三千世界の鴉を殺し
初投稿させていただきます。風呂場で思い付いては「鉄は熱いうちに打て」精神で書き散らしたものになります。正直こうした形で発表するのは初めてなので……勝手がわからず、少し緊張してます。
よろしくお願いします
――〈詩〉とは〈死〉に通じ、〈詩〉とは〈泡〉に通ず。
――移ろう、虚ろな言の葉の連なりが故に、其は鬼神をも顕現せしめる。
なればこそ、今日も悪夢は嗤う。
ニグトは今日もげんなりしていた。幼馴染である所のヴィオレッタが、最近飽きもせずに一つの話をするからである。顔を合わせる度に同じ話を繰り返す。よくよく聞くと少し差異はあるのだが、それでも大体同じ話である。ヴィオレッタがここまで執心するのも珍しいが、後三か月もすれば次第に飽きるだろう。我慢だ。
どちらかと言えば気の強い方でも無いニグトは、今日も今日とてヴィオレッタの話を聞くしか無いのだ。
「……ねーぇ、ニグぅ。わたしの話、聞いてたぁ?」
「う、ああ……ん。聞いていましたよ」
少し不満そうなヴィオレッタの顔に、暗雲立ち込めたるものを感じる。ニグトは微笑みを一つ浮かべて見せた。諸般の事情からこの幼馴染の不興を買ってはいけないのだ。家の立場、と言うのもあるが、この気が強い幼馴染に色々と知られているからでもある。
――例えば怪談が苦手な事とか。
ヴィオレッタがその気になれば、ニグトが一日部屋から出られないような怖い話をされるだろう。ニグトはそれを避けねばならない。父や母にこれ以上見放されたくはない。
名前の通り目に鮮やかな菫色の髪を持つ彼女は、怪訝そうな顔をして「ふぅん?」と声を漏らす。だがまた気分よく話し始めたところを察するに、気分を害したわけではなさそうだ。内心だけでニグトは安堵の息を漏らす。
「まぁ、聞いていたのなら良いんだけどぉ。……で、それでね! ガーゲンの方で〈悪夢〉を見たってウワサがあるのよ!」
「ガーゲン……ああ、魔石都市ガーゲンですか。お隣ですね」
相槌を打ちながら、ニグトはこっそりとヴィオレッタを見る。
菫色の、肩にかかるくらいの髪。白磁のような美しい肌。ぱちりと大きい橙の瞳は、まさしく火に愛されている証拠だ。彼女の家系は、代々火の妖精に愛されている。ヴィオレッタ・シュトーキン……このヘクセン魔術学園の、一年首席だ。
成績優秀、お家柄も良く、明るく不思議と周りに人を寄せ付けては敵を作らない……優秀を絵に描いたような幼馴染は、大抵の朝、登校してからしばらくはニグトと話す事を楽しむ。何人かの取り巻きが羨ましそうにニグトを見ているものだから、正直居た堪れない。
しかも、しかもだ。ニグト自身は成績に関しては特に誇れる要因も無い。だからこそ余計に逃げ出したいくらいには嫌なのだ。……ほら、何人かは今にも呪い殺さんばかりのキツイ視線を投げているではないか。ヴィオレッタ親衛隊隊長と、それに近しい人だっただろうか。
ニグト・ゲゼシャトー。それがニグトの名前だ。正確にはニグト・サーモン・ガルデン・ゲゼシャトー。ゲゼシャトー伯の次男坊になる。家柄自体はとても素晴らしいが……いかんせん、ニグト自身は平凡極まりない存在だった。
成績は中の中。魔術適正はC評価――つまりは、「適性が無い訳でもない」――である。手先は比較的器用な方ではあるが……正直、ニグトがそうした繕い物であったりを熟す必要は、現在まったくない。ヴィオレッタとは違ってとびきり顔が良い訳でもない。……本当に平凡なのだ。
しいて言うのなら、お家柄礼儀作法には自信があるが、こうした魔術学園では意味をなさない。ただ、結果は平凡に終わるが、大々的に失敗する事も無い。だからこそ兄のスペアとして箔付けのために、こうした歴史と伝統と格のあるヘクセン魔術学園に入学させられたわけなのだが。
