2
エメリヒ・フリートベルクは、生まれ落ちた瞬間から二番目であった。
国の第二王子として生を受けて、物心ついた時には褒めそやされるのはいつも第一王子のクラウスである。正妃の息子であった己の方が地位は上ではあったが、それに何の意味があるだろう。
在学中に常に学院首席であったクラウスと違い、勉学の面でも敵うことはなかった。剣の腕をいくら磨けど、ここ数十年は国境付近も安穏としている。評価される機会すら与えられない。
自分はいつだって二番手だったのだ。忌々しい婚約者の顔が浮かぶ。次期王妃の地位を確約され、優秀さを鼻にかけて自分を見下していたリーゼロッテ。あの感情の読めない笑みを見るたびに、何度黒い感情を呑み込んだことか―――。
「エメリヒ様?」
心配そうな声に、はっと顔を上げる。つい思考に囚われてしまっていたようで、向かいに座るフローラが気遣わしげにこちらを伺っていた。
「すまない、少しぼうっとしていた」
そう返すと、カチャリと音を立ててフローラがカップを置く。そしてカップに指先をかけたままになっていた俺の手に、そっと指を這わせた。
「手が強張っているし、顔色も悪いかも」
手の温もりに安堵の息をついて、フローラに笑いかける。するとほっとした様子で、彼女は手を離した。温もりがなくなったことを名残惜しく思いながらも、言葉を続ける。
「大丈夫さ。お前との時間を蔑ろにするつもりはなかったんだが」
「私もそんなこと思ってないです。ただあの、少し前から疲れているみたいだったから心配で」
フローラが言葉を濁して、目を伏せた。ピンクブロンドの髪を撫でると、驚いたようにぱちぱちと目を瞬かせる。
「フローラが気にすることじゃない。お前こそ、ちゃんと眠れているんだろうな」
目の下を指先でなぞると、頬がぱっと赤くなった。照れたように眉を寄せ、フローラが後ろに下がって距離を取られてしまう。愛らしい仕草に思わず笑みをこぼすと、抗議の声が上がった。
「も、もう! からかわないで!」
その光景に表情を緩めると、機嫌を損ねたようでふいとそっぽを向かれてしまう。
「私だって、できることは少ないけどあなたの力になりたいのに」
「お前がそう言ってくれるだけで十分だ」
俺の言葉だけでは不満なのか、フローラはくしゃりと顔を歪めた。
「あなたはたった一人しかいないの。誰より心配してる人がいること、忘れないでね」
限界だった。フローラ、と口にして立ち上がる。不思議そうにこちらを見上げる彼女の横に座って、真っ直ぐなその目を見つめ返した。まだ婚約した身でもない。彼女を縛り付けてしまうかもしれないと分かっていても、手を伸ばさずにはいられなかった。
「すまない。突き飛ばしてくれても構わないから―――」
えっ、という声はフローラを抱きしめた瞬間、尻すぼみに消える。華奢な体を抱き潰さないよう、それでも離れられないように細心の注意を払った。
「エメリヒ様…」
頭の下で仄かに声がする。そして恐る恐るといった仕草で背中に手が回されて、鼓動がどくどくと早鐘を打った。二番手だった俺を、一番にしてくれる唯一の人。俺に、この温かさを教えてくれた大切な人だ。
「落ち着いたら、ヒンメル侯爵領で過ごさないか」
穏やかな沈黙にぽつりと落とされた言葉に、フローラが腕の中でもぞもぞと動く。
「ヒンメル、ってええっと。宰相さんの家名だっけ」
出会った頃は俺が王子であることすら知らなかったのに、必死に勉強したのだろう。その頭をゆるりと撫でると、嬉しそうに擦り寄ってきてくれた。
「ああそうだ。母上の生家なんだ。幼い頃はよくそっちで過ごしていた」
「素敵…。じゃあエメリヒ様にとって故郷みたいな場所なのね」
故郷。俺にとってはこの国全てが故郷だが、幼い頃から王宮に生まれて王都から出ることなど稀だったから確かにそうかもしれない。外の世界などあまり知らなかった。
「景色も美しくて、空気も綺麗な良いところだ。秋になると大きな収穫祭があって、屋台が並んでいた」
