エム
普通の男子高校生、春日真。
物心つく頃から眼科に通っていたそこは……。
エスシリーズ第2弾です。
こちらも重複投稿になります。
転載元
pipi's world投稿小説
どんなに思い出そうとしたって思い出せない。
そんな風に、遠い記憶の中に、君を、見た気がする。
エム
「真、まーこーと!」
母親のうるさい声が遠くでし、俺は目を覚ます。時計は6時半を指している。
「おーきーたー。今行くー」
まだ開ききらない目を薄く開きながらそう返事を返す。もちろん母親に、負けない大声で。
ベッドサイドに置かれた棚の手の届く段に手を伸ばし、愛用のコンタクトケースを取った。薄いレンズを指先に乗せて右目に入れようとするとまた母親の声。
「レンズ、忘れちゃだめよっ」
ゆっくりと右目に装着をしてから瞬きを繰り返す。
「あいあーい」
少し遅れて返事をし、もう片方もすぐに装着した。
少し変だと思うだろう。
でもこれが俺の日常。物心ついてからずっと。
制服に着替えてから鞄を手に階段を下りる。鼻腔に美味しそうな朝食の匂いがして、俺の腹が急かす音を鳴らした。
それを宥めるように手でさすりながらトイレに入る。そのまま隣接する洗面台で歯を磨き、ついでに先ほど入れたレンズがずれていないかを確かめた。
古い家のため、まだ手で回して出すタイプの蛇口をひねると透明の水が流れ出て、それで歯ブラシを洗ってから口をゆすぐ。
その後軽く顔を洗い、手で髪を簡単にセットする。
鏡に映った姿を見ながら首からかけているゴールドのネックレスの位置を直した。
小さい頃からお守り代わりにかけているそれは、シンプルなクロスの形の物だ。
食卓があるリビングへ向かう。ここは何年か前にフローリングに無理矢理変えた。スリッパを履いてない足にすこし冷たい。
「おはよー」
先に朝食を食べている妹の美紗が声を掛けてくる。
いったいこの朝の忙しい時間にどうやったらそう出来るのか化粧が完璧だ。
「はよ」
短くそれに返し隣に座る。鞄は椅子に寄りかからせた。
母親がすぐにトレーに乗せたオムレツと温野菜とオレンジジュースとトーストを持ってきて目の前に一定のリズムで乗せた。
これも定番。日常の一つ。
我が家の朝食はオムレツとハムエッグが交互になる他は変わることがない。
「真、今日は眼科の日よ。はい」
トレーの上から朝食と一緒に厚紙に印刷されただけの個人医院特有の診察券と樋口一葉を一枚テーブルに置いた。
「あー、そっか」
それを受け取り鞄に入れてから朝食に手をつける。テレビのワイドショーでは今流行りのグループが突然の休止宣言をしたとのニュースを大きく報道していた。
「ショックだよー」
そのニュースを見ながら美紗が呟く。手は止まったまま、テレビに釘付けだ。
「……あぁ、そっか。美紗、好きだもんな」
こくんと美紗は頷き、オレンジジュースを一口飲んで立ち上がる。
俺の目にはわからないのだが、最近太ったらしく、オムレツを少しとトーストを半分残してブレザーを着る。
「あら、美紗、もう行くの?」
母親がキッチンから顔を出しそのまま玄関へ向かう。靴箱の扉を開ける音が聞こえる事からきっと美紗のローファーを出してやってるんだろう。
「いってきまーす」
そう美紗の声がする。母親が「いってらっしゃーい」と言いながらドアを閉めた。
時計は7時半を指している。
目の前の朝食は無くなり、最後の一口残しておいたオレンジジュースを飲み干すと俺も美紗の後を追うように立ち上がった。
玄関で俺の靴を出している母親の後ろに立ち、入れ替わるようにして靴を履く。
「いってくる」
母親は笑って手を振る。
