1997年5月 ソウル
成田はゴールデンウィーク中に海外旅行に行く人でいつもより混雑していた。成田から金浦空港まで2時間少しだった。韓国がこんなに近い国だったことを初めて知った。1997年当時、日本人が韓国に行くというと、男性が買春に行くというイメージがあった。私は会社の同僚たちにはソウルに行くことを話さなかった。
荷物は機内持ち込みのヴィトンのボストンバッグだけだったので、飛行機を降りて入国審査を通過するとすぐに出口を出た。日本人の名前を書いた出迎えのサインを持った人々がたくさん出口で待っていた。出迎えの人の中にいる背の高い彼をすぐに見つけた。いつものように軽く抱き合って頬にキスをした。金浦空港は古びた印象の空港だった。たくさんの迷彩服を着た軍人が空港内を歩いていることに違和感を感じた。韓国には軍隊がある。日本からは近いけれど、違う体制の国だと感じた。アメリカで感じたような開放的な浮き浮きした気分にはならなかったが、彼が自分の祖国を私に見せたいという気持ちがうれしかった。
金浦空港からタクシーに乗って、ソウルの中心地に向かった。空港からの道程、夕闇の中に赤い十字架がたくさん浮かび上がっているのが印象的だった。たくさんの赤い十字架が暗闇の中に浮かび上がっていたので少し怖いような気持ちになった。
「あの赤い十字架はなに?」
「教会の十字架です。韓国はキリスト教国です。夜には赤くライトアップするようです。私もソウルの街をゆっくり見るのは10数年ぶりなので、最近のソウルのことはわからないです」
韓国ではキリスト教徒が40%ぐらい占めることをその時初めて知った。意外な気がした。なんとなく仏教徒や儒教徒が多いのかと思っていた。彼もキリスト教徒だった。小さい時から日曜日は家族で教会へ行き、朝の礼拝の後は孤児院に食べ物を持って行き奉仕活動をしたそうだ。彼が前回東京に来た時に、日曜日だったので自分と同じ宗派の教会を探して日曜礼拝に行った。私も初めて東京で教会に行った。東京に韓国の教会があることをその時初めて知った。
金浦空港からタクシーで40分ぐらい。着いたのは新村という街だった。タクシーを降りると、夜の街に若者があふれていて、にぎやかなところだった。彼が韓国で卒業した大学、延世大学が近くにあるそうだ。隣の駅には韓国で一番の女子大梨華女子大があり、このあたりはソウル一の学生街だそうだ。街の雰囲気が新宿や渋谷に似ていた。
「明日、延世大学を案内します。私の母校です。韓国で一番ランクが高い大学はソウル大学で、日本の東京大学のような位置づけです。私立大学では、高陵大学が日本の早稲田大学、延世大学が慶應大学に例えられます。私はソウル大学に進学したかったのですが、祖父や伯父たちの多くは延世大学出身なので、ソウル大学に行くことを許してもらえませんでした」
新村の表通りに面したミラボーホテルにチェックインをした。欧米スタイルのホテルだった。彼は先にチェックインをして、いつものように、部屋を居心地よくしていてくれた。
「晩御飯を食べに行きましょう。新村にソルロンタンの美味しいお店があるそうです。ソウルに住んでいる友人に聞きました」
「ソルロンタンってなんですか?」
「ビーフのスープです。ビーフのエキスが凝縮されていて、美味しく体にいいスープです」
初めて食べたソルロンタンという料理は熱い白いスープの中に牛肉や骨が入っていた。何日も煮込んでスープを取った後なので、中の牛肉を食べるのではなく、スープを食べる料理だそうだ。ごはんやキムチ、野菜やパジョンという小さなお好み焼きのような小皿が一緒にテーブルに並べられた。ソルロンタンの器の中にごはんを入れて、好みで塩やコショウを入れて、味を調節して食べるのだと、食べ方を見せてくれた。ビーフのエキスが体にじんわりと染みわたるような優しい味の料理だった。翌朝はお肌がプルプルしているような気がした。
1997年はタイで起こった通貨危機を発端にアジア各国が経済危機に陥った年だった。韓国もIMF(国際通貨基金)に救済を要請し、IMFの管理下に置かれていた。私はIMFが何なのか、アジアの経済危機がどのくらい深刻なのかを理解をしていなかった。興味も薄かった。ただIMFや経済危機だという言葉をニュースや新聞で聞くので、景気が悪いんだなぁと漠然と感じているだけだった。
ソウルの街にはIMFの文字があふれていた。ケンタッキーフライドチキンにはIMFセット、マクドナルドにはIMFバーガーというメニューがあった。IMFバーガーというのはバンズの間に魚肉ハムをはさんだバーガーだった。