「私、行ってみたいです」
無垢な笑顔で、ほろりとフローラは表情を笑み崩す。
「そう言ってくれて、嬉しい。きっと二人で行こう」
「うん、絶対よ」
束の間の逢瀬にしては気持ちが逸ってしまったと、やんわりと体を離した。ほの赤い顔にぐっと心臓を掴まれるが、これ以上はと耐え忍ぶ。
「殿下、そろそろお時間です」
和やかな雰囲気に水を差すように、ドアの外から声がした。眉を顰めるも仕方のないことだと、立ち上がる。
「フローラ、また暫しの別れだ」
座る彼女に手を差し出すと、おずおずと手を取った。まだエスコートされることには慣れていないようで、安堵する。子爵家ではマナー教育にも精を出しているようだが、このままでいて欲しいと思うのは男のエゴだろうか。
「はい。また二人でゆっくりできたら嬉しいな」
「あぁ、きっとすぐだ」
ドアを開け、警備についていた騎士に後を託す。
「無事にフローラを送り届けろ」
「はっ」
部屋を出て、王宮の廊下を行く後ろ姿を暫し眺めていた。時折こちらを振り向く様子に満足し、自室に戻ろうとするとカイがいくつか書類を抱えて現れる。
「フローラ嬢はお帰りですか?」
「つい先程な。残念だったな」
皮肉のつもりでそう言うと、カイは首を横に振った。
「何をおっしゃいます。次期王妃となる方ですよ? たかが伯爵家の息子が、そんな邪なこと考えませんよ」
割り切ったような言い草に苦笑するが、本人はどこ吹く風といった様子である。学院での生活で、地位のせいかフローラと一番仲が良かったというのに。
「よく言う。ほら、お前も入れ。その様子だと進展でもあったか」
カイを招き入れて、扉を閉める。常なら人当たりの良い顔をしている男だが、些か気難しげに表情が歪んだ。
「そんなに芳しい報告ではないですが」
一度カイは言葉を切って、ふうと息を吐く。疲れが滲んだ顔に座るように促すと、力なくソファに身を沈めた。自分も同じように腰を下ろす。
「すみません。リーゼロッテ嬢のことですが、未だに己は何もしていないの一点張りです」
「強情な女だ」
「何としても彼女の自白を得たいところですが、流石にこれ以上侯爵令嬢を牢に留め置くのは厳しいですね」
「何故だ、あの女は国王の暗殺を手引きしたのだぞ。大罪人だ」
苛立ちをこぼすと、カイが口角をゆるりと上げた。感情の乗っていない、実に貴族的で俺の嫌いな表情である。
「殿下」
子供を咎めるような口調に、つい側近を睨む。小貴族であれば王太子に睨まれれば大抵は怯むか謝罪を即座に口にするというのに、昔からの友人にはやはり効かない。
「その件は、まだ王宮内でも一部に留めてある話です。迂闊に口になさらぬよう」
「だがあの女の手が入ってることは違いないだろう。事実を言って何が悪い」
そう言うと、カイは表情はそのままに口をつぐんだ。そして、小さく苦笑する。
「その様子だと少し心配になりますよ、友人として。まさかフローラにうっかり言ってないでしょうね?」
「なっ! 当たり前だ、俺とてそれくらい弁えている」
砕けた口調に言い返すと、くつくつと笑いが返ってきた。側近として幼い頃に宛がわれた仲ではあったが、いつだってこの男には口では敵わない。
「外部に漏らせば必ず混乱に繋がります。公表するにしても機会を待ちましょう」
穏やかに言うこの男も、今は方々に奔走している身だ。それに対して自分は、万が一の事態を鑑みて護衛を付けられて王宮で待機している。何もできない己が歯がゆかった。
先日、国王が倒れた。どうにか一命は取り留めたものの、今も容体は安定していない。
原因は毒物。食事に仕込まれていたらしく、初期症状が出るまで数刻かかる物であった故に気付くのに時間がかかったという話だ。毒見役に症状が出始めた頃には、国王も同じ状況だったのである。
