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伝わること、伝えること

 唐突だけれど、たとえば講義の時間、私は言えようもない窮屈さを感じることがある。

 午前の二コマ目。一列ずつ後ろに進むにつれて上に上がっていく講堂の席に腰掛けて、私は講壇で社会心理学の説明を続ける男性教諭のことを眺めていた。彼は眼鏡の奥に穏やかな微笑を湛えて、せっせせっせと講義を進めていく。口調は穏やかそのものなのに、黒板には重要事項がどんどん書かれていく。学生の中には、その猛烈なスピードについていきながら懸命にノートやメモにペンを走らせている人がいる。一方で、何も書き込まず、ただただ暇そうに欠伸を噛み殺している人なんかもいる。私はどちらかといえば後者に分類される生徒だった。

 と言うのも、この講師が書き込む黒板の文字列が恐ろしく雑だったのだ。とてもじゃないけれど私には読めたものではなかった。計画性なんてものはこれっぽっちもなく、無秩序にどんどんと書き込まれていく単語の数々は、お世辞でも読みやすいなんて言えなかった。学習スタイルとして基本的に板書でノートを埋めるタイプだった私は、この講義を取ってからというもの初回から授業を放棄した。書き写す気が吹き飛んだのだ。まあ、どうせテスト前になれば誰かからコピーを貰える。レポートは何とか適当に済ましていけるし、テストは元々自力で理解してなんとかするものだ。だから大丈夫。何もしなくても大丈夫。

 そんなわけで、私の目の前には真っ白なノートが広がり、その上にはシャーペンが転がっている。一応外見だけは取り繕うという寸法である。べつに悪いことじゃあない。周りを見れば、結構の人が同じことをしているのだ。みんなやってるなら大丈夫。

 ふと、木製の机の表面に書いてあった落書きに気がついた。誰が書いたのか、たった五文字のひらがなは妙に凝ったデザインでそこに記されていた。

『つまんねえ』

 そうだね。まったくその通りだと思う。私は激しく同意した。ほんと、とてつもなくつまらない。集中できない。何も耳に入ってこない。ずっと説明を続けている講師の声も、無視してこそこそと話をしている学生たちの声も、右から左へ流れていくばかりだ。

 たぶん、いまここに私がいることはとても無駄なことなんだろう。将来振り返ってみたときどう思うかはまたそのときどきで違うんだろうけれど、少なくともいまはそう思う。講義を受ける気も、考えることすらしないままに、ただぼうっと座っているだけなのは本当にもったいないことのように思えて仕方がない。

 何か本でも読めばいいのに。漫画でも読めばいいのに。携帯をいじるのだっていい。そのために講堂の一番奥、ばれにくいところにいるのだから。いっそ、隣で寝ている誰かのように寝てしまってもいいのだ。

 だと言うのに、私はなにもしていない。何もしないままここに座っている。やろうと思えば先に挙げた時間つぶしでも、退室することだってできるのに、そういったことを一切しない。つまらないことだと、時間の無駄だと自覚しながら、何も考えずに頬杖をついている。そして机の落書きに共感している。

 一体どうしてなんだろう。

 何かが私を取り巻いている。何かが私を繋いでいる。それは決して目には見えなくて、なのにそれのせいで私は息苦しくて居心地が悪くなる。これを誰かは束縛と呼ぶのかもしれない。誰かは拘束だと言うかもしれない。または良心や常識、世間体などと示されているのがそうなのかもしれない。

 でも、どれもちょっとずつ違うような気がする。言うなれば、そのどれにも当てはまっていて同時に当てはまっていないものこそが、私が感じている何かなのだ。私はそれの名前を知らない。それを表す手段を持ちえていない。それが歯がゆくて、だから苦しいんだと思う。

 外で鳥が鳴いた。目を向けると、窓の外には立ち並ぶ街並みと広がる青空とが続いているだけだった。どこにも鳥の姿なんて見当たらない。ずっとずっと空は続いているのに、どこにも鳥は飛んでいなかった。