「いってらっしゃい。先生によろしくね」
先生は眼科医を指していて、俺は頷いて玄関を開けて外に出た。
俺を見送った後母親は父親を起こしにいくんだろう。
そして、一人になる。
滞りなく授業は終わり、あっという間に放課後。
自慢じゃないけれど、俺はそこそこ成績も良い。
んでもって友人も多いし、一端に恋人も居る。
放課後の教室はクラスの半分くらいの人数が各々好きなことをやっていた。
つまりそれくらいは帰宅部ってことになる。
俺は気の合う仲間と三人で談笑をしていた。
もうすぐ来る人物を待ちながら。
話が盛り上がって一段落した時、
「まーこーとっ」
後ろ側のドアが開いて彼女の百合が手を振りながら俺を呼んだ。
「おーう」
手を振り返すと彼女は走ってきて俺の側に立った。
クラスメイトは最早慣れたという風に気にも留めない。
それくらい俺と百合は仲が良い。
百合は黒髪を背中まで伸ばし綺麗に手入れされた髪は艶々している。
俺はその髪が百合の中で一番好きだった。
「今日は一緒に帰れる?」
百合の手には鞄があり、俺があげたキーホルダーが付いている。
俺は百合に拝むように手を合わせる。
昨日は確かに明日も一緒に帰る約束をしていたのだ。
「ごめん。今日眼科」
百合はそれを聞くとほんの一瞬だけ残念そうな顔をしたけれど、すぐに笑顔で頷き、手を振った。
「いいよ。またね。夜、メールする。今日は部活に出る事にするよ」
百合はそういって踵を返して教室から出て行った。美術室へ向かって。
その様子を黙って見ていた友人の一人がため息をついた。
「百合ちゃん可愛いよなー。……残念だな、今日百合ちゃんも入れてみんなでカラオケってさ、思って。割引券が今日までなんだよ」
ポケットからくしゃくしゃになったそれを出す。
隣に立つもう一人もうんうんと頷いた。
「わりーな。眼科は、ほら、行かなきゃなんねーから」
二人はしょうがないと諦め、俺達は三人で下駄箱へ向かった。
高校の最寄駅から電車を乗り換えて30分かかるところにその眼科はある。
ひっそりと佇むビルの3階。
看板も何も無く、完全予約制で口コミで患者が増えたらしい。
らしい、とつけるのは、予約制のせいなのか俺は俺以外の患者が入るところも出るところも見たことがない。
一度母親にそれを尋ねると、それでもあそこの先生は名医なのだから、とそう短い答えで片付けられた。
まぁ、それでも仕方ないと思うのは、俺の目がやはり普通とは違うからだろう。
階段を上り、上野眼科医院と書かれたドアを開ける。
中は明るく、病院独特のアルコールが混じったにおいがした。
「こんにちは」
受付の顔なじみの看護婦が俺の顔を見て挨拶をする。俺もそれにつられて同じように返し、診察券を出した。
「先生、もうお待ちですよ」
カウンターから出て、診察室と書かれたドアを開ける。
中にはこれまた顔なじみの先生がにっこりと微笑みかけた。
初老の先生は、男で、厳しい事も言わず、幼い頃から笑顔だけは全然変わらなかった。頭は大分寂しくなったけれど。
「こんにちは」
挨拶をしてから椅子に座る。
先生はカルテを広げてからデスクの上のライトをつけた。
「調子はどうかな」
いつもの質問。
「変わりないです。視力も落ちてないようだし」
うん、とひとつ頷き、先生はカルテにボールペンを走らせた。
その後何個か質問を繰り返し、その度にボールペンは黒い文字を描く。
カルテは英語だかドイツ語だか分からない文字で書かれ、あっという間に半ページ埋まった。
「じゃあ少し見ようか」
顎を乗せる台がついている眼科用の台が側から引っ張られ俺の前に置かれた。
