森野さん 五話
キャラメル ボーリング ボールペン
「里奈ちゃん、りなー、起きて―」
「んお?」
背中につんつんとした刺激を受けて、腕の中に突っ伏していた私が寝ぼけ眼で顔を上げると、化学の磯山が広いデコに皺を寄せて私の机の真横に立っていた。
「いくら眠いからって寝過ぎだ」
呆れ半分、怒り半分といった具合で言われ、私は時計を見た。授業時間は五十分、開始挨拶と同時に突っ伏した私は四十五分も寝ていたらしい。仕方がないだろ、西日が気持ち良すぎるんだよ、この席。飯食った後の授業はマジできついわ。もうちっと暑くなると途端に寝苦しくなるから、そろそろ席替えしてくれないかね、担任の山岸せんせー。
「寝るな、とは言わんがね。私の授業がつまらんのは私も分かっている」
誰一人反応を示す生徒はいない。なんていえばいいのさ?
「せめて起きようとする努力はしてくれんか。堂々と寝られるのは流石に気分が悪い」
「あい、すいやせんっした」
ったく、ねちねちとうるさいんだよ爺、と言いたいところをぐっと我慢。中学の時は思ったこと口に出し過ぎて痛い目見たからな……。私も同じことを繰り返すほど馬鹿じゃない。けどあんまりムカついたら馬鹿に戻ってもいいかも、我慢は毒だしな。
残りの五分だけで黒板にびっしりと書き込まれた化学式を移すのは無理そうなのであきらめた。後でノート見せてもらおう。
「いやー、ありがとな。結局怒られちまったけど」
授業が終わってから、後ろの席の翔子に礼を言う。翔子は教科書を片付けながら笑った。
「ううん、部活忙しいんでしょ? しょうがないよ。でも、もっと上手に寝ればいいのに、ほら」
翔子が指さした一番後ろの席を見ると、俯いて長い金髪のカーテンを隠れ蓑にしている森野が、ペンを持ったまま爆睡していた。起立、礼、の号令があったはずなんだけどな……。ようやく隣の席の倫子に揺すられて目を覚ましたようだ。
「あいつすげーな」
「里奈もだよ」
「うるへー」
翔子の突っ込みはさておき、私は今部活で抱えている問題を思い出して聞いた。
「森野って帰宅部だったよな」
「うん、いつもすぐ帰っちゃう」
「なら、今がいいな」
「え?」
名案が浮かんだ私は、ぽかんとした翔子を置いて立ち上がり、眠気のせいでネコ科の動物みたいな目になっている森野へと近づいた。私の体で西日が遮られ、影に埋まった森野はのっそりと私を見た。
「森野、さん。ダンスしようぜ」
「……しない」
「間違えた。ダンス興味ない?」
「……ない」
「うーん。ダンスしなければならない」
「義務かよ」
私は森野の机に音が出るほど勢いよく手のひらを置いて頭を下げた。直球勝負だ!
「頼む! 名前だけでいいから! 入部届けに名前書くだけでいいから!」
そう、我が競技ダンス部は普通のダンス部に新入生獲得競争で圧倒的大差の敗北を喫し存亡の危機に瀕していた。現在八人いる部員のうち四人が三年生、三人が二年生、そして今年獲得できた一年生が一人。ひとりって……。三年が引退すると部活動維持の最低条件の五人を下回ってしまうのだ! 夏休み前までに何とかしなければ同好会に格下げされちまう~!
森野は露骨に嫌そうな顔をして腕を組んだ。貫禄あるなこいつ。
「断る、面倒なことに巻き込まれそうだ」
「大丈夫だって、単なる中継ぎ、あと一人新入生が入るまでの保険みたいなもんだ!」
「ならあたしじゃなくていいだろ」
「理由ならある」
「ほう」
森野は大仰な動作で胸ポケットから四角い箱を取り出して、親指で蓋を器用に開けた。
黄色い箱には、森永ミルクキャラメルと記されている。かわいい。
「どうした、言ってみろ」
謎の強敵オーラを放ちながらミルクキャラメルを口へ放り込んでいる森野へ、私は冷や汗をかきながら言った。
「森野さんはこの学校で一番美人だから」
「……」
「……」
私と森野の周辺の音が止んだ。え、なに、みんななんだかんだ言って森野のこと気にし過ぎだろ。そこの男子、しっかり聞き耳たてやがって。
森野は髪の毛をくるくると弄んで、うーんと唸った。お、これはいけるか? と、それまで黙っていた森野と仲のいい二人が口を開いた。
「ま、いいんじゃね? なんかウケr、楽しそうじゃん?」
「倫子、もう一回」
「楽しそうじゃん?」
「……」
「あたしもみたいなー、もりのんが踊ってるとこ」
「もりのんいうな」
「かわいーんだろうなー、きれいなんだろうなー」
「ううむ」
森野は悩んでいる。いける! 絶対ちょろい奴だ、こいつ。
「ほんと、名前だけでいいから! 立ってるだけでいいから!」
