


 音楽の時間で歌を歌うと、みんなに笑われた。

 教師も一緒になって笑っていた。


 工作の時間では誰かが完成品を必ず壊した。

 先生は完成してないという理由だけで零点をつけた。


 それは止めようのない暴力だった。

 輝男には耐えることしかできなかった。


   □


 やがて輝男は勉強どころではなくなり、成績は見る見る落ちていった。

 簡単な漢字の書き取りも出来なくなった。

 本を読ませれば、どもり出すようになった。

 九九はとっくに覚えていたが、口に出すとなにも答えが出てこなくなった。

 絵の時間になると、手がふるえだしてまっすぐな線一つ書くこともできなくなってしまった。

 体育や音楽といった教科もことごとく落第点を取った。

 すると先生はますます得意になって輝男に居残りと宿題を課した。


   □


 そういうことが積み重なり、輝男の周りには子供たちが寄りつかなくなった。

 これだけ先生にマークされていれば、誰も話しかけようとは思わないものだ。

 子供たちは輝男を遠ざけ、何をやってもだめな彼を哀れに思い、また笑っていた。

 そのいじめぶりは情け容赦なく、執拗で、徹底的だった。

 子供とはこの時期、とても残酷になれるものなのだ。

 そして大人のいじめはそれ以上に陰湿で残酷なものだった。


   □


 輝男はゆっくりとこの残酷さに打ちのめされた。

 それでもいつでも笑っていた。それはネコとの約束だったからだ。

 たまにクラスの子供が話しかけてくると、一生懸命話し、笑顔を見せた。

 自分のことを笑っていたとしても、彼らと一緒に自分の失敗を笑って見せた。

 だが本人も知らない間にその笑顔はへんに引きつるようになっていった。

 輝男はいつのまにかネコと話すことさえできなくなっていた。


   □


 そしてネコとの別れの時はやってきた。


   □


 輝男は公園でブランコに揺られていた。

 学校も終わり、家に帰るにはまだ早い時間だった。

 夕暮れのオレンジ色はスポットライトのように公園全体を照らしていた。輝男の ブランコはとまり、その目がトロンとうつろになっていた。

 そして半開きの口からつぶやきが漏れだした。


   □


「ひさしぶりだね、ネコ」

『そうだね』

 ネコは輝男のすぐ目の前に立っていた。

「さいきん、あえなかったもんね」

『まぁね、ぼくがいると、きみがいじめられるから。それにキミはぼくをよばなくなったし』

「そうだね、でもね、ぼくはきみにあいたかったよ」

『わかってる。ともだちだもん、キミのかんがえていることはわかるよ』

「でも、ごめんね、ぼくはないてるところを、キミにみられたくなかった。キミがしんぱいするから」

『ぼくのまえなら、ないたっていいんだぜ、ともだちなんだから』

「ごめんね、ネコ……ぼく、もう……」

 そう言いかけた輝男の言葉をネコがさえぎった。

 ネコは優しく輝男の頭を抱きしめていた。


   □


『きみはえらかったぜ!ちゃんとやくそくをまもってる』

「そうでしょ?ちゃんとやくそくをまもってるよね?」

『うん。ときどきなくけど、ちゃんとわらってる』

 輝男はネコの鼓動を聞いていた。

 ネコに抱きしめられて頭がポカポカと暖かく感じた。

 そしてネコが離れた。

 ネコは輝男のブランコの隣に座り、ゆっくりとこぎ出した。

 さび付いた鎖がギイギイと音を立てた。


   □


『きみはつよくなったよ。おとこらしくなった』

「そうかな?でもだめだ。しっぱいばかりしてる。それにせんせいにもおこられてばっかりだ」

『あんなやつせんせいじゃないよ』

「そうおもうけどさ」

『きみのおかあさんやおばあちゃんだってそうだよ、あんなのおやじゃないし、かぞくじゃない、もちろんともだちでもない』

「ほんとうにそうおもうよ。でもどっちもそうなんだ。ぼくはあのひとたちがいないと、いきていけないんだ」


   □


『なぁ、テルオ』

 ネコは改まった様子で輝男に語りかけた。

「なに?」

『サヨナラしよう』

「え?」

 輝男はあわててネコのことを見た。ネコもまた泣いていた。


   □


『ぼくがいるときみはつらいおもいばかりする』

「そんなことないよ、ボクはきみがいるからがまんできるんだ」

『でもそうなんだよ、しかたないよ』

「ぼくいやだよ。きみしかともだちがいないんだ」

『ぼくだってそうさ、でもしかたないんだよ』

「そんなこといわないでよ、ぼくつらいよ」

『ぼくもさ、でもねサヨナラのときがきたんだよ』

 二人は並んでブランコを揺らしながら、両目からぼろぼろ涙を流していた。鉄のきしむ音がギイギイと頭の上の方で鳴っている。


   □


『きみはともだちをつくったらいい』

「できないよ。みんなわらうんだもん」

『できるよ。みんなきみのすごさにきづいてないんだ』

「ぼくはすごくなんかないよ」

『きみはすごいよ。つよいし。あたまもいい』

「ぼくもそうおもいたいよ」

『キミはほんとうにそうなんだよ』


   □


 ネコはブランコから立ち上がった。

 それから夕日を見上げて輝男に言った。

『きみはいいやつだ。ずっとこのままでいるんだよ』

「ネコ……ほんとにサヨナラなの?」

『ああ。きみのいいところをだいじにもってるんだぜ』

「ねぇ、ほんとうにサヨナラしなきゃいけないの?」

『ああ。そうするしかないんだ。大丈夫だよ、きみには、きっといいともだちができるよ。だってきみはいいやつになろうとがんばってるもん』

「いまだってがんばってるよ。でもさ、きみとわかれるなんてぜったいいやだよ」

『ぼくだってそうだよ。でもきみもわかってるんだろ?』


   □


 輝男はうつむいた。

 わかっていた。

 どんなに言葉を重ねてもサヨナラが避けられないことが。

 輝男の両目から涙が流れた。それでも叫びだしそうになるのはじっとこらえた。友達のまえだから。ネコを心配させたくなかったから。

 そして輝男は魂を絞り出すようにして答えた。

「サヨナラしなきゃいけないときがきたんだね」


   □


『うん。サヨナラの時が来たんだ。またいつかあいたいよ、テルオ』

「ぼくもだよ、ネコ」

 輝男が見上げると、ネコは大きな夕日を背負うようにして立っていた。その顔は影に隠れていたが、笑っているのは分かった。本当は泣きたいのに無理やり笑っているのが分かった。

『いっぱいほんをよめよな。きみのあたまのなかはだれにもうばえないんだ』

「わかってる」

『いつでもわらってなきゃだめだぜ』

「わかってる」

『おとこらしくいきろよな』

「わかってる」

 そして輝男はふっと笑った。男らしくか。なんともネコらしい。

 そしてこれは男同士の別れだった。

 だからいつまでも泣いてちゃいけなかった。

 無理やりだっていい、かっこよく笑わなくちゃいけないのだ。


   □


『からだにはきをつけろよ』

「わかってる!きみもげんきにしててね」

『ああ。それじゃもういくよ。ぼくはきみのなかからきえる』

「わかった。さよなら、ネコ。いままでありがとう!」

『さよなら、テルオ』


   □


 その言葉を最後にネコは消えてしまった。

 ネコが消えた瞬間、輝男は自分がなんで泣いていたのかも分からなかった。それほど完璧にネコは消えてしまったのだった。


   □


 それがネコとの別れだった。

 脱獄当時の輝男もこの時の事はまったく覚えていなかった。



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