 太古、自然は歌ったのだという。雨とか雷とか風とかそういった現象に影響されて、千差万別の音をそれぞれの個体が出し、あたかも壮大な歌を歌っているかのように聞こえたのだそうだ。たぶん、そのころの歌には全てが詰め込まれていたんだと思う。包括的な伝達を、歌は可能にしていた。凄いと思いながらも癒しを感じ、綺麗だと思いながら危機を感じることが可能だった。それが歌だったのだ。

 きっと鳥の鳴き声もそんな歌の一音になることができたのだろう。それがちょっとだけ悔しかった。ここにいる私は、たった一音、大いなる歌の中に参加することも敵わないのかもしれないと思うと、悔しくて悲しくて、とてもじゃないけれどやりきれないような気がした。

 かつかつと黒板をチョークが走る。講師はずっと講義を続けていて、ノートを取る生徒や欠伸を噛み殺す生徒は変わらず室内に留まり続けていた。

 そして私も。結局はじっと座り続けるしかなかった。それが私なのだ。

 放ってあったシャーペンを取り出して、落書きの下に付け加えるようにして書き込んだ。

『何してんだろう』

 鳥が鳴く。姿は見えない。あの空に飛び出してみたいと思った。


  ♪


 一週間ぶりに私をデザートめぐりに誘った伸吾は、この間の講義で私が感じたことをみんな思ってることだよと一蹴した。

「俺だってそんなことしょっちゅう思ってるって。つまんねえ講義だなあとか、早く部活してえとかさ。でも仕方ないんだよ。そういうもんだしさ。それにそういう時間があってもいいと思うけど」

 なるほど。確かにそれも一理ある。全てが全て無駄じゃないことなんてありえないだろうし、そうじゃなければならない謂れもない。

 でも、何かが違う。私が感じていることと、伸吾が言っている仕方がないということと。何が違うんだろう。べつに私が感じているものを大袈裟なものとして扱って欲しいわけじゃないのだけれど。なんなんだろう、このわだかまり。釈然としない感じ。

 伸吾は感じないんだろうか。どうしようもなくて、よく分からなくて、それでもどうにかやっているというのだろうか。だとするなら、それはとても凄いことじゃないんだろうか。私にはそう思える。それとも、私が変なのだろうか。折り合いをつけられないのは、まだ成熟できていない証拠なのだろうか。どうなんだろう。私はまだ未熟なんだろうか。そもそも、成熟するってなんだろう。成長するってどういうことだろう。大人になるってなんだろう。私はいまどこにいる?

「まーた難しいこと考えてる」

 伸吾の声がした。

「今日はケーキ食べにきたんだぞ。もっと気楽にいこうよ」

「あ。ああ、ごめん」

 謝ってから私は止まっていたフォークを動かし始めた。

あずみに言われたとおりになった。少し恥ずかしい。紛らわすためにも、レアチーズケーキを小さく切り分けて口に運んだ。瞬間、程よい酸味とまろやかな風味が口いっぱいに広がった。

「おいしい」

「だろ。ここは俺も一押しの店でさ。だから、今日ぐらい難しいことはなしでいこうよ。せっかくの美味しいケーキなんだから」

「そうだね」

 言って、もう一度ケーキを口に含む。

「うん。おいしいよ」

 言うと、伸吾はとても嬉しそうに笑った。それから自分の前にも置いてあったレアチーズケーキを大きな口でばくりと食べた。もう三つ目。いくらなんでも食べすぎだと思う。私なら口も胃の中までも甘ったるくなって、気持ち悪くなってしまう量だ。

「ここさ、俺のおすすめの店でさ、いつかはここのチーズケーキをちぃちゃんにも食べさせてあげたいってずっと思ってたんだよ」

 そんなことを挟みながら伸吾はどんどんケーキを口の中に放り込んでいく。その表情を見て、私は心底いい表情をするなあと思った。ケーキを食べているときの伸吾は本当にいい表情をするのだ。まるで誕生日を祝われた子どものような無邪気な笑顔。見ているこっちまで幸せが伝わってくる気がする。こんな風に食べてくれたのなら、この店の人も本望だろう。伸吾の笑顔はきっと誰かに伝わっている。伝わらないはずがないと思った

