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エス

以前、他サイトに投稿した物の加筆修正版です。

長いですがよろしくお願いいたします。

エスって知ってる?

神出鬼没の子でさぁ~、占いが当たるんだよ。

すっげぇ当たるの。

マジ、すごいんだから。

だって政治家とかも会ってるらしいよ。

え?

だから、エスに!!!

メアド?

携帯?

知らないんだよ、それが。

誰も。

っぽいっしょ。

でしょ、でしょ。

マジ、すごいんだって。


どこにでもある都市伝説。

女子高生の口から口へ伝わる噂。

信じてるフリをして、信じてない人が大半の、そんな話。


そんな話を追いかけていた一人の男の話。




 「エスの噂~?知ってるよ」


渋谷のファーストフード店の2階、ルーズソックスでミニスカート。ジャラジャラと鞄にキャラクターの人形やキーホルダーを付けた女子高生が携帯をいじりながら言った。


「本当に?じゃあその『エス』って人の居場所とか、知らない?」


メモとボールペンを持ったまま加藤は身を乗り出した。

今度こそビンゴかも、しれない。

そんな加藤の期待を裏切ったのは、少女の言葉だった。


「あー、わかんない。エスはさ、神出鬼没だから」


ちろっと加藤を見たものの、また携帯に目を向ける。

加藤はがっくりとまた肩を落とし、お世辞にも綺麗とは言い難い髪をがりがりと掻いた。


数十分後、女子高生と別れ、渋谷の一角にぼーっと佇んでいた。

あんな風に少女たちに聞き込みを始めて早一ヶ月。

『エス』という人物の影すら見えてこない。


「参ったな、まぁたどやされる」


脂ぎった中年男の上司の顔が浮かぶ。

おっさん、と呼ばれている編集長の異臭を放つ口から湧き出る言葉で罵倒されるのは、もうごめんだ。

加藤はその場でため息をついて、項垂れた。

日も暮れかけているというのに渋谷は人で溢れている。


最初は乗り気じゃなかったのだ。

けれど、三流…とまではいなかくても、二流の出版社の部数の多くない週刊誌の新米記者なのだから記事を拾ってくるのも一苦労だった。

下手に芸能人のホラ話を作って訴えられようもんなら、自分を始め社員全員が路頭に迷うかもしれない。

先輩記者の山田が持ってきたネタ、それが、これだった。


「そんな情報、嘘に決まってますよ」


メモに書かれたネタをさらっと読んで、山田に怪訝な顔を見せる。


「お前な、まだ新人だろーが。ネタ選んでられないだろ。それから、嘘か本当かは、お前が歩いて見極めるの。仕事だろ、それが。俺達は電話受けて記者会見に行く一流とちげーんだからよ」

「でも、これは……」

「でももかかしもねぇの。仕事選べるようになってから、偉そうな事言うんだな。…そのネタなら失敗してもおっさん、なんも、言わねーよ」


ぽんと、肩を叩く山田に半ば強制的に決められて次の日から加藤は渋谷をうろつくことになった。

辺りの看板に明かりが入る。

加藤はまだ渋谷にいた。

山田はああ言っていたが、おっさんもいい加減堪忍袋の尾が切れる頃だ。

加藤自身情報を得られないことに苛立ちを覚えていた。


あの少女と別れた後、同じような高校生や若者に何度も声をかけたが、皆同じような答えだった。

挙句の果ては、キャッチをしている男にも声をかけた。

怪訝な顔をして対応してくれた彼らからも有力な情報は何一つ得られなかった。


口を揃えて言う事は、「『エス』が占いをやる事」「女らしいこと」「ふらっと渋谷に来ては何人か占って帰って行く事」「そして誰一人として連絡先も本名も知らない」という事だった。


「クソっ、だからガセだって言ったんだ」


加藤は転がっていた空き缶を蹴っ飛ばす。

硬質な音を立てるそれに、一瞬、周囲のごく少ない人間だけが視線を向けるが多くは何事もなかったかのように、日常だと言わんばかりに、無関心に通り過ぎる。

視線を向けた人間も次の瞬間には足を動かし、その場から去っていった。


胸元から煙草を出して、加藤は火をつけた。

ジュと煙草の先は音を立てて赤く燃える。

目を閉じて深く吸い込むと煙草の煙はあっという間に加藤の体を巡った。

これで落ち着けるなら安い物だ。

記者になってから増えた煙草に安堵を求めるように何度も深く息を吸う。

3度目の煙を吐きながら目を開けると、そこに、変わった少女が居た。


変わった、と、言っても奇妙奇天烈ではない。

ただこのご時世、この時間帯、この渋谷に珍しい格好をしていた。

歴史がありそうな濃紺のセーラー服の制服に三つ折りソックス、流行のルーズもなければ茶髪もない。

それでいて、ダサいというイメージは持たせない、凛とした雰囲気を持っていた。


「エスを探しているのは、貴方ですよね?」


黒い背の中心ほどまである長い癖のない髪を耳に右手で掛けながら加藤に尋ねる。

加藤の喉仏が動いた。

ゴクリと、音がしそうなほどに。


「あぁ、そうだよ。けど噂程度の情報ならまっぴらだ」


肩をすくめて笑って見せる。

だが、ポケットに入れた手は握り締めていた。

少女がふいに少し馬鹿にしたように笑った。


「そうですか。エスはあなたに会いたいと言っているんですが。これも噂程度ですか?」


加藤の心臓が早鐘を打ち始めた。咥えていた煙草を地面に投げ捨てる。

少女はそんな加藤を尻目に踵を返した。

人ごみを物ともせず少女は足早にその場を後にする。

加藤は何も言わず、ただ、それに着いて行った。



しばらく歩いた所で少女は足を止める。

渋谷に来慣れた人間ならば違う場所と分かるだろうが、あまり来た事のない人間ならばそこは先ほどの場所と違うとは思えないほど似通った場所だ。

渋谷にはそういう場所ばかりだ。

そこは雑居ビルの前だった。昼間は人が居て夕方にはその延長で窓には明かりが灯るのかもしれないが、時間が時間だけに、窓のほとんどは真っ暗だった。


「ここに『エス』が居るのか?」


加藤はどことなく窓を見上げながら尋ねる。

加藤と少女のわずかな隙間も通行人は無理矢理通って行く。

だが加藤の声は喧騒の中少女に届いたようで、少女は振り返って、頷いた。

おもむろに制服のポケットから鍵を取り出した。

見た限りどこにでもあるい普通の鍵だった。

少女は鍵を見てから加藤を見た。


「ひとつだけ約束してくれませんか」


少女の行動に目を向けていたが少女の言葉に加藤は小さく頷いた。

エスに会えるのならば何でも約束してやろうと、思った。


「エスを・・・・・・守ってくれませんか?」


無表情の少女の顔が一瞬変わった気がした。

とても切ないような表情に。

加藤は表情を曇らせる。


「守る?何から」

「・・・・・・言えません。それは今貴方が知るべき事じゃないと思うので」

「は?ワケが分からんな」

「すいません」


少女は頭を下げる。

そのまま頭を上げないで加藤の返事を待っている。

一分か二分のその間が加藤には耐えられなかった。

何も悪い事をしていない目の前の、むしろ助け舟を出してくれた少女が頭を下げていることに。


「分かった、分かった。俺に出来る範囲で良いんだな?」


顔を上げた少女は小さな笑みを浮かべていた。

そして鍵を加藤に差し出した。

加藤は手を伸ばしそれを受け取る。

小さな冷たい鍵だった。


「エスはこのビルの5階に居ます」


少女は頭を下げその場から歩き始める。

加藤は歩き始める少女に慌てて声を掛けた。


「おい。お前は一緒に行かないのか」


少女は立ち止まり振り返った。


「エスが会いたいのは、私ではなく、貴方です」


また歩きだした少女の後姿を見ながら加藤は頭をがしがしと掻いた。


この時加藤は分かるはずもなかった。

少女の言葉の意味を。



 ビルのドアはガラスになっており、中を見ると真っ暗だった。

街灯のうっすらとした明かりで見えるのは部屋数分のポストとその少し先に続く階段の最初の2,3段だった。

ポストのいくつかはチラシがぎっしりとねじ込まれていた。

加藤はドアに手をかけ、押した。

重くもなく軽くもないドアはすんなりと加藤を中へ招いた。

とりあえず見える範囲で辺りを見回した。

だが照明のスイッチは見当たらず、顔を曇らせた。


「おいおい、何だよ。エレベーターもなければ電気もつかねーのか」


一人つぶやき、新しい煙草を咥える。

ライターで火をつけようとし、一瞬考える。

煙探知機が作動しや、しないかと。

けれど、こんなエレベーターもついてないビルに、そんな大層な物が付いてるとは思えず苦笑いを浮かべて火をつけた。

加藤の思惑通り、スプリンクラーが回るわけでも、ベルが鳴るわけでもなかった。

ドアの外から見えた階段へ向かう。

数歩の距離のそれはすぐにつき、最初の数段を上って。

幅が狭いおかげで明かりがなくてもなんとか上っていけそうだった。

左手を壁につけ、ゆっくりと上る。

たまに何かが足にあたり、歩を止める事もあったが15分程度で5階まで上り切った。


5階に着くと、階段の右手に続く廊下へ目をやった。

ドアが5,6枚あるのが見えた。

真っ暗な廊下に一番奥、階段から離れたドアの隙間から明かりが漏れていた。


「…あれ、か?」


右手に持っていた鍵を握る手に汗が浮かぶ。

鍵を握りなおし、足音を立てずに、ドアに近づいた。


ごくり、と、唾を飲む。

鍵穴なに鍵を差込み、がちゃり、と、回した。

シン…と、静まりかえった廊下にその音だけが響いた。


ドアノブに手をかける。

声を掛けた方がいいのかと、迷うが、結局何も言わず、ゆっくり回してドアをひき開けた。

暗闇に慣れていた目に室内は明るく眩しくて目を細めた。

室内はさほど広くはないが、会議用の長机がひとつとパイプ椅子が3脚あるだけのおかげでやけに広く見えた。

パイプ椅子は机を挟んで1脚と2脚に分かれており、ドアから見て机の奥に1脚が置いてあった。


その1脚に少女が一人座っていた。

白いチューリップハットに肩ほどの少し茶色い髪、白いメッシュの生地のパーカー。

15,6に見える顔。

頬杖をついて目を閉じたままじっと机の奥の椅子に座っていた。

その姿は普通、だった。

そこら辺にいる少女と変わらない。


「こんばんわ」


少女が口元に笑みを浮かべて言った。

室内に声が響いた。

加藤がその挨拶を返す前に、少女はまた口を開いた。


「加藤さん、加藤明さんだよね?」


加藤の手から鍵が滑り落ちて床に当たった。

硬質な音がした。

背がぞくりとした。

冷や汗が出て、鳥肌が立つ。

今までの取材で一度もフルネームを言った事が無かったのに、なんで目の前の少女は名前を知っているんだ、と。


「……なっ」


何でだ、と尋ねようと口を開いた瞬間に少女の言葉がそれを遮った。


「何で知ってるか、でしょ?」


少女が目を開いた。

加藤と目を合わせる。

ぐっと引き込まれる感覚が加藤を襲った。

少女の目はまるでブラックホールや強力な磁石のように加藤もその場の空気も引っ張っていった。

実際にはそんな事はないのだが、加藤は、確かにそう感じた。

ガクガクと体が震え始める。

目を合わせている事が出来なくなり、それでも目を離せないまま加藤は足元から崩れた。

白目を剥いたまま。



気がついた時、少女は心配そうに加藤の側に正座をしていた。

どこかから貰って来たらしい雑誌で倒れた男を仰いでいた。

その顔には薄い茶色の大きめのサングラスでフレームがないタイプの物だった。


「ごめんね」


意識を戻した事に気づいた少女は手を止め小さな声で言うと頭を下げた。

さらり、と、髪が揺れて甘い匂いが漂った。


「いや、平気だ。……何をしたんだ? 」


加藤はまだふらつく頭を左右に小さく振りながら起き上がった。


「……何も。見ただけ」

「見ただけ? 」


怪訝そうな顔をする加藤。

少女は小さく頷いた。


「見ただけ。あたしはそういう目を持っているから」


加藤には何の事か分からない。

尚も問い詰めようとすると少女が先に口を開く。


「『そういう目って、何だ?』でしょう。……そういう事なの」


加藤は瞬きを繰り返した。

ポケットからくちゃくちゃになった煙草の箱を出すと一本取り出し咥えた。

少女に断らず火をつけたのはそれだけ動揺しているからだろう。

視線を少女に向けたままゆっくりと煙草を吹かす。

流石に煙を吐く時は顔を背けたが、それ以外はずっと見ていた。

半分ほど吸って灰が床に落ちた時ようやく口を開いた。


「未来が見えるのか……? 」


声が掠れていた。

少女を見る目に恐怖という色があった。

それでも少女は知っていたという顔をして大きく頷いた。


「大丈夫、言わないから。加藤さんはそれを希望してない事、知ってる」

「気持ちまで読めるのか? 」

「ううん。あたしが言う場面は見えてないから。多分この先も見ないだろうなって」


加藤は口をパクパクさせながら終いに頭をがしがしと掻いた。


「『信じたわけじゃないけれど、俺は仕事だから』でしょ」


少女はくすくすと笑いながら言った。

そして頭を少し下げた。


「改めてまして、エスです」



これが加藤とエスの出会いだった。



目の前のテーブルにはコーヒーが湯気を立てている。

チェーン系列のコーヒースタンドで加藤が購入してきた物で、エスは自分の分を両手にしっかりと包んで持ちながら、たまに口を付けては啜っていた。


あの出会いから数週間。

加藤は足繁くエスの元に通っていた。

あの晩エスは落ちていた鍵を拾い加藤に渡した。


「持っていて。いつでも会いに来てくれていいから」


好都合だと加藤は喜んでそれを受け取った。

「なぁ…」


ずずずっとカップの傾きで顔の一部が隠れたエスに加藤は声をかけた。

エスは飲むのを止めて加藤を見る。

いつものサングラスにいつもと似たような格好、けれど同じ服ではなかった。

エスの目に加藤は息を呑んだ。

もちろんサングラスをしているから例の様な事態にはならない。

けれど、やはり、引き込まれる感覚がするのだ。


「なに?」


エスは気づかないフリをして加藤に声をかける。

その声に我に返ったように加藤は瞬きをした。


「…あ、いや。何か話してくれよ」


取材をする者として、この切り出し方は失格だろう。

インタビューをしているはずなのに明確な質問ではないからだ。

けれどエスは心得たと言う風に頷き、コーヒーを机に置いた。


「そーだねー…。最初に気づいたのは物心ついた時だったの」

しばらく考えてからエスは話し始めた。


「家の箪笥の影に隠れて母を見たの。全身を半分だけ出して。その時は母をびっくりさせようと待ち構えていた。母は箪笥がある部屋から見える縁側で野菜をいじっていた。どんな野菜だったかとかそれが何だったかは覚えていないけれど、今思えば空豆を剥いていたのか、インゲンのスジを取っていたのかも」


