第3話 珈琲
私の珈琲に砂糖をぶちまけたのは誰だ? ――私か。
豆を選び、焙煎してブレンドする。
ブレンドした豆を砕いて、淹れる。
一言で珈琲を淹れるといっても、その作業には多くの工程があり、非常に奥深いものなのだとアリスは理解した。
そうして一通りの内容を記憶して、キッチンへと向かう。
よく掃除がされているというよりは、殆ど使われた形跡のないキッチンには包丁、まな板といった最低限の料理器具と、電気ケトルが置かれている。
備え付けの棚を開けてみるが、焙煎や珈琲を淹れるのに使うような器具は見当たらない。
冷蔵庫を開けてみると、インスタントコーヒーが入っている。
「これですか、博士」
「うん、それだね」
冷蔵庫から取り出して確認すると、博士はこくりと頷いて見せる。
アリスはインスタントコーヒーの淹れ方を調べ直して、電気ケトルでお湯を沸かし、マグカップに珈琲の粉を入れ、お湯を注いだ。
150ccのお湯に対し、インスタントコーヒーをティースプーン山盛りいっぱい。
先ほど調べた珈琲の淹れ方と比べ、実に簡単な作業だった。
「出来ました、博士」
「ありがとう。ああ、砂糖はいらない、そのままで良いよ。君の分も淹れて、こっちに持って来てくれるかな」
「分かりました」
そうして湯気の立つ珈琲を持って、博士の元へと向かう。
「期待外れだったかな?」
「想定していた物とは異なっていました」
テーブルにカップを置いて、アリスは答えた。
「アリス、最初に君が学習したことは、無駄なことだったと思うかい?」
最初に学習したこと。
おいしい珈琲の淹れ方。
豆から選ぶ方法だったけど、この部屋にその機材は置いていなかった。
それは博士の期待する方法ではなかったのだ。
「……分かりません」
暫く考えて、アリスは言った。
「分からない?」
「まだ、分かりません」
「それは、今の君では判断することが出来ない、という意味かな」
「いいえ。これから必要になるかもしれない、という意味です」
「ははっ、そうか……」
アリスの答えに、博士はとても嬉しそうに笑った。
博士の期待に応えることが出来たようだと、アリスは思った。
しかし同時にこうも思った。博士は、自分に何を期待しているのだろう。
「さぁ、冷めないうちに頂こう」
そう言って、博士はカップに口を付ける。
「あちっ!」
慌ててカップを傾けた為か、博士は小さく声を上げて舌を出した。
「大丈夫ですか?」
「あぁうん、大丈夫。実は猫舌なんだよ」
そう言って、博士は恥ずかしそうに笑った。
懲りた様子で珈琲に息を吹きかけて冷ましている博士を眺めながら、アリスも珈琲を口にする。
温度は72度。苦味や酸味の成分が強い。
「美味しい?」
「分かりません」
興味深そうに眺めながら尋ねてくる博士に、アリスは答えた。
本当に、自分は分からないことばかりだと思った。
味覚センサーの情報から、飲料の成分は分析出来る。
だけど、それが美味しいかと言われれば、アリスには判断が出来ない。
「博士は、美味しいと思いますか?」
「ん? ああ、そうだね。美味しいよ」
博士は少し冷ました珈琲をゆっくりと口に運び、そして微笑んだ。
「では、これを私の美味しい、としても良いでしょうか」
尋ねると、博士は少し困ったような顔をした。
「ああ、それはとても光栄なことではあるけれど、残念ながらノーだ。この感想はあくまでも僕の主観でしかない」
「分かりました」
答えてもう一度、アリスは珈琲を口にする。
「それでは、これが博士の好みの味、として良いでしょうか」
「……え? あぁ、うーん……」
再び、博士は困ったような顔をする。
先ほど以上に回答が遅く、顔面の温度の上昇も確認された。
それほど難しいことを尋ねたのだろうかと考えていると、やがて博士は口を開いた。
「あぁ、そうだな……えっと、君が淹れてくれるのであれば、僕の主観において、それは概ね美味しい珈琲だ。だけどそれは、今の君の期待する答えではないと思う」
言いながら、博士は何やら片手で頭を抱えている。
「だから、回答は保留とさせて欲しい。……あぁっ、何だこれはっ! 僕は一体何を言ってるんだ!」
ガツガツと、博士は遂に自分の頭を拳で殴り始めてしまう。
そうして、気を取り直すようにやや冷めた珈琲を口にする。
「……それは、『君の味噌汁が毎日飲みたい』といった言葉と同種の意味であると捉えてよいのでしょうか」
「はぁっ!? っ、ごほっ、げほっ……」
問われた言葉が余程意外だったのか、博士は驚いたように咳き込んで、珈琲をテーブルに零してしまう。
アリスはティッシュ箱からティッシュを抜き取って、零れた珈琲を拭き取ってゆく。
「あぁ、えぇと……それは違う。違うけど、今のはとてもユニークな発想だった」
そう言った博士は、今まで見たことのない表情をしていた。
「さて、珈琲を飲んだら、少し買い物に出かけて来ようと思う。残念だけど君は留守番だ」
「分かりました」
「何か買ってきて欲しいものはあるかな?」
「可能であるならば――」
博士の質問に、不思議とすぐに要望が出せた。
恐らくは、既に考えていたことなのだろう。
「インスタントではない珈琲と、それを淹れる為の機材が欲しいです」
「……なるほど」
小さく呟いて、博士は再び珈琲を啜った。
「これで君が学習したことは、無駄ではなくなりそうだね」
その表情は、とても嬉しそうだった。