1996年11月3日 東京 - 彼の母の人生
アメリカに帰ってから、彼は毎日、きっちり朝晩1日2回、国際電話をかけてきた。アメリカ東海岸に住んでいるので東京とは14時間の時差がある。私の朝は向こうの夕方。「グッドモーニン、マリコ。ウェイクアップ」
私の夜は向こうの朝。「グッディイブニンブ。マリコ。ハゥワズトゥデイ」
「先日ロサンゼルスで撮ったマリコの写真をオフィスのデスクに飾ったら、セクレタリが可愛い方ですねと言ってくれたよ。うれしいかったよ」
「東京で初めてマリコの部屋を見た時、こんなに小さな部屋に住むことができるのかと驚いたよ。日本のアパートはウサギ小屋とか言われるけれど、バードケージ(鳥かご)のほうが正確な表現だと思ったよ」
「マリコの小さなホンダカーのエンジンは、私が乗っているハーレーのエンジンより小さいよ」
話し始めると長い。一人でしゃべって、最後に”I love you, I miss you”と言って電話を切る。
「あなたの声を聞くのはうれしいけれど、そんなに毎日30分も40分も電話でしゃべって、仕事の邪魔になっていないかしら?」
「心配してくれてありがとう。私の仕事は想像もつかないぐらいストレスフルで、いつもプレッシャがかかっています。でもマリコと話している時だけは、仕事のストレスを忘れられます。もし迷惑じゃなければもっと話をしていてもいいですか」
11月3日、日本は祝日だった。彼は約束通り、東京に来てくれた。仕事が休みだったので、私は成田空港まで車で迎えに行った。彼の飛行機の到着を到着案内ボードで確認し、到着の出口で待っていた。背の高い彼がキャリーバッグを引いて出てくると、すぐに私を見つけて、「マリコ!」とよく通る声で呼んだ。駆け寄ると彼は大きく手を広げて迎えてくれた。そして軽く私の唇にキスをした。外国の映画みたいだと思った。
私の小さなホンダ車で東関東自動車道路、首都高を走って、私の小さなマンションに着いた。
「マリコ、プレゼントです」
この前もらったガーネットのリングとお揃いの凝ったデザインのネックレスと大きなゴディバのチョコレートのボックスを取り出した。彼は私の小さなマンションに少しは慣れたようだ。
彼は日本人のお母さんのことをベッドの中で話してくれた。
「私の母は代々木に広い土地を持つ裕福な家庭の出です。現在は母のお兄さん、つまり私の伯父が代々木の家を継いでいます。私の父は韓国が日本に併合されている時期に韓国から帝国大学(東京大学)に留学をしていました。父と伯父は帝大の同級生でした。父は伯父を通して母と知り合いました。当時、母は上野の東京音楽学校に通ってピアノの勉強をしていました。毎朝、実家の運転手がアメリカ製の自動車で母を学校に送迎をしていたそうです。まだ東京に車が少なかった時代です。母の若いころの写真を見ました。セーラー服を着た写真はとても清楚で美しかったです。父と母は上野のカフェでデートをするようになりました。
ある日、父が高熱を出して大学を休んでいることを知った母は、実家のメイドと一緒にスープやサンドイッチ、スパイスを入れたホットワインなどを作って、父が借りていたアパートを訪ねて看病をしました。伯父は母がその夜、代々木の家に帰ってこなかったことを覚えているそうです。
そのうちに第二次世界大戦が激しくなりました。母の実家は裕福で政府や軍とコネクションがあったので、多額のお金を支払って伯父の徴兵を免除してもらったそうです。
伯父と父は、実家の計らいで箱根の老舗旅館をしている親戚のうちに身を寄せていました。母は伯父に食料を届けるために毎週のように箱根の親戚の家を訪れて、父ともそっと会っていたそうです。終戦近くになり、韓国人の父は事情により韓国に帰らなければならなくなりました。母は恋人に付いて韓国に行こうとしましたが、実家の両親に反対され、戦時中の困難な時期にそれは叶いませんでした。終戦になり半年が過ぎました。母は父のことが忘れられませんでした。伯父に、韓国へ帰った父に連絡を取りたいと相談しました。伯父は母がどれほど父を慕っていたかをよく知っていました。父が韓国に帰国した後、母は以前のように快活に笑うことがなくなったことに気づいていました。伯父は可愛いたった一人の妹の願いを叶えてあげたいと思いました。
伯父はあらゆる手を尽くして、韓国に帰国した父の消息を探しました。数ヵ月後、アメリカ軍関係の通信網を使い、韓国の父から手紙を受け取りました。母は父からの手紙を受け取り、恋人が元気に生きていることを知り心から安堵をしました。同時に恋しい人に会いたいという気持ちを募らせました。思い悩んだ末、すべてを捨てて父のいる韓国に行くことを決心しました。