加藤は何も言わずにじっと聞き入っている。

外ではいつの間にか降り出した雨がサー・・・・・・と音を静かに立てていた。

部屋の空気も小さく開いた窓から入った湿気を帯び始める。

エスは立ち上がり窓の方に近づきながら話を続ける。


「左目で母を見ていた。早くこっち見てくれないかな、って。わっ、て驚かしたら驚いてくれるかなって。黄色いワンピースを着ていた気がする」


開けていた窓に手をかけて力いっぱい閉める。

どうもこのビルは建てつけが悪いらしい。

バン、と、大きな音を立てて窓が閉まると雨の音はほとんど聞こえなくなった。


「それで何度か瞬きをしたら、見えたの。母がね……、ううん。母の、ね……」


エスが振り向いた。


「子供だった頃の姿が。びっくりした。母がいなくなって急に知らない子が現れたから。思わずワーって声をあげて箪笥の影にすっぽり入って両手を覆って泣いた。そうしたら母が慌てて駆けてきて、どうしたの、どうしたのって、聞くの。いやいやをするように頭を振った。でも声が母だって気づいたの。それで目を開けたら、いつもの母がいた」


エスの目が真っ赤になっていた。

加藤が口を開こうとする前に、エスは首を振る。

こういう時、加藤は何も言えなくなる。

これ以上聞いてはいけなくて、これ以上話しては貰えないのだ。

エスは机まで戻ってくると袖口で目を擦った。


「お腹空いちゃったね。どこか食べに行こうか」



エスは部屋の置くからビニール傘を2本持ってくると加藤に渡す。


「相合傘は嫌でしょう?」


エスの言葉に加藤が笑うと二人はそれを合図にビルの廊下に出た。

そのまま階段を話しながら下りていく。

外は先ほどより雨足が強くなったのかザアザアと降っている。

加藤が先に傘を差し、自分は出口のドアを押さえたままエスが出るのを待った。

自分よりもエスの方に傘を向けエスが傘を開ききったのを確認して、自分の上に傘を持ってきた。

「ありがとう。加藤さん、そういう所優しいよね」


まるでずっと前からの友人のようにエスが言う。


「まぁな」


加藤は苦笑いを浮かべた。


二人は人の多い通りを避けて渋谷の町を歩いた。


「あ、エス!! 」


それでも居るところには居るもので、むしろ渋谷を精通している者は裏道に多い。

至る所でエスは声を掛けられて立ち止まった。


「あ、ゆーこさん。こんにちは」


こんな風に挨拶をする事もあれば手を振り返す事もあった。

最初にエスを連れて歩いた時、加藤が

「人気者なんだな」

と皮肉を言うとエスは笑って答えた。

「だから取材に来たんでしょう? 」

と。


そんな調子で目的のレストランに着くのは30分程かかった。

何もなければ5分で来られただろう道程。

加藤のジャケットは雨でしっとりと湿っていた。

そのレストランは高級な雰囲気を醸し出している。

半地下のような入り口。

階段を下りていくとステンドグラスのドアがありその側にはどこかの国の物らしい陶器の入れ物が置いてある。

先客の物か何本か傘が既にささっているそれに二人も傘を入れ、ドアを開けた。


「いらっしゃいませ」


と、幾分渋谷に似つかない小奇麗でさっぱりとしたウェイターはエスの姿を見ると頭を深く下げた。


「少々お待ちください」


と彼は言い、しばらくすると店主と名札にかかれた男が出てきた。


渋谷の若者には縁のないその店の店主とエスは顔なじみらしい。


店主はエスを嬉しそうに迎えると一番奥の目立たない席に案内した。


「久しぶりだね、エス。相変わらず忙しいみたいで」


店主は氷水が入った結露したグラスを二つエスと加藤の前に置く。


「うん。そうなの。週末にも遠藤先生と会うし」


出された水を一口飲んでエスが答えた。


「あぁー…」


店主が納得したように頷き、脇に挟んでいたメニューを二人に渡す。


「アレが近いからね。エスに頼りたいんだろう」


苦笑いを浮かべるその顔にエスは困った顔をして頷いた。


「……たぶん。でもいつもお世話になっているから」


加藤はメニューを見ながら二人の会話を聞いていた。

そんな加藤に気づいたのかエスは店主と加藤を交互に見た。


「…こちら、加藤さん。雑誌の編集者で、取材に来てるの。…今の所」


紹介され加藤が頭を下げる。


「…こちら、木村さん。このレストランの支配人兼店長。昔見てあげた人の一人」


木村が頭を下げる。

木村の頭が上がるのを待って加藤が口を開いた。


「加藤です。よろしくお願いします。…いやプライベートではこんな高い店これませんけど」


それは皮肉でもなんでもなく、加藤流の褒め方だった。

木村もその言葉に面白そうに笑って言葉を返した。


「いや、エスと仲良くなればいつでも来れますよ。エスはこの店が大好きですから。しかも支払いは……」


と、言いかけて木村はエスを見た。

エスはメニューから顔を上げて小さく頷いた。


「…支払いは、遠藤先生がもってますから。エスの財布も貴方の財布も痛くなりませんよ」


加藤は思案する表情をしてからはっとした顔をした。


「遠藤っていうのは、もしかして、あの、政界の遠藤雅義ですか」

「えぇ、そうです。エスの力で伸し上がった内の一人ですよ」


木村はさらっと流すように言った。

これだけでも加藤にとっても大スクープに違いない。

咄嗟にメモを出そうと思った瞬間、エスがつぶやく。


「信じてもらえないよ」


加藤の動きが止まった。

また見られたのだ。


「………いや、だけど」


弁解をしようとした加藤にエスはメニューから顔を上げて首を左右に振った。


「潰されるよ、加藤さん。遠藤先生ならそれくらいやるから」


それは見たのではなく、事実なのだろう。

エスは真剣な表情をしていた。

加藤はポケットに伸びていた手をメニューに戻した。

二人のやりとりを見ていた木村は頃合いを見計らったように声を掛けた。


「ご注文はお決まりですか? 」



二人の腹が膨れる頃には雨は上がっていた。

ドアの外の傘を取り階段を上がって行くと眩しいとは言えないものの、光はビルの間から差し込んでいた。


「やあ、晴れたね」


エスは嬉しそうに言い傘の先を地面につけたまま少し振り水気を落とした。

それからベルトで纏めると加藤の方へと向き直る。


「加藤さんは今日どうするの?」


エスは決まってこの言葉を別れ際に聞いた。

最初知っているはずなのにと加藤は思った。

今でもその思いは変わっておらず、エスと会話を重ねれば重ねるほど、それは深まった。

それは加藤の中で苛立ちに変わっている。

自分は何も話さないくせに、自分ばかり知っている。


「なぜそんな事を聞くんだって言う顔、してる」


傘に残った水滴で歩道の乾いた部分に目と口を描きながらエスは言った。

スマイルとかニコちゃんマークとか呼ばれるあの顔に似せた顔を描きあげエスはもう一度言った。


「どうしてそんな事聞くんだって思ってるんでしょう」


エスが顔をあげる。

加藤はその落書きに目を一度だけ落としてからエスの目を見た。

エスは加藤と目が合うとすばやく目線をずらした。

加藤の事を思っての行為が後ろめたさを感じているように、加藤には思えた。


「未来はね最初から決まってないって信じてるから、だから聞くの」


加藤の顔を見ながらエスは続けた。


「信じてるっていうより信じたいのかな。結局見た通りになるんだけど。でも、あたしが言葉に出すよりも、相手に選んでもらった方が、ずっと、ずっと、現実になると思うんだ。加藤さんがこの後どうするのかあたしはもちろん知ってる。今日会った時にそれは見えた。でも、それをあたしが言ったら、加藤さんの意思はどこに行くの?あたしの言葉通り加藤さんが動いたら、それは加藤さんが決めた行動じゃない。でも、未来は、同じ通りに進んでいく。」


じっと聞き入っていた加藤は眉間に皺を寄せた。


「………だから選ばせるのか?それはただお前の驕りに思える。お前はまるで神のような立場で物事を一歩も二歩も進んだ所から見ていてその先がどうなっているか知っている。もし万が一違う方向を進んでもその瞬間に違った未来が見える。それで相手の命が危険になったとしてもお前は自分で選んだからと、そいつを見捨てるのか?」


「違うよ。それは、違う。結局あたしが言っても結末は同じなの」

エスは顔を上げて凛とした口調で言った。


「同じ? すぐ先のことが分かっていれば避けられる事だってあるだろう? お前はその可能性も教えないのかって聞いてるんだ」


加藤は尚も納得がいかずに問い詰める。

感情が入り声が大きくなる。

太い通りでは無いにしろ渋谷の路上だ。

通りがかる人がちらほらと足を止め始める。


「だから……あたしは未来が見えるだけなの。あたしには何も出来ないの。みんなが思ってる程、何かが出来るわけじゃないの。…偉そうな事言ってる、驕りかもしれない。あたしだって大切な人が危険に晒されるなら守ってあげたい、教えてあげたいよ。でも、その人を守ったら違う人が死ぬかもしれない。……分かる? ねぇ、分かる?」


エスは苦しげに顔を歪ませた。

傘を持つ手が震えている。

見物人の中の数人がざわざわと声をあげ始めた。

必死に話しているエスにその声は届かなかったが加藤には聞こえた。


「あれ、エスじゃない?」


加藤はぎくりと見物人を見た。

エスという言葉は細波のように見物人に広がる。

エスを知らなくても一緒にその意味まで伝わるだろう。

加藤はエスの腕をひっぱって無理矢理に狭い路地へ向かって歩き始める。

エスは抵抗もせず引っ張られた。

彼女は知っているのだから。

それでも加藤に向かって話し続ける。


「違う人が死ぬかもしれないの。違う人が何かで失敗するかもしれない。誰かが幸せになるって事は誰かが犠牲になるかもしれないって事なんだよ。みんなが一斉に幸せになれる事なんてそんなに無いの。ほとんど無いの。誰かは必ず悔しい思いをして、傷ついて、切なくなる。だから誰にでも未来を教える事をしてないの。その人の未来通りにして欲しいの。だから、加藤さんにも聞くの。加藤さんの考えで知りたいって思ったの。……あたしは神の分身なんかじゃなくて、普通の人間で居たかった。そうして生まれて来たかった」


語尾は聞き取れない程というわけでないにしろ、声が小さくなっていた。

先ほどの場所からはだいぶ離れ、誰も居ないのを確認して足を止めた。

振り返るエスの腕を放す。

エスは俯いていた。

二人の間に沈黙が流れる。

これもエスが見ていた未来のひとつなのだろうか、と、加藤は思った。


「…悪い、言いすぎた。腑に落ちない部分もあるけれど、きっといくら説明されてもお前にしか分からないんだろうな」


加藤はいつものように頭を掻いた。

エスは顔を上げずに首を左右に振った。


「…本当なの。普通に生まれたかった。そうしたら、もっと幸せだったのに」


顔を上げて言ったエスの頬には涙の筋がついていた。

エスは泣いていた。


加藤は涙を見て気づいた。

目の前の小さな少女の背負っているものの大きさに。

少女の発した言葉の意味に。


理性や意思よりも早く体が動いた。

ビニールの安物の傘を地面に落として小さな少女を抱きしめた。

決して力が強いわけではないけれど、それでも、少女を安心させるには十分な力だった。

右腕で肩を、左腕で頭を、自分の体に押し付けさせた。


エスは驚いた素振りも見せずに、ただ、加藤の胸に抱かれた。

顔をつけて、静かに涙を流した。

加藤の大きな手がエスの頭を撫でた。

何度か頭を撫でた後、エスはそっと加藤の胸から離れた。


「やだな、泣いちゃった。恥ずかしい。……偉そうに言った後に何だけど、それでも頼まれると教えてあげちゃうの。困ってるって知ってるから。その人だけじゃないって分かってるのにね。……あたしを知らない人の方が多いんだから、やっぱり神さまみたいに不公平なのかな」


