森野さん 三話
友人が書いたお話。
倫子は みちこ と読みます。なのでみっちゃん。
三話「立て看板、38階、薙刀」
やめとけばよかった。
気がつくと夏美は完全にキレていて、両頬をシマリスみたいに膨らませていた。
森野に目配せする。向こうはこちらに目配せしていた。つまりお互いに「おまえがなんとかしろよ」と言っている状態だ。さてどうしよう。
夏美の口からプシューと息が吐き出される。頬袋が萎み、次に言葉が出てきた。
「つまり、あれだね。わたしは馬鹿なんだね?」
なんとも返しにくい問いかけだった。
十分前、あたしは小テストに備えて森野と問題の出し合いをしていた。五分前、そこに夏美が加わった。
以降の五分間、夏美はあらゆる問に答えられず、気づけば頬をシマリスにしていた。
「テスト勉強はしたのか?」
森野が直球の問いかけをする。
「したような」鼻息を鳴らす夏美。「してなかったような!」
「しろよ」
つい突っ込んじゃうあたし。夏美はうわーんと喚いて机に突っ伏した。
「頭が良いからって馬鹿をいぢめるの!? 力が強いからって軟弱者をいぢめてはいけないのに!」
「軟弱者はいじめるよ」と森野。「弱いのはいいが軟派はクズだ」
「またそうやって屁理屈こねる!」夏美は叫んだ。「頭いい人はみんなそう! 森野さんなんて鼻の穴膨らませてドヤ顔するし!」
「私はそんな顔しねえよ」
「みっちゃん! 次の問題!」
あたしは頷き、森野に目配せする。頼むぞ、空気を読んでくれ。
「うばたまの、続く言葉は?」
「黒。または夜、夢」
森野は即答し、鼻の穴を膨らませてドヤ顔を浮かべた。なぜ空気を読まないのか。
夏美は絶叫する。
「なにその呪文!?」
「古典もわからぬ純日本人か」森野はやれやれと首を振る。「片腹痛いな」
「もう駄目だ」夏美はついに泣き出した。「あたしはテストに落ちて、先生に怒られて、親にも怒られて、爪を切れば深爪して、買ったバナナは全部腐ってて、恋する男はみんなチャラ男で、好きなドラマは打ち切りになるんだ」
そう言うと夏美は両手で目を抑えて肩を震わせる。なんていうか何も言えねえ。
ここにきてようやく追い詰めすぎたことに気づい……てない。森野は勝ち誇った顔をしていた。この女、程度を知らねえ。
仕方ない。
さすがに夏美が可哀想なので、あたしは古い問題を出すことにした。
「……あるところに薙刀部のたけしがいました」
夏美が顔を上げる。
「たけしはとても優しく、女の子にモテ、そしてタワーマンションの38階に住んでいました」
「何者だよたけし」
唐突に始まった話に森野は困惑気味だ。あたしは構わず続ける。
「その日、たけしはおばあちゃんから伝説の薙刀を受け継ぎました。おばあちゃんは泣いて喜びました。この薙刀はおじいちゃんの形見で、貴方がこれを継げるほど強くなる日を心待ちにしていた、と。たけしは薙刀を大切にすると約束しました。おばあちゃんは、もしも薙刀を折ったりなくしたりしたら自分は蒟蒻ゼリーを噛まずに食べて死ぬ、と脅しました」
「信用ねえなたけし」
「さて、同じ日にたけしは学校のマドンナに告白されました」
「激動の青春だなたけし」
「あなたの住むタワーマンションの一階に入ってる喫茶店で、閉店する午後十時まで待ってます。来たら付き合う、来なければ付き合わない、ということにしましょう。なお来ない場合、私はコーヒーカップで脳天をかち割って死にます、とマドンナは言いました」
「詰んでるなたけし」
「さて、たけしは九時四十五分に薙刀を持って喫茶店に向かいました」
「ギリギリじゃねえか余裕もっていけよたけし」
「しかし伝説の薙刀は普通に刃物なので、店長に入店を拒否されました」
「言わんこっちゃねえたけし」