実行犯は王宮仕えの侍女で、厨房にも出入りし当日の給仕もその女が担当していた。一貴族の娘が国王暗殺などを企む訳もなく、すぐにその裏にいる人物への調査が始まった。手掛かりになったのが、その毒物だ。国内ではアルトマイアー侯爵領の山地でしか取れないものだと、報告を受けている。
現在アルトマイアー侯爵は北の僻地に引きこもっており、王都へはここ暫くは滞在していた記録はない。ゆえに、その息女であるリーゼロッテが何かしらの手引きをしたのは明らかだ。それがリーゼロッテを捕縛した原因だ。
「まあいい。今に叔父上が確固たる証拠を掴むさ」
ふんと鼻を鳴らし、牢に捕らえられているあの女を思う。フローラと違って苦労を知らぬ温室育ちのざまでは、すぐに音を上げるだろう。
父上が毒殺されかけたと聞いた時は、動転していて我ながら酷い有様だった。だが、叔父上が事態を収拾してくれたおかげで、犯人の目星をつけることができたのだ。身内贔屓とはいえ兄上よりも甥である自分に目をかけてくれ、リーゼロッテとの愛のない婚約を悲しんでくれたこともある。だから、フローラの子爵家への養子縁組も、叔父上が取りまとめてくれたのだ。
リーゼロッテとの婚約も到底続けていけるとは思えなかったあの状況。フローラに次期王妃の座が決まっているとしても、情けない話だが俺だけで話を進めていたらすんなりとはいかなかっただろう。
「そう、ですね」
ふっと視界に入ったカイの表情が、何か言いたげに見えて気にかかる。それを口に出そうとすると、あっ、と言葉を続けられて気を逸らしてしまう。
「そうです、宰相閣下からお話があると言伝を預かってきたんです」
「叔父上が?」
現宰相である叔父上は、王が臥せっている王宮をどうにかまとめるべく忙しく過ごしているようだ。俺も次期王太子としていつも以上の執務を行おうとしたのだが、こちらを慮ってか止められてしまったのが記憶に新しい。
「内容は聞いているか」
「いえ、内密の用とのことで詳しくは伺っていません」
現在は学園に赴くこともできず、王宮に留まっている状態だ。叔父上曰く、王の命を狙った者が王太子である俺へと手を伸ばす可能性があるとのことで、確かに相手の目的が分からない以上迂闊な行動は危険である。フローラも可能な限り子爵家で保護するように伝えていた。
そんな中で王宮内とはいえ叔父上からの呼び出しだ。張り詰める緊張に、背筋を正す。
「すぐに向かおう」
そう言って、カイを供に足早に叔父上の元へと急いだ。
「叔父上。私をお呼びと聞いたのですが、お時間よろしいでしょうか」
ノックをして執務室の扉を開くと、気難しそうに書類に向かう叔父上―――宰相の姿があった。
「殿下、わざわざお呼び立てして申し訳ありません」
立ち上がり恭しく礼をしようとする叔父上を、慌てて止める。
「そんなに丁寧になさらないで下さい。いつも言っているじゃないですか、私にとって貴方はもう一人の父のようなものなのですから」
そう言うと、厳しく見られがちな鋭い目元が僅かに緩んだ。知らないふりをしているが、宰相は王太子に甘いなんて噂が聞こえることもある。嬉しいような恥ずかしいような話だ。
「それでは流石に部下に示しが付きませんから。殿下も来年には卒業を控えた身でしょう」
ちらりとその目がカイに向く。意味を察したのか、カイは深々と頭を下げて言葉もそこそこに場を辞した。
閉まるドアの音がして、少し肩の力を抜く。
「改めてわざわざ来てくれてありがとう。変わりはないかね。君も、フローラ嬢も」
叔父上の口調が崩れたが、続く話の内容に気を緩めるわけにはいかない。
「ええ、おかげさまで。先ほども少し話しましたが、元気そうでした」
「それはよかった」
小さく笑った叔父上の顔に、影が落ちる。
「君も、事が事だ。色々と協力したいだろう気持ちは知っていたが、堪えてくれてありがとう」
「いえ、私が余計なことをして邪魔をしてはいけませんから。それに叔父上がこちらの身を案じてくれていたのも分かります」