そう言ったエスの顔は笑顔で、涙は止まっていた。

加藤は何も言えなかった。

そして何も出来ないと、思った。

傷つけたような気がした。

でも、エスは分かっていたんだと思うとやりきれない思いが広がった。


煙草をポケットから探ると右手で一本抜き、口に咥えてから体を曲げて落ちた傘を拾った。



 その日はそのまま別れて、加藤は家路に着いた。

狭いアパートの玄関のドアを開く。

1Kの空間には捨て損なったゴミ袋が幾つか転がっていた。

幸いまだ虫は湧いてないらしい。

靴を脱ぎ捨てると明かりも付けずに部屋に入った。

途中で何かを踏んだが気にもしない。

鞄を置き、ふと、テレビの横のカラーボックスの上に目をやると、今じゃ滅多に使う事の無くなった電話機のボタンがチカチカと赤く点滅していた。

加藤は近づき、「留守」と大きく書かれたそのボタンを押す。

カチャ、キュルキュル…と巻き戻す音がした後、聞き覚えのある濁声が流れる。


「おら、加藤。お前ちったぁ、社にも顔だせや。進行具合をちゃんと報告しろって言っただろーが。明日来なかったらクビだ、分かったな!」


それはあの編集長の声だった。

加藤は大きなため息をひとつついた。

蛍光灯の紐を引く。

何度か点滅してから付いた青白い光は弱々しく、電球が古いことを物語っていた。



翌日、加藤は渋谷に向かわず雑誌社に向かっていた。

数日ぶりに乗る違う電車に落ち着かない。

理由は電車だけではないのだが、加藤は気づいていない。


古いビルにある会社に着くと深呼吸をしてから自分の職場のドアを開けた。


「おはようございます」


なるべく気づかれないように声を低くして声を掛ける。

が、編集長は待ち構えていたかのように、姿を見つけ、近づいてきた。


「あー、やっと来たな。例の話はどうなった」


ぐいっと加藤を引っ張りながら騒がしい室内を横切る。

加藤は同僚の哀れむ目を見ながらあっという間に編集長と書かれたデスクの前に連れて行かれていた。


「…あー…それは、その。今まだ取材中でして」


椅子に座る編集長を見ながら加藤は所在無くデスクの前に立ち、頭を掻いた。

すぐ後ろに座る女子社員が嫌そうな視線を送るが加藤には届かない。


「取材中? …ったく、お前が取材すれば何ヶ月もかかっちまう。打ち切りだ!!」


「い、いや! でも、エスには………!!!」


加藤は必死にメモを出そうと手をポケットに伸ばした所で止まった。

何となく、根拠も何もないのだが、エスの事を黙って居た方がいいと思った。


「…んだよ、エスが、どうした。お前の言うとおりガセだったんだろ。それとも、見つけたのか?」


編集長の目が鋭くなる。

この目だ。

エスがこの目に捕まったらあっという間に世の中に伝わる。

そうしたらエスはあの事務所にも、渋谷にも、日本にも。

この世の中に居れなくなるかも、しれない。


加藤は首を横に振った。


「いや、すいません。初めてやらして貰ったネタだったんで。こんな形で終わるなんて悔しくて。そうですよね、ガセだったんです」


無理をして笑顔を作った。

編集長は怪訝そうな顔をしていたが、やがて、にやりと笑いこう言った。


「ま、そんなもんだ。次は一人でやってみろ。何でも良い。そこら辺にあるネタで良いからな。良かったら載せてやる。…とりあえず書け。そんだけだ」


編集長に頭を下げると加藤は自分の机に戻った。

ほったらかしにして置いた仕事を2、3片付けると、早々に職場を切り上げ、渋谷へと向かっていた。



太陽が高い昼過ぎ、日光を浴びながら加藤はエスの居る事務所があるビルの前に立っていた。

このまま帰ってもエスはすべて知っているのだから、何も思わないだろう。

それが本当の未来になるんだろう。

エスは変わらないと言っていた未来になる。


エスの話を聞いた今、自分が選んでいるのも意味を為していないのではないかと疑ってしまっていた。

自分の意思など関係なく全てが決まっているような感覚が抜けない。


入り難いのはそれだけじゃない。

取材が中止になったから、もう来れない。

それを言うのは気が進まなかった。


人の流れが川にある石を避けるかの如く加藤を避けて行った。

そんな石を突付く魚のように背後から肩を叩かれる。

考え事に没していた為かいつもより少しオーバーなリアクションで驚き振り返るとそこに笑顔のエスが居た。

いつものチューリップハットにドーナッツ屋の袋を提げている。


「入らないの?」


「いや、あ、入る。何となく、な」


苦笑いを浮かべる加藤にエスは首を傾げた。


「変なの」


小さな手が加藤の腕を掴んで引っ張る。

人の流れを上手くかわして二人はビルの中に入って行った。


二人は机を挟んで向かい合って座り、エスが買ってきたドーナッツを広げた。

およそ一人で食べるには多すぎる量のそれをエスは「どうぞ」と言いながら加藤に勧めた。

加藤が数種類の中から一番甘くなさそうな物に手を伸ばした時、エスはポケットから細い缶の紅茶を二本出して置いた。

やられたという顔をした加藤にエスはにやっと微笑んだ。


「加藤さんドーナッツなら食べれるかなって思って」


クリームがべっとり付いたドーナッツを半分にちぎってから口に入れエスはそう言った。


「…ドーナッツなら? 俺はサンドウィッチやおにぎりの方が良いけどな」


二個目のドーナッツに仕方なくクリームが付いている物を選びそのまま口に入れながら加藤も言う。


「うーん。でもあたしが食べたかったんだ。好きなの」

「そうか。知ってると思うが……」


缶紅茶を一口加藤が飲んでから言葉を止めた。

エスも咀嚼を止め加藤を見た。


「取材、中止になった。これで俺がここに来る理由も無くなったわけだな」


出来るだけさらっと言い、三個目に手を伸ばす。

エスは食べかけのドーナッツを机の上に広げた紙ナプキンの上に置いた。


「…知ってた」


「そうか。じゃあ言わなくても良かったな。…ま、俺が気持ち悪いから、言っただけだけどな」


指先に付いたクリームを舐めて加藤が言う。

ごちそうさま、と、言い、荷物を手に立ち上がる。


「これ、返すよ。お前に会えて…、なんだ、面白かった。記事には一生しない。元気で暮らせ」


合鍵がドーナッツの欠片が散らばる机に置かれた。

銀色のそれは窓から差し込む光に反射していた。

エスは加藤を見たまま黙っていた。


「何か言えよ」


鞄を背の後ろに持って行き、エスを見つめる。

エスの顔にはいつも諦めの表情が浮かんでいた。

今も、同じ顔をしている。


「……うん。それは加藤さんが持っていて? その、別にここに来て欲しいとか、そういうわけじゃないんだけど」


鍵を指差してエスはやっとそれだけ言った。

加藤はすこし躊躇ったものの、黙って鍵を手にした。


「それからっ…」


エスはそう言いかけて止まる。

加藤は鍵を手にしたまま、じっと、エスを見て。


「言えよ」


と、呟く。

エスは俯いたまま何も言わない。


「言えよ、お前の我侭聞いてやる」


エスが驚いた表情を浮かべて加藤を見上げた。

こうなる事がわかっていたはずではないのかと加藤は思った。


「……言え」


加藤の口調が強くなる。


「……あ、あのねっ……」


エスの目に見る見る間に涙が溜まっていく。

瞬きをした瞬間にそれは蓮の葉が風に揺れ、溜まっていた水が落ちるように頬を伝った。

加藤は驚いて目を開いた。

エスが感情を露にするのは二度目だった。

最初に会った時は何かを我慢するようにいつも一歩引いた所から物事を見ていた。

いつからかは知れないが、エスの感情は誰も興味が無かったのかもしれない。


荷物を床に置き、そっとエスに近づく。

机に身を乗り出すようにして手を伸ばし帽子をそっと取った。


「どうした。言って良いんだぞ」


「………」


エスは首を左右に振った。

俯いてしゃくりあげて泣いていた。


「言えない事なのか?」


エスが小さくうなずく。

頭が上下に揺れた。


「何で」


エスは黙ったまま動かない。


「…未来を見たから? 未来を知ってるから言えないのか? 」


加藤がやわらかい口調で尋ねた。

エスは首を縦に振る。。

加藤はため息をついた。


「言えって」


エスは顔を上げた。

口を開きかけて止める。

それが何度も続いた。

赤くなった鼻、涙で汚れた顔、潤んだ瞳。

小さな子供のようだった。



「分かった。明日も……ここに来るよ。明日も明後日も。来れない日もあるかも知れないけど、出来るだけ来る。だから、エス、我侭になる練習をしよう」


エスは小さくまた頷いた。

エスが落ち着くまで加藤は頭を撫でていた。

次第に涙が止まり、エスは、顔を上げ笑った。

加藤は手を止め、エスに言った。


「携帯電話を買いに行こう」


エスは首を傾げた。

それからまだ涙声で加藤に尋ねた。


「どうして?」


「普通の人間は誰が何時に来るか、連絡を取り合って分かるだろう。これからお前が分かってるとか分かってないとかそんな事気にせず来る時は必ず連絡する。だから、携帯が要るんだ。」


