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極北の竜槍  作者: 矢真野真矢
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第二章 囚われの王女

 「で、敵の輸送物資を奪いに行ったら、お姫様を捕まえてきた、と」

 銀髪赤眼の偉丈夫が、疲れた表情で首を振る。その正面に立ったハルトは偉丈夫から顔を背けつつ、

 「……車の中身なんて、遠くからじゃわからねぇし、戦車もいたから迂闊に近づくわけにもいかねぇし」

 「……トラックでもねぇのに、物資なんぞ運んでるわけねぇだろ」

 「いや、戦車なんかに護られてるぐらいだから、きっとお宝積んでるんだろうと……」

 「……あのなぁ、オレ達はゲリラだが、山賊じゃねぇんだぞ?

 必要なモンは金目のモンじゃなくて、戦い続けるための武器弾薬と生きてくための食糧だ」

 「換金すりゃ、弾とか食いモンになるだろ……」

 「どうやって換金するんだよ?

 この情勢で金銀財宝を弾薬や食糧に交換できる商人の当てがあるのか?」

 「お取り込み中、申し訳ありませんが……そろそろわたしにも状況を教えていただけるとありがたいのですが……」

 凛とした声が割って入る。偉丈夫は思いっきり顔をしかめると、

 「わたしの名前はバルク。一応、この集落における長を務めさせていただいております。

 以後、お見知り置きを、アイリス王女殿下」

 「……わたしのことを知っているのですか?」

 「直接お目通りかなったことはありませんが、お噂はかねがね」

 このような辺境の民が王族の顔を見知っていることは、少々驚いたが、王族の一人であるアイリスは、祝典のたびに王城のバルコニーから臣民に対し、顔見せ程度ではあるが挨拶を行っている。その際にバルクはアイリスの姿を見たことがあるのだろう。集落の長ともなれば、王都へ向かうことも少なくはあるまい。キースがアウムに併合され、彼らがゲリラ化した後ならともかく。

 「……あまり良い噂ではなさそうですね」

 「さて」

 バルクは大仰に肩をすくめると、

 「あなたの置かれた状況を端的に言ってしまえば、ゲリラに囚われ、そのアジトに連行された、と言うことになります」

 「つまり、あなた方はゲリラ勢力である、と」

 「あなた方キースの王族が決定した、アウム併合に反対してる者ですよ」

 皮肉たっぷりに言い放つバルク。だが、

 「……王族の決定に意見を具申するのではなく、暴力による実力行使で抗議している、と言うことですか」

 アイリスの氷のような表情は揺るがない。逆にバルクの方が苛立ちに眉を引くつかせ、

 「あなた方はいいだろうさ。身の安全は保証されて、王都自体も連中が連れてきた駐留軍に保護されてるだろうからな。

 だが、オレ達は違う。土地は奪われ、森は切り払われる。山は掘り返され、オレ達は連中に奴隷としてこき使われる。

 戦わなければオレ達は住処も自由も、何もかも失うんだよ」

 敬意どころか敬語すら忘れて吐き捨てる。

 「ですが、アウムの力は強大です。従わなければ、彼らは全てを焼き払うでしょう」

 「素直に従った国はどうなった?

 土地は奪われ、地下資源の採掘のために掘り起こされた。民は強制労働や徴兵で連れて行かれた。残った者も重い税を課されて苦しんでいるじゃないか」

 「だからと言って、国が滅んでしまえば本末転倒でしょう?

 アウムへの併合を拒んで滅んだ国は枚挙に暇がありません」

 「意思と知恵、そして勇気があるならば、屈することなく独立を保ち続けることができるはずだ。

 現に我々はアウムに屈することを良しとせず抵抗しているが、こうして生きている」

 「……あなた方のやっていることは、穴倉から時折顔を出して、散発的にアウムに嫌がらせを仕掛けているに過ぎません。アウムからしたら痛くも痒くもない攻撃です。

 むしろ、あなた方の軽挙妄動がアウムにおける我が国への心象を悪化させ、国と民を危険に晒していることがわかりませんか?」

 「国と民? 王族の間違いではないのか?」

 「民の安全を思えばこそ、王はアウムに下ることを決意し、わたしを―王位継承者をアウムの首都ドレッドに派遣することも承諾したのです。

 ……まさか、ドレッドに向かうはずが、こんな森の奥に連れてこられるとは思いませんでしたが……」

 「おおかた、民や領土と同じように、己の保身のために自らの親族を差し出したのだろう」

 「……その言葉は耐え難い屈辱です。取り消してください」

 売り言葉に買い言葉。だんだん白熱(ヒートアップ)していく声音とは裏腹に、内容はどんどん薄くなって子供のケンカの様相を呈して来た。

 「エキサイトしてるところ悪いんだが……」

 ため息と共に、ハルトが割って入る。両者が呼吸を整える一瞬の隙を突いた見事な介入に、バルクとアイリス、双方とも続く言葉を呑み込んだ。

 「オレにゃ政治だの何だのと言う難しい話は全くわからねぇが……その口論が不毛だってぐらいはわかる」

 「不毛などと……」

 「んな取り止めのないことで言い争ってるより、この王女様をさっさと送り返すことを考えるべきじゃねぇのか?

 日が落ちてから森の外まで送り届けるとなると、厄介だぞ」

 激昂しかけるアイリスの機先を制し、ハルトがバルクに尋ねる。

 「……そうだな。じゃ、ハルト。当面、おまえの家で世話しとけ」

 「……何でそうなる?」

 「彼女をこの集落まで連れて来たのはおまえだろ? おまえが責任を取るのが筋だ」

 「……こんな世間知らずの箱入り娘をあんな森の中で放置するわけにもいかんだろ……」

 苦虫を噛み潰した顔でハルトが呻く。

 極北の森は深く、人を寄せ付けない魔境だ。今でこそ王都と他国は森の中を通る街道で結ばれているが、一度その街道から外れてしまえば、遭難する可能性が非常に高い。

 また、森の中は人喰いグマやオオカミと言った、大型の肉食獣も数多く棲息する。特に夜間の単独行動ともなると、ハルト達この森の原住民族ですら忌避するほど危険が伴う。

 そんな魔境から箱入り王女様が自力で生還するには、奇跡でも起こすしかない。それこそ一生分どころか、三代先の子孫までの幸運全てをつぎ込んでも足りるかどうか。

 「オレだって鬼じゃない。おまえがアイリス王女をエスコートして来たこと自体は責めちゃいない」

 「だったら……」

 「だが、アウム軍の輸送トラックの襲撃を任せたのに、要人護送車を狙ったのは明らかにおまえのミスだ」

 言いかけたハルトを遮り、厳しい口調で、バルク。

 「オレ達はゲリラであっても人さらいみたいな外道に身をやつしたわけじゃないことを忘れるな」

 「輸送部隊から物資を略奪する行為も決して褒められたモノではありませんが」

 冷静なアイリスのツッコミも華麗にスルーし、

 「それにせっかく王女様がこんな森の中までご足労下さったんだ。

 何のもてなしもせずにお引き取り願うのも失礼と言うモノだろう」

 「だったら、おまえの家でもてなせばいいだろうが。

 仮にもおまえは集落の長なんだから」

 「残念ながら、(うち)は子供がやかましくて、とても要人が逗留できる状況じゃない。

 その点、おまえは今は独り身だから勝手も利くだろう」

 「いや……勝手が利くって……」

 「じゃ、そう言うことだから頼んだぜ。失礼のないようにな」

 去り際にポン、とハルトの肩を叩きつつ、バルク。

 そのバルクを渋面で見送りながら、

 「ムチャ言うな……」

 ハルトが唸るが、バルクは聞こえているのかいないのか、さっさと行ってしまった。

 ハルトは大きく肩を落とすと、

 「あー……とりあえず付いて……いや、ご案内しますです……」

 怪しいイントネーションで怪しい敬語を放つハルトに苦笑を返しつつ、

 「特に敬意を払っていただかなくても結構です。

 わたしは囚われの身のようですし」

 「……助かる。じゃ、こっちに来てくれ」

 あからさまにホッとした表情を見せ、ハルトは肩の力を抜いた。


 「ここだ」

 集落の外れにある小屋の扉を開けつつ、ハルトが背後を振り返る。

 森の中にぽっかり開いた小さな空間。アイリスが暮らしていた王城よりもやや小さいほどの小さな土地の中に、ハルト達の集落はすっぽり収まっていた。狭い土地の中には大小含めて十戸ほどの丸太小屋(ログハウス)。その中でも、ハルトの自宅と思しき丸太小屋は比較的小さい部類に入るだろう。