その上に顎を乗せ、額をつけると高さを調節され、ライトが当たる俺の瞳をゆっくり片方ずつ先生はレンズを通して見つめていた。
「大丈夫そうだね。じゃあ何時も通り、太陽、蛍光灯、全部の紫外線には眼球を晒さないように。新しいレンズ、3ヶ月分出しておくからね」
お大事に、と声がかけられ、俺は診察室を出た。
俺の目は紫外線に滅法弱いらしい。紫外線に当たるとそれこそ1日で失明してしまう恐れがあるらしい。
だから、小さい頃からずっとこの眼科で特殊なコンタクトレンズを貰って、目に入れている。
だから、俺の1日はコンタクトレンズを入れることから始まり、寝る前に電気を全部消してコンタクトレンズを洗浄液につける所までになる
受付で会計を済ませ、白い箱を貰う。右と左と別々に書かれたシールがそれぞれの箱に貼ってあり、鞄にそれをしまうと看護婦のお決まりの「お大事に」を背中に聞きながら、俺は眼科医を後にした。
翌日。
ハムエッグとトースト、オレンジジュースに温野菜を食べながらテレビのワイドショーを見る。
昨日までは有名グループを取り上げていたのに、今日はまったく違っていた。
天才少女現るだの、超能力だの。
よく分からないが、エスという人物の事を取り上げていた。
ぼんやりとそれを見つめていると母親がテレビのリモコンを持ち勝手にチャンネルを変えた。
「母さん、天気予報見たいのよー。今日布団干したいの」
お目当ての天気予報を見つけるとそれを食い入るように見つめている。
「雨降らないといいね」
妹がそう言い先に立ち上がって玄関へ向かう。母親も少し後れて天気予報に後ろ髪引かれながら玄関へ向かった。
俺はいつも通りに最後のオレンジジュースを飲み干し、その後を追った。
妹が去った後の玄関で母親に見送られる。
きっと母親は父親を起こした後に俺と妹の部屋に入って布団を出すんだろう。
部屋が散らかっている事に文句を言いながら。
登校するとすぐに百合が俺の教室にいつものように遊びに来た。
「真」
背後からぎゅーっと抱きしめてくる。
されるがままその抱擁を受け、百合が気が済んで離すまでじっとしていた。
「ねー、今日、お願いがあるんだ」
百合は甘えた口調で俺に首をかしげて言う。
「ん?」
「あのね。今日、真が通ってる眼科教えて欲しいの。実は私……目が悪くなっちゃって」
困った様子で百合が言う。確かに二人で歩いていても最近はよく見間違えていた。
「いいよ。今日行くんだろう?着いてってやるよ」
そっと百合の黒髪を手で梳くように触る。さらさらと指の間を髪の毛が流れる。
「ありがとう。じゃあ放課後ね」
放課後はすぐに来た、が。
俺は自由の身にはならなかった。
「春日君、放課後ちょっと来てね」
春日、というのは俺の苗字で、言ったのは担任だった。
ホームルームの終わり、百合とのデートを想像していた俺の耳にそれは残酷に響いた。
「あ、はい」
思わず返事をしてしまった。
脳裏に様々な事が浮かぶ。
先日のテストの結果だろうか。
悪い事もしていないはずだし。
クラスメイトが帰っていく中、俺は友人に百合あてのメモを残した。
眼科の場所と、侘び。
そして職員室へと足早に向かう。
担任の用事は大したことではなく、最近成績が落ちていることや進路希望の用紙を出していなかった事への注意。
俺はそれを素直に聞き、進路希望の用紙も出した。
失礼しました、と職員室を出たときにはすでに1時間は経っていて、足早に教室へ戻るがそこには百合の姿はおろか誰の姿も無かった。
廊下では他のクラスの奴が数名慌しく歩いていて、大声で会話をしている。
「ねー、早くいこーよ。渋谷」
「ほら、ミキ、はやくっ!エス見るんでしょ」
エス?
