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ケーキはときどき無性に食べたくなるものだ

 蝶が街並みの中を縫うようにして飛んでいくのが見えた。

 人通りの多いショーウィンドウの向こう側。コンクリートの建物が我が物顔で立ち並び、道路には車がびゅんびゅん走っている。上空に広がっているのは一面の灰色に覆われた見事な曇り空だ。ところどころ雲の薄い箇所から射しこんで届いてくる陽の光が、どんよりと鈍い灰色の雲に混じって冬のマーブルカラーを覗かせている。

 そんなくすんだ街並みの中に、光沢のある青色の羽根を羽ばたかせる蝶の姿を見た。

 頼りなくひらひらと、まだ寒いはずなのに、蝶は宙を飛んでいた。どこへ飛んでいくつもりなのか、またどうしてこんな冬の寒い日に飛んでいられるのか不思議に思ったけれど、私には蝶の思考を理解できるはずがないし、かといって蝶の行動原理にもその生態にも詳しいわけでもないのでよく分からなかった。

 ただ、ひらひらと特別目的地があるわけでもなく飛んでいるように見える蝶の姿は、少しだけ自由に見えた。いろんなしがらみから解き放たれた開放的な自由。少しぞっとする羨ましさを覚えた。

「おーい、ちぃちゃん。ちぃちゃーん」

 テーブルの向こう側から声がした。慌てて我に返る。見れば、手を振りながら伸吾が心配そうな顔をしていた。

「あ、ごめん。何の話だったっけ?」

「だから、ここのチョコケーキのことだよ。ったく、まーたどっかに飛んでいってたな」

 溜息をついて伸吾は呆れ顔になった。ああ、またやってしまった。注意しているつもりなのに。私はついつい人の話を聞き逃すことがある。伸吾はすっかり拗ねてしまった。おどけた調子で謝ってみても、周りの会話に混ざって、余計に軽く響くだけだった。

 私と伸吾は二人でとある喫茶店に来ていた。大学の講義が終わり、特に予定も入ってなかったのでさっさと家に帰ろうとしていたところを、伸吾に声をかけられたのだ。なんでも、最近新しくできた喫茶店のケーキがとてもおいしいと評判で、ぜひとも私と一緒に行ってみたいということだった。

 断る理由は特になかった。私はケーキが嫌いなわけでも、伸吾と一緒に喫茶店に行くことが嫌なわけでもなかったのだ。その上、しばらく返答を考えていたら伸吾が両手を合わせて崇めるように頼み込んできていた。そんなに行きたいのならば一人で行けばいいのにと、内心思ってしまったけれど、口には出さずに私は伸吾の手をとった。ちょうどケーキが食べたい時期になっていたのだ。だから役得。いいタイミングだった。ケーキに限らず、食べ物はときどき無性に食べたくなる時がある。

 そんなわけで、私たちは喫茶店に向かった。道中、伸吾は目指す喫茶店のケーキがいかに話題なのかを饒舌に語っていた。私は半分以上聞き流していた。

 その後、ものの十数分で目的地には辿り着いたのだけれど、なるほど、伸吾が誰かと、それもできるなら女の子と一緒に喫茶店に行きたいと思っていた理由が店を見て即座に理解できた。確かに、わいわいきゃーきゃーと姦しく喋り続ける若い女の子のグループばかりが目につく店内に、男一人入ったものならばさぞ居心地の悪いことだろう。私だってむさ苦しい男どもに囲まれて紅一点にでもなってしまおうものなら、正直居心地が悪くなると思う。

 でも、伸吾ならばこんな女の子の集まりの中にでも受け入れてもらえるんじゃないだろうかと、個人的には思ったりもする。

 体型に恵まれた伸吾は、長身にすらりと伸びた両手脚を持っている。髪の毛を短く切りそろえた伸吾は何よりも笑顔が印象的なもんだから、いわゆる爽やかなスポーツマンと言った風貌をしているのだ。だから結構女性受けがいい。実際、大学でもサッカー部に入っていて、部活の日には汗を流しながらピッチを駆け回っている。ぼうっと、何も考えずにグラウンドの脇に座っているときなんかに見る伸吾の姿は、確かにかっこよかったりすると思う。

