1998年2月 バンコク
1998年当時、バンコクの国際空港はドンムアン空港だった。成田から約6時間半のフライトで初めてタイに降り立った。着陸後、空調が効いた機内を出て、空港に通じる通路を歩き始めるとムッとした熱帯らしい湿気と暑さを感じた。今回の旅行の前にタイの気候や地理、言葉、通貨、電圧など基本的な旅行情報を調べた。タイには3つの季節がある。雨季、乾季、暑季。11月から2月ぐらいまでは乾季。雨が少なく気温も低めなので、タイを訪れるのには一番いい季節だ。気温は低いといっても、最高気温は30℃近くまで上がる。
ドンムアン空港は入国のシステムや空港の施設が古く、時代遅れの感じがした。タイはその当時、まだ発展途上国だった。その数年前に訪れたインドネシアと同様に、貧しく無秩序で、軍隊が政治の実権を握り、窃盗や誘拐が多発する危険な国だという先入観を持っていた。
荷物は機内に持ち込んだヴィトンのボストンバッグだけだったので、入国審査を終えると出口へ出た。出迎えの人でごったがえす中に彼を見つけた。彼はいつものように軽く手を上げて、よくとおる声で「ヘイ、マリコ!」と私を呼んだ。飛行機を降りてから、タイの空港の雰囲気に少し緊張をしていたので、彼の声を聞いてほっとした。彼と一緒なら、世界中どこに行っても安心だ。彼は前回会った時よりもさらに日焼けをしていた。
「日に焼けたわね。現地の人みたい」
「あはは、ここはタイだからね。しかたないよ」
空港の外は眩しい太陽がじりじり照り付けていた。到着フロアーの出口の前には大量のショッキングピンクのボディカラーのタクシーが昆虫の集団のように群れをなして客を待っていた。彼は私のヴィトンのボストンバックを持つと、一台のタクシーに近寄り、ドアを開けてドライバーに何かを聞いた。タイ語で会話をしているようだ。ドライバーの返答が気に入らなかったのか、手を振りながらタクシーのドアを閉めた。別のタイクシーに近づき、またドライバーとなにか交渉している。このタクシーも気に入らなかったようだ。近くのタクシーが私たちの気を引こうとクラクションを鳴らしている。3台目のタクシードライバーと交渉が成立したようで、私にタクシーに乗るように促した。私に続いて彼も後部座席に乗り込むと、シートに体を沈めるように深く座り私の肩に手をまわした。徹夜をする日もあるぐらい働き詰めなので、かなり疲れているようだった。そんなに疲れているのに、私のために時間を作ってくれたことがうれしかった。
タクシーの中はクーラーが効いていた。ダッシュボードの上にはタイ国王の写真と仏像の絵が貼られていた。バックミラーには数珠がかけられ、車内はきついお香の匂いした。
「エアコンがきつくて寒いわ」
と言うとドライバーにタイ語でエアコンの温度を上げるように言ってくれた。
「タイ語がしゃべれるなんて知らなかった」
「こっちで仕事をするようになったから、勉強したんだよ。タイ人の英語はあてにならない。理解していなくても、分かったふりをするから困る。本当に分かったのか問い詰めると『メルー(知らない、分からない)』って言うんだ。こちらが現地の言葉でしゃべるほうが確実だね」
「すごいのね、何か国語しゃべれるの?タイで働き始めて半年ぐらいでしょ。どうやって勉強したの?」
「ドイツ語、フランス語、スペイン語、タイ語。もちろん、韓国語と英語ね。ロシア語、中国語と日本語も。これまで、どんな言葉の習得にも困ったことはないよ。語学を習得する才能があるんだろうね。いつも飛行機の移動で長時間過ごすので、移動中に語学の本を1冊読んで文法や文字をマスターする。後は現地でしゃべっているのを聞いて発音を覚える。私は耳も抜群にいい。アメリカ人の発音を聞くとどこの地方の出身かだいたいわかる。イギリスに行けばイギリス英語をしゃべるし、日本人としゃべるときは日本人にわかる英語でしゃべる。世界でビジネスをするためにとても有利な能力を授かって両親に感謝しているよ」
そうか、私としゃべるときは日本人にわかりやすい英語でしゃべってくれているのね。淡々としゃべる彼の横顔を見た。タイ人のドライバーが彼になにか聞き、彼がタイ語で答えた。冗談を言ったらしくドライバーは面白そうに笑っている。
「ドライバーになんて聞かれたの?」
「タイ語が上手だ、どうやって覚えたのかと聞かれたので、私はタイ人だと答えたんだ」
バンコクの道路はタクシーが溢れかえっていた。オート3輪の後ろに人を乗せる箱をつけたトゥクトゥクという乗り物も道路の真ん中を走り、渋滞をさらに加速させていた。空港から高速道路を通り、40分ぐらい走って、ホリデイインバンコクに到着した。アメリカの簡素なビジネスホテルとは異なり、ホリデイインバンコクは5つ星の高級ホテルだった。ホテルのエントランスで、体にぴったりした美しい民族衣装を来た女性スタッフと浅黒く彫の深い顔立ちの男性スタッフが満面の笑顔で迎えてくれた。ホテルのロビーにはタイの国花の蘭や熱帯性の植物が飾られ、エキゾチックなお香が香り、ホテルの従業員は皆、非常に親切に対応してくれた。豪華なホテル、美しいホテル従業員たち、世界中どこに行っても守ってくれる彼が横にいる。心が明るく軽やかに開放的になるのを感じた。