エスはポカンとしていた。

加藤はそんなエスを急きたて、二人は数分後には携帯電話を扱う店の中に居た。

目を腫らした十代の少女と男。

こんな組み合わせにも渋谷の店員は驚かなかった。

「何でもいいぞ。俺が料金も払ってやる。使いすぎて怒ったりもしないからな」

エスは何も言わずに、棚に並んだ携帯と加藤を見比べていた。


「…どれが良いか、分からない。……どう違うの?」


いくつか手に取ってパカパカと開いたりしてみながら、加藤に声をかける。

オレンジ色のパーカーを羽織った店員がすかさず近寄ろうとするが、加藤はそれを手で制した。


「どれも大して変わらない。……どれでもいいよ。色で選んでも形でも。何色が好き?」

「…ピンクかな」

「じゃあこれは?」


加藤が手にしたのは売れ筋という手書きのポップが貼られたものだった。

エスはディスプレイされていた見本を加藤から受け取りまじまじと見た後、うなずいた。


「よく分からないけど、これでいい。加藤さんが選んでくれたんだし」


契約や面倒な手続きは加藤がやった。

と、言っても、店員が進んであれこれ決めてくれたのだが。


店を出て二人はコーヒーショップへと足を運んだ。

エスの左手には小さな紙袋があり、加藤を見上げながら楽しそうに歩いていた。


「あっ、エスじゃん」


声をかけて来たのはエスと同じくらいの子で制服を着てルーズを履いていた。


「みっちゃん」


エスは手を振る。

みっちゃんと呼ばれた少女はエスの持っている袋を目ざとく見つけた。


「やだ、エス。携帯買ったの?えー、番号教えて。メル友になってよ」


鞄に手を突っ込んで自分の携帯を出す。

エスは困ったように加藤を見上げた。

そんな様子を見てみっちゃんは怪訝そうな顔をして加藤を見た。


「誰、この人。っていうか、最近エスがよく渋谷で男と歩いているって聞いたけど、こいつ?」

「あ、うん。加藤さん。…あ、番号とかメル友とかまだよく分からないの」

「あ、だよね。エスは占い当たるけど、そーいうとこ鈍いし。じゃあ、あたしの番号とメアド教えるから、絶対連絡してよ」


加藤には挨拶もせず、メモにオレンジのペンで番号とメールアドレスを記入すると、エスに手渡した。


「じゃあ、またね。加藤さんも」


加藤は明後日の方向を見ていたが、その声で振り向き手を振った。

エスは小さくうなずいて手を振った。


「またね、みっちゃん」

「うん。じゃね」


その後も同じようなやりとりが何度も繰り返され、コーヒーショップにたどり着く頃にはエスのポケットはメモだらけになっていた。


「エスは本当に人気者だな」


ポケットからメモが落ちないように押し込んでいる姿を見ながら加藤は言った。

その顔はにやにやと笑っている。

店員がトレーにカフェオレを二杯乗せて笑顔で加藤に渡した。

エスは唇を突き出してむくれ、ポケットにメモを捩じ込むと、さっさと一人で小さなテーブルに向かった。


「おいおい、そんな怒るなよ」


トレーをテーブルに置きながら加藤が向かいに座る。


「怒ってないよ」

「じゃあなんでむくれた顔してんだ」

「…わかんない」


エスはカフェオレを手に取ると口をつけてすすった。

加藤はやれやれと肩をすくめると煙草を取り出して咥える。


「で、さっさとやっちまおう」


床においてあった携帯の入った袋を加藤はテーブルの上に置いた。


「…うん。任せてもいいの?」


ガサガサと目の前で袋から箱を取り出す加藤を見てエスが言う。

加藤は手を止めてエスを見た。


「ま、どっちでもいいが覚えておくにこしたことは無いと思う」

「うーん…。じゃあ次からはあたしがやる」


加藤はまた手を止めたが何も言わずに携帯の初期設定を行った。


20分後。

大量のメモも記憶させ加藤はエスの手に携帯を置いた。


「これで使えるだろ。お前のアドレスと番号は、これ」


胸元からペンを出して紙ナプキンにさらさらと書き出す。

エスはそれも受け取ってうなずいた。


「使い方は説明書でも読んで勉強してくれ」


ほい、と、箱やら説明書やらを戻した紙袋を手渡す。


「加藤さんにもメールしていい?」

「ん。ああ、もちろん。俺のは加藤ってので入ってるから」

「分かった」


エスは携帯を見た。

まだ触ったことのない、それ。

使い方は未来を見ているから知っている。

いつメールをするか、とかも、分かっている。

けれど、実際にその未来が来てしまうと、やはりどきどきするもので、にこにこと笑っていた。

加藤はぬるくなったカフェオレに口をつけた。

二人に話題は無くなっていて、がやがやと店内の音が響いていた。


エスが携帯を開いて画面をいじりながら、口を開く。


「…何か、話してもいい? 取材が終わったから聞きたくない?」


ボタンを押すたびに、ピッピッと電子音が鳴った。

加藤は飲むのをやめ、カフェオレが入ったカップをトレーに置いた。


「…あのね、あたしの父はあたしが6歳の時に他界したの」


返事を待たずにエスは話始める。

こうなる事を知っていたのだから、返事は要らないとでもいうように。


「だから、全然父の事は覚えていないし、母も15歳の時に他界したから、あまり聞けなかった」

「両親が居ないのか?」


加藤は目を細くした。

哀れむ・・・・・・というわけではないが、それに近い目でエスを見る。

エスはその目を知っているのか、携帯から目を離さず、顔も上げずにうなずいて続けた。


「うん。そう。だからこんな風にお金とか地位とか、そういうのを目的にしてない大人の人…まるで親みたいに接してくれる人、居なかったから、すごく嬉しいんだ。加藤さんと会えるのすごく楽しみにしてたんだよ」


加藤はくすぐったい気持ちになった。

エスは少しだけ顔を上げて笑みを向ける。


「だから、律子…に迎えに行って貰ったの。律子だけには、全部話してるから」

「律子?ああ、あのセーラー服の」

「うん。そう。また加藤さんは会うときが来ると思う。その時は仲良くしてね」


ピロンと、加藤の携帯が鳴った。

取り出してサブディスプレイを見るとEメール着信の表示があった。

携帯を開き中を確認するとそれは目の前の少女からで


『ありがとう』


と、短く打ってあった。



二人はその後コーヒーショップを出たところで別れた。


自宅に帰る電車の中で加藤は考えていた。

ドアに寄りかかり、絶えず乗降する人を見ながら。

エスは今晩どこに帰って眠るのだろうか、と。


自宅の玄関を開けコンビニの袋をシンク横の台に置いた所で携帯が鳴った。

電気をつけながらポケットからそれを出し、開いて画面を見る。

片手で操作しながら受信ボックスを開いた。

エスからのメールだった。


『明日も加藤さん来る?遠藤先生が来るから午後からにしてください』


買って来たカップ麺に入れる為にお湯を沸かそうとヤカンをコンロにかけながら、加藤も返事を出した。


『わかった。何か買っていくよ』


それでメールは途切れた。

加藤はそれでもエスがどこかに居てメールをするだけの余裕がある事に安堵を感じていた。


次の日。

午前中は仕事を真面目にしてから午後取材と言い加藤は外に出た。

前日と同じように電車に乗る。

携帯を出しエスに短いメールを送った。


『今から向かう』


30分ほど待ってもエスからは返事がなかった。

あまり気にも留めず、鞄の中に入っている雑誌を取り出し読み出した。

あっという間に渋谷に着き足早に電車を降りる。

改札から外に出て、エスが居るビルに向かった。

途中、サンドウィッチを買い、飲み物を買った。

鞄と袋を持って人を避けて歩く。

ビルの前に立ち、躊躇せず、階段を一気に駆け上がった。

エスの居る事務所の前に立ち、ドアノブを回す。

キィッと音を立てて、ドアが開いた。


その時、加藤は違和感を覚えた。

エスは中に居たとしても、用心して鍵をかけていた。

それはエスの力を知っている者が来ても開かないようにするためで、知っているとは言え、落ち着ける時間が欲しいのだと、言っていた。

加藤の心臓が早鐘を打つように早くなる。

ごくりと喉を鳴らして、室内をそっと見る。

椅子が二客とも倒れていて、床にエスが倒れていた。


「エス!!」



加藤は袋と鞄を床に落として走りよった。

背から肩を掴んで仰向けにする。

ぐったりと力なく仰向けになった顔にはサングラスが無く、腫れ上がって紫色になった頬があった。

胸に耳をつける。

心音を確かめて加藤はほっと息を吐いた。

それにしても顔がひどい。

肩を揺さぶって声をかけた。


「エス、エスっ」


体を打っていたのか、エスは眉をしかめながら目をうっすらと開いた。


「あ、れ。加藤さん?…あ、そうか。もう遠藤先生は居ないんだ」

「大丈夫か?」


エスは体を起こそうと動いた。

加藤はそれを助けてやる。


「うん。平気。…ごめんね。びっくりしたでしょ。言っておけばよかった」


起き上がり、手を頬にあてた。

痛そうな表情を浮かべながらエスは言った。


「…言っておけばってお前分かって…いや、うん。そうなんだが。分かってて、それで」

「うん。そう。分かってたけど、こうなったの。やったのは遠藤先生だよ」

「避ける、とか、なかったのかよ。大体何が原因で」


加藤はさっき落とした袋から缶ジュースを持ってきてエスに頬に当てた。

冷たさか痛さか、エスは身を竦めたが、次第に気持ちよさそうに目を閉じた。


「だって、どうしようもないもん。この後先生はあたしを叩きます。なんて、言えないよ。それこそ相手が逆上しちゃう。殺されるかも、しれない。それなら叩かれる方が未来の通りに進むから。加藤さんが来るって分かってたから」

「…俺の気が変わってたらどうしてたんだよ」

「…そうしたら最初から加藤さんが来る未来なんて見えてないよ」


エスは目を開けた。

殴られた左の頬に潰されて左目は右より細くなっていた。



「…それにしてもひどく殴られたな。何言ったんだ?」

「今度の選挙で不正してて、それ、止めた方が良いって。そしたら、誰から聞いたんだって言われて。見えたんですって、答えたんだけど。誰かが裏切ったって…、頭に血が昇ってたらしくて、あたしがそういうの見えるって事も瞬間的に忘れたみたいで。きっと、遠藤先生は昔にそういう事があったから、それでだと思う」

「…なぁ、その口ぶりじゃ過去も見えるみたいだな。…そうなのか?」


加藤はジュースをもう一本持ってきてぬるくなったものと変えた。


「…言ってなかった?右の目は未来が。左の目は過去が見えるの。…あの時も左だったから母の子供時代が見えたんだ。きっと」


ため息をつくようにエスは言った。

加藤は何も聞けなくなって、ただ、エスの頭を撫でた。

エスの目から涙が出た。

「腫れが引いたら買い物にでも行こうか」


加藤が椅子を置きなおしながらエスに声を掛けた。

エスは先にもどしてくれた椅子に両膝を抱えて座りながら頷く。

机においてあったサングラスをかけて、加藤が買ってきたサンドウィッチを出した。

加藤も椅子に座り、向かい合う。

エスは自分を見ている視線に気づき、顔を上げた。


「ひどいな、って顔、してる」


サンドウィッチを開けながらエスが言った。

加藤はまぁな、と、頷いて、同じようにサンドウィッチを開けた。


「…ごめんなさい。心配かけて」

「いいさ。俺がしゃしゃり出る問題でもないしな」


サンドウィッチを持ったままじっと加藤の顔を見る。

苛立って見える顔、エスはタマゴサンドを口に運んだ。

鉄のような味とタマゴとマヨネーズ、それとパンの味が混ざって涙が浮かんだ。


「あたし、タマゴサンド、好き」


ぼそぼそと呟く声が鼻が詰まっている声で加藤は顔を上げた。

エスは涙を流しながら俯いて口だけを動かしていた。


「次からは言えよな」


手を伸ばしてエスの頭を撫でる。

小さくエスが頷いた。


「よく噛んで食えよ」


もう一度エスが頷いた。

それきり二人は会話をせずに、もくもくと食事をした。

買い物は結局行かず、いつものように、空が暗くなってから加藤は自宅へ戻った。

エスは加藤が去っていく様子を窓からじっと眺めていた。

人ごみで加藤の姿はほんの一瞬しか見えず、それでもずっと外を眺めていた。

加藤は当然の事ながらまだ何も知らなかった。

エスが狙われていることに。

もっとも厄介な者たちに。



次の週の月曜日。

書店の店頭にはある週刊誌がいつものように陳列されていた。

表紙の見出しにはカラフルに色づいた背景に黒い太い文字で芸能人のゴシップや殺人事件の記事のタイトルが並ぶ。

通常の週刊誌とただ一つだけ異なったのは一番目立たない場所ではあったが、実しやかに噂されていた真相を捉えたというタイトルだった。


『スクープ! ついに謎の超能力者エスの居所を本誌が直撃!!』


それは加藤の所属する出版社の週刊誌だった。



「お手柄だな!」


廊下で通りすがりに編集長に肩を叩かれ手渡されたばかりの週刊誌をめくって加藤は呆然としていた。

見開き1ページ半に渡って特集を組まれたエスの記事は狙ったとしか思えないほど、あの事務所の場所が分かるような写真が貼られ、盗撮したらしいエスと加藤が二人で写った写真は目を隠してあったが、写真は実に鮮明な物だった。


「・・・・・・なんすか、これ」


顔をあげた加藤を編集長はにやにやと厭らしい笑いを浮かべ、煙草を咥えた。

ポケットから100円ライターを出すとゆっくりと火を付けた。

「なんだって、聞いてるんだ」


加藤は雑誌を床にたたきつけた。

編集長は笑みを浮かべたまま視線を鋭く加藤を見下ろした。


「何だ、じゃねぇだろう? 知ってて嘘ついて、お前、記者じゃねぇのか」

煙草の煙を加藤に向け吐き出しながら編集長は言った。


「お前をつけてたのは山田だよ。あいつはお前が変だって事に気づいててな。・・・・・・ああいうのを鑑っていうんだろうなぁ」

くっくっくと笑いを堪えながら仲間を平気で売った目の前の男に加藤は腸が煮えくり返っていた。


気づいた時には編集長は床に吹っ飛んでいた。

加藤の右手が赤く腫れる。


「てめぇは最低だ。クズがっ!」


物音に同僚や他の部署の者が騒ぎ出す。

なおも編集長に殴りかかろうとする加藤に誰かが後ろから止めた。

女子社員の悲鳴が廊下に木霊する。


ただすっぱ抜かれただけ。

横取りされる事だって、他社に取られる事だって、ある。


ただ、エスの事だけは、世間に洩らしてはいけないと、そう思っていたのに。


加藤は拳を握り締めると背後から羽交い絞めにしていた同僚を振り切って走り去った。

今はエスの元に行かないといけないと、それだけだった。



渋谷。

女子高生が一人雑誌を買えば、そこでは百人が同時にその情報を手に入れたといって過言ではないほど、情報伝達は早かった。

加藤がエスの居るビルに着いた時には既に先客たちが押しかけていた。

スカートの短い、茶色の髪の少女達。

ざっと数えただけで30人ほどが、往来を阻んでいる事も気にせずに道端に座り込み喋っていた。

何人かは見たことがあった。

自分が聞き込みをした子やエスと一緒の時に話しかけられた子。


「やばいな」


集団から顔を隠すように道の反対側へ渡る。

顔を上げビルの5階を見上げた。

部屋は暗く、人がいる気配すら感じられない。


その時、携帯が低い音を立てて唸った。

振動は止まらず、メールでないと判断した加藤はろくに画面を見ることもせず通話ボタンを押した。


「もしもし」


上の空だが反射的にそう言うと一瞬だけ間をおいて相手が喋り出した。


「・・・・・・加藤さん? あたし」

「エス!」


思わず大声で電話に向かって呼んでしまい、加藤は慌てて辺りをうかがった。

誰かに聞かれたらマズイ。

その場からそのまま歩いて離れながら電話に集中する。


「エス、です。ごめんね。何も言わなくて」

「・・・・・・知ってた、んだよな」

「うん・・・・・・」


反対側の道をどこかのテレビ局がビルに向かって歩いていくのが見えた。

この騒ぎだ、聞きつけたんだろう。

これでもう後戻りは出来ないと、加藤は思った。

「お前、今どこにいるんだ。・・・・・・悪かったな。俺のせいで」

「・・・・・・いいの。加藤さんと会う前から知ってたんだから」

「・・・・・・それでも俺に会ったのか? 馬鹿だな」

「馬鹿だなんて、ひどい。・・・・・・今ね、あのお店にいるの。覚えてる?」


だいぶビルから離れた場所で立ち止まり一人頷いた。


「あぁ、木村さんのだな」

「うん。そこにいるから。ばれないように来てね、木村さんには迷惑かけられない」

「あぁ、分かってる」


エスの返事を聞かないまま加藤は通話を終えた。

頭に地図を描いてみる。

(ここからなら15分くらいか)

