1996年10月6日 ロサンゼルス ホリデイイン LAX空港
1996年10月6日 ロサンゼルス ホリデイイン LAX空港
私はロサンゼルスLAX空港から20分ぐらいのところにあるホリデイインのロビーのソファーに座っていた。チェックイン時にスーツケースを部屋まで運んでくれたロナルドが来るのを待っていた。
10日間の休暇を取り、メキシコへ旅行に行く途中、トランジットでロサンゼルスに立ち寄った。LAX空港でインフォメーションに行き、空港に近い手ごろなホテルを紹介してもらった。
1泊だけの滞在なので、レンタカーを借りなかった。チェックインをしたときに、夕食を食べにダウンタウンまで行きたいけれど、車がないの、どうしたらいいかしらというと、ロナルドが車で連れて行ってくれると言った。
ホテルのエントランスのガラス越し見えるロサンゼルスの空は真っ青で乾燥した空気がホテルの中にいても感じられる。
ホテルの駐車場にトヨタ車がすーと入ってきた。運転席のドアが開いて、背の高い東洋系の男性が降りてきた。どこの国の人だろう。日本人じゃないみたい。
背の高い男性はキャリーバッグを引いてホテルのロビーに入ってきた。私がソファーに座っているのをちらりと見ると、私の横の一人掛けの椅子にどっかりと座った。私のほうに向かって、「あー疲れました。ロンドンの出張からニューヨークへ帰る途中なんですよ。長いフライトで疲れた。私のセクレタリはダウンタウンのシェラトンを予約していたのですが、大きなホテルは嫌いでね。レンタカーで走っているとたまたまここを見つけたので泊まることにしました。お嬢さんはどちらから来られたのですか」彼の英語にアジア人のアクセントは無かった。
私はなぜか気になった男性から話しかけられたのでどぎまぎした。「東京からです。メキシコシティに休暇で行く途中のトランジットで立ち寄りました。空港のインフォメーションでこのホテルを紹介してもらいました」
彼の精悍な目がふっと和らいだ。「日本人ですか。私はニューヨーク在住の韓国人ですが、母は日本人です。あなたの国の人です。ここで誰かを待っているのですか?」
「ええ、これから夕食を食べに行くのですが、車がないので、ホテルのスタッフの方にダウンタウンまで送ってもらうよう頼みました。ロナルドという名前のスタッフです。彼が来るのを待っています。ロサンゼルスは車がないとどこにも行けませんね」私の英語、通じているかしら。
「それなら私の車で一緒に行きましょう。今日は私の誕生日なのですが、一人でディナーを食べるのは寂しいのでご一緒してください。チェックインをして部屋に荷物を置いてきますから、ちょっと待っていてください」
「誕生日なのですか。コングラッチュレーションズ。でもさっき送迎をお願いしたロナルドに悪いから」
あ、誕生日なのだからおめでとうというのはコングラッチュレーションじゃなくって、ハッピーバースディだわ。変なこと言ってしまった…。
「ありがとう」
彼がフロントのスタッフに早口の英語で何かを言った。フロントの女性が「サートゥンリ(はい)」と答えた。送迎はいらないとロナルドに伝えるように言ってくれたようだ。
男性は慣れた様子でチェックインをすますと、「シャワーを浴びて着替えてくるので、15分ぐらいかかりますが、そこで待っていてください」と言ってエレベータに乗った。私に断る隙を与えない早い行動に、ただうなずいていた。突然の成り行きに驚いていた。
男性の態度や雰囲気に危険な感じは全くなかったけれど、会ったばかりの人の車に乗せてもらっても大丈夫かしら。少しうきうきする気持ちと少し不安な気持ちが混じった気分でロビーのソファーに座って待っていた。
15分ほどして男性がロビーに降りてきた。襟にアイロンがかかった白いポロシャツにきちんと折り目がついた紺のスラックスをはいていた。
「お待たせしました。行きましょう」
彼がレイバンのサングラスをかけた。わたしもつられてサングラスをかけた。男性と並んでホテルを出るときに、ロナルドとすれ違った。ちらりとこちらを見ていた。出会ったばかりの男性の車に乗るなんて尻軽女って思っているのしら。そうじゃないのよ。全然、そんなんじゃないの。でも、どちらでもいいわ、明日、ロサンゼルスを発てば、もうロナルドに会うことはないのだから。
彼の運転はとてもスムースだった。ロサンゼルスの街を良く知っているようだった。