この魔法都市ガルデンでは、何より魔術の才が重要視される。座学が優秀であろうと、体術が優秀であろうと、魔術が出来ねばダメなのだ。だから、魔術適正がC評価の時点で今のこの状況は不相応なのだ。それを痛いほどよく分かっているニグトは、そのお伽噺のような話をやっかみ交じりで聞いているしかない。
講堂に一限目での『魔術理論』の受講生徒が集まってきた。時間から察してそろそろ担当講師がやって来るだろう。ニグトはあまり好きでもない担当講師の禿げ頭が恋しくなった。ヴィオレッタの話はあの禿げ頭が見えると終わるのだ。
「〈悪夢〉なんて、この有史以来最強の“炎の乙女”とされたヴィオレッタがやっつけてやるわ……!」
「あなたでしたら不可能ではないかもしれませんね。……あいにくと、僕はあなたほどに〈悪夢〉を存じ上げないので、深くは言及しませんが」
「うふふっ、当然よ! 何せこの学校でわたし以上に〈悪夢〉を知っている人もいないのだから……!」
そうだろう。大抵の生徒は〈悪夢〉なんて信じちゃいない。
――〈悪夢〉とは曖昧模糊とした存在なのだそうだ。
最近世界中で起こっている重大事件の大抵に関わっているらしい。ヴィオレッタが言うには、の話だ。ニグトはヴィオレッタが話すまで存在すらも知らなかった。
例えば三年前聖都クリストでの公会議中、法王がお亡くなりになられたのは〈悪夢〉の仕業なのだとか。だがあれは公式見解は病死ではなかっただろうか。ニグトは不可解に思わざるを得ない。
戯言と吐き捨てるには、語る口調が熱を帯びている。ニグトも好むと好まざると関わらず、その熱に浮かされてしまう。冷静にならねば。頭を振った所で特徴的な禿げ頭が見えた。ミスタ・クラーケは今日も顔を赤くしてやってきた。
やば、とニグトから離れて自身の席に向かっていくヴィオレッタに軽く礼をする。ヴィオレッタはそれに対して軽く手を振った。ようやく解放された、すっきりとした感覚を抱くが、それよりも廊下から響く足音にげんなりする。ミスタ・クラーケは太っているのだ。かなりの体重で、だから廊下を歩くだけでもかなりの音がする。悪い先生でも無いのだが……かといってニグトの中ではあまり好きと言える講師でもない。
乱暴なまでに扉を開けて、そうして横に巨体故に良く響く足音を立てて。
そうして教卓の後ろに立った。何の癖か、唇を丸くすぼめて言うのだ。
「――これからァ、授業をはじゅめます……!」
全ての授業が終わり、ニグトは迎えの馬車の中で今日の復習していた。
馬車の窓から見える景色がどんどん緑深くなっていく。魔術学園がある首都ヌンクスとニグトの屋敷は少々離れている。ヌンクス校外ヴァルド地区に屋敷がある。このヴァルド地区は緑豊かな所で……むしろ森と言った方が近い状態の場所だ。朝、或いは昼間ならば別段厭う所は何も無いのだが、こうした寒気の森は特に不気味である。怖い物が苦手なニグトは、幼い頃から良い気分でこの道を通った覚えが無い。
怖がりなのは知れているが、未だにこの程度に怖がっていると知られれば……今度こそ完全に見放されるだろう。スペアにしても欠陥品との烙印を押されて。
優秀な兄のスペアではあるが、ニグト自身にだって利用価値がない訳ではない。例えば縁組だとかで。可も無ければ不可もない、平々凡々とした次男ではあるが……あの侯爵家は子供が女の子しかいないから、恐らくは。それくらいは嫌でも分かる。
そうした利用価値はある為に、まだ見放されない。ニグトは見向きもされなくなるのが耐えられない。そのため、細々とした努力は怠らないに越した事は無いのだ。