人通りの少ない通りを選んでルートを決め、歩き始める。

細い路地に入り自嘲的に笑う。

渋谷にも詳しくなったもんだな、と。



相変わらずの佇まいでその店は静かに同じ場所にあった。

辺りを最後に見渡してから階段を下りる。

店のドアには「CLOSE」の札が掛けられ、遠慮がちにノブを回すと静まり返った店内にテレビの音が響いていた。


「加藤さん!」


ドアの開いた音に反応して振り返った数人の従業員の中にいつもの帽子のエスがいて、笑顔で名を呼んだ。


「遅くなったな。お土産はなしだ」


木村と数人の従業員に頭を軽く下げエスの側へ行く。

テレビでは若い女性アナウンサーがあのビルの前から中継をしているところだった。

エスの噂は思ったより広がっていて、他の奴らも追っていたのかもしれない。

加藤は目を細め、また拳を握り締めていた。


「・・・・・・見てるでしょうね、遠藤先生も」


背後から声を掛けられ振り返ると木村が人数分のコーヒーを持ってきた所だった。


「今日はサービスですから」


加藤の前にコーヒーを置き、木村が言う。

エスはカップに顔を近づけ香りを楽しんでいた。


「見てるよね」


全員にコーヒーが行き渡り、香りを堪能し終えたエスが口を開いた。


「先生の政治生命に関わる事だもん。あたしが本当にそういう力があるかどうかは別にして、得体も知れない少女に力添えして貰って・・・・・・、しかもその少女に金銭的援助もしてるってなったら信用はガタ落ちだもん」


カップを両手で持ってエスはコーヒーを啜った。


「だから、もうすぐ掛かってくるよ。電話」


店においてあるピンクの公衆電話に視線が集まる。

その時、電話が鳴った。

バイトの女の子が体をびくりと震わせて木村を見た。

名札には鈴木と書いてある。

いつもは彼女がとっているであろうそれを木村は頷いて、自らが取りに行く。


「もしもし」


受話器を取って耳に当てる。

だがすぐにエスの方を向き、一言二言電話の相手と言葉を交わすと通話口を手で塞ぎエスに差し出した。


「・・・・・・遠藤先生が君と話したいと」


頷いたエスは黙って立ち上がると電話へ向かう。

思わず加藤の手がエスの腕を掴んだ。


「大丈夫」


振り向かずエスが言い、半ば振り切るような形で電話へ向かった。

エスが遠藤と話している間、誰も話さず、じっと全員がエスを見ていた。


ガシャンと電話を置いた音がして振り返ったエスの顔には笑みが浮かんでいた。

無理して笑っているのか、それとも何か安心する事実があったのか、知る術も無く加藤は苛立った表情をしていた。


「大丈夫。先生はすぐには来れないからマンションで待ってろって」


木村がほっと胸を撫で下ろしたように息を吐いた。


「そうですか。よかった。心配だったんです」

「ありがとう。今はまだ先生とあたしのつながりがばれてないから、あのマンションならセキュリティがしっかりしているから安全だって。ただ・・・・・・」


エスはちらりと加藤を見た。

加藤は話が分からず煙草を取り出した所で、エスの視線に気づき手を止めた。


「何だ?俺にマンションまで送れってか?」


適任が居るだろうと、木村とエスを見ながら捨て台詞を吐く。

エスは首を左右に振り、答えた。


「違うの。・・・・・・加藤さんも一緒にマンションに居ろって。・・・・・・その、つまり、軟禁状態なんだけど」


申し訳無さそうに言うエスに木村は飲みかけていたコーヒーを吹いた。

隣に座っていた鈴木が慌てて背中をさする。

むせる木村が無理矢理口を開いた。


「・・・・・・それは・・・・・・その、まずくないですか?」


加藤に伺いを立てるようにちらちらと視線を送る。

何より一番加藤は驚いていた。

咥えていた火のついたままの煙草をテーブルに落とした事にも気づいてなかった。


「煙草、煙草!」


エスが慌てて近づき煙草を拾って灰皿に乗せる。

少し焦げたテーブルクロスと木村の顔を見比べる。


「・・・・・・あ、すいません。弁償します」


加藤は灰皿の上の煙草を咥えなおし、思い切り吸った。

そして煙を吐く。

沈黙が流れた。


「・・・・・・いや、テーブルクロスはいいですから。その、どうするんです? 本当にエス・・・・・・と?」


木村はエスと加藤の顔を見比べている。

背中をさすり終えた鈴木も同じように見比べていた。


「・・・・・・いや、だって、指示なんでしょう? もし俺が嫌だと言ったらエスが困る。違いますか?」


煙を吐いて灰皿に煙草を押し付けて加藤が言った。


「それは、そうですが・・・・・・」


木村も反論できず、俯いた。

エスはテーブルクロスを指でいじっていたが二人の会話に顔を上げ、


「別にあたしは平気だよ? 加藤さんは変な事する人じゃないし」


最後に加藤を見ながら明るい声で言った。

再び沈黙が流れる。

それを破ったのは鈴木で、遠慮がちではあったが行動を起こすには充分だった。

「とにかく、エスさんはマンションに行かれた方が良いと思うんですけど」

一同は押し黙り、エスだけが頷いた。


木村が店のドアを開けて外を覗く。

外は静かな喧騒に包まれていて、車のクラクションが聞こえた。


「大丈夫みたいです」

店の中に声をかけドアを手で開けたままにする。

加藤とエスがすばやく外へ出る。


「気をつけて。何かあったら連絡ください」

木村が店の番号が載ったカードを二枚、加藤に渡した。

加藤は小さく頷くとエスの腕を取った。

エスは加藤の顔を見ると、大丈夫だよ、と笑う。

鈴木を含め他の従業員も出てきて二人を見送る。


「じゃあ行くか」

加藤が歩き出そうとした時だった。

エスは加藤の腕を振り払い、木村の元へ寄る。

その様子を全員が困惑した表情を浮かべて見た。

エスは木村に向かって手を合わせた。


「木村さん、お願い。律子には連絡先教えてないの。……ここに来るはずだから教えてください」


木村は納得した顔をして大きく頷き任せてくださいと笑った。

その顔を見てほっとしたのかエスは木村にありがとうと呟き、それからもう一つ、と、木村の耳元に口を寄せて一言二言話しをしていた。

きっと未来のことなのだろうと、加藤は眺めている。

木村はエスの言葉に目を開いて驚き、大きく頷いた。

エスは木村に抱きつき、小さな声で


「今までありがとう」


と呟いた。



エスは加藤の手を握ると足早に木村の店を離れた。

二人はその後、渋谷から電車に乗っていた。

幸い、誰にも気づかれなかった。

当然と言えば当然で、エスはその未来も知っていて、そうならないようにしていたのだろう。

加藤はエスが手を引くまま付いて行った。



二人が着いたのは渋谷からそう遠くない駅から徒歩五分ほどのマンションだった。

高層マンションと言って過言がないその建物の最上階の南側の角部屋。

決して安くないその部屋の鍵をエスはポケットから出した小さな鍵で開けた。

ドアを開けるとあまり使われていない部屋の匂いがした。

ペンキや壁紙を張りなおした後の独特の匂いだった。


「何にもないけど、あがって」


エスはあれからずっと繋いでいた手を離した。

すこし寂しそうにその手を見つめ、靴を脱いだ。

玄関から伸びる廊下を先に歩く。

加藤は何も言わずに靴を脱いで後に続いた。


3LDKのマンションには家具はほとんど揃っていた。

それも価値の分からない加藤が見ても分かるほど高価な物だった。

けれどそれのほとんどが新品同様使われていなかった。


広いリビングの南側は一面が窓ガラスになっていた。

渋谷は東京の景色が一望出来た。

加藤が、置かれている応接セットにも、景色にも呆然と、立ち尽くしているとエスは笑みを浮かべながら座って、と動作で示した。

「これも遠藤が?」

エスは隣接されているキッチンへと足を運んだ。

エスの姿が見えなくなると加藤は周囲を何度も見渡しては、ため息をついた。


(すべてが自分の居る世界とは桁違いだ)


加藤は気を紛らわせるために煙草を咥え、火をつけようとして、灰皿を探した。

それらしいものは見つからず、咥えたまま辺りを見回した。


「うん」


明るい声でエスは言った。

最もその姿はまだキッチンにあり、声だけが響いた。


「そうか。…禁煙?」


ライターを持ったまま加藤はキッチンに向けて尋ねた。

エスは「あ!」と声を漏らし慌ててこれまた高価な皿を持ってきた。


「ごめんなさい、気づかなくて。灰皿ないからこれ、使って」


ソファとセットになっている背の低いテーブルに置かれた皿を見て加藤は手を止めた。

思わずそれを裏返し、裏にプリントされている文字を見た。

世界でも五本の指に入るほど有名なブランドのそれは確かどこかの国で王族が使っているものだった。


「こんなもの使えない」


エスの顔を見て加藤はつぶやいた。

エスは困った顔をしながら、首を振る。


「でも、他にないから」


加藤は首を伸ばしてキッチンを見た。

そこは普通よりも広く立派な空間だった。

そして、大きな食器棚が鎮座していた。



数分後。

エスの入れたコーヒーを飲みながら二人はテーブルを挟んでソファに座っていた。

結局加藤は差し出された皿を使うしかなく、模様を汚さないように白い部分で煙草の火を押し消した。


「この後の未来、見たのか?」


加藤が声をかける。

エスは頷いてカップを置いた。


「……見たよ。…あたしの未来だけど」


コーヒーからは湯気が昇っている。

カップから目を離して加藤はエスを見た。


「お前の?」


わざわざ自分のと断りを入れたことに疑問を持った。

エスはひとつ頷いて、シュガーポットから角砂糖を一つ自分のカップに指でつまんで入れた。


「加藤さんの未来はね、もうずいぶん見てないの」

「え?」

「最初に会った時に言ったでしょう? 加藤さんは望んでないって。一緒に居たら気が変わるかなって思ったりしたけど、やっぱり、最初に見たとおりだったから」

「だから、見るのやめたのか?」

「うん。……だって知りたくない人のを見ても、それが、例えば辛い事だったら、一人で抱えるの嫌だもん。……知りたいって思ってる人以外は極力見ないようにしてるんだよ」


エスがカップをかき混ぜるスプーンの金属音が耳についた。

「……いつから。俺はてっきり見られてるのかと」

力が抜けたようにカップをテーブルに置いた。


「覚えてない。未来とか過去を見るのもね、一つじゃないの。いくつあるかなんて分からないけど、見えたヴィジョンは色々なんだ。その人の視線や、透明人間のように空気のような視線。未来や過去に存在する自分が相手を見る視線。……だから、曖昧だったりはっきりしていたり。見れる長さも期間もまちまち。10年前が見れると思ったら、3日前までしか見れなかったり、10年後だったり。10分以上見続けられると思ったら10秒で終わったり」