 ちょっといい気分になったので、私は店内を見渡してみた。考えてみれば、伸吾に言われるがまま連れてこられたこの店の内装をまだしっかりと見ていなかった。お店は出す食べ物の味をさることながら、内装のセンスも評価に加味される。これだけ美味しいケーキが食べられた店だ、ちょっと期待して隅々まで見てみようと思った。

 店内の飲食スペースには私たちのほかにも客が来ていた。近所の奥さん方らしいグループや静かで穏やかな佇まいをしている老夫婦。女の子同士の二人連れや、休憩時間なのか背広姿のサラリーマンの姿もあった。どのテーブルにも、この前の喫茶店とは違う、落ち着いたレトロな感じが漂っていた。和やかな時間を過ごしているのが伝わってきた。なるほど、伸吾がここを絶賛しているのは、何も味だけが理由じゃないようだ。きっとこの店の雰囲気も含めて、全てが好きなのだろう。

「このお店すごくいい雰囲気だね」

「お、ちぃちゃんもそう思う? 俺もそう思ってるんだよね。なんか隠れ家的って言うのかな。すごく落ち着くんだ」

「分かるな、その感じ」

「だろ」

 そう伸吾が言うと、なんだか無性に可笑しくなってきた。二人でくすくす笑い合う。傍から見ればおかしな二人なのだろうけれど、当人の感覚としてはとてもいい感じだった。あの、お風呂場で感じる静かな感覚とはまた違う、胸が躍るとかそんな強い予兆じゃないのだけれど、こそばゆいわくわくするような心地よさが胸いっぱいに私を包み込んでいた。

 ふと、ケーキが並ぶショーケースの前に立つ親子連れが目に入った。男の子が輝く目でショーケースの中身に食い入っている。母親はそんな息子を穏やかな目で見下ろしていた。いい光景だ。ますますケーキがおいしくなる。

「ここはさあ、本当に奇跡の出会いがもたらした、奇跡の味を楽しめる場所なんだよ」

 三個目のケーキを食べ終わった伸吾がしゃべりだした。早。ちなみに私はまだひとつもケーキを食べ終えていない。驚いた。もうちょっと味わって食べたらいいのに。少しだけもったいないような気がした。あと、伸吾のこの店との出会いの話は道中何度も聞かされていたから、いい加減にしてほしかった。

「伸吾さあ、もうちょっとケーキの味を味わったらどうなの?」

 開いた口からは思ったよりも強い声が出て、自分でびっくりした。たぶんいい気分になってたのも原因にあると思う。しまったと思ったけれど、出てしまったものはもう遅い。そのまま続けることにした。

「それじゃあせっかくのケーキがもったいないよ」

「そうかあ? 普通に味わってるけど」

「でも、ちょっと食べるの早すぎ」

「いいじゃないか。人それぞれ好きなように楽しめば」

 そう言われてしまうとぐう音も出ない。まったくもってそのとおりである。でも、それでも正直もったいないと思う。もっとゆっくり食べれば、それだけ長くケーキの味を楽しめるのに。

 どうやら私と伸吾では味わい方に差異があるようだ。まあ、伸吾の言ったとおり人それぞれなのだ、強要はできるものではないと思う。

 伸吾は更にもうひとつケーキを平らげると、ようやく満足したのか、運ばれてきたコーヒーをおいしそうに口に含んだ。私はもう残り少なくなってしまったレアチーズケーキを、惜しむようにして食べた。うん、やっぱりおいしい。確かにこの店のレアチーズケーキは絶品だと思った。

 それからは飲み物を飲みながらゆったりと時間を過ごした。この店では時間がゆっくりになっているような気がする。私たちは結構な時間テーブルに向かい合い、いろんなことを話した。

 それからまたしばらく。話題も尽きて穏やかな沈黙が降りていたときだった。眺めていた外の風景から視線を移してふと見た伸吾は、いつの間にか少し緊張した面持ちになっていた。どうしたんだろう。不思議に思いながらも、私は皿の上に残っていたケーキの最後のひとかけらを口に運んだ。

