お節介とひとりの部屋
「だからさぁ、それは付き合ってるって言うんだって。千尋は本当に鈍いんだから」
伸吾と喫茶店に向かった翌日、午前の講義を終えて昼食を取りにやってきた学生食堂で、どうしてか私はあずみにお節介節を焼かれるはめになっていた。迂闊だった。そんなつもり微塵もなかったのに。がやがやと、あちらこちらで話し声が聞こえてくる中、目の前に座ったあずみの声は一段とよく私に聞こえてくる。
「ほんとさぁ、伸吾くんが可哀想だよ。千尋だけなんだよ、伸吾くんが誘うの。なのに千尋ときたら」
最近のあずみはどうにも口うるさい。不安いっぱいで大学に入学したころに知り合い、すぐに親しい友達になったころとは大違いだ。
底抜けに明るくて大らかなあずみは、サークルや学科こそ違えど、共にメールのやり取りをしたり一緒に遊びに行ったりして、それはそれは私の大学生活の大きな支えになってくれた。あずみと仲良くなれていなかったら、今現在の私の毎日はもっと違ったものになっていたと思う。笑う回数が極端に減っていたかもしれない。あずみがいるから、こうやって話もできるのだし。
ただ、知り合って早三年。ようやく気の置けない仲になったというのに、最近は私と伸吾の間柄についてのことばかりにあれこれと口を挟んでくる。正直鬱陶しい。放って置いてくれたらいいのに。あずみにこんなにも面倒な一面があったとは知らなかった。
「でも、伸吾はそんなに私のこと意識してないと思うんだけど」
「あまいなあ」
言って、あずみは動かしていた箸を止めた。ちなみに今日の昼食は私が親子丼であずみはざる蕎麦だ。
「いい。男ってのはね、そんなに簡単に女の子と親しくならないものなのよ。それに、千尋に優しくしてくれてるのは伸吾くんときてるじゃないの。これは確実に千尋のことを恋愛対象として見てるに決まってるじゃない」
「そうなのかなあ」
「そうよ」
どこから自信がくるのか断言してあずみは再び蕎麦を啜った。どうも、私には理論が破綻しているようにしか思えないのだけれど。だって、結局は当の本人たちを無視してあずみがただそう思っているだけに過ぎないのだ。整合性なんてあったもんじゃない。そもそも、あってもらっては悔しい。
しかしながら私は、一方的に強く言い切られるとかなり弱くなる。あずみに自信を持ってそうだと言われてしまうと、もしかしたらそうなのかもしれないと思ってしまうのだ。だからいまも、口では否定しつつも、もしかしたら伸吾が私のことを恋愛対象としてみているのかもしれないなんて考え始めてしまっている。人に流されやすいのは、直そうと思いつつもなかなか直らない私の大きな欠点だった。
我ながら情けない。いつも後から考えて馬鹿だなあと思い直すはめになるのだ。そう思いながらも、私の頭は伸吾が私のことをどう思っているのかについて考え始めてしまっていた。
伸吾は、確かに私に対してよくしてくれる。去年の夏にあずみからの紹介で知り合って、それからメールや電話でときどき連絡を取り合うようになって、つい最近一緒にデザートを食べ歩くようになった。私自身、伸吾について嫌な思いを抱えているわけでもなければ、迷惑に思っているわけでもない。甘いものはどちらかといえば好きだし、一緒に食べに行くのも楽しい。いつも奢ってくれるのがとても嬉しい。だから私の伸吾に対しての心象そんなに悪くはない。
でも、私たちの関係にそれ以上のことはなにもない。たとえば、食べ歩き以外でどこかに遊びに行くとか、一緒に映画を見るとか、そういったことはこれまでまったくの皆無だった。誘いが来ないし、誘おうと思わない。伸吾はあくまでも親しい男友達の一人であって、だからこそ私と伸吾との仲は現状以上に発展しないのだし、向こうもそう捉えていると思っていた。
でも、本当にそうなんだろうか。もしかすると、私は過剰なまでに淡白な考え方をしているんじゃないだろうか。
目の前のあずみのことを見てみた。あずみは美味しそうに蕎麦を啜っている。そして私はそんなあずみと対面して親子丼を食べている。それは私とあずみが友達だからだ。友達だから私とあずみは一緒に映画も見に行ったことがあるし、ぶらぶらと予定もなく街を歩いたこともある。いろんなお店で一緒にご飯を食べたこともある。それは友達として当然の形だと思う。
