二択
福沢さんで、お尻は拭けない。
お金が欲しいなあ、宝くじ当たらないかなあと思っているところに、こんな話を聞いた。
「筒井さん、お子さんまだ小さいし、これからお金かかるもんね、仕事辞められないねえ」
と、先輩から言われた。
この殺伐とした職場にて、気さくに会話できる稀有な人である。
仕事ぶりも陰ひなたなくて、尊敬できる方だ。
このところのわたしの不調に気づいたのだろう、昼休みに一緒になった時、話しかけてくれたのだった。
体辛いんじゃないの、仕事大変だよね。
人手不足だもんね、もともと人気のない職だし、うちの施設評判悪いみたいだしねえ。
人手不足で、職員ひとりあたりの負担は多くなるばかりだろう。
介護士の人数に対し、施設は雨後の竹の子みたいににょきにょき出来るのだから、うちの施設で働いている人も、たぶん続々辞めていくんだろう。経験者、有資格者は引く手あまただから、なにも条件の悪いところにしがみつく必要はないのである。
今うちの介護施設では、夜勤帯はおろか、日勤帯も満足な人数が取れない有様だ。
一人一人の負担が、かつてないほど重くなっている。
絶賛子育て中のわたしにとって、腰をやられるほどの勤務は悩ましい。
「抱っこ―」とねだられて、よいしょと抱き上げる度に「うおっ」と激痛に耐えているようでは先が思いやられる。
(あーあ、宝くじでもあたれば、仕事辞めるのに……)
先輩は、わたしの日ごろの顔色を、しっかりと読んでいたのだ。
「お金さえあればいいんですけれどねえ」
と、何気なくわたしが言った言葉を受けて、先輩はこんな話を始めたのである。
「まだ筒井さんがうちに就職する前、それこそ10年以上前の話になるけれど」
カップ麺にお湯を入れながら、先輩は穏やかに話し始める。こぽぽぽぽ。古い電気ポットは、時々ストライキを起こしてお湯を出さない代わりに変な音を出すことがある。今日は順調にお湯を出してくれている。
ぷうんと、カップ麺のスープの匂いが漂う。
湯気を閉じ込めるようにして、先輩は蓋をした。
今、休憩室にはわたしと先輩の二人だけである。
こんな利用者がいたんだよねえ――遠い目をしながら、丸い体でちんと正座し、ちゃぶ台のカップ麺を見つめながら先輩は言った。
おばあちゃんだったよ。
Aさんとしようか。
ショート利用から入所になった人でね、最初は車椅子を自操しながらも、トイレには自分で通っていた。
だけどある日転倒事故があって、それ以来職員の介助つきになってね、それで分かったことなんだけど。
「……紙がないんだよ、絶対にないんだ」
先輩の言葉に、わたしは首をかしげた。
なんだって、紙がない……。
一瞬「髪がない」と聞き間違えた。
なるほど髪の薄い利用者はたくさんいるもんなと納得しかけたが、どうやら違った。「紙」がない話である。
「トイレにAさんをお連れするでしょ、紙がないんだよね」
自分でお尻を拭けるAさんは、トイレットペーパーで拭くはずである。清拭タオルでお尻を拭いてあげるのは、それすらできない人に対しての介助だ。
その時点でAさんは立ちあがることもできるし、少し位は歩くことができた。
食事も自分でとるし、お風呂では体を洗う事もできる。当然、お尻も拭くことができるはずだが……。
「ところが、その肝心の紙が絶対にないんだよね」
居室のトイレに紙がないのである。Aさんが入る時には、必ずと言っていいほど紙が切れているのだった。
毎朝、そうじの人が必ず補充してくれているはずのペーパーが、色々な事情でなくなっているのだった。
人の部屋に入り込んでものを取って行ってしまう利用者さんが、たまたまAさんの居室のトイレからペーパーをまるごと持って行ってしまっていたり。
Aさんが入る直前に、たまたま通りかかった別の利用者が間に合わなくてAさんの居室のトイレに入り、大量に排泄した始末のために残っていたペーパーを全て使ってしまっていたり。
「それで、いつもやむを得ず清拭タオルでお尻を拭いていたんだよねえ。Aさんも特に文句を言わないから、みんな、内心、またかと思いながらも対応していたんだ」
ところがある日のこと、たまたまAさんをのトイレ介助に立ち会った先輩は、居室のトイレットペーパーが、ほぼ未使用の状態で収まっているのを見た。なんて珍しいことがあるんだろうと思い、先輩は言ったそうだ。
「わあ、今日は大丈夫ですね、良かったですねAさん」
だけどAさんは全てを諦めたみたいな微笑みを浮かべて、こう答えたそうな。
「いえいえ、そう上手くはいかないと思いますよ……」