 だから、伸吾はこの喫茶店の中で黒一点のけ者にされることはなかっただろうと私は思う。ただ、形を変えただけで結局は目立つことになってしまうのだから、問題の解決には至らないのだけれど。

 そんな伸吾なのだけれど、いまは私のことを見ている。伸吾にしては珍しい顔だ。いまにもため息を吐き出しそうな、それでいて少し悲しそうな表情で私の方を見ている。なんだか私まで悲しくなるような表情だ。伸吾には絶対に似合わないから、もうしないでほしいと思った。

 まあ、原因は確実に私なんだけれど。

 伸吾は私が話を聞いていなかったから呆れているのだ。同じくらい残念で、悲しく思っていて、拗ねているのだ。大好きなケーキの話題だった。もっとしっかり話を聞いておくべきだったんだと思う。

「本当にごめん。どうしても外が気になっちゃって」

 そう繰り返すのだけれど、伸吾の表情は変わらない。ずっとそんな顔をしてもらっても、私は困ることしかできないのに。いや、伸吾にしてみればそれで狙いなのか。私が困れば、伸吾のもやもやとした不満も薄れていくのかもしれない。

 けれど、こんなことを私が考えるものあれだけれど、もう過ぎてしまったことなのだ。それなのにいつまでも同じ態度を取られてしまっても、どうしようもないではないか。仮にも大学生になった男だ。もっと、建設的な態度というか、大人な対応を示してもいいんじゃないだろうかと思う。

 でも、それでもここは私が折れるしかないのだろう。結局最初にへまをしたのは私なのだ。失敗したなあという思いと、表情を変えない伸吾への気持ちがため息になって出るのをぐっと堪えて、私はテーブルに置いてあったアップルパイを伸吾に差し出した。たぶんこれで何とかなる。

「もう分かったよ。これ、残りあげる。だからもう許してよ」

 まだ半分も食べていなかったアップルパイ。口惜しいが仕方がない。これも自らが蒔いた種なのだ。

 皿が目の前にくるや否や、急に人が変わったかのように伸吾は笑顔になり、したり顔で私の方を見てきた。

 ここまで計算づくだったのか。がめつい男だなあと呆れると同時に、堪えていたため息がついこぼれ出てしまった。

 伸吾は自他共に認める大の甘党だ。だから、こんな女性ばかりが目立つ喫茶店にまでわざわざ立ち入ろうと思ったんだろう。近場でケーキやデザートのバイキングがあるとなれば必ず足を運ぶし、新しくできたケーキ屋さんや喫茶店のデザート情報なんかも逐一チェックしているらしい。市販のお菓子や通販での特別品なんかも、必ず一度は買って全て味を確かめていると胸を張って自称するくらいだ。そこんじょそこいらの女の子よりも、デザートに関する知識は豊富だといっていいと思う。

 実際、私もいいケーキ屋さんの場所をいくつか聞いたことがある。適当な情報、たとえば、いまどんな気分なのかとか、どんな場所で食べたいのかとかいったことを伸吾に話すと、彼はまったくもって素晴らしいチョイスをしてくれるのだ。そのお陰で何度も素晴らしいデザートを楽しむことができた。伸吾が持っているデザート情報網は、おそらく本一冊をまとめてしまえるくらいの質と量を誇っているんじゃないかと私はひそかに思っている。

 そんなことを考えながらじと目で見つめる先で、伸吾は幸せそうにアップルパイを頬張っていた。さぞかし美味しかろうよ。私だって本当はもっと食べたかったのに。恨めしく思う私を尻目に、伸吾はものの数十秒でアップルパイを平らげてしまった。そして少し前に来ていたコーヒーに口をつける。満足したのか、ようやく穏やかな表情で私のことを見てくれるようになった。