だとするなら、私と伸吾との付き合いの中にもそういったお出かけがもっとあってもいいんじゃないだろうか。いや、なくたって現状でのことを考えてみれば分かるものではないのか。あずみと伸吾は、男女それぞれの友達だ。そこには明確な違いがあることは明らかだし、子どものころのような意味での友達ではなくなっていることも分かる。そう考えてみれば、彼女の言うことにも一理あるんじゃないだろうか。伸吾は私のことを意識しているんじゃないだろうか。
「……やっぱり、男の子と一緒にデザートを食べたりするのって、特殊なことなのかなあ」
訊ねると、蕎麦を啜っていたあずみの箸がぴたりと止まった。つゆが入った器とあずみの口とを蕎麦が繋いでいる。もぐもぐと口が動いて、蕎麦が口の奥に消えて、あずみは箸と器を置いた。
「少なくとも、あたしは何かしらの意味があると思う」
「私とあずみみたいに、何となく食べることはありえないのかな」
「何となくってどういうことよ」
少し息巻いてあずみが食いかかってきた。少し驚いた。まさかここでそんな反応が返ってくるとは思ってもみなかった。
「べつに他意はないよ。ただね、こうやって何気なく普通に食べることって、男の子とじゃあできないのかなあって思って」
「それは人によるんじゃないの。いろんな人がいるからね」
ならば伸吾にしてもそうである可能性は捨てきれないのではないだろうかと思ったけれど、再び蕎麦を啜り始めたあずみには伝える気にならなかった。また強く言い切られてしまっては堪ったもんじゃない。
私も昼食を再開することにした。考えていたらいつの間にか箸が止まっていたのだ。親子丼を口に運ぶ。学生食堂の献立はどれも大味だから、口に入れた瞬間いつも残念な気分になる。確かに美味しいことには美味しい。けれど、もう一捻り工夫されててもいいような気がするのだ。大衆食堂なのだから難しいのかもしれないけれど。
「しかし、あれだよ。千尋は少し考えすぎて周りが見えなくなるときがあるから気をつけないとだめだよ」
もう一口頬張ったところを、いつの間にか机の上に腕を組んで私のことを見ていたあずみに真剣な表情で言われた。藪から棒に、何を言い出すんだろう。私はどんぶりを置いてあずみに返事をした。
「そうでもないよ」
「嘘だあ」
「本当だって。いつもいつも考えてるわけないもの」
「でも、見るとぼうっとしてること結構あるよ。なんだかぼんやりと物思いにふけってる感じ。話の途中とかでね」
少し痛いところを突かれた。
「さっきも随分と考えてたでしょう。これでも結構見てるんだから」
ばれていたみたいだ。そんなに表情に出るものなのだろうか。両手で頬に触れて、上下に動かしてみた。
私はよくよく考え事をしているように見えるらしい。そうでもないのだけれど。ただ、人よりも興味がいろんなところに向きやすいだけなんだと思う。たとえば誰かの靴紐とか、窓の外とか、話の中のある一点に集中してしまったりとか。たぶんそれだけのことなのだ。
「あんまり考えすぎてさあ、伸吾くんのこと忘れたらダメだよ」
「またそこに戻るのね……」
当たり前じゃないとにやけるあずみに辟易しながらも、そういえば伸吾にも同じことを言われていたことを思い出していた。
考えるということ。私にはよく分からないことがたくさんある。伸吾の気持ちも、口うるさく私と伸吾の中を訊いてくるあずみの心情も。後者は単なる好奇心からなのだと思うけれど、他にも、たとえば私が何をしたいのかとか、将来の夢とか、いまここにいる私についてとかも本当はよく分かっていないのだと思う。考えようと、理解しようとするのだけれど、対象があまりにも漠然としすぎているから立ち尽くしてしまうのだ。
あずみが勢いよく蕎麦を啜る。美味しそうに食べながら、興味津々でまだ私にお節介を焼いてくる。
ねえ、あずみ。あずみはときどき不安にならないかな。よく分からなくはならないかな。具体的な何か対してじゃなくて、漠然とさ。
疑問は、胸の中にわだかまったまま声にはならなかったけれど、親子丼の味が少し薄くなったような気がした。
♪
