声を出してはいけない人外娘が危険を知らせたら恋人を失ってしまう話【人外少女シリーズ】
「お前は絶対に人間の前で声を出してはいけないよ
「なんで? お母さん」
「お前の声は人間にはものすごい毒になるんだよ。絶対に、絶対に声を聞かせてはならないよ……」
山の中に開いた洞窟で、幼い頃のジャララは言いつけを聞いた。
以来、百年間、それを守っている。
今では言葉の発し方も忘れ、ただただ誰もいな虚空に息の漏れるだけのかすれた音を聞かせるだけ。
しかし思考ははっきりしていた。
(寂しい……)
ジャララの一族の姿はモンスターにも、人間にも受け入れられないものである。巨大なハサミムシとウミサソリの合いの子に、人間の女性を足したような姿は、全ての生き物に恐れられた。
洞窟の中から青空を見上げる。
もう何年も、何十年も知性を持つ生き物を見ていない。獣モンスターを獲って丸かじりする生活ばかり。彼女は生き飽いていた。
ふと、もともと鋭敏だったものがさらに鋭くなった聴覚に、感じるものがあった。
洞窟正面の藪の中である。獣の音か? いや……。
藪から現れたのは、人間の少年だった。迷子だろうか。十代中程に見える。洞窟の中から伺うジャララには気づかない。
あたりを見回して困惑している様子。ジャララはつい身を潜める。しかし、少年はズンズンと洞窟へと進んでくる。頭をかがめるジャララ。しかし……。
「うわあ!?」
見つかってしまった……。どうする? ジャララは思った。食い殺すか? 即座にその選択をとらず、逡巡したくらいには彼女は優しかった。そのことが……。
「な、何だおまえ? めっちゃかっこいい! その姿!」
命運を分けた。
「すっげえ! おい! 出て来いよ!」
この世界には危険なモンスターも多く、何も知らずにジャララを見れば、そういう類に見える物のはずなのだが、この少年はそういうネジが外れているようだった。
そんな無邪気さにジャララはつい、気を許し、洞窟から外に姿を晒す。まず人間の体に似た頭部が出て、その後に甲殻に覆われた長い体が出てくる。
「すげえ! すげえ! ドラゴンにも勝てそうだぜ!」
それは難しい、と否定したいが、声の出し方などとうに忘れている。
「喋れないのか?」
長い体の横を行ったり来たりして喜んでいた少年が立ち止まって、言った。ジャララは頭を縦に振る。
「そうか……。あのさ! 俺! この森を出たところの村に住んでてさ……」
そんなところに村ができたのか。彼女は思った。知らない情報だった。この森の近くに人里はないはず。だからこの森にこもっていたのだ。この百年で新しくできた村だろう。
ジャララは無意識に警戒した。
それにしても、この少年……。
「ああ、俺はスティルってんだ! よろしくな!」
そう言って握手を求めてくる。純朴すぎる。自分が悪いモンスターだったらどうするのだろう。と、ジャララは心配になるが、深く考えることなく爪の伸びた手を差し出す。
少年スティルはそれを強く握った。
「よし! これで俺らは友達だな!?」
それから毎日、薪拾いで少し奥に来ているのだろうか、スティルはジャララに会いにきた。話もできない彼女相手に、彼は色々な話をした。ジャララは頷いたり、表情を変えたりしてスティルとコミュニケーションを取った。
とても幸せな時間だった。それまでの孤独が幻だったかのように、ジャララの生活は潤った。毎日毎日、スティルがやってくるのを楽しみにした。
※※※※※
しかしやがて、その足も遠のいていく。毎日足繁く通っていたものが、三日に二回になり、二日に一回になり、一週間のうち、こない日の方が多くなった。
待ちぼうけの身の上の彼女は、やがてたくさんある足を使って、自分から森の端にあるという村に近づくようになる。
(寂しい、寂しい、もっと来て、スティル)
その一心だった。
森の端には崖がある。洞窟に篭るようになる前の、幼いころ、行動範囲を広げてそこまで行った覚えがある。結構な距離だった。スティルはその距離を通っていたのか、
足がだんだん遠のくのも無理はない、と、半ば来ないことを恨めしく思っていた彼女は反省する。
ガサガサと森の木々を揺らし、崖に出ると、一気に視界が開けた。森の木々が途切れ、なだらかだが高さのある坂がそこから始まっている。
そして……たしかに、以前見たときには影も形もなかった人家がポツポツと……。小さな集落というレベルだが、たしかに人の息吹が根付いている。
(怖い……)
ジャララは直感的にそう思い、森の中へとって返す。そして前のように、洞窟から出なくなった。
それからスティルが洞窟にやってきたのは、たった二回か三回だった。
※※※※※
(寂しい! 寂しい! 寂しい!)