何を言っているんだ、ここにペーパーがあるじゃないかと先輩は腹で笑いながら、Aさんに立ってもらい、便座に座ってもらった。そこまでは良かった。
トイレが終わってAさんに再び立ってもらい、「ほら、今度こそペーパーで拭けますから」とドヤ顔で囁いた途端、それは起きたのだった。
なんと、トイレットペーパーのホルダーが「自然に」上に上がると、中に納まっているペーパーが、ころんと下に落ちたのだった。
落ちたロールは、そのまま真下の床に転がるかと思いきや、またしても目に見えない手により宙を移動し、トイレの便座の中へ「ぼちゃ」と落ちたのである。
「ああっ……」
トイレの水に浸されたロールは、使い物にならなくなってしまった。
「そんな馬鹿な」
先輩は今見たことが信じられなくて、唖然としてしまったという。
Aさんは静かな諦めの微笑みを浮かべ、トイレのバーにつかまって立っていた。
そして、穏やかな口調で言った。
「わたしはトイレットペーパーには縁がないんですよ。43歳の時に宝くじに当たって以来、トイレットペーパーを手にしたことがない……」
……。
「人の幸運って定量があるんだとさ」
あと1分。
先輩は時計とカップ麺を見比べながら話を続ける。丸い色白の顔は連日の激務で疲れ切っている。
その疲れた顔に、仏のような笑みを浮かべながら、先輩は続けた。
「Aさんは43歳の時に宝くじに当選して、家を建て直したり、車を買い替えたり、旅行に行ったり、贅沢三昧をしたそうな。子供も大学に行かせたって言ってたな、そのお金で。ただねえ」
……その直後から、どうしてか、トイレットペーパー運がなくなってしまったという。
43歳。
まだまだ現役で仕事をしていたAさんである。
外出先でトイレに入っても、ペーパーは必ず切れている。
不思議な程、ペーパーが切れている。
コンビニや公衆トイレ、入るところ全てペーパーがない。
それはそれは、困った。
「負けるもんか」
と、Aさんは水に流れるタイプのティッシュを常持するようになったのだが、いざトイレに座った時、そのティッシュを車に忘れてきていたり、ティッシュまるごとトイレの水に落としてしまったりと、やはりペーパーで拭けない事情は変わらなかった。
「一度なんか、今にも拭こうとしたティッシュを、公衆トイレに舞い込んだ雀が摘まんでいってしまったんだってさ」
……ばさばさっ、チュン、チュチュンッ!
うわあっ、なにをするこの茶色野郎っ。
「あの穏やかなAさんが激怒して声を荒立てたんだってさ。ちっぽけな雀ちゃんにね」
くすっと先輩は笑った。
「小の時はともかく、大の時に困ったって言ってたなあ」
懐かしむように先輩は言う。
そうだよなあ、そりゃ困ったもんだろうとわたしは頷く。
だからAさんはウオシュレット付きのトイレばかり選んで入るようにしていたという。
ところが、うちの施設にはウオシュレット付きトイレがないのだった。
「ウオシュレットのある施設に入ろうにも、そういうところは満員で、うちしか空いてなかったんだってさ」
半笑いで先輩は言った。
Aさんの介護ができない家族は、どこでもいいから施設に入れたがっていたけれど、Aさんはうちの施設に入ることを渋っていた。ショートステイですら、Aさんはうちに来ることを良く思っていなかったという。
「まあ、それでもAさんは穏やかで良い方だったから、うちの職員に当たり散らすとか、表立って嫌な顔をしたりすることはなかったけれどね。うちに入ることを渋っていたってことが分かったのは、だいぶ後になってからだよ」
……。
ああ、Aさん。確かに、今でもうちの施設にはウオシュレットはない……。
「Aさんはそれから比較的すぐに、足が立たなくなって、全日オムツの人になった。もうトイレに立たなくていいと決まった時の、Aさんの肩の荷を下ろしたような顔を、忘れることができないなあ」
時間がきた。
お湯を入れて3分たった。
先輩は蓋をひらく。もわもわと湯気が立ち上り、スープの香りと共に先輩の丸い眼鏡に膜を作った。
「思えば、あの時、大量の万札と引き換えに、日常的に使う紙とのご縁が切れたのだと思います」
やがてAさんは嚥下状態が悪くなり、何度か入退院を繰り返したのち「看取り」対応が決まった。
最期まで意識を保ち続けていたAさんは、やせほそった顔に微笑みを浮かべながら、担当職員である先輩に告げたそうだ。
「目に見えない次元で、どっちを取るかという、選択があったのかもしれません」
大量の万札と、一生分のトイレットペーパー。
先輩は眼鏡を取ると拭いた。
優しい小さい目をして、先輩は笑いながら言ったのである。
「福沢さんで、お尻は拭けないもんねえ」
難しい、二択だと思うのです。