それをなんと勘違いしたのか、執事のマークスはその姿に感動すらしているらしい。老人の域に年齢が達しつつある彼は「魔術適正もさしてないのに、勉強を止めない」ニグトに、今も何やら感心したような視線を向けてくる。すこし、居心地が悪い。
勉強に集中しているふりを通して、ニグトはこっそりと溜息を吐き出す。呼気は魔術を使用する際に重要な点であるから、不審には思われなかったらしい。
退屈だ。退屈なのだ。嫌なのだ。本当に。
毎日毎日、優秀な人に囲まれて、優秀な人たちの優秀な所を際立たせて、それでいてニグト自身は平々凡々である事を嫌でも自覚させられる毎日。退屈に思わないでいられようか。否。
敷かれた道の儘、人生を歩むことにニグトは不満を持っていない。ただ、そこで予想される「引き立て役」としての自分に、嫌気がさしている。
――不意に馬車が止まった。外から何か変な音が聞こえる。
「……変ですね。少々失礼いたします」
断りを入れてからマークスは魔術を使う。……透視の魔法だ。外から中は見えないが、中から外は見える。これでも伯爵家の仕立てた馬車だ。ある程度の魔術対策はなされている。ニグトは透視の魔法は辛うじて使えるが、マークスが外を確認しているのだからそれで良いだろうともう一度教科書に目を落とす。
だがマークスが息を呑んだ。
「ま、魔物だ……!」
「何ですって!?」
マークスが思わずと言ったように呟いた事柄が信じられない。ニグトは聞き返す。この魔術が発展したガルデンの首都に、魔物が侵入すると言う事が有り得ないのだ。
魔術結界が破られたのか? いや、それならば未曾有の事態と言う事で、呑気に馬車に揺られている訳がない。父からの通信の魔法で緊急事態が告げられ、ニグトはマークスに抱えられて瞬間転移の魔法を行使されていた筈だ。
ではなぜ。そう言えば貴族連中の中には魔物を飼って楽しむ輩がいると聞く。そいつらが不手際を起こしたのだろうか。
様々な可能性が飛び交っては消え、しかし何も対策が立てられない。ニグトは辛うじて、馬車の窓から外を覗くことが出来たくらいだ。
――三つ首の黒い禍犬が、口から火を噴き出してはこちらを睨んでいた。
「なっ……! サーベラスですって!?」
サーベラス。冥界の番犬とも言われる、凶悪極まりない魔物だ。冥界の番犬のサーベラスはケルベロスと名付けられ、それ以外の個体はサーベラスと呼ぶ。サーベラスとケルベロスの違いは首の数だ。サーベラスは三つ首だが、ケルベロスは五十も首を持っている。蛇の鬣と竜の尾を持ち、口から吐き出す火や牙、爪が攻撃手段の、熱・火属性の魔物でも上位種として知られる。……知識としては、ニグトも知っていた。
『魔物知識概論』の教科書がニグトの手からパサリと落ちる。
教科書に書かれていたが、まさかこのように大きいとは思わなかった。少し馬車から離れているが、それでも遠近感を失うほどの大きさだ。ミスタ・クラーケも大きいが、それの比ではない。
チロチロと火が見え隠れする。魔物と……しかも上位種の中でも強そうに見える個体との遭遇に恐れおののく、脆弱な人間を嘲笑うかのようである。
ニグトの声にそちらを見たマークスが、今にも失神せん勢いで顔を蒼褪めさせる。いつもは魔術適正Bプラスが云々と偉そうにしている癖にして、非常に愚かしいにも程がある。
サーベラスの弱点は、冷属性の魔法の筈である。冷・水属性がよく効く。
だが、強い魔法が使えるマークスは今にも倒れてしまいそうな有様であるし、ニグトはサーベラスを退けられるほどの魔法の能力は無い。
この馬車は魔法耐性をある程度は備えているが、それにしたって、サーベラスの吐く火には耐えられぬであろうし、そもそもその大きい前脚で薙ぎ払われれば終わりである。