両親に決心を打ち開けると、「正子が韓国に行くのなら、親子の縁を切ります。経済的な援助は今後一切しません。それでも行くというなら行きなさい、私たちの娘は戦争で死んだと思うことにします」と勘当を言い渡されました。それでも母の決心は変わりませんでした。
伯父は、妹の死をも覚悟した決心のために奔走しました。ある下関の漁師に話をつけ、家が一軒建てられるほどのお金を渡して、漁師の漁船で妹を下関から釜山に送り届けてもらう手配をしました。母はお手伝いの女性に手伝ってもらって、帯の中につめられるだけの金を縫いこんで、着物の下に着けました。お手伝いの女性も伯父もその着物の重さに母が耐えられるか心配しましたが、母は気丈に振舞ったそうです。
伯父は車を手配し、母とお手伝いの女性と3人で東京から1週間かけて下関に着きました。夜の暗闇の中で漁船に乗る母に伯父は短銃を渡し、帯の中に隠すように言いました。何かあればこれを使いなさい。
釜山には伯父が頼んでいた信頼のできる人が迎えに来ていました。釜山から半月ほどかけて馬車やアメリカ陸軍関係者の車を使ってソウルに着き、とうとう父の家に送り届けらました。父と母はひっそりと結婚しました。」
「お母様の人生はドラマのようですね」
「母はその後もたいへんな苦労をしました。父の両親、親戚たちから、日本人だということでひどい仕打ちを受けました。親戚たちは父に母を離縁して追い出すように迫ったそうです。でも母は、『もう戻るところはありません。こちらに置いてください』と頭を下げ、辛い仕打ちに耐えて、父の両親や親戚に献身的に仕えました。母の実家は裕福で、母はメイドが何人もいる家庭で育ちましたが、母のお母さんが家事をしっかり躾ていたので、料理、掃除、洗濯、縫い物、なんでも完璧にこなしました。母の手料理は本当においしかった。ひどい仕打ちをしていた父の両親や親戚たちも、母の手料理は好きでした。母が縫った服は当時の韓国ではたいへんおしゃれで、みんながうらやましがりました。
私は小さいころに母がキッチンで一人で涙ぐんでいるのを何度も見ました。『オンマ(お母さん)、どうしたの?』というと母はあわてて涙を拭いて、にっこり笑って『チャンちゃん、目にごみが入ったので取っていたのよ。宿題はすんだの?おやつをあげましょうね』。母は私たち子供の前で愚痴を言ったことは一度もありませんでした。声を荒げることもありませんでした。いつも優しく微笑んで、小さいけれどよく通る優しい声でしゃべりました。子供たちが悪いことをしたときは、体をかがめて、大きな黒い目で子供の目をしっかり見て、どうして私たちがやったことが悪いかを静かに説明してくれました。
私は父の母(祖母)が『日本人め』と言って母を激しく打つのを何度も見ました。私はいつも母を庇いました。そのせいで、父の両親や親戚から疎まれました。今でも父や親戚たちとは仲が良くありません。それで、家のビジネスを継がないでアメリカに渡ったのです。本当だったら長男の私が継がなくてはいけなかったのですが。弟には申し分けないことをしたと思っています。
父は親戚からのプレッシャのせいで、外に韓国人の愛人を作り、その人との間に子供もいます。長い間そちらの家庭に行ってしまい、うちにはめったに戻ってこない時期もありました。
私の子供時代も辛いものでした。学校では『あいのこ』と言っていじめられました。私は体が大きかったし、柔道もテコンドウも黒帯だったので喧嘩をすると絶対に負けませんでした。私が同級生を殴ると、母は同級生の両親に謝りに行きました。そこでも母が日本人と罵声を浴びせられるのを見て以来、学校でいじめられても殴られても黙って我慢することにしました。母のためです。でも、あまりにも悔しくて、母に聞いたことがあります。『オンマはどうしてイルボンサラム(日本人)なの。どうしてオッパ(お父さん)と結婚したの?』母は私を抱きしめて、『チャンちゃん、ごめんなさいね。でもお母さんはあなたのお父さんを心から愛しているのですよ』
母が歌ってくれた日本の子守唄を覚えています。『ももたろうさん、ももたろさん、おこしいつけたきびたんこ、ひとつわたしにくださいな』」
私も彼のたどたどしい日本語の童謡に合わせて小さな声で歌った。『桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけたキビ団子、ひとつ私にくださいな。あげましょう、あげましょう、これから鬼の征伐についてゆくならあげましょう。』母親が赤ちゃんをあやすように彼の胸の上でそっと手のひらを動かした。彼の目が潤んでいた。彼の髪をそっとなでながら小さな声で童謡を歌い続けた。彼は私を堅く抱き寄せてしばらくじっとしていた。
その夜の彼はいつもに増して激しかった。子供のころ彼を苦しめた日本という存在への怒りを私の体にぶつけていたのか、愛するお母様への深い思いの表現だったのか。彼の心の深い傷や母に対する深い愛情のことを考えると私の胸は切なく痛んだ。