 「ま、何もねぇが、とりあえず入ってくれ」

 言って中に入るハルトの背中を追い、

 「お邪魔します……」

 アイリスも入口の扉をくぐる。

  入ってすぐに食堂、その右手に備え付けのかまど、左手に奥の部屋への扉があり、その先が寝室になっているらしかった。

 なるほど。本当に何もない。

 妙に納得しながら、ゆっくりと食堂の中央へと進む。

 「突っ立ってないで、座れよ」

 壁に小銃を掛けつつ、ハルト。アイリスはその言葉に従い、木製の椅子に姿勢良く腰掛けた。

 「その銃はあなたの?」

 「そうだけど?」

 「……その銃でドラグーンを撃破したのですか?」

 「ドラグーン?」

 「わたしを護衛していた、重戦車のことです」

 「……あの戦車、(ドラグーン)なんて言う大仰な名前が付いてたのか……」

 心底驚いているハルトの顔を見る限り、その名を聞いたのは初めてらしい。

 アイリスはむしろそのことに驚きながら、

 「あなたがドラグーンを撃破した狙撃手で間違いないのですか?」

 繰り返し確認する。

 「そうだが……それが何か?」

 「その小銃で、ですか?」

 壁の小銃に視線を向けつつ、アイリス。

 「ああ」

 「見たところ、光学照準器も付いていないように見受けられますが……」

 「詳しいんだな」

 言ってハルトは、壁から小銃を取ると、テーブルの上に無造作に置く。

 ゴトリ。

 鋼鉄の塊が木製のテーブルの上で無骨な音を立てた。

 「王族が学ぶべき知識の一つに軍事知識もあるのです」

 キースは君主制国家だ。独裁制を敷いているわけではないため、実務的な部分は文武両部門共に臣下に任せてはいるモノの、その最終決定権、及び責任は国王にある。このため、王族は幼い頃から政治、経済、軍事などに関する高等教育を受けていた。

 特にここ近年はアウムがその勢力を大きく伸ばし、大陸最北端の辺境の地にあるキースと言えど、軍事的な干渉を意識せざるを得なくなってきていた。王族に対する軍事的な教育の比率も大きくなりつつあり、アイリスもこの影響で兵器に対する知識―性能やその主な用途など―、基本的な戦術、戦略理論、対外情勢など、一通り修めていた。

 「なるほどね」

 「……この小銃は……アウムのシムナに見受けられますが……」

 アウム軍正式採用銃シムナ。陸軍はもちろん、海兵隊や海軍にも広く採用されている突撃小銃アサルト・ライフルである。

 その基本概念(コンセプト)は高い生産性と信頼性、そして誰でも扱える単純な操作性。

 アウム連邦はその名の通り、大陸に数多存在する国々を束ねる連邦国家だ。その勢力は今やこの広い大陸のほぼ全土に及んでおり、その国力は絶大。その大陸連邦が擁する軍隊の戦闘教義(ドクトリン)は、強大な国力に任せた物量攻撃。もっと端的に言ってしまえば人海戦術だ。

 複数の国家から徴兵し、膨大な数の兵を動員できるアウムならではの戦法ではあるのだが、人海戦術を用いるには、兵士の数だけでは足りない。その兵士が持つ武装も用意しなければ意味がない。

 このため、生産性を上げるためにとことん部品点数を減らし、構造を単純化した小銃がシムナである。

 また、構造が単純である、と言うことは扱いについても単純、と言うことである。

 アウムは複数国家の集合体であるが、それは言い換えれば烏合の衆、と言うことでもある。前述のとおり、軍を構成する兵士も複数の国家から徴用されるわけであるが、その兵士の練度は帰属国家、部隊によって大きく異なってくる。それどころか、構成国家の教育水準もバラバラであるため、部隊によっては極端に識字率が低く、取扱説明書(マニュアル)すらまともに読めない兵士が大半を占めるケースも珍しくはない。そんな軍において、複雑な扱いをする兵器を大量生産したところで、扱いきれるはずもない。

 他にも、構造が単純な分、非常に頑強(タフ)でどんな劣悪な環境でも故障しにくい、と言う特長も持つ。

 大陸は広大で、その気候は多岐に渡る。極北では氷点下七○度まで下がる酷寒の地もあれば、南部には高温多湿の熱帯雨林もある。同じ高温でも砂漠地帯は非常に乾燥しており、空気中に塵や細かい砂が飛び交う。これらの過酷な環境に置かれてなお、正常に作動するシムナは前線の兵士の評判も非常に高い。

 ドラグーンはその圧倒的な性能でアウムの快進撃を支えたが、シムナはその高い利便性で同じく支えてきた、と言える。将校の中には、アウム軍にもっとも大きく貢献した兵器はドラグーンではなく、シムナだと言う者もいるほどだ。

 だが、そのシムナにも致命的な欠陥と言うモノはある。

 「アウムの連中からかっぱらった。名前はよく知らねぇけど」

 シムナは扱いが簡単であるが故、鹵獲されてしまうと敵にも簡単に扱えてしまう。配備数が多いと言うことは、それだけ鹵獲される危険性も高い、と言うことであり、ハルト達のようなゲリラにも大量のシムナが流れて行った。さらには、構造が単純であるが故、複製も容易く、そこそこの工業力さえあれば、コピー品を大量生産することもさほど難しくはない。

 結果として、アウムが開発した傑作小銃シムナが、アウム自身に牙を剥くと言う皮肉な結果を招いていた。

 「確か、光学照準器ってのが付いてたのもあったと思うけど、あんなの、うちの集落じゃ誰も使わねぇぞ?」

 「なぜですか? 狙撃するなら必須の機器だと思いますが……」

 「あんなガラスが埋め込まれてるようなモン、光を照り返して目立って仕方ねぇだろ」

 狙撃は相手に存在を悟られる前に、相手に必殺の一発を叩き込むことがセオリーだ。故に目立ってしまうのはよろしくない、と言うのはわからなくはないのだが……。

 「それに、もともとオレ達が使っていた猟銃にゃ、そんなモン付いてなかったし。

 慣れないモンなんて使うモンじゃねぇよ」

 「……あなたも、もともと使っていた猟銃があるのですか?」

 「ああ」

 言ってハルトは壁際にある棚の中からもう一丁の小銃を取り出す。かなり使い古された猟銃だ。

 「……使い慣れたモノの方が良い、と言うのであれば、どうしてこちらの銃を使わないのですか?」

 「簡単な話だよ」

 ハルトはアイリスの向かいの席にどっかりと座り、

 「もう弾がねぇんだ、その銃」

 「……弾が……ない?」

 怪訝そうに眉をひそめ、アイリスがハルトの言葉を反復。

 「もともとオレ達の一族はこの森で狩りをして暮らしてきたんだが……見ての通り、集落自体の規模はそんなにデカくもない。単に食って行くだけなら、そんなに大量の獲物を狩る必要もねぇんだよ。