申し訳なさそうに礼を告げる様子に、言葉を重ねた。その目元には疲れが滲んでいるように見える。叔父上はこちらの身を気にかけてくれたが、彼も彼で休めていないのではないだろうか。宰相に任命された時から国のため王のためと、心を砕いていた人だ。
それ故、友であった王の安否を叔父上こそ心配しているだろうに。
「そう言ってもらえると私としては有難い」
頷いた叔父上は一つ息を吐いて、切り替えたようにどこか柔らかな雰囲気を表情から消した。
「では早速ですまないが本題だ。君がリーゼロッテ嬢の取り調べを一任してくれたおかげで、だいぶ進展があったよ」
「本当ですか」
ああ、と首肯する叔父上に、気は引き締めたままだが少し安堵した。いつまでも国王暗殺を企てた首謀者を野放しにしておくわけにはいかない。
「タウンハウスの、リーゼロッテ嬢付きの侍女が吐いたよ。彼女の指示でアルトマイアー侯爵領から荷物を受け取り、商会を経由して王宮の役人へと送ったそうだ」
「それは、彼女の罪は決定的ですね」
ふつふつと彼女への怒りが沸く。何の目的でそんなことをするのか分からないが、もしかしたら謂れのない恨みでもこちらに抱いているのかもしれない。冷静でいようと努めたが、つい拳を握りしめる。
「ああ、国王暗殺は未遂でも大罪だ。事態は一刻を争う」
「無論です。故に一刻も早く首謀者の確保を―――」
「そうだね」
遮るように肯定されて、言葉を切った。真剣な面持ちの叔父上を思わず見つめると、その口が開かれる。
「だからそのために、リーゼロッテ嬢ら五名の処刑を行うことになった」
「処刑、ですか?」
放られた言葉の現実味のなさに、聞き返してしまう。が、構わずに叔父上は続けた。
「アルトマイアー侯爵家が行ったのは、歴とした王家への反逆だ。これ以上事態を公表しないままリーゼロッテ嬢を捕らえておくのは難しい、ということは君も理解しているだろう」
「え、えぇそれはそうですが」
先ほどカイと話していた内容が頭の中を巡る。辺境を治め、王都から離れているとしてもアルトマイアー侯爵家は力の大きな家だ。学院では緘口令を強いたものの、人の口に戸は立てられない。関係のある貴族諸家からは、抗議が上がるだろう。
「彼女を野放しにするわけにはいかないんだ。それにリーゼロッテ嬢が処刑されるとしれば、向こうも必ず動くだろう。そこで尻尾を掴むんだ」
「ですが、もし相手が動かなければあの女は」
俺の問いに、叔父上は答えなかった。嫌な汗が背を伝う。処刑など、久しく行われていなかったことだ。
叔父上の心理が読めず、立ち尽くしているとくるりと背を向けるように執務室の窓の方に彼は向く。
「どうしたんだい、あんなに憎いと言っていたじゃないか」
それは彼女がこちらを内心では嘲笑し、馬鹿にしていたからだ。それにフローラへと嫌がらせのようなことを行い、挙句の果てに恨みのせいでこんなことを起こしたからだ。
ぐらぐらと頭が揺れるような感覚がする。確かに地に足はついているはずなのに、どうしても現実感がなかった。
「それでも。処刑は、行き過ぎではないのですか」
吐き出した言葉は酷く弱々しい。言葉尻は小さくなって、頼りなく地に落ちる。がんがんと警鐘を鳴っている、がそれが何に対する警鐘か分からないのだ。
「私は心配しているんだ。次は、君やフローラ嬢かもしれないんだから」
振り返った叔父上が、心許なく立つこちらの肩をそっと支えてくれる。そしてその言葉に、かっと心中で何かが燃えた。それだけは許せない、自分自身はともかくフローラだけは守らなくてはいけない。地を踏む足先に力を込めて、見つめる叔父上の視線を受け止めた。
「私に任せておけばいい」
それが、きっと一番いい。叔父上は俺たちのことをいつも気にかけてくれるから。
「分かりました」
首肯すると、身内にしか見せない柔らかな笑みを叔父上が浮かべた。
遅くなりましてすみません。次話は閑話になので、すぐに投稿したいと思います。気持ちはあります。ブックマークありがとうございます! 励みになりました!