両手でカップを持ってエスは加藤を見て寂しそうに笑った。

顔が分からないよね、と、語っている。


「ずっと話そうと思ってたんだけど、中々言うチャンスが無くって」


ずずっとコーヒーを飲む。

カップで顔が少し隠れて、まつげが意外に長いんだな、と、加藤はぼんやり思った。


「……そうか」


そう答えるのが精一杯だった。

もしかして自分は勘違いをしていたのかも、しれない。

エスを傷つけてはいなかっただろうか。

どうして俺はここにいるんだろう、と、加藤は思っていた。



夜になり、窓の外から見える景色は絶景だった。

ホテルのスイートのようだなと加藤が言うとエスは掃除の手を止め笑った。

埃が薄らと被った床を見ながら掃除を始めると言ったのはエスで、手伝うといった加藤に首を振った。


「加藤さんはお客さんなんだから、ゆっくりしてて」


エスは用具を出してきて床を磨く事から始めた。

そんな風に生活臭がにじむ姿を見るのは初めてで、加藤はしばらくその姿を眺めていた。

暇そうに見えたのかエスはテレビのリモコンをどこからか探してきて加藤に渡した。

リビングにある大きなテレビのスイッチを入れる。

ちょうど午後のドラマの再放送をやっていて、一度も見た事のない途中のドラマに見入ってしまった。


放送が終わり、夕方のニュースも見終わってからエスに目を向けると棚を拭いていた。

それから窓を見て、夜景に気づいたのだった。


ソファから立ち上がり大きく伸びをする。

テレビをこんなに長い間見たのはどれくらいぶりだろう。

呻くような声が漏れていたのか、エスが振り返る。


「どうしたの?」


加藤は腕を下ろし、エスを見た。


「いいや。ゆっくりテレビを見て体がこった。飯はどうする?」


手に雑巾を持ったままのエスはそれを足元にあったバケツに放り込む。

ぱしゃんとバケツから小さな水音が立った。


「食べにいけないもんね」

首を傾げため息をつく。


「お前が作ってくれるとか?」


あまり期待は出来ないが、という言葉を飲み込んでエスに尋ねる。

するとエスは首をぶんぶん振った。


「無理、無理だよ。料理したことないもん」


あんまり強く振ったので髪がぐしゃぐしゃになった。

加藤は思わず吹き出し笑う。

恥ずかしそうにエスの顔が赤くなる。


「お前にも苦手な物があるんだな、何でも出来るのかと思ってたよ」

「苦手な物だらけだよ、何も出来ないもん」


エスに言うと頬を膨らませそう返って来て、俺はリモコンでテレビを消してから、腕まくりをした。


「じゃあ、俺が作ってやろう」



30分後にはダイニングにあるテーブルに湯気が立つパスタが並んでいた。


加藤が立候補した後、エスはとんでもないという表情をして加藤を止めたのだが、押し切って調理を始めた加藤の腕前を見る内にキラキラと顔を輝かせて褒めちぎった。


パスタを前に椅子に座りエスは笑顔を絶やさない。


「すごいね、加藤さん」


手を拭きながら加藤が向かいに座る。


「見てないのか? 俺、コックだったんだ」


フォークをエスに手渡す。

洗ったばかりで水滴がついている。


「……見てないって言ったじゃない。加藤さんの事ほとんど知らない」


エスが受け取る。

トマトソースからはガーリックのいいにおいが立ち昇っていた。


「……本当か?」

「うん。いただきます」


エスは綺麗な動作でパスタを食べ始めた。


「……そうか、悪いな。疑って」


加藤も食べ始める。

エスに比べたら行儀が悪く見えた。


「いいよ。気にしない。おいしいね」


口に入れた分をきっちり飲み込んでから伝える。


「そうか。乾物と缶詰しかないから心配したけど、よかったな。ガスも来てて」

「そうだね」


二人が半分ほど食べた時ドアチャイムが鳴った。

突然の事に二人の動きが止まる。

エスは小さく頷き、大丈夫、と呟いた。


「ロビーからだから」


エスは言い、立ち上がりインターフォンへ向かう。

加藤は口の周りを舌で舐めてから側にあったティッシュで口を拭った。

受話器を取るエスを加藤は見ていた。

フォークでパスタをもてあそぶ。

小声で話すエスが加藤の方に笑顔を向けた。

また背を向け何度か頷き、パネルを操作する。

それから加藤の方を向いた。


「律子だった」



エスは本当に嬉しそうだった。

それで初めて気づいた。

加藤はエスと律子が対面している所を見た事がなかった。


数分後に現れた律子は以前会った時と同じ格好をしていた。

加藤の姿を見て頭を下げる。長い黒髪が揺れた。


「こんばんは。ご無沙汰しております」


正しい挨拶を出来る高校生を久しぶりに見て加藤は自分も頭を下げる。


「久しぶり。元気そうで何より」


加藤が顔を上げ声を掛けると律子も顔を上げた。

エスはその様子を笑いながら見ていて、二人に間が出来ると律子に近づいて抱きついた。


「律子ー、会いたかった」

「私も」


律子もエスの背に手を回す。

加藤はポケットから最後の煙草を出して火をつけた。


「遠藤先生はまだ来てないの?」


律子がそっとエスから離れて尋ねる。

迷子の小さな子に話しかけるように顔を覗き込みながら。

エスは首を左右に小さく振った。


「そう。しばらくは騒がしいかもしれないけれどすぐにみんな飽きるよ」


律子がエスの頭を撫でた。

エスは小さく頷いた。


その後二時間ほど三人で談笑し、律子は家に帰っていった。

エスの話によると、彼女は良い所のお嬢様なのだと言う。

確かに、と頷くと、エスは嬉しそうに笑った。



「ねぇ、加藤さん」


ベッドサイドの明かりだけがぼんやりとオレンジ色の光を照らす中、エスは布団の中で背中合わせに寝る加藤に声をかけた。


「ん……?」


目を閉じていただけの加藤が顔をエスの方に向けた。加藤の目に映るのは小さな後頭部。


二人はキングベッドに二人で寝ていた。誰かと寝てみたいというエスの願望を加藤が断りきれなかったからだ。


「遠藤先生とはねー……」


エスは体ごと加藤の方へ向ける。高級ベッドはエスが動いただけではベッド全体が揺れることはなく、加藤はじっとしていた。


「両親が死んだ時に会ったの。以前から知ってはいたんだけど。多額の遺産があってね、それを取られそうになった時に遠藤先生が全部やってくれたの。任せて大丈夫だよって。だから、このマンションも本当はあたしの」


一気にエスがしゃべり、笑う。

加藤はなぜそんな話をするのかと眉をしかめた。


「加藤さんには聞いておいて欲しかったから。……ね、怖い夢みたら、抱きついてもいい?」


端と端に別れて寝ようと約束したはずなのに、エスはすぐ側まで寄ってきていた。


「……しょうがねぇな」


苦笑いを浮かべて自分も真ん中に寄る。


「俺に聞かせたかったって……。今更記事にするでもなし、俺は神父でもないんだけどな」


ふぁっと欠伸を噛み締めながら呟くと、エスはすこしだけ笑い


「でも加藤さんは知っておいた方がいいんだよ」


と、呟いた。



「なあ…」


加藤はエスの言葉に引っかかって声をかけた。加藤の側で眠たそうに瞬きを繰り返しながらエスは顔をあげる。


「前から聞こうと思ってたんだけど、どうして俺に知っててもらいたいんだ?」


加藤は左半身を下に方向をかえ、エスを見た。エスと顔が向き合う。じっと見つめる加藤に、エスは笑みを浮かべたまま言う。


「加藤さんをずっと待ってたから」


「……ずっと?」


「うん。ずっと」


「加藤さんはあたしを知らなかったけど、あたしはずっと知ってたから。こうなるって知ってた。だから、あたしが加藤さんを知ってた分知ってもらいたいだけ。」


エスの言う知ってたは『見てた』のだろう。

言いたい事は何となく分かる、が加藤は腑に落ちなかった。



翌朝、目を覚ますとエスはすでにベッドから抜け出ており時計を見ると八時を指していた。

大口を開けて欠伸をしながら起き上がり、寝癖のついた頭を片手で掻く。

カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。どうやら晴れているらしい。

寝起きの一服をしようかとベッド脇のソファに置いてある上着に手を伸ばした時、ノックと共に寝室のドアが開いた。


「おはよう」


エスがいつものように笑みを浮かべて入ってくる。まるで見計らったようにと言いたい所だが、エスの場合は本当に見計らっているのだろう。


「ん」


加藤は片手をあげ返す。

エスは入り口のドアを閉めると加藤の側まで歩いてきた。


「律子が朝早くきて、これ」


ポケットから出したのは加藤が吸っている銘柄の煙草で、そういえば切れていたのだと受け取りながら思った。


「昨日頼んでおいたの。パンも買ってきてくれたから、朝ごはんにしない?」


ビニールの封を剥きながら加藤は頷く。


「用意がいいな」


皮肉でもなく、ただ、関心したように言ったのだがエスは困ったように笑った。



数分後リビングにはコーヒーの匂いが充満していた。

エスと加藤は向き合いパンをもそもそと食べている。


「なぁ」


二枚目のパンを一口齧りながら加藤がエスに声をかけた。

エスは砂糖がたっぷり入っていそうな菓子パンをちぎって口に入れた所で、口を動かしながら加藤の顔を見る。


「テレビつけていいか?」


エスは大きく頷く。加藤は立ち上がりリモコンを手に戻ってきた。そのまま椅子に座り、テレビをつける。

パシュンと音がして画面が明るくなり、一気に音が溢れる。

ちょうど朝のニュース番組が終わりを告げ、各局ワイドショーに切り替わったところだった。

日本は暇なのだろう。

ワイドショーはこぞってエスを取り上げていた。


「こんな大事になるんだな」


コーヒーを手に取りながら加藤がぼそっと洩らす。エスは何も言わずミルクティーを飲んでいた。


アナウンサーがあのビルの前で実況をしている局から他局へとチャンネルを回すと、イニシャルで表された芸能人をクリップで見せている局があった。


『ここに書いてある皆さんもですねー、エスと呼ばれる預言者に見てもらっているらしいんです。政界の著名な方も見て頂いてるらしく……』


スタジオのキャスターがそう言うと横からコメンテーターが偽者じゃないかと野次を飛ばし、軽い論争を引き起こした。


二人はそれをじっと眺め、加藤は時々エスの顔をちらっと見たりした。


「これじゃあ遠藤先生の名前が出るのも時間の問題だね。……それに」


見入っていたエスが独り言のように言葉を洩らす。が、すぐに言いかけてやめてしまった。

加藤が続きを催促するようにエスを見たが、エスを小さく頭を振るだけだった。



二人の間に沈黙が訪れる。

テレビの音がむなしく部屋に響いた。

食欲が無くなったのはエスも加藤も同じで、皿には固くなったパンが残っていた。


「テレビ消すか?」


先に切り出したのは加藤だった。だがエスはその申し出に首を振る。


テレビからはエスを見たという一般人がモザイク入りで話しをしていた。エスは女の子だとか、背が低いとか。


「よかった、写真とかプリクラとか撮っておかなくて。……知ってたんだけど」


俯いていたエスが顔をあげてぽつりと呟く。

加藤はその顔を見て胸が痛くなった。


「……なぁ、こうなるって分かっててどうして俺を招いたんだ?」


エスをじっと見つめる。加藤には不可解だった。こうなる事が分かっていたはずなのに、エスが自分を呼んだことを。


「……昨日も言ったじゃない。加藤さんをずっと待ってたから」


「けど……」


「加藤さんに会いたかったの。……それだけじゃいけない? 未来を知っているからって、危険だからって、会いたい人に会わないなんて……それって、あたし、人間じゃないみたい」


エスは眉を寄せながらそう言った。加藤は胸が締め付けられる思いだった。


エスがそんなに自分に会いたかった理由が、どうしても知りたくなった。


「なんでだ? 見てたからだけじゃないだろう」


エスはその言葉に首を振る。


「今は言えない。まだ、言えないの」


加藤はテーブルの下の両手を握り締める。爪が手のひらに食い込んで痛いくらいに。

苛立っていた。


多くを語らないエスに。

深追いした自分に。


何より、この先何があるのか自分は分かっていないのに、目の前の少女は分かっていて、神のような立場に居る事が。

エスが立ち上がり席を立つ。

加藤はじっとその姿を睨んでいた。


「……ごめんね、巻き込んで」


エスは頭を加藤に向かって下げた。


「本当にごめんなさい」


顔を上げたエスの目に涙が溜まる。瞬きをしたら今にも零れそうなくらいに。


「それでも、加藤さんに会いたかった。ずっと、ずっと、加藤さんを見ていたの。鏡に写った自分の向こう側や瞼の裏に。加藤さんだけなの、本当に、加藤さんだけ。あたしの力を自分の未来を目当てにしてなかったのは、加藤さんだけなの」


話している間に瞬きを繰り返し、エスの頬は涙で濡れていた。終いには嗚咽が混じり、しゃっくりを繰り返す。


加藤は睨んだまま、エスに問いかけた。


「じゃあ、ちゃんと話せよ。遠藤との事、お前の過去の事、これから何があるのか、俺はどうなるのか。お前がどうなるのか。いつまでここにいなくちゃいけないのか」


「……出来ないの」


「なんで」


エスは両手で顔を覆って首を振った。

加藤が立ち上がる。勢いで椅子が大きな音を立てて倒れた。そんな事気にも留めずエスの腕に手を伸ばし、掴む。顔を覆っている手を引き剥がすようにどかすと、目を見開いて睨んだ。


「だって、何だ。見えるんだろう? 未来が!」


それでもなおエスは首を振った。


「どっちにしても、加藤さんを苦しめるから、言えないっ」


加藤の手を振り払ってエスは逃げようとする。加藤は力を込めてエスを引っ張った。テーブルの上のカップが倒れて飲みかけのコーヒーとミルクティーが零れる。流れた液体が小さな滝のようにテーブルから落ちて床に水溜りをつくった。


「逃げんなよ」


エスはそれでも逃げようと自分の腕を体に寄せた。が、加藤の力には敵わずその場に立ち竦む。


そんな二人のやり取りを止めたのはテレビだった。先ほどまで見ていた番組が終わり、次のワイドショーが始まった時、加藤は耳を疑った。


『現在、話題になっているエスという預言者の少女ですが、十年ほど前に一時話題となりました、あの少女と同一人物だという事がわかりましたっ』


現場に行っている若い女性アナウンサーが興奮したように、山奥の古びた家の前に立っている。


加藤は画面に気を取られ、その映像に目が奪われた。その一瞬の隙をついて、エスは加藤を振りほどき、廊下へ走っていく。どこかのドアが閉まり、鍵がかかる音がした。加藤は画面に見入っていた。