 それに古くからの言い伝えで、欲張って食って行く分以上に獲物を狩ったら、その欲深い行いはいずれ己の身に還ってくるって言われてるんだよ。

 だから、そこまで大量の弾薬なんて備蓄(ストック)しちゃいねぇんだ」

 乱獲により絶滅した種、破壊された環境を挙げていけば枚挙に暇がない。この集落を築いたハルト達の先祖は、そのことを本能的に悟っていたのだろう。

 「アウムの連中は、それこそ畑にでも生えてるのかって言いたいぐらい、倒しても倒しても次から次へと現れてくるからな。んなモン相手にしてたら、弾薬なんてあっと言う間に尽きちまう」

 「それであなた方はアウムの輸送トラックを襲って、武器弾薬を補給しようとしていたわけですか」

 「ま、足りてないのは弾薬だけじゃなくて、食糧もなんだけどな。

 連中が森に入ってきてから、自由に狩りができなくなったから、食いモノも不足しがちなんだ」

 「しかし、そんな対人用の小銃だけでドラグーンを撃破するなど……まるで竜槍(ドラグノフ)ですね」

 「竜槍?」

 聞き慣れない言葉に、ハルトが眉をひそめた。

 「キースに伝わる神話の英雄です。ご存知ありませんか?」

 ハルトは無言で首を横に振った。

 「かつて、この国は凶暴な竜に襲われました。

 竜は森を焼き、山を崩し、湖を干上がらせ、人々を喰らい、暴虐の限りを尽くしていました。

 国は滅びかけ、人々は絶望に沈みました。その時、一人の英雄が現れ、神から賜った神槍で竜を貫き、国を救いました。

 その救国の英雄は、竜を神槍で貫いたことから竜槍、と呼ばれ語り継がれています」

 「その神話の竜ってのは戦車って言うより、今のアウムそのモノだな」

 森を切り払い、山を崩し、人々を捕らえ使役するその強大な勢力は、確かに現代の暴君竜と言えなくもない。

 「ですが、現実は神話ではありません。

 救国の英雄などおらず、アウムと言う竜も実態を持った魔獣などではなく……形を持たないもっと大きく、そして不定形な『力』です」

 「だからってやられっ放しでいられるかよ」

 「だからこそ、わたしが大使としてアウムの首都ドレッドに赴いていたのです」

 アイリスの言葉にハルトは目を点にして、

 「……そうなのか?」

 「そうです。正確には赴く最中に、あなたに襲われたわけですが。

 ……それにしても……」

 アイリスは頭痛に耐えるかのように、額を抑えた。

 「族長を務めてらっしゃるあのバルクと言う方はわかってらっしゃったようですが……」

 「悪かったな、オレは頭が悪くて」

 「申し訳ありません。気分を害されたのなら、謝罪します。

 ……何です? わたしの顔に何か付いていますか?」

 「いや……王族ってモンは城の一番奥にある椅子に座ってふんぞり返ってるモンだとばかり思ってたから……」

 「また、随分とステレオタイプな観念を……」

 ハルトの言葉に呆れつつも苦笑を漏らすアイリス。

 「他の国がどうなっているかはわかりませんが、我が国では王族にそこまで強い権限が与えられているわけではありません。

 むしろ、有力な臣下の顔色を伺うのが国王の仕事、と言っても差し支えないかと」

 「……いや、そこまで卑屈にならんでも」

 「事実ですよ。未だに君主が強い権力を保持した国家も存在はしますが、今となっては少数派ですね。アウム連邦自体もそうですが、議会制民主主義国家が増えつつあります。表向きは、でありますが」

 「表向きは?」

 「アウムの議会は上院、下院に分かれていますが、上院議員はアウム本国から、下院は併合国から選出された議員で構成され、大半は出身国の大使も兼ねています。

 上院は下院の議決に対し拒否権を持ちますが、下院には拒否権は与えられていません」

 「つまり、後からアウムに取り込まれた国は、もともとアウムにいた連中の言うことに逆らえないってことか?」

 「その通りです。また、下院議員は大使も兼ねるため、出身国とアウム連邦政府との窓口、重要なパイプ役となります。

 このため、国の中でも比較的要職にある者を派遣せざるを得ず、アウムはその要人を己の懐に抱え込んでいることになります」

 「……それって、体のいい人質ってことじゃねぇか?」

 「そうなりますね」

 「……て、ちょっと待て。おまえ、大使として連中の王都へ行くって言ってなかったか?」

 「言いましたが、それが何か?」

 「それって、おまえ自身が人質にされるってことだろ?」

 アイリスは躊躇なく頷く。

 「……自分がそんな人質にされるってのに、何でそんな涼しい顔してられるんだよ……」

 「先ほど、バルクさんには言いましたが、国と民を護るためです。

 我々に竜槍はおらず、アウムも実態のある魔獣ではないのです。

 政治と言う魑魅魍魎が渦巻く世界において、我が国のような力を持たぬ小国は、こうするしかありません」

 「……おまえはそれで納得してるのかよ?」

 「……納得していなければ、わたしはドレッドに向かおうと思いませんよ」

 わずかな間を挟んで、答えるアイリス。ハルトはその言葉がウソだと感じる。

 根拠なんてない。単なるカンだ。

 「……バルクが何で、おまえを王都に戻そうとしなかったか……何となくわかった気がするよ」

 「……念のために言っておきますが、あの人はわたしに対する同情の念など、欠片もないと思います」

 「……まぁ、確かにバルクは冷徹なところはあるが……」

 「彼は恐らく、わたしが大使兼アウム下院議員として……実質的な人質として、ドレッドに赴任することに気づいているのでしょう。

 そのわたしがドレッドに赴かなければ……アウムは人質の献上を拒んだ、ひいてはアウムへの併合を拒んだ、と判断しても不思議はないでしょうね」

 「そんなの、正直にゲリラにさらわれましたって言えばいいじゃねぇか?」

 「問題は、わたしはキース領内でさらわれた、と言うことです。

 アウムからしてみれば、人質をみすみす取られたくないキース側の自作自演、と見なすこともできるわけです」

 「それって、こじつけしゃねぇか……?」

 「そうでもありませんよ」

 顔をしかめるハルトにアイリスは苦笑を漏らし、

 「そもそもあなた方ゲリラの存在をアウムはキースの内政問題と位置付けています。

 今回の件も同様……いえ、アウム陸軍から派遣されたドラグーンを二両も破壊されていますので、恐らくアウムはいつもより厳しくキース側の責任を追及してくるでしょうね」

 「それはまた……何と言うか……すまんかった」

 視線を上下左右に泳がせつつ、頭を下げるハルト。

 「だから、あなた方の軽挙妄動が我が国の立場を不利にさせると言ったのです……」

 わざとらしく顔をしかめて、アイリス。上目遣いにその顔を伺うハルトの身体が、一回りほど小さくなったようにも感じられた。

 「ま、今あなたを責めても仕方ありません。

 ……それに、人質としてドレッドに赴くことは納得はしていますが、わたし個人としての本意でなかったのも事実です」

 「……つまり、どういうことだ?」

 どうやら、この少年は実直ではあるが、その分婉曲的な表現は通用しにくいらしい。

 そう判断したアイリス王女殿下は、

 「あまり気にしなくてかまわない、と言うことです」

 直接的に言い切った。


 「……これが、食事ですか?」

 「そうだが?」

 呆然と呟くアイリスに、事も無げにハルトは答えた。

 テーブルの上に並んでいるのは、干し肉に硬くなったパン、乾燥野菜。

 別に王族だから粗食に耐えられない、と言うつもりはない。保存食が中心の食卓と言うのも、集落の食糧事情により、仕方ない部分もあるだろう。アイリスとて、自らが囚われの身だと言う自覚ぐらいはある。だから、別に待遇の改善を要求する気など、毛頭ないのだが……。