「中にいる知り合いにちょっと会ったらすぐ帰るから、とたけしは訴えますが、店長はかぶりを振って言いました。昔、そんなふうに頼まれて仕方なく包丁を持った男を店に入れたら、刺された上に金を取られた。それがトラウマで、店に刃物があると古傷が開く。次に開いたら死ぬ。これがそのときの傷。たけしは店長の脇腹にある縫い跡を見て、この喫茶店のサンドイッチの断面がめっちゃ汚い理由を悟りました」
「その流れで悟ったのか冷静だなたけし」
「むかついたたけしは喫茶店の立て看板を蹴り飛ばしました」
「おい優しいんじゃねえのかたけし」
「さて入店を拒否されましたがたけしは慌てません。なにしろ自宅は喫茶店の真上。エレベーターでなら38階までいって薙刀を置いてから戻ってきても五分とかかりません。たけしはのんびりエレベーターに向かいます」
「走れよマドンナ死ぬぞたけし」
「しかし驚愕の事実が発覚。薙刀はエレベーターに入りませんでした。えらいこっちゃ、とたけしは震えます。階段ではどんなに急いでも38階まで上るのに15分かかるのです」
「足遅えなたけし」
「さてここで問題。優しいたけしが誰も死なせずに済むには、どうすればいいでしょうか?」
夏美が即座に手を挙げた。森野が目を丸くする。
立ち上がってあたしの隣まで来ると、夏美は答えを耳打ちした。
「正解」あたしは言う。
「ふっ」
夏美は髪をかきあげると、鼻の穴を膨らませてドヤ顔をした。森野は信じられない驚きを満面に表現していた。
そのとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。それは古典の小テストの始まりを告げるチャイムでもあった。
夏美は慟哭した。
◆
「というわけ」
ちょっと来いや、とチンピラ風に連れてこられた喫茶店で、森野は僕にたけしの問題を語った。
「可哀想だね、たけし」
感想を言ってサンドイッチを噛む。断面は真っ直ぐだった。ここの店長は脇腹に傷がないのだろう。
「で、答えわかる?」
「なんでそんなに必死なの」
「負けたくないじゃん」
「もう負けてるじゃない、その、夏美さんとやらに」
「まだ負けてない。あれは反則だ。だってこの問題作ったの夏美なんだよ。一週間ロクに眠らずに考えたんだって」
「夏美さんは頭がちょっぴり不思議だね」
おかげで赤信号仲間から帰りにお茶する仲にまで昇格できた。夏美さん万歳。
「で、まあ、一晩猶予をくれた」森野は言う。「正解できなかったら私、明日一日夏美の犬になるんだ。恥ずかしい。助けろよ」
犬の森野。男子高校生特有のいやらしい妄想が広がりそうになった僕は、ブラックコーヒーを飲んで平静を保つ。
「僕の手を借りるのも、反則なんじゃないかな」
「友達の手を借りるのは反則じゃない。友達が協力してくれるのは私の人間性がいいからだ。つまり私の力だよ。だから、その、なんていうか」
森野は紅茶のパックをしきりに上下させる。茜色の水面が波打つ。
「私と、友達になってほしいん、だけど」
その言葉は、謎謎に協力する見返りとしては、豪華すぎる褒美だった。
「勿論。そしたら、問題を整理しようか」
森野はぱっと顔を輝かせる。
「えっと、たけしは薙刀を持ってる。そのせいでエレベーターに乗れない。家まで上るには15分かかる。時刻は九時四十五分で、マドンナがいるのは十時まで」
「で、薙刀を折ったりなくしたりしたらおばあちゃんが死ぬし、十時までに喫茶店にいかないとマドンナが死ぬし、刃物をもって喫茶店に入ると店長が死ぬと」
「八方塞がりだな」
「そうだね。仮説はある?」
「勿論、ある」
森野は鼻の穴を広げてにやりとした。なんだろうあの顔。ドヤ顔だろうか。
「薙刀をどこかに置いてから喫茶店にいけばいいんだ。家に帰らなくていいし、店長も死なない」
「どこかって、どこに?」
「それは……駅のコインロッカーとか」
「エレベーターに入らない薙刀だよ?」