『あの少女とは、十年前に、総理大臣になった高橋卓議員が通いつめ、スクープされたというあの話です。覚えてらっしゃる方も多いと思いますが……』


確かにそんな事があったと、加藤は思い出していた。

十年前、衝撃が走ったのだ。

今と同じように。


確か、その時高橋卓の右腕だったのが遠藤だった。

エスと遠藤の線がつながった。


画面は当時五、六歳だったエスが写っている。


当時の報道では親が金儲けのために少女を使っていると、報道された。

エスはそんな事を一言も言わなかった。


先ほどのエスの言葉が加藤の心の中にふつふつと沸いてきた。


「エスっ!」


加藤は我に返ったように廊下を走り、閉まっているドアをノックした。

ノブを回し、開いていない部屋を探す。

三部屋あるうち、昨晩一緒に寝た寝室だけが閉まっていた。


乱暴にドアを叩く。


「エス、エスっ!」


耳障りなほどノブを回す。

中からエスの嗚咽が聞こえてくるような気がして加藤は眉を顰めた。


「悪かった、エス。ごめん」


ドアを叩き続けながらそう繰り返し、自分もエスに未来を求めた事に気づく。

知りたくないと思いながら、エスを羨んだ自分を殴りたくなった。



どれくらいそうしていたのだろう。加藤の手は赤くなっていた。音が消えれば中のエスの嗚咽が響いた。


「エス、エス。出てきてくれ。お前のこと、もう何も言わないから」


加藤の目頭も熱くなる。


自分の親が金儲けのために自分を使っていたと知った時のエスの気持ちは想像を絶した。


目の前のドアの木目がぼやける。


自分の周りの人間がすべて未来をあてにしていると、嫌でもわかって、それを予知していたエス。

驕りかもしれないが、自分は希望だったのではないだろうか。

その希望が自分を裏切る。

それも分かっていたのだ。


加藤は涙が止まらなくなっていた。立っている事も出来ずドアに頭をつけたまま、座り込む。

嗚咽が止まらず、鼻水まで出た。


ドアがそっと開く。

涙でぐちゃぐちゃの顔をしたエスが座りこんだ加藤の頭を抱いた。


「ごめんなさい、加藤さん。……あたし、もう、どうしたら良いのか分からなくて。加藤さんがこうやって泣くのも、分かってたのに、どうしようも無くて。あたし、どうしたらいいんだろう」


それでもエスは自分より加藤の事を考えていた。

加藤はその言葉に、また涙を流した。

二人は廊下でしばらくそのまま泣いていた。

そんな時間に終わりを告げたのは、突然響いた玄関の鍵を開ける音だった。


「……遠藤先生」


エスの体が固まる。

加藤が先に立ち上がり顔を袖で拭った。

荒々しく玄関のドアが開き、土足のまま遠藤は入ってきた。

神経質そうな顔、ピシッとしたスーツ。

いかにも政治家という格好して廊下の二人に目をやる。


「エス」


威圧感が加藤にも冷や汗を流させる。

呼ばれたエスがのろのろと立ち上がり、頭を下げた。


「居間へ。話がある」


加藤には一瞥しただけで何も言わず、さっさと居間へ歩いていく。エスが涙を拭ってから俯いて後についていった。玄関には遠藤の秘書と思われる人物が立っていて、加藤を見ていた。加藤も二人の後を追った。



リビングのソファーに遠藤が足を組んで座っている。

エスはその向かいに座り俯いていた。

リビングに入ってきた加藤の姿を見て遠藤が薄く笑う。


「君も掛けたまえ」

政治家特有の偉そうな態度に加藤は奥歯を噛み締めた。

エスの横に乱暴に座るとおろしたての煙草を箱から抜き火をつけた。

遠藤はその様子を目を細めて見やり、加藤が何回か煙を吐いてから口を開いた。


「今朝言われたよ。どういう事か、とね」


エスは唇を噛み締めたまま顔を上げ遠藤を見た。


「約束が違うね? エス」


加藤には話の意味すら分からない。

が、それを聞くことが出来ないほど空気が張り詰めている。


遠藤は身動きせずエスを見ている。


加藤は横目でエスを見た。こうなる事が分かっていたはずなのにその姿は捕食される前のネズミのように震えていた。

思わず加藤はエスの手を握った。

エスが驚いたように加藤を見る。

遠藤も同じだったようで片眉を上げた。

そしてさも下らないと言うように舌打ちをした。


「……なるほど」


エスにはこの一言で十分だった。加藤の手を振り払い、遠藤に首を振る。


「ち、違いますっ」


加藤はエスと遠藤を交互に見た。

遠藤は加藤を鬼のように睨みつけていた。


「お前が」


加藤に向かって発せられる言葉。加藤も負けじと遠藤を睨む。


「お前がエスを奪うのか」


エスが耳を両手で塞ぐ。加藤の背筋に嫌な汗が流れた。


「この私からエスを奪うんだな」


遠藤の怒号が部屋に響く。


遠藤とエスに何があったのか加藤には分かってしまった。


エスは遠藤の協力者で愛人だったのだろう。



加藤はもう一度無理やりエスの手を握った。

エスが恐れていたのは遠藤では無く自分に知られる事だったのだろうと思った。


「だから、何だ」


加藤は空いた手で短くなった煙草を握りつぶして消した。手のひらが焼けて熱く痛かったが気にもならなかった。


「何だ、だと? 分からないのか、それは私の物なんだよ」


遠藤が目を見開いて笑いながら言う。狂った目をしている。加藤の心がざわつく。エスの手を握りしめる手に力が入る。


「エスは金になるんだよ。分かるか? エスの言葉が聞きたくて私よりはるかに力の強い者がひれ伏すんだ」


遠藤は何が可笑しいのか笑い出した。

彼はエスを使って今の地位まで登りつめ、その上、エスを使って金儲けをしていたのだろう。

加藤は遠藤の狂った笑い声を消すようにセンターテーブルを蹴っ飛ばした。


「その上こいつの体は上等ってか? お前、何様だよ」


「何様だと? 決まっているだろう、エスの所有者だ」


加藤にはエスがあんなに加藤を慕っていた理由がわかった。

「そうか。じゃあ申し訳ないがエスは」

加藤がぐいっとエスの手を引き体を抱きそう言いかけた時、エスの言葉が遮った。


「あ、あたしは遠藤先生を……愛してます」


声が震えていた。加藤は目を見開きエスを見下ろす。俯き両手を握り締めて肩を震わせて、泣いていた。


「ごめんなさい、加藤さん。でもやっぱりいけない。だってこのままじゃ、加藤さんが……」


見上げた顔。いつものようにこんな時でもエスは加藤に笑いかけていた。


「俺が……何なんだ」


エスの小さな体が加藤から離れていく。あんなの本心じゃなくて、エスが見ていた未来通りなのかどうかも分からなくて、だけれど、加藤はエスが遠藤の側に歩いて行くのを呆然と見ていた。



遠藤はエスが近づいてくるのを冷たい目をしたまま見つめていた。


「ごめんなさい、遠藤先生」


頭を下げるエス。

遠藤はその頭をゆっくりと撫でた。


「いいんだよ。ただ、分かっているね? 私が何で怒っているのか」


遠藤は優しく言った。

彼の手が離れるとエスは頭を上げて頷いた。


「……はい」


「言ってごらん」


加藤はその二人を見ながら握り締めたままだった手を開いた。手のひらに赤い火傷が残りくしゃくしゃになった煙草が零れ落ちる。

「先生に迷惑をかけ先生を裏切ったから……です」


「そう、だね。……私が、それで許すと思ったか?」


遠藤の声音が変わる。先ほどの優しさは微塵も感じられない程冷酷に。

エスは体をびくっと震わせた。

一瞬だった。

さきほどまで頭を撫でていたその手がエスの頬を思いっきり殴ったのは。

エスの体があっけなく吹っ飛ぶ。

加藤が顔を上げた時にはエスは床に転がっていた。


「……っ」


加藤の頭に血が昇る。エスの手を離してはいけなかった。

加藤が立ち上がるより早く、遠藤は立ち上がり転がったままのエスを固い靴裏で踏みつけた。


「許してもらえると思ったのか? 馬鹿だな。裏切ったら終わりだと言っただろう?」


エスの腕を踵ですり潰すように踏んでいく。エスの顔に苦痛の表情が浮かび、涙がこぼれていた。


「てめっ、何してんだ」


加藤が叫びながら近づく。

その加藤を見てエスは叫んだ。


「だめっ、加藤さん、逃げてっ! 早く逃げて!」


加藤には最早その声は届かなかった。

遠藤に掴みかかり殴ろうと拳に力をこめた。

が、その腕は遠藤には届かない。

背後からあっという間に羽交い絞めにされる。

首を回して背後を見ると玄関にいたはずの秘書が薄ら笑いを浮かべて加藤を捕まえていた。


「先生、この男は私が」


細身の体から信じられないほどの力で加藤を遠藤から引き剥がす。

遠藤は満足そうに笑みを浮かべて、エスの胸元を掴み引き上げた。


「私を裏切るなと言ったよな? あんなによくしてやったのに、恩を仇で返されるとはこういう事を言うんだ。……いいか、よく聞け。今朝、言われたよ。もう君の事は信じないとな。総理にだぞ、私の政治生命までも奪いやがって」


エスが咳き込み顔からは血がたれていた。


「今はまだマスコミを押さえている。が、時間の問題だ。……どうしてくれるんだ」


遠藤が力任せにエスを殴る。エスの顔が赤く腫れてきた。


「やめろっ」


加藤は秘書を振りほどこうと必死にもがく。そんな加藤に遠藤が振り向いて呟いた。


「安心しろ、次はお前だ」



「嫌、先生、お願い。加藤さんだけは助けて」


掴み上げられたままのエスの顔から涙が次々に溢れて零れ落ちる。頬についた血がそれによってすこし薄まった。


「……加藤、加藤と。さっき私の事を愛してると言ったのになぁ……」


エスの言葉に遠藤の顔がひきつる。


「お前なんてな、底辺にいるべき人間だろうが。見世物になるところを私が拾ってやったのに」


エスの顔をまた殴る音が部屋に響いた。

頬は腫れ、目も腫れ、口の端からは血が流れている。


「離せっ」


加藤は無理矢理秘書を引き離そうとした。そのまま横に倒れるようにしてテーブルに体当たりする。秘書は思わず力が緩み加藤共々床に倒れた。

加藤は下敷きにした秘書を蹴っ飛ばすと真っ先に遠藤とエスに走りよる。


そんな加藤を見て遠藤はエスをゴミを捨てるかのように放った。


「お前は人間のクズだ」


加藤が叫び、遠藤に掴みかかる。そのまま衝撃で加藤は遠藤を床に倒した。

遠藤の上に馬乗りになったまま加藤は全力で顔を殴った。

遠藤の整った髪が崩れ、眼鏡がゆがむ。

ネクタイが乱れ、スーツのボタンが弾けた。


秘書はよほど頭を強く打ったらしく起き上がれずにいた。エスは弱々しく起き上がろうとする。


殴られっぱなしの遠藤が加藤をどかそうともがき、棚から陶器の置き時計が落ちて割れずに裏蓋が取れて電池が外れた。

目の前に転がってきた電池を見てエスがはっと顔を上げる。


「危ないっ! 加藤さんっ!!」


一瞬、全員が止まった。

意外そうな顔をしたのは遠藤で、加藤はエスを見てしまった。

自分から注意が外れた事で遠藤は瞬間笑みを浮かべた。

遠藤の腕が置き時計に伸びる。

エスが立ち上がり加藤めがけて手を伸ばし思いっきり押した。


遠藤が置き時計を握り締め思いっきり振り下ろす。

そこにいるはずの加藤は、遠藤の体の上から離れ、エスがいた。


エスの頭に置き時計が当たって砕けた。


遠藤の驚愕した顔。

加藤は目の前で何が起こっているのかわからずにいた。

目を見開いたまま遠藤の上に倒れるエス。


血がエスの後頭部の裂け目から流れ出てていた。



「わ、私が悪いわけじゃないっ」


遠藤は自分の上に乗っているエスから逃れるように立ち上がった。エスがごろんと床の上に投げ出される。床に血が水溜りのように流れた。


「動かすなっ」


加藤は遠藤を突き飛ばしエスの元に寄る。


「エス、エスっ」


着ていたシャツを脱ぎ、エスの頭を押さえる。膝枕をするように抱きかかえ声をかけた。

エスが薄らと目を開ける。


「か……とう…さん…?」


目の焦点が合っていない。加藤の顔に冷や汗が浮かぶ。


「エス、寝るな、しっかりしろ。今救急車呼んでやるから」


エスの服のポケットを探り、エスの携帯を出す。急いでボタンを押し、遠藤に投げた。


「それくらい出来るだろう、殺人者になりたいのか」


睨む加藤に遠藤は電話をびくつきながら受け取り、住所や名前を告げながらも、合間に自分が悪いのではないと叫んでいた。


「エス、大丈夫か」


加藤はエスを覗き込む。エスの顔は急激に青白くなる。


「かと……さ……ん。ごめ……なさ……」


加藤はエスの手を力をこめて握った。頭を押さえてる手はしっとりと湿り気を帯び、辺りに鉄臭い匂いが漂う。

加藤の目からは知らずの内に涙が落ちて、エスの頬を濡らした。


「何謝ってるんだ。何も悪い事してないだろう」


「ちが……あたし…死ぬ…かも」


エスが弱々しく目を閉じる。加藤は握った手を揺らした。エスがまた薄らと目を開ける。


「馬鹿、何言ってんだ。自分の未来も見えるんだろう? 大丈夫なんだろう?」


エスは答えず、ゆっくりと瞬きを繰り返した。


「何とか言えよ、言えって。お前の我侭も何でも良くなったら聞いてやるから」


エスがすこし笑ったような気がした。

口を薄らとあけ聞き取れないほど小声で囁く。


「しら…ないの……」


加藤の顔が強張る。エスが手を握り返してきた。


「この…さ…きの…みら……い…見…てない」


エスの目に涙が浮かんで落ちる。嗚咽をするように体揺れ、次から次へと頬を流れた。


「こわ……いよ…。か…とさ…ん。みえなっ…い」


エスはそう最後に叫ぶように呟いて意識を失った。

加藤はエスを抱きしめて、何度も名前を呼んだ。


遠藤と秘書はいつの間にか姿を消し、その数分後、救急隊員によってエスと加藤は病院へ搬送された。



あれから1週間が経った。加藤は自分のアパートにずっと居た。空腹も感じず、何もしないで湿った布団に横たわっていた。一瞬でも寝ればあの時の夢を見た。その度に自分の叫び声で目が覚める。