 「あなたは、いつもこんなモノを食べているのですか?」

 「そうだが……慣れれば十分食えるぞ、これでも」

 「……慣れるほど毎日、こんな食事を?」

 「ま、獲物が取れた時は丸焼きにすることもあるけど、基本は干し肉とか乾燥野菜が中心だな。

 何せ、腐らないし、そのまま食えるし」

 確かに保存食の類は、非常食と言う側面もあるため、長期間保存できる他に、嵩張らず、調理せずに食べられるモノがほとんどだ。

 だが、基本的に塩漬けや酢漬けにされているモノが大半で、非常に味は濃く、そして栄養のバランスは悪い。当然、健康にだって悪く、こんなモノを毎日食べていたら、そう遠くない内に身体を壊すだろう。

 アイリスは決意の光をその赤い瞳に灯すと、

 ダンっ!

 力強くテーブルの天板を叩いて立ち上がる。

 「ハルト」

 「は……はい」

 抑揚のない声音に薄ら寒いモノを感じ、思わず返した返事は使い慣れない敬語になっていた。

 「お台所をお借りしても?」

 にっこり微笑むアイリスの背後に、なぜかハルトは夜叉の面を見た。


 「これは一体……」

 久しく食堂に漂っていなかった食欲をそそる香りに、ハルトは思わず目を丸くした。

 「材料も時間も不十分なので、この程度のモノしかできませんでしたが……」

 食卓に並んでいるのは、素朴なパンとスープ。どちらも温かそうな湯気が立ち昇っており、ハルトの食欲を刺激する。

 「……これ、おまえが?」

 「はい」

 「あの干し肉と野菜とパンで?」

 「はい。せっかくなので、冷める前にどうぞ」

 「お、おう……」

 ハルトはおずおずとスプーンに手を伸ばし、スープを啜った。

 刹那、その目が大きく見開き、

 ズルズルズルズルズルズルっ!

 行儀の悪い音を盛大に立てながら、凄まじい勢いでスープを掻き込み始める。

 と、今度はその手が湯気を立てるパンに伸び、

 ガツガツガツガツガツガツっ!

 飢えた野獣もびっくりな勢いで平らげていく。

 そのハルトを満足げに眺めながら、

 「お口に合ったようで、何よりです」

 ハルトは口の中のモノを一気にノドに流し込むと、

 「……王家の人間ってのは、魔法使いか何かなのか?」

 「いえ……ちょっと調理に工夫をしただけです。

 基本、干し肉や乾燥野菜は乾燥させることで旨味が凝縮してますから、煮込むと良い出汁が取れますし、塩漬けにされている保存食は鍋で煮込むと調味料を使わずとも、いい塩梅の塩スープになるんです。

 硬くなったパンは、火を通すことで香ばしく柔らかく、食べやすくなりますし」

 「……よくそんなこと知ってるな。王族ってモンは身の回りのことは全部召使(メイド)とかに任せて、何にもできないモンだと思ってたんだけどな……」

 自身、料理など全くできないことを棚に上げ、ハルトがいけしゃあしゃあと言い放つ。

 「余所の国のことはわかりませんけど、我が国では王族も身の回りの最低限のことはできるように教育されます。

 わたしも炊事洗濯掃除裁縫、他家事一通りはこなせるように、乳母から教育を受けました。普段から身の回りのことを自身でこなしているわけではありませんが。

 正直、自分で料理したのは久々だったので、ちょっと自信はなかったのですが……」

 「これで自信がねぇのかよ……」

 驚愕の眼差しをアイリスに向けるハルト。

 「ひょっとして……材料と時間があれば、もっと美味いモノができるのか?」

 「それはもちろん。でも、調味料もあれば、もっといろんなモノが作れますが……」

 答えるアイリスの右手をガシッと両手で掴み、

 「マジかっ!? よし、明日、バルクの野郎から食材わけてもらってくるっ!」

 ハルトは高らかに宣言した。


 「えと……」

 寝室の扉を開いたアイリスは、思わず固まった。

 食堂と同じく何もなかった。いや、食堂以上に殺風景かもしれない。

 部屋の中にあるのは、ベッドとクローゼットが一つずつ。他に何もない。

 そう、ベッドが一つしかない(・・・・・・・・・・)

 「……あの、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 「何だ?」

 「他にご家族はいないのですか?」

 「いねぇよ。親父は狩りの時に人喰いクマに返り討ちにされて死んだ。

 お袋は雪崩に呑まれて帰って来なかった」

 「……それは……申し訳ありません」

 「何を謝ってるんだ?」

 「いえ……その、悪いことを聞いてしまったと……」

 「ああ、んなことか。気にすんな。こんな土地だ。人死になんざ、珍しくもない」

 淡々と言い放つハルト。その様子からは、本当に気にしていないように見える。

 「親が両方とも死んじまった時に家具の類は整理しちまったからな。

 ベッドはおまえが使っていいぞ」

 アイリスが戸惑っている理由を察したハルトが、そんなことを言ってくる。が、

 「そうは行きません。わたしはあくまで囚われの身で、あなたはこの家の主なわけですし。

 であれば、わたしが馬小屋なり何なりで寝るべきです」

 「うちにゃ馬小屋なんざねぇぞ。あっても凍え死ぬだろうが」

 まだ雪が降る季節ではないが、極北の秋は冷え込む。ヘタに野宿などしたら、冗談抜きで凍死しかねないほどに。

 「では、あなたはどこで寝るつもりなのですか?」

 「食堂の床にでも寝るさ」

 「でしたら、わたしが食堂で寝るのが筋です」

 「……仮にも王女様を床に寝かせるわけにはいかんだろうが」

 「今は囚われの身だと言ったはずです。

 変に気を遣わないでください」

 「……おまえを王族扱いしなくても、女を床に寝かせて男がベッドで温々と眠るなんてできるわけないだろ」

 「他者の家に押しかけた挙句、その家の者の唯一の寝所を奪うような恥知らずなマネ、王族の誇りに掛けてするわけには行きません」

 「おまえは王族扱いして欲しいのか、して欲しくないのか、どっちなんだよ……」

 「あなたがわたしを王族扱いする必要はありません。

 ですが、わたしは自身が王族の誇りを忘れるわけには行きません」

 「……面倒くさいな」

 「面倒くさくても、これは譲れません」

 「じゃ、何だ?