あぁ、今朝のニュースか。と、思い出しため息をついた。
本当に日本人はミーハーだ。確かに以前からエスの噂は高校生を中心にされていて、俺も聞いたことがある。百合に連れられて渋谷を一日中探し回った事もある。
けれど、それがこんなに顕著に現れるなんて。
普段なら誰かしらいる校舎は、蛻の殻のようだった。
百合の後を追ってみたものの結局眼科近辺にも彼女はおらず、携帯にもつながらず、俺はいつもより早く家へ帰ってきた。
「ただーいまー」
いつもよりやる気の無い声でそう言うと家の奥のキッチンから揚げ物の匂いがする。洗面所で手を洗ってからキッチンを覗きに行くと母親はコンロのまえに仁王立ちで、肩越しに見ると油の入った鍋の中で俵型のコロッケが浮いていた。
「おかえり、早かったわね」
菜ばしで器用にコロッケをひっくり返しながら母親が言う。
「何も無くて暇だった」
正直にそう答え冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注いだ。一気にそれを飲み干しグラスを流しに置く。
「そう。じゃあ手伝って。キャベツの千切り」
母親がにっこりと笑う。俺はがっくりと肩を落した。
「お兄ちゃん、キャベツつながってるー」
眉間に皺を寄せて妹が見事につながったままのキャベツを箸でつまんで上に引き上げる。父親はそれを笑いながら見てコロッケを一口齧った。
「まぁ、確かに太いわねえ」
母親も便乗してキャベツにソースをかけながらクスクスと笑った。
「うるせーな。手伝わなかったくせに」
俺はばつが悪くなり、ぶすりとコロッケに箸を差しながら答える。
「えー、でも酷いよー」
妹はなおも文句を言いながらそのつながったキャベツを口に無理矢理押し込む。
「まぁまぁ、いいじゃないか。手伝った真は偉かったんだし」
小学生を誉めるような言い方でコロッケを飲み込んだ父親が言い、ほうれん草のおひたしに手を伸ばす。
「そうよー。お母さん大助かりだったんだから。美紗もたまには手伝いなさいね」
俺への文句が美紗は自分へ矛先が向いて口をもごもごさせながら小さく頷いて、ばつが悪そうに笑った。
携帯にメールが入っているのに気づいたのは寝ようとベッドに横になった時だった。
送信してきたのは百合で、その文面を見て俺は眉をしかめた。
タイトル:馬鹿にしてるの?
本文:真、私の事馬鹿にしてるの?それとも私が方向音痴なだけ?上野眼科なんて無いじゃない。電話帳も調べたけど載ってないし、電話しても使われてないって。…どういうこと?
百合が絵文字も顔文字も入れないなんて、これは相当怒っている。
だが、そんな事より、俺は後半の文面に愕然としていた。
電話帳に載ってない?
何より、電話が使われてないって……。
ベッドの上で座ったままいつまでもその小さな携帯の画面を見つめていて、百合に返信をするのも忘れていた。
「母さん、今日帰り遅くなるわ」
オムレツとトースト、オレンジジュースに温野菜をいつも通りに胃に入れて、いつもより早く立ち上がりそう言うと母親は短くそうと答え、玄関へ向かう。
つけっぱなしのワイドショーは相変わらずエスを特集していた。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
登校して一番に百合を探すと彼女は自分の教室で友達と談笑していた。
入り口から声をかけると、一瞬すごい顔をして睨んでから俺の方へ来た。
「何?」
眉を片方上げて少し低い声。すごく怒っているんだろう。
「俺うそ教えたつもりなんてないんだ。今日一緒に行こう」
百合はため息をひとつついた。それから呆れたように呟く。
「いいよ、もう」
「本当に、嘘じゃないんだ。ほら」
財布から診察券を抜いてみせると百合も怪訝そうな顔をしながらそれを受け取ってまじまじと見つめた。
「……でもこんなの作れるし」
俺の手の中にそれを返して、百合は踵を返し、友達の方へ歩いていく。
「放課後、待ってるから、教室で」
百合は返事をしなかった。
時計はもう4時を指している。百合は来なくて、俺は鞄を力なく持ち上げるとため息交じりの息を吐き出して歩き出した。階段を下りながら誰もいない廊下を見つめる。
下駄箱まで来ると、そこには見覚えのある姿。
「百合」
声をかけると俯いていた顔を上げる。髪が夕日に反射して黒く光る。
「普通さ、迎えにくるでしょ」
走って近づくと俺は思わず抱きしめる。
「ごめん」
百合は無言でそれを受け止め俺の背にそっと手を寄せた。