サーベラスが、ゆっくりと前脚を持ち上げた。随分と余裕そうで憎らしい。ニグトは落ちた教科書の存在も忘れて馬車のドアを蹴り破る勢いで開けた。勝てないが、逃げる事は出来るかもしれない。
――その瞬間だ。ニグトが不可解なモノを見たのは。
向こうから子供が歩いてくる。夕暮れ時だと言うのに、非常に軽装だ。ガルデンには魔物は入り込まないが、不埒な者はいる。見たところ、幼年学校に通っている程度の年齢――ようやく二桁の年齢になったか、なっていないか――に見える子供が、一人で。
この辺りでは見ない姿だ。ガルデンに住む人は大抵金髪をしている。ニグトは蜂蜜のような、中途半端な色をした茶髪だが……その子供は烏が濡れたような、そのような黒い髪をしていた。目の前のサーベラスより暗い黒をしている。
サーベラスの動きが止まっているのも不可解と言えば不可解だ。
その子供はとにかく軽装で、しかし長年この辺りに住んでいるニグトに見覚えは無い。旅人だろうか? それにしては幼過ぎる気がするが。だが、サーベラスを目の当たりにしていると言うのに、怯える素振りを見せていない。
「……おん? ケルベロスじゃん。アタシ、ワン公好きじゃあ無いのだけれどぉ」
子供特有の、性別が判明しない高い声。よく通るそれが、遠くからでもよく聞こえた。
僅かに出始めている赤い月に照らされる、少しだけ見える肌は、人外の白さを誇っており。他の色が無いように見える黒い服は、やはり見た事のない形に見える。
存外歩くのが早い。その子供が立ち止まったのは、丁度馬車ともサーベラスとも等しく距離が開いた所だった。
サーベラスは完全に子供の方に注意を向けたらしい。先程まで余裕そうにニグトの方を向いていたと思ったのだが、今は警戒心剥き出しにして子供の方を向いている。何故だ。
ニグトは震える声で子供に声を飛ばした。
「あなた、今すぐ逃げて下さい!そいつはサーベラスの中でも上位個体ですよ!?」
「……ん? サーベラス?」
ニグトの声を聞いて、子供は真っ直ぐとニグトを見る。中途半端に馬車から出ようとしているニグトと、サーベラスとを見比べて、そうして首を傾げた。なんとも間の抜けた子供である。
――隙だらけの子供に、サーベラスは襲いかかった。
声をかける間も無い。
サーベラスは右の前脚で子供を薙ぎ払う。ニグトは思わず身を竦ませ、目を閉じその光景から目を反らした。
「……まぁ、ケルベロスでもサーベラスでもいいや。それくらいならちょっとした差異だしね。キミ、親切心をどうも」
気負いも何もなく、ただ風のように飄々と聞こえた声。あまりにも自然に聞こえてきた為に、ニグトは返事をしていた。
「いえ、別に……」
「んんー、それにしてもこっちに逃げたのは間違いだったかなぁ」
そう言う声に、ようやくニグトは正気になる。子供は無事だった。そこまでは良い。そこまでは良い。だが、問題はどこにいるかだ。声は上から聞こえて来る。馬車の屋根の上に乗っているのだろうか。いつの間に。身体強化の魔法を使ったとしても、子供では成し遂げられない事だろう。
ならば、なんだと言うのだろうか。
サーベラスの一つの首が馬車の方を振り向いた。一つは月を、そして残りの一つは見当違いの方向を向く。
トン、と軽い衝撃が馬車を揺らしては子供が馬車の屋根の上から飛び降りる。いつの間にかに、手には子供と同じか、それよりも大きい鎌が握られていた。大鎌だ。
ガルデンは結果的に武術体術の類いはあまり発達していない。それよりも魔法の腕を磨く者が多いからだ。だからニグトも嗜み程度でしか体術が出来ない。それでは、何でも完璧にこなす兄を負かすことはできないし、実際に強くも弱くもない。