部屋に入るとマンゴー、バナナなどのフルーツの盛り合わせがホテルから用意されていた。ベッドの上やバスルームには蘭の花が飾られていた。彼は小さなボックスを私に手渡した。
「開けてごらん。タイでオーダーしたリングだよ。リングのデザインは私がした。タイはルビーやエメラルドの産地だから質がいい」
4個のルビーが花弁にあしらわれたデザインのリングだった。前回もらったエメラルドの石がついたリングを外して、美しいルビーのリングをつけた。彼が私の手を取り、自分がデザインしたリングを満足そうに眺めている。
「僕は車のデザインもするけれどアクセサリーのデザインも上手だね」
と笑った。
バンコクでの最初の夜は日本人駐在員がよく行くことで有名な歓楽街タニヤ通りにある日本料理レストランに行った。タニヤ通りには 「さくら」、「ももたろう」、「ぎんさ」のような日本語の看板で溢れていた。バーやレストランの前には濃い化粧をした若い女の子たちが椅子に座っておしゃべりをしながら客引きをしている。賑やかなダンスミュージックの流れるお店の中を覗くと、ネオンカラーのライトの中でビキニのような衣装を着た若い女の子たちがストレートヘアーを揺らしてバーに体を巻きつけるようにして踊っている。
「ゴーゴーっていうんだ。バーの前にたむろしている女の子たちは中学生ぐらいの子も多い。ここでは20歳ぐらいでもうママさんだ」
彼が日本企業の社員の方と時々食事をするという日本料理レストランに入った。日本人駐在員らしいお客さんが5−6グループいた。みなタイ人の若い女性を連れている。1人の男性に2人、3人のタイ人女性がついているグループもいた。男性たちの多くは酒に酔い女の子を相手に冗談を言ったり猥談をしたりしているのが聞こえた。タイ人の女性たちは日本語で嬌声をあげていた。日本の経済力がアジアの中では突出していた時代。日本企業の駐在員たちは気前良くお金を使ってくれるお客だった。
私たちは日本食をコピーしたような寿司とてんぷらを注文した。
「ここの日本食でも、タイの女性たちにとっては高級料理なんだよ。彼女たちは日本人のお客さんと食事に行きたがる。駐在員にしてみればここの食事代なんて安いものだ」
食事の後、タニヤ通りに並行しているパッポン通りを歩いた。パッポン通りも日本人が多い歓楽街だ。衣料品、CD、時計、バッグ、靴などのブランド品のコピー品を売る屋台、食べ物の屋台などが通りの端から端まで立ち並んでいる。屋台の店主たちは私に片言の日本語で
「ヴィトン、プラダ、シャネル、バッグあるよ」
と話しかけてくる。狭い通路はラッシュアワーの満員電車ような混雑だ。初めて見るバンコクの夜の喧騒に圧倒された。彼は私が肩にかけていたハンドバッグを取って言った。
「スリが多いから気をつけて。バッグは私が持っているよ」
パッポン通りの屋台を少し見た後、ホテルに帰るタクシーを拾った。空港でタクシーに乗った時と同じように彼はタクシーのドアを開けてドライバーと話しをし、気に入らなかったようで別のタクシーに向かった。値段交渉ではないようだ。何を話しているの?と聞くと、
「タイクードライバーが誠実な人かどうかを判断している。客を騙そうとしているタクシーには乗りたくないのでね」
クーラーのよく効いたホテルに戻るとほっとした。
翌日は現地のガイドが付いたバンコクの寺院を回るツアー、3日目はアユタヤ遺跡観光のミニバスツアーを手配してくれていた。
バンコクの寺院は黄金で覆われた大仏像のいる寺院、エメラルドやルビーなどがふんだんに使われたエメラルド寺院など、ガイドブックに必ず載っている有名な寺院を回った。バンコクの道路はどこも車で溢れいていた。ツアーバスが信号で止まると 貧しい身なりをした子供たちがツアーバスのお客に小さなブーケや寺院で飾る白い花の飾りなどを売りに来た。寺院の中は黄金や宝石で飾られているが、街で見る人々の生活は貧しそうだ。この国は豊かなのか貧しいのか、そんな疑問を持ちながら街の風景を眺めていた。ツアーは途中、宝飾店に立ち寄った。タイはルビー、エメラルド、サファイアなど宝石の産地だ。ツアーガイドのタイ女性がタイの宝石の質がいいことをツアー客に説明をした。ふと私がつけているルビーのリングに目を留め、これはタイで買ったのかと聞いた。
アユタヤ遺跡の観光は興味深かった。ツアーバスがホテルで私たちをピックアップしてくれ、10名ぐらいの外国人ツアー客を乗せてアユタヤに向かった。アユタヤはバンコクから80kmぐらいのところに位置するタイの古都。1767年にビルマ軍に攻撃され破壊されるまでタイの中心地だったそうだ。アユタヤ遺跡の中心である寺院の仏像は ビルマ軍の攻撃により、ほぼ全ての仏像の頭部は切り取られて残されている。首のない仏像がずらり並ぶ寺院跡はその攻撃に激しさを物語っている。アユタヤの寺院の前には運河が流れ、平和な現代から過去を想像した。
1998年に初めてバンコクを訪れて以来、私は3〜4ヶ月おきにタイを訪れ、彼と3〜4日の休暇を過ごすことが日常になった。私は東京で土曜日にタイ語の学校に通うことにした。そのうち私たちは英語、韓国語、タイ語、日本語などで会話をするようになった。