国の景気は悪くても、街の若者たちは東京と同じように若さを謳歌していた。彼と一緒にソウルの映画館で レオナルド・デカプリオ主演のタイタニックを見た。映画館は若いカップルでいっぱいだった。悲しい結末にすすり泣いている私の手を彼がぎゅっと握りしめた。彼と一緒にいると心が穏やかになるのを感じた。
彼は約束通り、延世大学のキャンパスを案内してくれた。新村の駅から延世大学に続く延世路には学生向けの居酒屋やカフェがずっと並んでいた。延世大学のキャンパスは広く、公園のように緑が多く美しい大学だった。学生は裕福な家庭の子弟が多いそうだ。
「私の父は厳しい人でした。私は大学に合格した日に父に呼ばれて言われました。『大学合格おめでとう。これからは自立して自分の力で学費を稼いで自分の力で卒業しなさい。お前はそれができるはずだ』。私は父の言葉に驚きました。私のうちは小さな貿易会社を経営していました。今は弟がそのビジネスを継いでいます。私は毎日、授業が終わると家庭教師や英語の通訳などの複数のアルバイトを掛け持ちして生活費と学費を稼ぎました。私の学友たちは、なぜ私が同級生たちのグループに入って遊ぶこともなく、アルバイトばかりしているのか不思議に思っていたようでした。アルバイトが終わると寝る時間を惜しんで勉強をしました。学友たちと遊ぶ時間はまったくありませんでした。今の若者のように学生時代を謳歌ことなどできませんでした。
父は私には学費も生活費も出してくれませんでしたが、延世大学の奨学生のための基金を設立して、親のいない学生たちには奨学金を支給していました。他人の子供にはお金を出すのに、なぜ自分の子供には学費を出してくれないのか。父は私を憎んでいるのだと思っていました。
母は父に隠れてそっと私を援助してくれようとしましたが、私は意地になって、実家からの支援を断りました。厳しい学生時代をおくりました。
その当時は、父を憎みました。でも、今になって父がなぜ私に学費を出してくれなかったのか理解できるようになりました。その後の長い人生を生き抜くための試練を与えてくれたのでした。私は自分を律して、学費を稼ぐ仕事をしながら、学業は常に一番の成績を収め、大学の卒業式では卒業生の代表で答辞を読みました。強い精神力を養えたことに感謝をしています。」
「ストイックな学生時代だったのですね。私は日本のバブル期だったので、学生時代は遊んでばかりでした。恥ずかしいです」
「学生時代には女子学生と付き合ったこともありませんでした」
彼は少し寂しそうに笑った。
2泊3日のソウルの旅はあっという間に終わった。
「タイム フライズ(楽しいときはすぐ過ぎてしまいます)。ありがとう来てくれて。東京に着いたらすぐに電話をしてくださいね。年末には東京に行きますから」
彼は3,4か月に一度は、東京を訪れて2日ほど滞在して、ニューヨークに帰っていった。1997年11月にソウルを初めて訪れて以来、彼は私を何度も韓国に誘ってくれた。ソウル、済州島、釜山、慶州、海南郡、いろいろなところに連れて行ってくれた。ソウルから車でドライブをすることもあれば、ソウル、釜山間をつなぐセマル号という日本の新幹線のような特急列車にも乗ることもあった。当時済州島は韓国の人が新婚旅行で訪れるリゾート地だった。ソウルから彼と一緒に大韓航空の小さな飛行機に乗り換えて、済州島にも何度も行った。
「私はソウルで生まれて、若いころにニューヨークに移り住んだので、韓国のことをあまり知りません。韓国の地方都市には行ったことがなかったので、マリコと一緒に韓国を旅行するのはとても楽しいです」
済州島では、彼の幼馴染の友人ご夫婦に会った。お友達の息子さんは現在ソウルで高校に通っていて、高校卒業後はアメリカの大学に留学を考えているそうだ。ご両親がアメリカの大学留学の手続きについて、アメリカに長く住んでいる彼に相談があるということで、夕食を一緒に食べながら話をした。友人ご夫婦は、彼が若い日本人女性と付き合っていることに興味を持っているようだった。済州島の豪華な海鮮料理レストランに招待をしてくれた。当時、私は韓国語を全く話すことができなかったので、ご夫婦とは会話ができなかった。「こんにちは」、「ありがとうございます」、「美味しいです」、「はい」、「いいえ」といった数語の韓国語を繰り返すことしかできなかった。彼とご夫婦が話をしている間、彼が時々通訳をしてくれた。
翌日、済州島の空港まで見送りに来てくださった奥様から、木製のつがいの鴨の置物をいただいた。つがいの鴨は仲がよく、死ぬまでつがいでいることから、韓国の伝統的な結婚のプレゼントなのだそうだ。その話を聞いて、心が幸せで満たされるような気がした。いつか彼と結婚するかもしれないと思った。