しばらく二人でそうしてから手を繋いで学校を出る。
駅から電車に乗り、二人で上野眼科へ向かった。
ビルの前まで来て百合の顔を見る。
「ここに来た?」
百合は無言で頷き、俺は彼女の手を引っ張って階段を上る。
この先に上野眼科と書かれたドアがあるのだと確信しながら。
しかし、それは忽然と姿を消していた。
「……えっ!」
思わず声を上げる。
数日前に来た時はきちんと金属製のプレートがドアについていたはずなのに、そこにはそんなプレートは無く、代わりに有限会社安田商事のプレート。
「……ほら、ね」
百合が眉を寄せる。百合と繋いだ手を離し、俺はそのドアをノックした。
金属製のドアが乱暴な音を立てて数回鳴り響くと、中から紺色のスーツを着た女性が姿を現し怪訝な顔をして俺達を見た。
「何か御用でしょうか」
よく響くその声でそういわれて、背後から百合が手を引っ張る。
それに逆らうように立ち尽くし、震える声で俺は聞いた。
「上野眼科は……あの、上野眼科をご存知ないですか」
階を間違えているのだと言ってほしかった。
転院したと言ってほしかった。
「……はあ?そんなものこのビルに入ってませんよ」
女性がますます怪訝そうに顔を歪ませてドアを閉めた。
「行こう、真」
百合の引っ張る力に最早抵抗する事も出来なかった。
帰りの電車、二人とも無口だった。百合の方が先に降りて、電車が発車してまもなくだった。
彼女からしばらく距離を置こうとメールが来たのは。
普段ならショックを受けるのに、俺は眼科が無かった事の方がショックだった。
最初から可笑しいと思っていた。
他の患者を見かけない事も、予約制の事も、何より俺自身で予約を取った事が無い事も。
百合には申し訳なかったが、数日前まであった眼科の事を、母親に尋ねたくて俺はメールの返事もせずにまっすぐに家へと向かった。
人ごみをすり抜けるように改札を出ると混みあっている商店街を避けて横道を走る。
家へたどり着くと鍵を出すのももどかしく、ドアチャイムを鳴らした。
しかし誰も出ない。
庭から見える室内は電気がついているのにも、関わらず。
仕方なく鞄から鍵を出しドアを開ける。
靴を脱ぎ捨てキッチンへ行くと、少し前までそこに母親が居たのが分かるくらいに、夕食の準備の真っ最中だった。
包丁が置かれたまな板の上には切っている途中のトマト。切り終えたきゅうりとレタスが入っているザルの下からは水がポタポタとシンクに滴り落ちている。
コンロは火こそ消えているものの、鍋からはカレーの匂いと湯気が充満し、炊飯器からは炊いている途中の湯気。
「母さん!」
大声で怒鳴る。
風呂場かトイレか、どこかにいるんだろうと思って。
それでも家の中は人っ子一人いないように静まりかえっていた。
俺はリビングへ向かう。
もしかしたら母さんが倒れているのかも、しれない。
しかし、そこには誰の姿も無く、妹の鞄と飲みかけのジュースと食べかけのお菓子。
そして付けっ放しのテレビ。
胸の鼓動が大きく聞こえる。
息が荒くなるのは全力疾走して走ってきたからじゃない。
何か事件に巻き込まれたんじゃないんだろうか。
そんな風に考えて背筋が冷たくなったとき、電話が唐突に鳴った。
体が一瞬大きく揺れて鞄を放り投げるとそれを乱暴に取り上げ耳にあてた。
横目に入ったテレビの画面。
そこに映った小さな少女の写真。
それを目にした時、頭が締め付けられるように痛んだ。
電話の向こうからは知らない女の声で、俺の名を呼んでいる。
「真くん、逃げてっ。早く!つかまっちゃだめ!!」
女の声は言葉として理解は出来ていたのだけれど、その言葉に耳を貸す事も無く俺はテレビの画面を見つめた。
頭痛はますます酷くなり、目が開けていられなくなりそうだった。
「真くん、聞こえてる?!ねぇ、聞こえてるの?……みんな、みんな捕まっちゃうよ!」
つかまる?誰が?だれに?
それより、あの少女は……。
コメンテーターが名前を言っている。
けれど耳元の受話器がうるさくて聞こえない。
手を離して受話器を落すとテレビにおぼつかない足取りで近づく。
テレビの左上には聞いた事のある言葉。
朝も言っていて、昨日も話題になっていて、俺も都市伝説のように聞いたことのある名前。
『エス』
でも。
俺の知っているあの少女の名は、そんな名前じゃなかった。
あの少女の名は……。
頭痛とテレビに夢中だった俺は、背後に全く無関心だった。
だから、後ろから壮絶にしびれる感覚を与えられて初めて倒れながら振り返った。
黒いスーツに白衣の男が二人。
あぁ、そうか。
俺は……