「何が食べたいですか?」
「…。イタリアンとかがいいかしら」
男性は顔をしかめた。「私はイタリア料理は嫌いです。ロサンゼルスにはいい韓国料理のレストランがたくさんありますよ」
「韓国料理は食べたことがありません。でも食べてみたいです」
私がそういうと男性はとてもうれしそうな顔をした。「ありがとう。あなたはやさしい方ですね」
本当は韓国料理にいいイメージを持っていなかった。日本で韓流ブームが始まる前の1996年。韓国料理には焼肉とキムチのイメージしかなかった。でもせっかく車で送ってくれる男性をがっかりさせたくないという気持ちが強かった。
ダウンタウンへ行く途中、彼は自分のことをいろいろ話してくれた。
「私はチャン・ソンといいます。私の母は日本人で、たいへんウェルシー(裕福な)な家庭から来ています。私はボストンのMIT(マサチューセッツ工科大学)を卒業し、現在はニューヨークのトヨタ アメリカでエンジンの設計をしています。アメリカに16年住んでいます」
「16年もアメリカに住んでいるから、英語がネイティブのようなのですね」
「どうでしょうね。私の両親はソウルに住んでいますが、妹と弟一人はアメリカにいます。もう一人の弟はソウルで実家のビジネスを継いでいます。妹はペンシルベニア大学の教授で、弟はニューヨークで脳外科医のインターンをしています」
「私はマリコ・タカハシといいます」
「マリコ、いい名前ですね。英語が上手ですね」
「ありがとうございます。出張で一度ボストンに行ったことがあります。レキシントンというところに2週間ぐらい滞在しました。とても落ち着いた街で好きになりました。仕事でサンノゼにも数か月滞在したことがあります。ロサンゼルスは3度目です。ラスベガスにもコンベンションで行ったことがあります。でもニューヨークには行ったことがありません。いつか行ってみたいです」
「アメリカは何度も来ているのですね。どんなお仕事をされているのですか?」
「IT関係の会社でイスラエルから輸入したシステムのテクニカルサポートをしています」
「エンジニアですか」
「そうですね。システムエンジニアと呼ばれています」
「プライベートなことをお聞きしてもいいですか?」
「ええ」
「結婚はされているのですか?」
「いいえ。以前付き合っていたボーイフレンドは海外に転勤になって別れてしまいました。だから一人旅なのです」
「そうですか。私は日系アメリカ人女性と結婚していましたが、5年前に交通事故で亡くしました」
「……。お気の毒です。お辛いですね」
「ありがとう」
「お子さんはいらっしゃらないのですか?」
「ええ、子供はいません」
彼がすっと外国ブランドのたばこを差し出した。「たばこをどうぞ」
私は少し戸惑って「いえ、たばこは吸いません」
「そうですか。では失礼して」と、彼はたばこに火をつけた。たばこを吸うしぐさがスマートだった。運転席の彼の横顔を見た。サングラスをかけた横顔は日焼けをして精悍だった。短い髪型、きちんとアイロンのかかった洋服、かすかな男性用ローションの香り。男性はとても清潔な印象だった。40代後半ぐらいに見えた。
話をしているうちにダウンタウンに入ったようだ。いかにも西海岸の街という雰囲気に私はわくわくしてきた。ハングル文字が目立つエリアに差しかかると、男性は運転をゆるめて、レストランを探しているようだった。すーと車を1軒のレストランの駐車場に入れると、車を降りて私のためにドアを開けてくれた。
心がときめいた。
高級な雰囲気のレストランだった。テーブルにつくと、美しい韓国の服をきた女性がメニューを持ってきた。彼は女性と韓国語で話をしている。私は透き通るように美しい肌の韓国女性の美しさに目を奪われた。彼は私にメニューを渡して、何を食べますか?と聞いた。
「韓国料理は食べたことがないので、何をオーダーしたらいいのかわかりません。お任せします」
彼はウェイトレスにあれこれ聞きながら、韓国語でオーダーをした。美しいウェイトレスとにこやかに話しをしている彼を見て、なぜか軽い嫉妬を感じた。
「ちょっと手を洗いに行ってきます」かなり長い間、彼は席をはずした。その間に、たくさんの料理がテーブルに並べられた。焼肉やキムチではなく、美しい食器に色鮮やかに盛り付けられた野菜や海鮮料理の数々がテーブルいっぱいに並んでいた。