だが、だからこそその子供が持っている鎌の異様さが分かる。まず大きいのだ。柄が体躯と同等程度とは。振り回すのに大分苦心するだろうに。
そして三日月と紛うばかりの大きいブレード部と、反対方向につけられた小さいブレード部がまるでSの字に見える。デスサイズにも見えなくはないが、デスサイズは二か所も刃は無いだろう。
比較的装飾は抑えられているが――むしろない――、その刃の形状がまた特徴的であった。上も下も、内側も外側もエッジになっているらしい。確実にモノの命を刈り取る事を目的とされている。エッジの中心を走る溝が、綺麗に弧を描いていて美しい。そして、上のブレードにも下のブレードにも設けられているソードブレイカーの、その凹凸の美しさよ。観賞用として飾り立てても、何ら遜色のない美しさであった。
黒刃が月に煌く。子供が……その人がサイズを肩に担ぐ。その時にはすでに、サーベラスは身体ごとその人に向き直っていた。
「本来なら人助けには興味ないけど……何だか私がロックオンされてるみたいだから、ついでにキミを助けてあげるよ。袖振り合うも他生の縁。まあ、安心しな」
その人は振り返りもせずにそう言うと、しゃがんで、跳躍する。あまりにも素早い動きに、サーベラスでさえその姿を補足できていなかった。辛うじてニグトは上を向いたために追う事ができたが、面白いように見失っているサーベラスは、三つ首をてんでバラバラな方向に向けている為に発見が遅れている。
その人は跳躍してはクルクルと縦に回り始めた。サイズの重さでああなってしまうのだろうか。その勢いの儘、サイズの内側を三つ首の一つに引っ掛けて、切り裂いた。
一撃で刈り落とす事は出来なかったのだろう。しかし回転しながら地面に降り立ったその人の上で血飛沫が宙に舞う。……それの、如何に幻想的なことか。
青銅の声が呻きを発する。サーベラスは青銅の声を発する魔物だ。つまりは青銅が鳴り響くかのような声なのだが。だが、それが苦悶を示しているだなんて、想像できようか。
左前脚がその人を薙ぐ。またも回転するように跳んだその人は、大きい方のエッジで左前脚を斬る。そのエッジの動きで地面に降り立ったその人は、即座に下のブレードを蹴り上げて少しの追撃を行う。振り上げた脚を、そのまま前に倒す動きに置換したその人は、大きい方のブレード部を支えにしながら前方に逃げた。
紙一重で吐き出された炎を避けたその人は、サーベラスと正対する。一連の動きが鮮やかで正確で、舞踏を見ている気分になった。状況はそれほどのんびりしていないのにも関わらず。
御伽噺のネコのように、その人は嗤った。
「なぁんだ、弱いなぁ。もう少し強めの子かとも思っていたのに、この程度ねぇ」
呆れた様な声色。余裕そうな姿。あまりにもそれは魅力的な悪夢であった。
その人は羽織っていた上着の位置を直す。あの一連の動きの中でも落ちなかったのだが、一体どのような構造をしているのだろうか。だが、その疑問もすぐに吹き飛ぶ。その人がまたすぐに姿を消したからだ。今度こそ何処へ行ったのかが分からない。ニグトは唇を震わせて戦慄いた。
あのサーベラスと魔法を使わずに対峙するだけでも驚きだが、サーベラスに対して常にイニシアティブを取っているのが信じられない。サーベラスは熱・火属性の魔物の中でも上位種なのだが。
吐き出す炎はもう滅茶苦茶な方向を向いており、尾も脚もそれぞれ振り回されているが、それよりもサーベラスから血が流れ出る方が早い。あの感じていた恐怖はどこへ消えた。
あまりにも呆気なく、あまりにも当然のようにその人はサーベラスを倒してしまった……。