「じゃあ、そのへんにほっときゃいいんだ。誰も盗らねえよ薙刀なんて」
「万一盗られたらおばあちゃん死ぬよ」
「うっ……おばあちゃんはその……心の中で生き続けるから……」
「現実に生きてないと駄目だろうね。家族に薙刀を取りに来てもらうのは?」
「あ、それ駄目だって。たけしは誰にも助けてもらえないらしい。味方はいないんだって」
「……たけしは優しい青年なんだよね?」
「そのはずだけど」
一体たけしとは何者なのか。
「わかんねえよー」森野は伸ばした足をばたばたさせる。「嫌だ……犬は嫌だ………!」
僕は右頬に手を添える。考えるときはいつもこうするのだ。
さて。
とにかく薙刀が邪魔なのだ。これをなんとか処理したい。が、味方はいない。しかし独力でどうにかするには時間がかかる。
とすれば、答えは一つだ。
「あのさ」僕は姿勢を正す。「本当に僕が協力してもいいんだよね?」
「だからいいんだって……」
森野は机に身を乗り出した。
「わかったのか?」
綺麗な碧眼が急に目の前に来たので、僕は照れて身体を引いた。
「まあ、うん、たぶん」
「本当に!?」
「でもこの答え、結構しょうもない引っかけだよ。一週間かけて考えるようなレベルじゃないから、間違ってるかも」
「いやむしろビンゴだ。夏美はそういうとこある。つーか」
森野は僕の胸ぐらを掴み、引き寄せて振った。
「御託はいいから言えやぁ! こちとら犬になりたくねぇんだ!」
「やめ、紅茶、こぼれる」
かくして僕は答えを言った。
◇
「浮かぬ顔ですねえ森野氏」
夏美は顎をさすりながら言う。なんだろあれ、髭さする感じ出してんのかな。
「ひょっとしてあれだけ大見得切っておきながら、たけしを人殺しにしてしまったのかな?」
森野は唇を噛んでいた。俯いて、言う。
「薙刀をどうにかしないといけない。でもたけしに味方はいないんだ。これは動かしようのない事実で、どうにもできない」
「たけしってそういうとこあるから」
うんうんと頷く夏美。たけしのことを何だと思ってるんだろう。てかたけしって誰だろう。
「薙刀を一人でどうにかしようと思ったら時間が必要だ」森野は続ける。「だがたけしには時間がない」
「そうなんだよねー、じゃあとりあえずワンって言ってもらおうかな。あとお手」
夏美はすっと手を差し出す。
森野は口の端をにやりとつり上げた。
「本当にたけしには時間がないのか?」
「……え?」
「味方がいないのは聞いた。だが時間がないとは聞いていない。私が聞いたのは、マドンナが喫茶店にいるのは午後十時までで、たけしがそこに着いたのが九時四十五分だというだけだ」
森野は椅子の上に立って、すっと背筋を伸ばし、鼻の穴を広げて夏美を見下ろす。
「閉店時間はわざわざ午後と言っているのに、なぜたけしの到着時間は午前か午後かわからないんだろうなぁ?」
「あ……ああ!」
ぷるぷると震える夏美。突然の攻守逆転に頭がついて来ていない様子だ。
森野はドヤ顔をした。
「つまりっ! たけしが家に帰ったのは実は午前九時四十五分っ! 時間に余裕のあるたけしは、普通に階段を上って家に薙刀を置いたんだっ!」
「うわああぁぁー!」
がっくりと膝をつく夏美。森野はその正面に手を差し出す。
「ほら、お手」
「うぅ、わおーん!」
そんな約束はしていないのに、なぜか夏美は犬になった。
「倫子。勝ったぜ、私」
森野が親指を立てる。あたしは頷きを返した。
言えない。午前午後についてはあたしが言い忘れただけだなんて。昨日の夏美の答えは「たけしって妖精だから、奇跡、起きるんだよ」だったなんて。それが本来の答えで、あたしが正解を出したなんて、言えない。
だからとりあえずあたしは拍手した。
そのあと、一時間目に古典の小テストが返却された。夏美は先生にしこたま怒られていた。