ようやく帰ってきた彼は、「韓国に居る母に電話をしていました。日本人の若い女性とロサンゼルスで出会ってレストランに居ると母に言うと、その女性がお腹をすかせないようにたくさんお料理をオーダーしてあげなさいね。と言われました。ああ、もうたくさんの料理が来ていますね。さあ、食べましょう」
彼は飲み物にコーラをオーダーした。
「お酒は飲まないのですか?」
「お酒はあまり飲みません。それに車をドライブしてきたでしょ。マリコはなにを飲みますか?」
「私はお酒が弱くて飲めないのです。私もコーラをいただきます」
「私たちは気が合いますね」
お料理はどれも美味しかった。あまりしゃべることがなかったので、この料理はなんという名前なのかを聞き、このお料理はたいへん美味しいということを一生懸命に伝えた。
デザートが終わると、彼が「サンタモニカをドライブしましょう」と言った。レストランの支払いをさっとすませてレストランを出た。
「おいくらお支払いしたらいいですか」
「オーノーノー、お嬢さんにご馳走するのは当然です」
19時ぐらいだった。外はまだ昼間のように明るかった。私はこの前インドネシアに行った時に買ったバッティクのサンドレスにカジュアルなジャケットを羽織って、サンダルを履いていた。気温はまだ30℃ぐらいあるようだった。彼は窓を全開にして車のスピードを上げている。海風が私のポニーテールをなびかせた。とても開放的な気持ちになった。男性がカーラジオをつけた。英語のミュージックステーションが流れてきた。男性はラジオの音楽に合わせて歌を口ずさんだ。テノールの心地のいい声だった。
サンタモニカまでドライブをしてホテルに戻る途中で、「馬鹿な質問をしてもいいですか?」と聞かれた。
「ええ、」
「出会ってその日に恋に落ちて結婚したカップルがいるのですが、そういうことを信じますか?」
「素敵なストーリーですね」
「ストーリーではなく、事実なんです。ホテルに戻ったらあなたの部屋に行ってもいいですか?」
心臓がどきどきした。旅先でのアバンチュール、聞いたことはあるけれど、自分の身に起こるなんて思ってもみなかった。少しためらってから、
「ええ、お話をするだけなら……」
ホテルに戻ると彼は英語のハードカバーの本、外国製のチョコレート、モンブランのボールペンを持って私の部屋に来た。
「これはとても面白い本です。読んでみてください。これはヒースロー空港で買ったチョコレート、ゴディバはお好きですか?それと、モンブランのボールペン。とてもスムースに書けるので使ってください。差し上げます」
「こんな高価なものをいただいてもいいのですか。ありがとうございます。チョコレートは大好きです」
「明日、メキシコに行くのですか?」
「はい、明日、13:00発のフライトです。ですから11:00ぐらいには空港に行かないといけないです」
「もう一日一緒に過ごしていただけませんか。あさってのフライトに変更してください。チケットは明日、私が買ってあげますから」
「でもメキシコシティに住んでいる知り合いの方が、明日、空港に迎えに来てくれるので、変更はできないです」
「その方に電話をして、フライトがキャンセルになったと言えばいいでしょう。その方はメキシコ人ですか?私はスペイン語ができますから代わりに伝えてあげましょう」
「いえ、日本人です。でもチケットを買っていただくなんて申し訳ないです」
「私があなたともう一日過ごしたいのですから。その人の電話番号を教えてください。私のセルフォン(携帯電話)からメキシコに電話をしてあげましょう」
私は電子手帳を取り出して、メキシコの知人の電話番号を伝えた。彼は慣れたようすで、携帯電話から国際電話をかけた。強引な態度だが、嫌な感じはしなかった。むしろ、彼に任せておけば大丈夫、なにも心配することはないという安心感を感じていた。私はメキシコにいる知人に、フライトの都合で到着が1日遅れると伝えた。知人はあっさりと、じゃ、明後日に空港で会いましょうと言った。
電話を切り、子供っぽく両手をあげて「わーい、大丈夫になりました」というと彼は私をぎゅーっと抱きしめた。「よかった。ありがとう。本当にありがとう。汗をかいていますね。シャワーを浴びたらいかがですか。私は2、3仕事の電話をかけないといけません」
私はこれから起こることを想像しながら、熱いシャワーで汗を流し、髪を洗った。髪にタオルを巻いてパジャマ代わりのTシャツを着て部屋に入ると、彼が近づいてきた。大きな彼は軽々と私を抱き上げるとそのままベッドに運んだ。私は目を閉じて彼に身をまかせた。これまでに経験したことのない、激しく、体の芯が溶けるような体験だった。