レンタルビデオ店のバイトを終えてアパートの部屋に帰るころには、もう随分と日が暮れてしまっていた。暗い夜道は不安だし怖い。両側に家の明かりが漏れているからまだ平気だけれど、やっぱり心細くなる。冬は特にそうだ。だから私はいつも急いで帰ろうと心がけている。自転車は、ときどき立ち上がって思いっきりペダルを踏む。そのお陰で、部屋に着くころに私はいつも若干息を弾ませることになる。息を乱すぐらいなら時間のシフトを変えてもらえばいいのに。そんな簡単なことをしない私が少しだけ可笑しい。
部屋の電気を点ける。電灯が二、三度点滅して光を灯す。同時に、さっと闇が音を立てて退いていくかのような錯覚を覚えた。部屋はさっきまでは暗闇のテリトリーだったのかもしれない。それが私を少し変な気分にさせる。
鞄を放り出し、コートを脱ぎながらエアコンのスイッチを入れる。そのままさっさとテレビまで点ける。何かしらの音がないと一人の部屋は広すぎるのだ。だからテレビ。とてもシンプルだ。
思うに、一人きりの部屋に感じる心細さに部屋の大きさはそんなに関係ない。どれだけ広くても狭くても、帰ってきた私はちょっと心細くなるのだ。それは一人だけ集団から置いてきぼりをくらったときの気持ちに似ている。誰の声もしない部屋は、無性に広く感じられる。
冷蔵庫からチューハイを取り出した。お酒は好きだ。無意味に楽しくなれる。座椅子に腰掛けて、テレビの方を見た。べつに特別見たいわけじゃないけれど、点いているから見るのだ。
マンゴー味のチュウハイを一口飲む。テレビの中でたくさんの人が笑い声を上げている。それに釣られて私も笑ってしまう。馬鹿なことをしてるなあとか、面白いなあとか思いながら、けらけら笑い声を立てる。そして少し落ち着いてから、もう一度缶チューハイに口をつける。
大体こんな感じで夜を過ごしていく。時には音楽を聴きながら読書をしたり、試験前の勉強に追われたりすることもある。インターネットを楽しむときもある。でも、大体はテレビだ。テレビを見ながら時間を過ごす。それが一番気楽だ。
だらだらしていたら缶チューハイがなくなった。今夜はここで終わり。テレビの番組も一段落ついていたので、私はお風呂に入ることにした。浴槽に向かい、湯船に湯を張る。蛇口を捻って、適温のお湯をどんどん流し込む。冷え切っていたお風呂場の空気にもうもうと湯気が立ち昇り始め、私の視界はだんだん狭くなる。白く煙るお風呂場で、私はただ流れるお湯を見つめながらじっとする。
こうしてじっとしていることに特別な意味はない。妙に落ち着くからじっとしているのだ。湿度と共に温度が上昇していく室内の空気もいい感じだし、何よりぼどぼどと流れ続けるお湯がいい。音がいいのかその勢いがいいのか、具体的にはよく分からないけれど、とにかくいいのだ。だからじっとする。
仕舞いに私は鼻歌なんかを歌ったりしてしまう。浴槽の縁に肘をかけて、流れるお湯と満たされる湯船を確認しながら上機嫌で鼻歌を口ずさむのだ。すると、なんだか楽しくなってくる。溜まってきたお湯をかき混ぜながらだらりと力を抜いてみたりする。
そんな折に、ふと、昼間のことを思い出した。お節介なあずみのこと。同時に伸吾の顔も浮んできた。それから薄くなった親子丼の味。
伸吾は私のことをどう思っているんだろう。あずみは私たちのことを見て、どうしてあんなにお節介を焼こうと思うのだろう。私は伸吾のことをどう思い、あずみのお節介をどう捉えたらいいのだろう。
遡って、蝶のことまで思い出してしまった。どういうわけか見えてしまった街を飛んでいく青色の蝶。その姿に、私はぞっとしながらも羨ましくなった。それは一体どうしてだったんだろう。
蛇口からお湯は流れ続けている。浴槽にお湯はどんどん溜まっていく。浴室は湯気でいっぱいになっていた。
私は何も分からないままだ。分からないまま、バスタブの縁に腕を組んでいる。もしかしたら、分からないようにしているだけなのかもしれないけれど。
随分とお湯が溜まってきたので、頃合を見計らって蛇口を捻った。脱衣所でじっとりと、表面が少しだけ湿り始めていた衣服を脱ぐ。
難しいことは考えないでおこうと思った。どうせ分かりはしないのだ。いつかは分かるときがくるのかもしれないけれど、いまの私には分からないのだ。それに、お風呂は私の大好きな時間だ。考えながら楽しむものではないと思う。
温かなお湯に浸かると、思いっきり脱力してやった。
やっぱりお風呂は最高だと思った。