「ありがとう、ちぃちゃん。アップルパイすごくおいしかった」

「どういたしまして」

 嫌味な奴だ。私は頼んでおいた紅茶を勢いよく煽った。

「もったいない飲み方をするなあ」

「ケーキを馬鹿みたいに速く食べる人には言われたくはない」

 応えると、なるほど、それもそうだなと、上機嫌の伸吾は再びゆっくりとコーヒーに口をつけた。カップをソーサーに戻して、しばらく沈黙する。機嫌がいいが故の余裕だった。腹の立つ。

 何か言ってやろうかしら。そんなことを考え始めたときだ。おもむろに伸吾が口を開いた。

「しっかし、ちぃちゃんはよくよく急に遠くに行っちゃうことがあるよね」

 頬杖を突いた伸吾はにやつきながらそう言った。腹立たしさが更に増したような気がする。紅茶でも飲んで少し落ち着きたかったけれど、残念ながらもうなくなってしまっていた。誤算だ。全部伸吾のせいだった。

 仕方がないので不機嫌なのを視線に載せて伸吾を睨みながら返事をした。

「外に蝶がいたの。だから不思議だなあって思って。見てただけなの」

「蝶? まさか。変なこと言うなよな。まだ冬なんだぞ」

「でも、本当にいたんだもん。ひらひら飛んでた。じゃなかったら話が聞こえなくなるわけがないもの」

「ふーん。珍しいこともあるもんだねー」

「……信じてないなあ」

 思いっきり頬を膨らました私とは対照的に、伸吾は優雅にコーヒーを楽しんでいる。本当にいたのに。本当に飛んでたのに。確かに私は見たのだ。しっかりとこの目で蝶が飛んでいる姿を見た、と思う。

 名残を探そうと見た通りの景色は、一段と灰色がかってきたようだった。雲が厚くなったんだろうか。乾いた風が枯れ木を揺らしていた。私はこの街並みの中に蝶の姿を見た、はず。たぶん。

 伸吾は相変わらず腹立たしいけれど、言うことには確かに一理あるのだ。というよりも、そちらの方が正しいに決まっている。冬なのだ。常識で考えれば、まだ蝶など外を飛んでいるはずがない。ガラス窓の向こう側を行き交う人々は、厚く暖かそうなコートを身にまとい、マフラーの隙間から白い吐息を吐き出して通りを歩いている。こんな時期に蝶が飛ぶなんてことはどう考えてもありえないのだ。

 だから、もしかしたらあれは見間違いだったのかもしれない。何か、青く光る紙か何かを蝶と思い違えてしまったのかもしれない。

 でも、いくらなんでもそれはないような気がする。もともと目は悪くないのだ。そんな私の目はしっかりと見た。あれは確かに蝶だった。蝶の姿をして飛んでいた。

 でも、蝶などまだいるはずがない。飛んでいるはずがないのだ。ならば、私は何を見たんだろう。幻でも見てしまったんだろうか。でも、どうして幻なんかを見たんだろう。よく分からない。幻を見るような原因は思いつかないのに。

「おーい。また飛んでるぞー」

「あ。ああ、ごめん……。考えごとしてた」

 恥ずかしかった。二度も指摘されてしまうなんて。今までにもこういった指摘を受けなかったわけじゃないけれど、さすがにこれは重症だと思った。

 照れ笑いを浮かべていたら、伸吾はじぃっと私のことを覗き込んでいた。なんだろう。思ったら、急に力を抜いて笑顔になった。

「まあ、それがちぃちゃんらしいよ」

「……ちょっと馬鹿にしてる?」

「ご想像にお任せします」

 柔らかな笑顔で返してきた。まったく酷い奴だ。紅茶が猛烈に飲みたくなった。ウェイターを呼んで淹れてもらった。温かな紅茶は、喉を通り、じんわりと身体を内側から温めてくれた。

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