 ベッドは一つ。

 おまえはもとの持ち主であるオレをベッドから追い出すわけには行かない。

 オレは女を床で寝かせるわけには行かない。

 だったら、一つのベッドで二人が寝るか?」

 意地の悪い笑みを浮かべつつ、ハルト。

 アイリスはムッと顔をしかめつつ、

 「……いいでしょう」

 売り言葉に買い言葉。鼻息も荒く答えるアイリスに、

 「……おいおい、若い男女が一緒に寝るってどういう意味かわかってるのか?」

 ハルトの方が思わず面食らう。

 「わかっています。わたしはあなたのことを紳士だと思ってますから」

 「……こんな辺境の森の中に紳士なんてご大層なモンがいると思うか?」

 「女性を床に寝かせるわけには行かない、と主張する男性をわたしは紳士だと思っていますから」

 「……どうなってもしらねぇぞ」

 「わたしはハルトを信じています」

 ヤケクソ気味に頭を掻き毟るハルトに、アイリスは自信に満ちた笑みを向けた。


 「い、いいですか? 絶対にこちら側には来ないでくださいね」

 「……大した信頼だな、をい」

 ベッドの上で自身の領地―右半分を繰り返し繰り返し主張するアイリスに、ハルトは呆れた眼差しを向けた。

 「何だったら、オレは床で寝るぞ?」

 「それは行けませんっ!」

 アイリスはバンバン、とベッドの左半分を叩き、

 「あなたはここで寝なければなりませんっ!」

 (……心底面倒くさい)

 何か、何もかもがどうでも良くなって来た。ハルトは言われるがまま、ベッドの左半分に寝っ転がり、アイリスに背を向けた。

 「ひゃっ!?」

 背後から小さな悲鳴が聞こえた。

 (悲鳴を上げるぐらいなら、強がんなきゃいいのに……)

 思うが、それを言葉にしたら絶対、この王女様はさらに強がって反論してくるだろう。

 だから、

 「おやすみ」

 たった一言だけ残して、意識を睡魔の中に叩き落とした。


 すー、すー。

 おやすみと言う、就寝の挨拶が放たれてから数秒。まだ数秒しか経っていないにも関わらず、規則正しい寝息が聞こえてきた。

 (もう寝てしまったのかしら?)

 ちらり、とベッドの反対側へと視線を飛ばすが、背を向けられたハルトの表情を伺い知ることはできない。

 ハルトの寝顔を覗いてみたい誘惑に駆られるが、それこそ淑女としてあるまじき行為である、と自らを戒める。

 (でも……わたしがこうして気になって眠れないと言うのに、こうもあっさり眠られると……何だか理不尽)

 それこそ理不尽な想いを胸中に抱く、アイリス。

 (それとも……女性として見られていないのかしら)

 思わず自身の胸元へ視線を向ける。

 白状すれば、肉体的な観点において、自身の女性的な魅力は平均以下であると思っている。同年代の貴族の子女や召使達の体格と比べると、その……胸元が少々貧相であることは、否めない。

 (いや……別に襲われたいわけじゃないのだけれど……こうもあっさり放置されると納得行かない、と言うか……)

 悶々した想いを抱えるアイリスのことなどお構いなく、夜はふけて行った。

 

 ガタンッ!

 木と木がぶつかり合う、硬質な音。その音に、まどろみの中に沈んでいたアイリスの意識が急速浮上。

 「ああ、起こしちまったかい?」

 記憶の中にない女性の(・・・)声がアイリスの耳朶を打つ。瞼がゆっくりと持ち上がる。

 眩しい。陽光が網膜を貫かんとばかりに襲いかかって来た。反射的にアイリスは頭の中まで布団の中に潜り込む。

 「何だか、慌てて巣穴に飛び込む野ウサギみたいだねぇ」

 からかうような声音に、アイリスは内心ムッとした。

 ゆっくりと布団の中から頭をだし、周囲を伺う。

 素朴な造りの殺風景な部屋。記憶の中にない……いや、まだ見慣れてはいないだけで、記憶の中には存在する部屋。この家の主である、ハルトの寝室だ。

 思い出した。

 昨日、自分はハルトと同じ床に就いて……、

 ガバッ!

 意識がそこにたどり着いた途端、アイリスの身体は条件反射で飛び起きた。

 思わず毛布を引き寄せ、その毛布の中で着衣に乱れがないか、確認する。

 「どうしたんだい、いきなり? まだ寝ぼけてるのかい?」

 三度声が掛けられる。アイリスは視線だけそちらに向けた。

 二十代半ばと思しき銀髪赤眼の女性がベッドの傍らに立っている。

 美人だ。

 もともと極北民族は目鼻立ちが整い、背も高く手足も長く、神秘的な銀髪赤眼も相俟って、特に容姿に優れている、と言われてはいる。が、その中でも目の前の彼女は別格だ。

 ただでさえ長身揃いの極北の女性中でも一際背が高く、その分細く見える。

 来ている衣服は野暮ったい、身体のラインを隠すような野良着でありながら、女性らしい膨らみを隠し切れていないほど、豊満な身体。

 化粧っけのない顔に、無造作に後ろで括った銀髪と、格好はむしろぞんざいでみすぼらしいと言っても差し支えないはずなのに、そんなことを微塵も感じさせない。

 ―美人は得だ―

 呆然と目の前の女性を見上げるアイリスの脳裏に、そんな言葉が過った。

 「……まさか、ハルトの奴に乱暴されたのかい?」

 「いえっ! ハルトはよくしてくれています」

 凄む女性の言葉を慌てて否定。彼の名誉のため、何より自身の名誉のためにも、変な誤解を与えてはならない。

 「だろうねぇ。あの唐変木に王女様に手を出す度胸なんて、あるわけないし」

 さらっとひどいことを言い放つと、女性はあっけらかんと笑う。

 「あの……」

 「あたしは、ミルド。バルクの女房だよ」

 おずおずと尋ねるアイリスにあっけらかんと自己紹介するミルド。

 「もっと早く来てあげられたら良かったんだけどねぇ。

 うちのバカ亭主もバカハルトも、あんたを連れてきたことを言いやしないんだよ」

 「では、どうしてわたしのことを……」

 「さっきハルトが来て、調味料だの野菜だのを分けてくれって言い出して来てね。

 あの子はもともと料理ができないどころか興味すらなかったから、今まで保存食の類以外に興味を示さなかったんだよ。

 それがどう言う風の吹き回しだって問い詰めたら、今、家に王女様がいて、その王女様の料理が美味いとか言い出したから、バカ亭主共々締め上げて、全部吐かせた」

 硬い床の上に無理矢理跪かされ、小さくなって延々とお説教を受けるハルトとバルクの姿が脳裏に浮かび上がり、

 ぷっ。

 思わずアイリスは吹き出した。

 「どうしたの?」 

 「いえ……ハルトとバルクがお説教を受けている姿を想像してしまって……」

 「ここの男どもは狩りと戦争のことしか考えられないバカばっかりだからね。

 女がその分しっかり舵取りしてやらないとならないのさ。

 もう起きられるかい?」

 ミルドの言葉に軽く頷き、アイリスはベッドから静かに下りる。

 「そんなヒラヒラした格好じゃ、歩きにくいだろうに。

 ったく、ハルトはこういうところに気がまわらないんだから」

 言って、ミルドが足元に置いた木箱―先ほどの音はこの木箱を床に置いた音だろう―を開けた。

 「それは?」

 「あんたの着替え。あたしのお古で悪いんだけどさ」

 言って、箱の中から一着服を取り出し、広げて見せた。

 着古された厚手の野良着だ。所々継ぎ当てがされており、見た目はボロだが、衣服としての機能は問題なさそうだ。少なくとも、今自分が着ているドレスよりは、よっぽど動きやすいだろう。

 「ありがたくお借りします」

 「あげるよ。あたしがあんたの年よりもっと若かった時のモンだしね」

 アイリスとて特別小柄、と言うやけではないのだが、目の前の長身の女性に比べると、頭二つは低い。

 そう考えれば、この野良着がミルドが少女時代に着ていたモノであると言うの想像はつく。

 だからこそ、

 「……いいのですか? そんな古い衣服を大切に取っていたと言うことは……あなたにとって、思い出のあるモノなのでしょう?」

 ミルドはアイリスの言葉の意味が理解できない、と言わんばかりにしば目を瞬かせていたが、

 「あっはっはっはっはっ!」

 突如、腹を抱えて豪快に笑い出した。

 「……わたしは、何かおかしなことを言ったのでしょうか?」

 「ああ、気に障ったならごめんよ」

 そう返すミルドの目尻にうっすらと涙さえ浮かんでいる。

 「今まで捨てずに取っていたのは、いつか、その布切れも何かに流用できないかって、思ってただけ。

 こんな森の中じゃ、布切れ一つでも、割と貴重なモンでね」

 「はぁ……」

 他国と比べると、そこまで豊かとは言い難いキースではあるが、仮にも王族であるアイリスからしてみれば、幼い頃に着ていた古着を布地が貴重、と言う理由で十年近く取り置く発想自体がなかった。