彼女の心の叫びは、洞窟の中で大きくなるばかりだ。つい、禁じられた声まで上げそうになる。
また、人里へ近づこうか。
その衝動がどんどん強まる。そして、彼女は、洞窟から出て、崖の際まで通うようになった。人の家々を見て、寂しさを慰める日々。
幸いみなが薪拾いをする早朝を外して、昼飯時にちょうどその習慣がぶち当たって、村人に見つかることはなかった。
ある日のことである。
いつものようにジャララが崖の上から村を見下ろしていると、森から見えるどこまでも広がる広大な平地に、不吉な印が見えた。
空から尻尾が垂れているような、それとも地面から何かが昇っているような。
(竜巻だ!)
ジャララは一度、まだ母親と暮らしていたころ、それに出くわしたことがあった。破壊的な威力の自然現象。それが今、ジャララ自身がそうと知らないまま恋をしている少年のいる村に襲い掛かろうとしている。
(知らせなきゃ!)
人家はみな煙突から煙を上げている。昼食の時間だ、誰も外に出ていない! 気づいていないんだ!
ジャララは焦った。どうすれば、どうすればいいのか。
いや、わかっている。わかっているのだ。やり方は一つしかないと。
(おまえの声は毒なんだ、人間にとってはね)
違う! きっと違う! そう、そうだ。姿を見せるわけにはいかないけれど、声なら、声なら……。
瞬間、空気を引きちぎって断末魔を上げさせるような、そんな声が村に響いた。何事かといえいえから飛び出してきた人々は竜巻の接近に気づき、一時避難し、難を逃れた。村の家屋はみなやられてしまった。
※※※※※
(これでいいんだ)
ジャララはそう思った。その日は洞窟で、一抹の不安と、自分は正しいことをしたんだという信念を抱いて、眠った。
「起きてください、起きてください、救世主様」
彼女は聴き慣れぬ声で目を覚ました。目を開けると、洞窟の入り口に逆光のシルエットが。
這い出すと、洞窟の前にはたくさんの村人が集まっていた。目を見張るジャララ。
「救世主様!」
「救世主様だ!」
「救世主様……」
みな口々にジャララへの感謝の言葉をささやいている。ジャララは初めて見る人の集団と、この状況に面食らった。一人が歩み出る。スティルだった。
「スティル!」
つい、ジャララは声を上げた。無意識だった。久しぶりの言葉だった。
「はぁっ!?」
その瞬間、スティルは膝から崩れ落ち……感涙の涙を流した。
「ああ! やっと名前を呼んでくれたんだね!? うわああ、涙が止まらないよお……」
少年の異様な有様にも村人たちは臆しない。みな羨ましがっている。
「救世主様! わしも! わしも名前を呼んでくだされ!」
「いいえ、私もよ!」
「救世主さま!」
ジャララは思った。
なんだ、あの声が人間の毒だなんて嘘だったんじゃないか。みんなあの声を聞いたはずなのに元気だ。
そう思った。ジャララはスティルに近づくと、はじめて会ったときのように手を差し出し、握手を求めた。
「はああああ、救世主さま……」
するとスティルはひざまづき、それに接吻する。ジャララは少しそれを奇妙に思ったが、愛する人に接吻され、気分が高揚した。
「スティルが救世主さまの寵愛を受けるぞ!」
「なんと羨ましい!」
ジャララを褒め称える声が絶えることはなかった。
※※※※※
チャーム、という魔法がある。人を魅了し、カリスマで導くが如く、完全に支配下に置く。
そう、彼女は生来の能力を使って奴隷を得て……全てを失ったのだ。
やがて辺境の森を中心に、人外を信奉する巨大な教団ができ、狂信的な教義が邪教の嵐になって何千もの命を争いですり潰すことになるが、それはまだ先のことである……。