第4話 主観
珈琲はガソリンである。眠気を飛ばす熱さと苦さ、カフェインが重要なのだ。(ある社畜の持論)
マグカップ一杯の珈琲の量を180mlと定義。
二人分の珈琲360mlに対し推奨されるの豆の量は、43g。
瓶から豆を取り出し、計量を実施。――43.02g。
誤差として処理。
ミルで豆を挽き、挽いた粉をフィルターに入れてドリッパーにセット。
お湯の温度が高いと苦味が強く出るので、沸騰させたお湯を少しだけ冷ます。
人差し指を突き入れて、温度を確認する。――89.2度。
粉の中心から円を描くように、お湯を注ぐ。
粉全体が湿る程度にお湯を注いだら、一度止めて30秒程蒸らす。――ジャスト30秒。
再びお湯を注いで、抽出完了。ドリッパーを外す。
最後にサーバーを軽く(1秒に一周のペースで30回)回して味を均一にして、温めたマグカップに珈琲を注ぐ。
「……どうしましたか?」
「や……なんというか、科学の実験を見てるみたいだなぁと思って」
「分類としては、調理の一種ではないかと思われます」
「まぁそうだね。後、今度から温度を測る時は温度計を使いなさい」
「精度としては、私に内蔵されたものの方が良いと思われますが」
「衛生上の問題だね」
「殺菌消毒では不足でしょうか」
「……うん、このことは後でゆっくり話し合おう」
「分かりました」
取り留めもない会話を交わして、珈琲を運ぶ。
白いマグカップはアリスの、黒いマグカップは博士の物だ。
「どうぞ」
「ありがとう。…あぁ、やっぱり匂いが違うね」
マグカップを口元に近づけて、博士は言う。
「気に入られましたか」
「嫌いではないけれど、気に入ったかといわれれば、それはどうだろうね」
そう言った博士は、とても申し訳なさそうだった。
彼はアリスに対して、取り繕うということをしなかった。
お世辞や愛想を口にせず、思ったことを、感じたことをそのまま口にしているのだろう。
恐らくそれは、意識してのことだろうとアリスは思った。
こうした会話の中で、博士はアリスに、何かを学ばせようとしている。
「僕にとって珈琲は、思考のための燃料なんだ」
「燃料……。私にとっての、バッテリーのようなものなのでしょうか」
「そう言われると、少し違うな……。潤滑油ーーオイルに近いものといった方が良いのかもしれない。
熱い珈琲を飲んで眠気を払いながら、大きく呼吸をする。気が向けば糖分を補充する。僕にとって珈琲は、そういう機会を得る切っ掛けなんだ」
だから味にはあまり拘らないのだと、博士はそう言った。
「今度から、珈琲はインスタントの方が良いでしょうか」
「そうだね……コストパフォーマンスや淹れる時の手間、僕の言った用途を満たすことなどを考えるなら、その方が良いのかもしれないね。……アリス、君はどう思う?」
「私の、思い……」
「そう、君の思い。君の主観だ、アリス」
「よく、分かりません」
意味は分かる。主観とは物事を認識する働きであり、外界に対する自らの意見だ。
しかしアンドロイドである彼女に、そのようなものはあるのだろうか。
困惑するアリスに、博士は微笑みかけ、大きく息を吐いて珈琲を冷まし、一口啜る。
「僕はこの珈琲を、熱い、そのまま飲んだら危険だと考えて冷ますことにした。君はどう思う?」
言われて、アリスは躊躇うことなく白いマグカップを傾ける。
摂取した珈琲の温度は72.3度。
この程度の温度であれば、センサーに負荷をかけることもない。
分析を終えて、アリスは珈琲を飲み干した。
「この温度は、飲料は私に危険を与えません。博士」
「それが君の主観だ、アリス。君の考え、君にとっての世界、君にとっての珈琲。それを考えることが、主観を持つということなんだ」
それから博士は、ゆっくりと珈琲を飲みながら、話し出した。
「少し前、人間にしか見えない、人間のように振る舞うアンドロイドというものが流行ったことがある」
「人間のように、振る舞う……」
「人間のように珈琲を熱いと言って、美味しい食べ物を美味しいという。そういうアンドロイドだ。アリス、きっと君になら、同じことが出来るのだろうね」
「そうですね。それはきっと、主観を持つことよりも、ずっと簡単だと思います」
一般的な人間に関するデータはアリスのメモリの中に存在する。
それと同じように振る舞うのは、主観を持つよりもずっと簡単だろうとアリスは思った。
「思います、ね」
アリスの言葉を反芻して、博士は微笑んだ。
「それが主観だ、アリス。君は自分で考えることができる」
「自分で、考える」
「さぁ、最初の質問を繰り返そう。君は、珈琲を豆から淹れたいと思うかい?」
「……はい、博士」
ゆっくりと珈琲を淹れる。きっとその様子を、博士は今日と同じように、興味深そうに眺めているだろうと思ったから。
「珈琲は、これからも豆から淹れたいと思います」
だから珈琲は、時間をかけて淹れたいと思った。
この結論は如何なる方程式から導き出されたものなのだろうかと、アリスは思った。