 「ま、これ以上手元に置いてても、バラされてボロ切れになるだけだから、もらっておくれよ。

 服だって、ボロ切れにされるよりかは、あんたみたいな綺麗どころに着てもらった方がずっといいだろうさ」

 「そう言うことでしたら」

 頷き、アイリスはミルドの手から野良着を受け取った。


 「きついところはないかい?」

 野良着に着替えたアイリスを舐めるように見回し、ミルドが確認する。

 「いえ……特には……」

 言葉とは裏腹に、アイリスの言葉にはどこか覇気がない。言いたいことははっきりと主張するこの王女が、このような歯切れの悪さを見せるのは、この集落に来て初めてのことかもしれない。

 「なんだい? 言いたいことがあるなら、遠慮なく言いな。

 簡単な手直しならできるからさ」

 「いえ……本当に……」

 「あんた、ウソが下手だろ?

 そんな顔してりゃ、不満があるって言ってるようなモンさ」

 「そんなことは……」

 「それともあんたは、あたしのことを信用してないってのかい?

 あたしはこんなにあんたのことを信じ切ってるってのに、哀しいねぇ」

 言って、大げさに嘆いてみせるミルド。

 あまりのわざとらしさに、芝居であることは明白なのだが、その白々しさが、余計にアイリスを追い詰める。

 「その……が……で……」

 「何? 声が小さくてよく……」

 「胸元がガバガバだと言っているのですっ!」

 一転して、悲痛な叫びを上げるアイリス。

 「あ……胸……ね」

 思わずアイリスの胸元に視線を落とすミルド。確かにその膨らみは慎ましやかで……他の箇所は測ったようにサイズがぴったりなのに、そこだけで布地が余っている。

 「だ、大丈夫だよ。あんたはまだまだこれからじゃないか」

 気まずい空気に押され、思わずフォローに走るミルド。アイリスはそのミルドの顔を上目遣いに見上げる。まるで能面のように感情の抜け落ちた表情が、何気に怖い。

 「本当だって」

 背中に冷や汗を流しつつ、ミルド。

 「……ミルドは、この服を何歳の頃に着ていたのですか?」

 「え~と……確か十二ぐらいの時だったかな……」

 「十二……」

 今年で十八になるアイリスの顔が、絶望の色に塗り潰される。

 「いや、あたしはちょっと成長が早かっただけだから……」

 「やめてください。下手な慰めは余計惨めになるだけです」

 遠い眼差しをここでないどこかへ向けつつ、哀しげにアイリス。

 「ほら……ハルトは案外、小ぶりなのが好みなのかもしれないし……」

 「そうでしょうか……。だったら昨晩、どうして彼は襲って来なかったんでしょうか……。

 わたしはすぐ隣で寝てたと言うのに……」

 「案外、悶々しながら寝付けなかったかもしれないよ、あのむっつりスケベ」

 「横になってから、モノの数秒で気持ち良さそうに寝息を立てていましたよ……」

 「いや……ここは逆転の発想で、むしろハルトのストライクゾーンから外れていて良かった、と言うか……身の危険を感じずに安眠できるわけだし……」

 「そうですね。ええ、本当に胸が小さくて良かったです……」

 まるで亡霊のように生気のない顔で呟くアイリスをなだめるのに、ミルドは多大な精神力を費やすハメとなった。


 「あれは何をしているのですか?」

 あれから小一時間、ようやく復活し、ミルドに連れられる形で外に出てきたアイリスは、集落の中心を指差した。

 その指し示す先は、ちょっとした広場になっているのだが、今、その広場は複数の木箱と広げられたその中身に占拠され、足の踏み場もない状況になっていた。

 「ああ、みんなで戦利品の整理をしているのさ」

 「整理って言うより、単に散らかしているだけのように見受けられるのですが……」

 「仕方ないだろ? 中身を出さないと、何が入っているのかわからないんだから」

 「なぜです? 箱に書いてあるじゃないですか」

 不思議そうに首を傾げるアイリス。ミルドは苦笑いを浮かべ、

 「無理無理。この里に文字がまとまに読める人間なんていやしないよ」

 キースにおける識字率はさほど高くはない。読み書きができる者となると、貴族か有力な豪商がほとんどだ。ましてや、このような森の中の小さな集落ともなると教育機関などあるわけもなく、誰一人文字が読めない、と言うことも決して珍しいことではない。

 「……よろしければ、わたしが読みましょうか?」


 「いや~、本当助かったわ~」

 「いえ……わたしは大したことは……」

 「謙遜しなさんなって。アイリスが手伝ってくれたおかげで、一日掛かる仕事が、半日もせずに片付いたんだ」

 ミルドの言葉に、物資整理を担当していた全員が大きく頷く。その言葉が決して大げさでないことは、実際に整理作業に従事したアイリスにもわかる。これほどの量の物資を目録も見ずに整理するとなれば、一日掛かったとしても早い方だろう。何せ、彼らは缶詰の中身から穀物袋まで、全てぶちまけて中身を確認していたのだから。効率が悪いなんてモノじゃない。

 「ところで……男性の方がひとりもいないようですが……」

 アイリスが広場を見渡す。下はアイリスより少し上ぐらいの年齢から、上は老婆に至るまで、バラバラだが……唯一、全員女性である点だけは一致していた。

 「男どもはこういう細かい作業は向いてないからね。

 見張りだの物資調達だの……攻めて来たアウムの連中のお出迎えだのしているよ」

 「アウムのお出迎え、ですか」

 抑揚のない声音で、ミルドの言葉を復唱するアイリス。

 「あんたはアウムに服従するのかい?」

 「……服従ではありません。共存です」

 白々しい。

 自分の言葉でありながら、激しくそう思う。

 「あんた自身、本当にそう思ってるのかい?」

 見透かしたような笑みを浮かべるミルド。

 当たり前だ。自分自身ですら騙せないのに、他人を欺けるはずもない。

 「ですが……」

 「お母さんっ!」

 反論の言葉は幼い呼び声に掻き消された。間髪入れず小さな影がミルドの背後からおどりかかる。

 目を丸くするアイリスとは裏腹に、ミルドは落ち着き払った態度で、振り向きもせずに背後の影を右手で掴んだ。

 「何やってるんだ、フレア?」

 影―小さな女の子の首根っこを持ち上げ、半眼になって睨むミルド。

 アイリスはその姿を目の当たりにして、

 「かわいい……」

 思わず呟きを漏らした。

 年齢はまだ四、五歳と言ったところだろう。肩まで伸ばした銀髪は陽光を照り返し、純真無垢な光を讃えた赤眼は宝石よりも色鮮やか。雪よりも白い肌は柔らかなマシュマロのようで……。

 「うちの下の娘だよ」

 ミルドの言葉に、アイリスの意識が現実に戻る。なるほど、言われてみれば、確かにミルドの面影がある。将来はきっと美人になるに違いない。いや、今でも十分、美人さんだけど。