眠っていたようだった。目を開けると裸の彼がベッドの向いの一人掛けのソファーに座って、私を見ていた。彼の引き締まった筋肉が逞しかった。
「マリコは赤ちゃんのようなイノセントで安心しきった顔をして寝ていました。私にマリコを与えてくれた神に感謝します。妻が亡くなって以来、私の人生はとても辛いものでした。辛さを忘れるために仕事に没頭しました。周囲の人は私をワーカホリックだと呼びます。でもそれは妻を失った辛さを忘れるためです。もう一生喜びはないだろうと思っていましたが、こうしてあなたと会えてまた幸せな気持ちになれました。神に感謝します」
彼は精悍な瞳に涙を浮かべていた。思わず、ベッドから降りて、彼の膝の上に乗った。タオルで涙をそっと拭ってあげると、額を私の肩にのせてしばらくじっとしていた。私のような平凡な若い娘がこんな大人の男性の辛さを和らげてあげることができるのかという驚きと嬉しさの混じった気持ちで彼の頭の重みを肩に感じていた。彼は私の体を彼の膝の上でくるりと向きを変え、後ろ向きに抱きかかえた。私は体の力が抜け、気が遠くなっていった。
目を覚ますと、明るくなっていた。少し開いたカーテンの間から見える明るいブルーの空が東京の色とはちがっていた。寝起きのぼんやりした頭になめらかな英語が聞こえてきた。男性用のコロンの香りがした。彼はシャワーを浴びて着替えもすませているようだった。立ったまま携帯電話で話をしていた。
「まだロサンゼルスにいる。来週、シンガポールには行けない。来週は東京に行かないといけない」そんな会話が聞こえた。
私が目を覚ましたのに気付くと、「シャワーを浴びてきないさい。朝食を食べに行って、その後で航空券を買いに行きましょう」
シャワーを浴びながら昨夜のことを思い出していた。夢の中の出来事のようだけれど、私の部屋にはあの背の高い男性がいる。夢ではなかったのだ。
部屋に入ってサンドレスの背中のファスナーを彼に向けて、「Could you help?」と言ってみた。アメリカのドラマで女性が夫に背中のファスナーをあげてもらうシーンでそう言っていた。彼はファスナーを上げるとウエストに手をまわして、後ろから私を抱きしめた。
車で少しドライブをし、途中で見つけたカジュアルなダイナーに入って、パンケーキとソーセージとスクランブルエッグの朝食を食べた。
その後、ダウンタウンまで行き、トラベルエージェンシに入った。彼は私の持っているチケットをカウンタの店員に見せて、明日のロサンゼルスからメキシコシティへのチケットを購入したいと伝えた。店員は、今持っているロサンゼルスからメキシコシティのチケットを使わなかった場合、メキシコシティから東京へ帰るチケットも無効になると言った。しばらく彼と店員が話をしていたが、結局、ロサンゼルス→メキシコシティ、メキシコシティ→ 成田のチケットを購入した。チケットの代金を見て驚いた。
「すみません、そんなに支払ってもらって」
彼は笑って、「今日1日あります。楽しみましょう。どこに行きたいですか?」
翌朝、彼が車でLAX空港に送ってくれた。空港のカフェテリアで朝食を食べた。テーブルの向い側から私の手を握り、指を一本一本なぞりながら言った。「東京へは10月16日に着くのですね。あなたに会いに10月18日に東京に行きます。これが私の電話番号です。あなたの東京の住所と電話番号を書いてください」
「本当に来るのですか?」
「私は一度言ったことは必ず守ります。約束を守るために全力を尽くしますが、もし守れなくなった時には正直に言います」
彼が本当に東京に来るのか確信はなかった。この2日間のことは旅先でのアバンチュール、それでいいと思った。でも彼が差し出した紙に昨日もらったモンブランのボールペンで自宅の住所、自宅と携帯電話の番号、Mariko Takahashi、高橋麻理子と英語と漢字で名前を書いた。彼は漢字が読めるそうだ。
ユナイティッド航空のカウンタでチェックインをすると、彼は出国ゲートまで私のキャリーインバッグを持ち、もう一方の手で私の手をしっかり握って歩いた。別れ際に耳元で「必ず東京に行きます」とささやいて軽く頬にキスをした。
私は彼の目を見て「さようなら」と言って出国ゲートに入った。