「――Perfetto!」
その人が倒れた禍犬の前で首をぐるりと回した。それをきっかけに、今の今まで動けなかったニグトは、ようやく馬車から降り立った。
その人は寄って来るニグトを見上げるように振り向く。横に回して上着の中にサイズを仕舞うと、クルリと振り向いた。なんと声をかけるべきか悩み、取り敢えず礼を言うべきとニグトは口を開く。
「……あの、助けて頂きありがとうございます」
「言ったろう? 偶然だ。気にしないでくれ給えよ。別に人助けなんて興味ない」
「それでも、あなたに助けて頂いたのは事実です。何か礼をさせてはもらえませんか?」
先程までの楽しそうな様子はどこへやら。その人は途端にその無表情を何処か嫌そうに歪める。ニグト越しに、未だ腰の抜けているマークスを見たらしい。その人は本当に嫌そうにニグトを見上げた。
「……礼なんて、別に求めてない。私はそんな大それたことをしたわけじゃない。ただ、今晩泊まる所には悩んでいたから、キミの屋敷に連れて行ってはもらえないかい?」
「その程度で良いのなら、いくらでも。少々お待ちを」
ニグトは断りを入れてから通信の魔法を発動させる。宛先は父だ。帰宅予定時間から少し遅れているだろう。その事に怒りを抱いていなければ良いのだが。
祈るような心地で魔法を発動させれば、案の定怒りを多分に孕んだ父の声がした。
『ニグト、丁度良いタイミングで連絡を寄越してくれたな。帰宅予定が遅れているぞ。一体どうした』
「申し訳ございません、父上。ですがお耳に入れたい事がございまして……」
父の怒りに声が震えそうになる。それを何とか堪え、ニグトは今起こった事の概略を報告した。
全てを聞き終わった父は、少しの間を空けてからニグトに言う。
『到底信じられないが、マークスにも確認をする。真実ならば即時代わりの馬車や、調査員を派遣する。少し待て』
その声と共に強制的に通信の魔法が遮断され、ニグトは耳を抑える。強制的に遮断されると耳が少しばかり痛むのだ。
その様子を詰まらなさそうに見ていたその人は、サーベラスの屍に視線を向ける。その場にしゃがみながらニグトに言った。
「ねぇ、これ解体して良い? 魔犬の骨って実は結構使えるのだけど。お肉も少しは欲しい」
「え、えぇ? えぇっと……まぁ、少しだけなら」
「倒した人が存分に、思うままに剥ぐ権利が与えられても良いだろうに……お役所仕事はどこも似たり寄ったりだなぁ。調査に付き合わされる身にもなり給えよ」
煮え切らない返事に、僅かに呆れを含ませた声でその人は言う。既にその手にはそれぞれ形状の違う二振りのナイフが握られていた。両方とも黒いブレードを有している。
少しばかり変な湾曲をした、幅広の方のナイフを使って解体作業をしていく。
手慣れている。ニグトは純粋にそう思った。
その長い、服の袖が汚れるのもお構いなしにその人は手早く肉を剥いでは何やら作業をする。立ち上る臭いに、思わず顔を背けながらも視線を向けると、今度は細い方のナイフを使って何かをしている。角度の問題で少々見えない。
じっくり観察していると、その人は何処か楽しそうに言った。
「珍しいよね。キミは見た処、良い所のボン? その髪色、好きだなぁ。地毛?」
「え? えぇっと、その……はい」
話しかけられるとは思っておらず、ニグトはつい胡乱な返事をしてしまった。髪色を褒められたのもある。しかしその人は特に気にした様子を見せずに作業を続けた。
「ふぅん、地毛なんだぁ。蜂蜜みたいで甘そう。私ね、甘い物が大好きなんだ」
「そうなのですか。あなたの髪色も僕は素敵だと思いますよ。……えぇと」