 「ほら、フレア。お姉ちゃんにご挨拶しな」

 その愛娘をぞんざいに地面の上に放り出すミルド。

 だが、人見知りするのか、フレアはミルドの後ろに慌てて隠れると、母親の背中越しにアイリスの様子を伺って来た。その姿がまた、愛らしい。

 感極まったアイリスの耳に、

 「こら~、フレアぁっ!」

 少女の叫び声が届いた。

 何事かと思って振り返ると、一人の少女―恐らく年齢は十歳前後だろう―が全力疾走でこちらに向かって来る。その容姿はフレアにとてもよく似ていた。まるで成長したフレアを見ているかのようだ。

 「お母さん達の邪魔しちゃダメだって言ってるでしょっ!」

 小さなフレアの元にたどり着いた大きなフレアは、しかめ面で怒鳴りつける。が、小さなフレアは小さな身体一杯に抵抗の意思を漲らせ、

 「やーっ!」

 抗議の叫びを上げた。あまりの可愛らしさに、アイリスの思考回路がショートしそうになる。

 「ファム。フレアの面倒、ちゃんと見とけって言っといたろ?」

 大きなフレア―ファムに向かってボヤくミルド。フレアと瓜二つの容姿と、ミルドの発した『下の娘』と言う言葉からして、彼女がミルドの『上の娘』、フレアの姉なのだろう。

 「だって……ちょっと目を離した隙に……って、誰?」

 アイリスの姿を目に留め、ファムが母親に問う。あからさまに避けるような態度は取らないモノの、警戒の態度を見せるところは、姉妹そっくりだ。このような閉鎖的な集落で育つと、部外者に対して必要以上の警戒の念を持ってしまうのかもしれない。

 「ハルトが連れてきたアイリス王女殿下だ」

 「ハルトが連れてきた?」

 母の答えに眉をひそめるファム。妹のフレアはパチクリ、と目を瞬かせた後、

 「お姫様?」

 小首を傾げて誰にともなく聞いた。

 「そうだ」

 「お姫様ぁ~」

 母の答えに、フレアは満面の笑みを浮かべてアイリスに飛びつく。

 「こら、フレアっ! 王女様に失礼でしょっ!?」

 思わず叱り飛ばすファムに、

 「いいんじゃない? 満更でもなさそうだし」

 母は泰然自若に構えたまま。飛び付かれたアイリスはと言えば、これは一国の王女としてはどうなのかと問い詰めたくなるほど相好を崩し、フレアの頭を撫でている。フレアはフレアで、まるで子猫のように目を細めてアイリスの腰にしがみついていた。

 「だいたい、あたしら礼儀とか作法とか無縁の人種だし?」

 「……ところで、ハルトが何でこんなの(・・・・)を連れて来たのよ?」

 「……その言い方は、飛びつくよりよっぽど失礼だと思うがな」

 敵意剥き出しの上の娘に、思わず苦笑を浮かべるミルド。

 「そんなにお姫様が気に入らないのかい?」

 「別に」

 「ハルトが拾って来たからかい?」

 「そうよっ! ハルトったらあたしと言うモノがありながら……」

 (やれやれ……)

 ミルドの苦笑が深くなる。

 (あの朴念仁があんたのことなんて意識してるとも思わないけどね……)

 ただでさえ甲斐性なしの朴念仁なのに、十歳の小娘を意識しているはずもない。

 (ま、意識してたら意識してたで、そんな変態、娘の相手としては願い下げなわけだけどさ)

 と、ミルドの頭に良い考えが思い浮かぶ。

 「アイリス。滞在費代わり、と言っちゃなんだけどさ、一つ頼まれてくれないかい?」


 夕陽に染まる集落の広場。そこにファムとフレアの姉妹、他にも数人の子供が座り込むアイリスを取り囲む形で並んでいる。

 その全員が全員、難しげな顔でアイリスの足下の地面と睨めっこしていた。

 「何やってんだ、おまえら?」

 「あ、ハルトだー。シカだー、シカー」

 訝しげな表情を向けるハルトに、元気良く手を上げるフレア。その声に皆、一斉に地に落としていた視線をハルトに向ける。

 フレアの言葉通り、ハルトは右手にシムナを、そして左肩にはシカを担いでいた。力なく垂れ下がった頭―その眉間に小さな孔が穿たれている所から察するに、ハルトが小銃で仕留めたのだろう。

 極北の森に棲む種としては小柄だが、それでもその体重はハルトの倍はゆうにある。しかし、ハルトの足取りは些かも乱れることなく、子供達の間を縫うようにすり抜けると、アイリスのすぐ傍で立ち止まる。

 「何だ、こりゃ?」

 足下に所狭しと描かれたぐちゃぐちゃとした紋様に、思わずハルトは首を傾げた。

 「文字を教えていたんです」

 「文字?」

 アイリスの言葉に、ハルトは思わず眉をひそめる。

 「ええ、ミルドから頼まれました。時間がある時でいいから、子供達に読み書きを教えて欲しい、と」

 と、

 「ハルトー、ハルトー」

 フレアがハルトのズボンをくいくいと小さな手で引っ張る。

 「見て見て。『フレア』」

 得意げに小さな指が示す先には、ぐちゃぐちゃと蛇がのたうつような、怪しい紋様が書かれている。子供達同様、ハルトも全く文字など読めないため、何を書いているかはわからないが……フレアが力一杯主張していることから察するに、きっと『フレア』と言う字が書かれているのだろう。

 アイリスの足下に書かれた紋様は意味はわからずとも、何らかの規則性は感じられるし、並び、形も整然としている。だが、フレアの字は明らかに規則性がなく……形どころか大きさもバラバラだ。正直、これは本当に文字なのだろうか、と疑いたくなる。しかし、

 「フレア~、よくできました~、偉いね~」

 猫撫で声でフレアの頭を撫でるアイリスを見るに、文字自体は間違ってはないのだろう。絶望的に汚いだけで。

 「で、んなモン覚えてどうするんだよ?」

 「読み書きができると、何かと便利ですよ?」

 「森の生活にゃ必要ない」

 「そうでもないです。現にあなた方が簒奪してきた物資の整理は、圧倒的に早く片付きました」

 言われてみれば、いつもブツブツと文句を言いながら、戦利品を広場にぶちまけて整理している女達の姿がない。朝から始めたとしても、大抵は日が暮れるまでに終わり切らないことがほとんどなのに。

 「……おまえがやったのか?」

 「そうですよ」

 澄ました顔で答えるアイリス。だが、その顔は、

 「アイリス、偉い偉い」

 傍らから一生懸命腕を伸ばしてアイリスの頭を撫でてくるフレアによって、あっさりと崩された。

 「別に必要ねぇさ」

 鼻先で笑うハルト。

 「もともと、オレ達は森の中で獲物を狩って生きてきたんだ、こんな風にな」

 言って、手にしたシカをドサリと地面の文字の上に落とす。

 あまりと言えばあまりの態度にアイリスは鼻白むが、ハルトはお構いなしに、

 「今はアウムの連中が森を荒らしているから、狩りに出る時間も満足に作れやしねぇが……連中を追い出しゃ、昔の暮らしに戻るさ」

 「それはどうですかね?」

 すっくと立ち上がりつつ、アイリス。

 「時は流れ、世界は常に変革の中にあります。

 わたし達だけが、その変革に背を向けて生きていくことなんて、できません」

 「んなモン知るか。オレ達はじーさんのじーさんのそのまたひぃひぃじーさんの代から、この森の中で生きてきたんだ」

 「だから、そんな言い分はもう通用しない、と言っているのです。

 今までは確かに、この深い森は外部の人間を寄せ付けることはなかったでしょう。

 ですが、科学は進歩し、この森は人の足では踏み入れない魔境ではなくなりつつあるのです。

 現にアウムは度々、この森への侵略を試みているのでしょう?」

 「だから、それを追い返しているんだろうが」

 「わからないのですか? その行為自体が、既に無関係でいられない証拠であると言うことが。

 現にあなたはアウムから鹵獲した小銃を使い、アウムから簒奪した食糧を食べています。

 この森は、そしてあなた自身はもはや、外部からの干渉抜きに存在できないのです」

 「だからその干渉……」

 ゴッ!