「……あのさ、実は俺ここの他にもいろいろオススメの店知ってんだ」

「そんなこと知ってるよ」

「そうか。そうだよな」

「どうしたのさ」

 伸吾は妙にそわそわしていた。視線に落ち着きがなくて、全体的に昂揚しているのが見て取れる。初めて見る伸吾の姿だった。なんだか、見ている私まで変な居心地になる。なんだろう、この感じ。ゆっくりと間を取ってから伸吾は再び口を開く。

「あのさ、ちぃちゃんにはいろいろとオススメを紹介したいんだ。どうかな?」

「どうかなって?」

「いや……その……」

 そこまで言って、ついに伸吾は恥ずかしそうに顔を背けた。らしくない。初めて見せる一面だとはいえ、伸吾がこんな表情を見せるとは思わなかった。少しこそばゆい感じ。そう言う行動はできるだけ止めてほしい。伸吾が恥ずかしいと、見ていると私まで恥ずかしくなる。恥ずかしさは例え口に出さなくても伝達する。たとえは悪いけれど、ウィルスのようなものだと思う。

 伸吾が再び顔を向けてきた。決意のようなものを表情に浮んべて続きを口にした。

「嫌じゃなかったら、これからも一緒に食べたり歩いたりしてくれる?」

「もちろん。ぜんぜんいいよ。いままでもそうだったじゃない」

「その、そう言う意味じゃなくて……」

 なら、どういう意味なんだろう。なんて、大方分かってはいるけれど、あえて分からないふり。伸吾の口から聞いてみたかった。伸吾が言うことで確証が欲しかった。

「あのさ、俺と付き合ってくれないかな」

 そう口にした伸吾の表情は真剣そのものだった。見ていたら、どうしても可笑しくなってきてしまった。

「なんで笑うんだよ」

「ごめん。伸吾があんまりにも真剣に言うから」

 本気で言われたから、いろいろな感情がわき上がってきてしまったのだ。嬉しさとか恥ずかしさとか楽しさとかいろいろと。だから昂ぶってしまって、それが笑いとして現れてしまった。伸吾は気に食わないかもしれない。でも、これはいい笑いだと思う。他のどんな笑いよりもすごい、幸せな笑いなんだと思う。分かるかな。伸吾にも分かってほしいと思った。

 このままもう少し素敵な笑いを続けていたい気がしたけれど、そういつまでも笑ってばかりでもいられない。しっかりと伝えてもらったのだ。私もしっかり返さなくてはならない。

 喜んで、とか、こちらこそお願いします、とか、畏まったりおどけたり、返し方にはいろいろあるけれど、私の口から出たのはたった二文字、うんの一言だけだった。出来るだけ優しく微笑んで返事をした。だからなんとか伝わったと思う。伝わってほしいと思った。

 伸吾はちょっと照れくさそうに、でもとても嬉しそうな微笑み私に返してくれた。

 微笑みはとても嬉しくて胸がほっこりしたけれど、同時にその表情だけはやめてほしいと思った。ただでさえいまはいろんな感情が表にあふれ出てきているのだ、余分に恥ずかしくなってしまう。だから、やめてほしい。恥ずかしいとそわそわしてきて落ち着かないのだ。

 こんな気持ちになるのも、全部伸吾のせいだ。腹いせに少し注文をつけてやろうと思った。

「でも、食事の会計は全部伸吾がよろしくね」

「え、ええ。ちょっと、マジかよ」

「うん。マジ」

 言うと、伸吾は頭を抱えて唸ってしまった。それを見て私は満足する。気分もいくらか落ち着きを取り戻してきた。代わりに私を満たしたのは、ほんわか温かな安心感だった。誰かと気持ちを伝え合って、伝わり合えることができるというのは凄いことなんだと思った。

「な、なあ、割り勘じゃあだめなのか」

「だめ」

 こういう雰囲気も素敵だ。たぶん、私たちは随分とこの店の空気に馴染んでしまったのだろう。手にして啜ったハーブティーは、すっきりと爽やかな香りを運んできてくれた。


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