「名前を聞きたいなら、まずキミが名乗ってくれ給えよ? 魔法使う連中に先に名前なんか教えたくない。それに私は名前なんて無いから、名乗られてもちょっと困るなぁ」
「……はぁ」
なんとも変な人である。そもそもサーベラスの骨を何に使うと言うのだろうか。それと軽く流してしまったが、先程、出会ったばかりの辺りで何やら奇妙な事を言ってはいなかっただろうか。あまりにも今に至る流れが速すぎて、何に違和感を覚えたのかが思い出せないが。
ニグトが思考を走らせている間に、その人は作業を終えたらしい。立ち上がり、伸びをしてナイフを仕舞いながらニグトの方を向き直る。
「まぁ、記号が役に立つこともあるものね。キミの名前は?」
「……僕の名前はニグト・ゲゼシャトーと言います。あなたのお名前は?」
「アタシ、堅苦しいのは苦手なんだけどなぁ……。ルイ、或いはルイーズ。ルドヴィーコでもルイーザでも、ルイスでもルイズでもなんだって良いや。まぁ、キミだったらルーって呼んでも良いよ」
「はぁ?」
思わずニグトが怪訝そうな顔をすれば、悪夢的に笑ったその人が下から顔を覗き込む。
「まぁ、暫くはよろしくね。――ナイト」
そう呼ばれた瞬間に身体が急に冷えた感覚を覚える。だがそれに声を漏らすより先に、少しばかり聞き慣れた音が耳に入った。父からの通信の魔法が飛んできたらしい。これ幸いと、手で断りを入れたニグトは応じた。
『ニグト、聞こえているか』
「は、はい。何でしょうか?」
『マークスに確認は取れた。災難だったな。今迎えを向かわせた。その旅のお方も来て頂きなさい。礼が言いたい』
「もちろんです。丁度先程礼をしたいと申し出たところ、今晩の宿に困っていらっしゃるようだったのでお泊めして差し上げたいのですが……」
『構わん。用意させる。それと旅のお方に、幾つか聞きたい事がある。その心算でいて頂きたい事をお伝えしておけ』
「分かりました」
今度は静かに連絡が途絶えた。
それを詰まらなさそうに見ていたその人は、退屈そうに欠伸を漏らす。欠伸を漏らしてから思い出した様に「あ」と声を漏らした。
「そうだ。キミは私をルーと呼んでも良いけど、他の人に紹介する時はフェイでお願いできるかい? ちょっとした事情があって。それなら調査にも協力してあげる」
「……そう仰られるのなら、そうしますね」
――変な所がかなり目に付くが、これでも命の恩人である。
フェイと名乗ったその人の要望にニグトは応じる事にした。肯定を返すと、フェイは満足そうな笑みを僅かに浮かべた。
丁度その時、向こうから馬車の灯りが見えてくる。ニグトは安堵と共にマークスを見た。老体にサーベラスの姿はよほど堪えたのだろう。未だ腰が抜けていた。しかしてニグトはどうだろうか。フェイがサーベラスを倒してすぐに動けるようになった。
少し得意に思っても良いだろう。薄暗い喜びを覚えた瞬間にフェイがニグトへ声をかけた。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し。気を付ける事だね」
言われた言葉の意味を、ニグトが察するのは大分先の事になる。
――〈詩〉とは〈死〉に通じ、〈詩〉とは〈泡〉に通ず。
――移ろう、虚ろな言の葉の連なりが故に、其は鬼神をも顕現せしめる。
故に、これは物語である。
フェイが途中調子に乗ったのか、戦闘シーンで大分大暴れして……正直言うと、人間にできるのかなぁ、とか思っていたりするのですが……まぁ、あの人だったら出来る、かも。謎の安心感が出てきましたが、それが作品に影響を与えていないかが心配です……。
投稿する際、十分に気を付けて直したつもりですが、誤字脱字がありましたらお知らせ願えれば幸いです。