「ううーむ」
「あ、そうだ。こうしよう」
突然、倫子がパチンと手を合わせた。森野が胡散臭いものを見る顔で倫子に視線を向けた。
「あたしら今日の放課後にボーリング行くんだけど、そこで勝負すんの。根本が勝ったら幽霊部員、森野が勝ったら豪華賞品プレゼント」
「お前ら、二人だけで遊ぼうとしてたのか?」
森野が眉根を寄せてちょっぴり威圧。
「え、そんな予定……いたい!?」
なぜか倫子に足を踏まれた夏美は涙目になってうずくまった。
「ごめんごめん、誘おうと思ってたんだって」
「ほんとかよ」
「で、どうかな」
倫子が意味ありげな視線を送ってきた。
なんだかよくわからないけど、こっちに断る理由はない。ボーリングは中学の同窓会以来だけど何とかなるだろ。
「私はいいぜ。そうだな、豪華賞品はメロンパン一週間分でどうだ!」
「乗った」
即答だった。言い切る前だったぞ。食い意地張ってんな……。
まあいい、これで勝てば、『黙っていれば美人の森野を客寄せパンダにして新入生を獲得する作戦』ができる。
「よし、じゃあそういうことで」
話を打ち切ってトイレに行こうと教室を出たところで、向こうから数学の高藤が歩いてきた。そして鳴るチャイム。
「おーい、教室入れー」
五十分、我慢した。
■
最後の一投を終えた状態で固まっていた里奈ちゃんが、ぴくぴくと目元を痙攣させながら森野さんへとゆっくり振り返った。
「なんであたしの中学時代のあだ名知ってんだよお!」
一本倒せば勝ちという状況でガーターをやらかしたら誰だって冷静ではいられないよね。しかも挑発に邪魔されちゃったせいなら、怒りたくなる気持ちもわかるよ……。
「ま、情報網の差ってやつ?」
「最近までボッチだったくせに調子乗ってんじゃねえ!」
「てめえ、言いやがったな、言いやがったな!?」
妖精のイメージが欠片も残らない怒りに満ちた表情で立ち上がろうとする森野さんをみっちゃんが椅子に抑えた。森野さんはどっかりと座りなおして腕を組んだ。
「ま、まあいい。勝ちは勝ちだ。メロンパンはいただくからな」
「ちくしょう。なぜだ……いったいどこから……誰が……」
ぶつぶつとつぶやきながら戻ってきた里奈ちゃんは翔子ちゃんに励まされていた。なんだかちょっとかわいそうだな。
あたしの視線に気づいた翔子ちゃんが里奈ちゃんに気づかれないように口元で人差し指を立てた。
そう、翔子ちゃんなのだ。翔子ちゃんが、負けそうになって頭を抱えている森野さんの耳元で何事かを呟いたのだ。
でもなんで、わざわざ里奈ちゃんに不利になるようなことしたんだろう。あたし、森野さんのダンス見たかったな。もったいない。今度ドレスだけ借りて着せてみよう。最近は猫を駄目にするブラシも受け入れてきてるし、頼めばきっと着てくれるよね。
帰りの支度をして靴を履き替えているとき、森野さんが、ああそうだ、と声を上げた。
「ちなみに一日三食で二十一個な」
「いや、そこは七個だろ、何言ってんだ、ははは」
里奈ちゃんの乾いた笑いにも、森野さんは平然と答えた。
「一週間分なんて曖昧な言い方をした自分を責めるんだな」
「おい、正気か? 一介の女子高生からそんな大金巻き上げるのか?」
「やれやれ、自分の言ったことも守れないのか。仕方ない、せいぜい明日の朝に起こることを想像して震えているがいい」
森野さんは嗜虐的に唇を歪め、髪をファサァっと払って出口へと先に歩いて行った。
「明日の朝……? どういうことだ……いや、待て、まさか」
ジェットコースターみたいに困惑から絶望へと目まぐるしく変わる里奈ちゃんの表情。森野さんは足を止めて、顔だけを振り返らせていやらしく笑った。
「明日からよろしくな、たら子」
「うわあああああ」
崩れ落ちる里奈ちゃん。自動ドアの先の階段に響く森野さんの悪魔的な高笑い。
お、鬼だ……。やりすぎだよ……。翔子ちゃんも流石にここまでの展開は予想していなかったのか、思いっきり引いていた。
あたしは膝と掌をフロアにつけている里奈ちゃんの横にしゃがんで、背中をなでながら言った。
「あたしはかわいいと思うな、響きがいいよね、たら子ちゃんって」
「追い打ちしてどうする」
「いたい!?」
みっちゃんに叩かれた! なんで!? かわいいじゃん、たら子ちゃん!
その後、翔子ちゃんに叱られた森野さんは、翔子ちゃんにだけ逆らえなくなってしまった。
すごく……小物です……。
友人からはマンネリ化しているとの厳しい一言。
次から女子高生がはしゃぐだけの話はしばらく封印。