 続くハルトの言葉は、彼の頭頂部から響いてきた鈍い音に遮られた。

 「何、女の子をイジメてるんだい、ハルト?」

 ゲンコツを落とした右手を軽く振り、目を吊り上げたミルドがハルトを見下ろす。

 「……ちっとは手加減しやがれ、このクマ女……」

 ゴスっ!

 先ほどよりも一回りほど大きく、そして痛々しい音がハルトの頭上で炸裂した。

 

 「ハルト、大丈夫?」

 痛みと衝撃に蹲ったハルトの頭を、フレアが気遣わしげにペシペシ、と叩く。

 「……ぐが……」

 「ほら、ハルト嫌がってるでしょ」

 妹の背後に回り込んだファムが、わきを抱えてフレアを持ち上げる。

 「やーっ! フレアがハルトの痛いの、治してあげるのっ!」

 手足をバタバタと暴れさせるが、ファムはびくともしない。腕の中のフレアを軽くいなしつつ、ハルトの頭頂部を覗き込む。

 「うわ……大きなコブになってる。お母さん、やりすぎじゃない?」

 「心配すんな。手加減はしといたから」

 答えるミルドは実に涼しい顔。心の底から大したことない、と思っているのだろう。

 「……これで手加減してるって……おまえ、本気で殴ったら人喰いクマ(グリズリー)ですら一撃なんじゃないか?」

 地の底から響くような、低く小さな呻きを漏らすハルトを傲然と見下ろし、

 「何だったら、本気で殴ってやろうか、ああ?」

 バキシッ! ボキシッ!

 ミルドが、その指から危険な音を響かせる。

 「……遠慮しとく」

 ハルトは恐れるようにミルドから顔を背けると、蚊の鳴き声のような小声を漏らした。

 「だいたい、何を言い争ってたんだい?」

 「ハルトが文字を覚えても意味がないって……」

 「あんた、そんなこと言ったのかい?」

 「……事実だろうが」

 呆れ顔を浮かべるミルドから、目を逸らせたままハルトが呻く。

 「そんなこともないだろうに。今日だって、この()に手伝ってもらって……」

 「戦利品の整理がさっさと片付いたって話だろ? それなら、もう聞いた。

 だいたい、アウムの連中さえ追い返しゃ、連中の物資を当てにすることもなくなるし……そもそも、連中が物資を持ってこの森に押し掛けること自体がなくなるだろ」

 つまり、アウムを追い返してしまったら、物資を簒奪しようにも、その物資を運び込んでくれる者がいなくなる、と言うことだ。

 「そうとも言い切れないだろ?」

 「……んだよ。ミルドもそこの王女様と同じことを言うつもりか?」

 「あたしは、その娘があんたに何を言ったのかなんて知らないし、興味もないね。

 ただ、読み書きを覚えるってことは、町に出ても生きる術を得られるってことだろ?」

 「ミルドは子供達を町に出すつもりなのか?」

 「そんなことは思っちゃいないよ。ましてや、あんた達が簡単にアウムにこの森を明け渡すとも思っちゃいない。

 でも、読み書きを覚えられたら、子供たちには『町に出て暮らしていく』と言う選択肢も生まれる。

 あたしはね、子供達に強制させるつもりなんて毛頭ない。だから、『読み書きが習得できなかった』と言う理由でこの森に縛り付けたくもないのさ。

 文字を自由に扱えるようになったところで、森の生活に支障が出ることはない。この子達が成長したとき、ここに残るか、それとも違う世界に出ていくのか、それはこの子達自身に決めてほしいと思ってる。

 ……どうしたい? 呆れたような顔をして。王女様まで呆けちゃってさ?」

 「いや……ミルドがそんな難しいことを考えられるなんて、思ってなかったから……」

 「……そのシカ、没収」

 言って、ハルトの傍らに放置されたシカを素早く抱えてしまった。

 「てめ……それはオレが……」

 「冗談だよ。どうせ、みんなで分けるんだし、あたしが捌いてやるよ」

 森の生活は厳しく、集落の規模も小さい。従って、暮らしは自然と持ちつ持たれつの形となり、捕らえた獲物は集落の中で分け合う形になっていた。

 「そっちの呆けた顔した王女様、手伝ってくれるかい?」

 「あ……はい」

 ミルドの問いかけに、アイリスは我に返った。

 「何だい? あんたも意外に思ったのかい?」

 ミルドの顔にからかうような笑みが浮かぶ。

 「いえ……意外だとは思ったのは確かですけど……それよりも素敵な考えだなって……」

 「ほら、ハルト。お姫様はわかってるじゃないか」

 「何いい気になってんだよ。お世辞に決まってるだろ」

 つまらなさそうに鼻を鳴らすハルトに、

 「お世辞じゃありませんっ!」

 即座に否定の言葉を返すアイリス。

 「……白状すると……わたしも……どちらかと言うと、ハルトに近い考えでした」

 「正反対だろうが」

 アイリスの告白を一刀両断に斬り捨てるハルト。アイリスはゆっくりと首を振り、

 「主義主張している内容は確かに正反対です。

 でも、二人とも主義主張している(・・・・・・・・)ことに変わりはありません」

 「……何が言いたいんだよ?」

 「それは互いの主義主張を(・・・・・・・・)押し付け合っている(・・・・・・・・・・)ってことになりませんか?」

 アイリスの言葉に、ハルトは思わず固まった。

 はぁ。

 その硬直に傍らで漏れたため息が溶かされた。

 「あんた達……そんな若いのに、なんでそんなに思考が硬直してるんだい?」

 やれやれ、と言わんばかりに首を振るミルド。

 「……うっせぇ、おばはん」

 ドムっ!

 「ふざけたこと言ってると、鳩尾抉るよ」

 「……既に抉ってから言ってんじゃねぇ……」

 重い拳を腹部に突き入れられたまま、震える声でハルトが呻く。

 「ま、子供が生まれたらあんた達も考えが変わるかもしれないね。

 あたしだって、この子達がいなかったら、そんな小難しいことなんて考えていなかったかもしれないよ」

 ファムとフレアの頭を乱雑になでながら、ミルド。

 「そうだ。あんたらもさっさと子供作っちゃえばいいんだよ。

 丁度いい相手が隣にいるじゃないか」

 ミルドの言葉にハルトとアイリスは思わず目を見合わせ……図ったように全く同じタイミングで顔を真っ赤にした。

 気まずくなった空気を引き裂いたのは、

 「そんなのダメーっ!」

 幼い子供の大音声。見れば、フレアが眉を吊り上げ顔を真っ赤にして、ミルドを見上げている。

 「ハルトはフレアのお嫁さんなのっ!」

 「……そこはお婿さんじゃねぇのか……」

 軽く肩を落としつつ、ハルト。

 「もてもてだなぁ、ハルト」

 なぜかハルトの方ではなく、ファムの方を見つつ、ミルドが意地の悪い笑みを浮かべる。

 「……なんで、こっちの方を見てるのよ?」

 「もたもたしてると、取られちゃうよ?」

 娘に険悪な眼差しを向けられても、母に怯む様子はない。

 「さぁ、さっさとしないと日が暮れちまうよ。とっとと捌かないとね」

 豪快な笑みを浮かべながら、ミルドは担いだシカを抱えなおした。

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