病院に送られた後、エスはすぐさま手術室に入っていった。後から警察が来て事情聴取を受けた気がする。


呆然としたまま受け答えをして、気がついたら警察官はマスコミに変わっていた。次々と質問が浴びせられ、顔を上げればフラッシュが舞っていた。病院の警備員が追い出してくれた後、どこをどう帰ったのか、気がつけば家にいた。


加藤はよく覚えていなかった。あの時の事以外思い出せなかった。


そして知りたくなかった。エスがどうなったかも、遠藤がどうしているかも。


心をどこかに置いてきたようだった。

加藤の部屋のドアがノックされる。数日前から何度もそれは続き、電気屋だったり大家だった。加藤が反応を返さないと数十分でそれは止みまた部屋には静寂が戻った。

だが今回は違っていた。

もうかれこれ1時間になる。


加藤の意識がゆっくりと戻ってくる。寝返りを打ちドアを向く。まだ起き上がる気力は湧かない。


ノックが止まり、聞いたことのある声が加藤の名を呼んだ。


「加藤さん、律子です」


加藤は飛び起きてドアに向かう。弁当の容器に滑り、ゴミを蹴っ飛ばし、ドアに飛びつく。


エスを知っている律子に何かを話したかったのかも知れない。

現実では無くて、また迎えに来て欲しかったのかも知れない。



薄いドアを開けると右手をさすりながら真っ直ぐ前を向いて律子が立っていた。いつもの制服で、いつものように。

加藤の姿を見ると頭をゆっくり下げて挨拶をした。

顔を上げた律子の顔は瞼が腫れていた。


「探すの大変でした」


律子はそう呟くように漏らし笑みを見せた。

加藤が力なくしゃがみこむ。


「そうか……。現実なんだな」


加藤の一言に律子もしゃがむ。白い膝小僧が加藤の目に映った。


「はい。覚悟は出来ていたのですが、私もショックでした」


律子の声に加藤は顔を上げる。


「いつ……から」


声が掠れた。律子の目が加藤から逸れてドアの錆びた蝶番を向いていた。


「加藤さんをエスの元へ案内するずっと前から」



律子の提案で二人は駅前のコーヒーショップに居た。

あれほど多いと思ったマスコミはほとんど居らず、律子の話によると芸能人の婚約があったとかでテレビもほとんどそっちか、或いは遠藤に張り付いているとの事だった。


遠藤は警察に呼ばれ、多額の保釈金を支払ったとか、情報が錯綜していると律子は説明した。


目の前にあるコーヒーをじっと加藤は見つめていた。


「一週間ぶりのコーヒーだ」


カップを取ると急に空腹感が襲ってきた。

腹が鳴り、律子は席を立つとパンをニ、三個買ってきて加藤に渡す。


「悪いな」


袋を破きパンに齧り付く。

律子は加藤がパンを食べ終わるまでじっと動かずに待っていた。


「これを加藤さんに渡さないといけないと思いまして」


加藤がパンを食べ終わりコーヒーを一口飲むと、律子が鞄から通帳と印鑑を出してテーブルに置いた。

加藤が手に取り名義を見ると『野宮詩織』となっている。

的を得ない表情で律子を見る。


「エスの、です」


律子は白い封筒を続けて出しながら言った。


「手紙です。エスから」


封の開けられていない手紙。

加藤は受け取るのを躊躇った。


「遺書じゃないですよ、多分」


律子が身を乗り出して加藤の手に置く。

宛名はお世辞にも上手くない字で『かとうさんへ』と書かれていた。


「エスは……学校にも行かせて貰えなかったようで、それを書くために私に字を習っていました」


律子が立ち上がり鞄を置いたまま歩き出す。


「手を洗いに行って来ます」


気を利かせてくれたのだろう。

加藤は小さく頷くと、律子の背中と手紙を見比べていた。


遺書じゃないと言った律子の言葉は本当だろうか。

未来を見ていないと言ったエスの顔が浮かぶ。



加藤はその白い封筒を見つめたまましばらく動けなかった。

手が震えた。

何が書いてあるのか分からない手紙。

遺書じゃないと言った律子の言葉が信じられなかった。

見てないと言ったあの時のエスの顔が浮かぶ。


必要以上に音を立ててその手紙を開封する。

中には皺々になった紙が四つ折になって入っていた。

意を決して開くと、小学生顔負けの汚いひらがなが並んでいた。


『加藤さんへ


この手紙を読む時あたしはきっと加藤さんの側には居ないと思います。

律子を責めないでください。

律子は最初からあたしに反対していました。

でも、何度も言ったと思うけど、あたしは加藤さんにどうしても会いたかった。


あたしはずっと加藤さんに恋をしていました。


未来を見て、加藤さんという人を知って、その優しさやあたしに未来を求めない姿をずっと求めていました。


よく分からないと言うかもしれませんが、あたしは、加藤さんとどうしても会いたくて、自分が危険に、加藤さんを危険に晒すと分かっていも、加藤さんと一緒に居たかった。


その結果、どうなったのか、あたしは知りません。


あの時を境にあたしは自分の未来を見れなくなりました。

他人の未来は見えるのに、他人の未来にもあたしはいません。


あたしは死ぬのかもしれません。


加藤さんに最後まで好きと言えないのは今分かっています。


こんな風に手紙で書くのは卑怯だと思っています。

でも、あたしの気持ちを受け取ってください。


あの時、良くなったらあたしの我侭でも何でも聞いてやると言っていた言葉、楽しみにしています。


きっと、目が覚めて、あなたに会えますように。


律子にもよろしく伝えてください。

ありがとう、とも。』


書かれたのがボールペンで良かったと思った。

最後まで読み終わる前に涙が紙にいくつも落ちた。


エスの気持ちに気づかなかったわけじゃなかった。

それを認めたら、次は自分の気持ちで、とっくにそれも気づいていたのに、どうしても一線を越えられなかった。


記者という立場で自分もエスを利用としていたから、年の差があったから、何よりエスに心の底では疑問を抱いていたから。


エスが好きだった。

笑顔を向けるエスも、泣いているエスも、寝顔も。


自分がエスを好きだと言っていたら未来が変わっていたのだろうか。そんな事は無いと現実が否定する。


遠藤があの時ああいう風になっていたのが分かっていたのに、自分に会いたがったエス。


エスは誰よりも未来に素直だったのだ。



加藤は紙をテーブルに置いて両手を覆って泣いた。

声こそ出さなかったものの肩を震わせて泣いていた。


律子はトイレから出てくるとそっと加藤の向かいに座る。

心配そうに見ている周囲に軽く会釈をし、じっと、待った。


加藤が泣き止んだのはずいぶん経ってからで、律子は顔を上げた加藤にハンカチを差し出した。


「すいません。私はエスから聞いていました」


本当に申し訳なさそうに律子が頭を下げる。加藤は借りたハンカチで涙を拭い、律子をじっと見つめた。


「いや……良いんだ。エスが、ありがとうって」


顔をあげた律子の表情が固まる。我慢していたものが溢れるように涙が頬を一筋流れた。


「……ありがとう、ですか?」


震える声で律子が尋ねる。加藤が頷くのを見ると、次から次へと涙をこぼした。加藤がハンカチを返すと、涙を何度も拭う。


「ありがとうって……言ってくれるんだ。私、何も出来なかったのに」


律子のこんな姿を見るのは初めてだった。

加藤の胸が締め付けられる。


「エスはお前のこと、信頼してたんだな」


加藤がぽつりと洩らす。律子の顔にはじかれたような笑顔が浮かんだ。


「……ともだち、ですから」


つられたように加藤も笑みを浮かべる。

ふと加藤の頭に疑問が浮かんだ。

律子はさっき遺書じゃないと言った。


「なぁ、もしかして……エスはまだ……」


笑っていた律子の顔が真面目になる。

ゆっくりと頷く。


「はい、生きています。意識は戻りませんが。今日はそれも伝えにきました。……エスの側にいてあげてくれませんか?



病室のドアを乱暴に開けるとエスは静かに横になっていた。

たくさんの機械を付けられ点滴を受けている。


よろめきながらエスのベッドに近づいて倒れるようにエスの手を握る。


温かかった。


まだ生きているという安心感で力が抜けて座り込む。だらんと引っ張られベッドからはみ出るエスの腕。


遅れて律子が息を荒くしながら病室へ入ってきた。


律子の言葉の後、加藤は立ち上がり店を出た。

慌てて着いてくる律子の声も耳に入らない勢いで駆け出し、電車に飛び乗った。

病院の自動ドアが開くのももどかしく、エレベーターを待つのも出来ず、階段を駆け上がって、病室を目指した。


「生きてる……」


律子の方を振り返り、加藤が洩らす。

肩で息をしていた律子が何度も頷き、壁に寄りかかった。


「エスが生きてる……」


騒ぎを聞きつけた看護婦と医師が病室のドアを開けて入ってきた。


「どなたですかっ、ちゃんと受付を通して貰わないと困ります」


引っ張っている加藤の腕をひっぱり看護婦が叫ぶ。

医師はエスの様子を見て、律子を見てあぁ、と呟いた。


「すいません、後でよく言い聞かせますから」


律子が息も絶え絶えに頭を下げる。

看護婦にひっぱられても加藤はその場を離れなかった。



看護婦をなんとか宥め、医師と共に退室してもらってから、加藤はやっと椅子に座ってエスの手を改めて握った。


「エス」


小さな声で呼びかける。

頭には幾重にも白い包帯が巻かれ、顔の腫れもまだ完全には引いていなかった。


「エス」


愛しい人が呼びかけるそれにエスは答えない。

ふとベッドに掛かる名札に目が留まる。


「詩織って呼んだ方がいいのかな」


照れるように言う。

冷たい手、小さな、白いそれをぐっと握るが反応は無い。


「お前の事まだ全然知らないな、俺。本名も今日初めて知った。もっと色々聞いておくんだったよ。俺の事ももっと話すから目、開けろよ」


手を握ったまま反対側の手でエスの頬をそっと撫でる。

暖かく柔らかい感触が手に伝わりまだ生きている事に心の底から安堵する。


律子がドアを開けて入ってくる。

小さな金属音を立ててサイドテーブルに置いたのは缶のお茶だった。


「加藤さんのこと、病院には婚約者と説明してあるんです。私が手続きをしたんですが。……それで、あの、加藤さんに会いに行ったのもこれだけじゃなくて、実は……医師の方からどうしても話したい事があるっていわれて」


プルトップを開けてお茶を一口飲んで律子が続ける。

加藤はじっと律子の顔を見上げていた。


「エスの脳に……異常があるらしいんです」


加藤の表情が怖くなっていたのだろう。

律子は震えていた。


医師が待つ部屋へ向かう加藤の足取りは重い。

律子の一緒に行くという申し出を断って、お茶をすこしだけ飲んで、エスを律子に任せて出てきたのだが、部屋が近づくにつれてどんどんと胃が痛くなった。


エスの脳がおかしい。

遠藤に殴られた衝撃だろうか。それとも、未来が見える力のせいだろうか。

色々な事が思考を回る。


何度か立ち止まり目を閉じて頭を振った。

最初から悪い方に考えるのはよくないと分かっていた。


灰色の金属のドアにはスリガラスがついていて中の様子は窺えなかった。

ただ蛍光灯の明かりだけはぼんやりと見えた。


躊躇いがちにノックをすると内側からドアが開いて看護婦が一人加藤を迎え入れた。


そこは小さな会議室のようで、ホワイトボードと、レントゲンを見るための機械と、長机がいくつか置いてあった。


「加藤さん……ですね。野宮さんの婚約者の」


眼鏡をかけた若い印象を受ける医師が立ち上がり頭を下げた。看護婦が医師の前の椅子を勧め、加藤はそこに素直に腰を下ろした。


「……まず、野宮さんなんですが」


医師が座り、カルテを開きながら加藤に話しかける。

野宮という言葉にエスという存在を知らない彼らが前に居る事がおかしく、そしてすこし安心した。


「脳の中に血が溜まっています」


看護婦がレントゲンを機械に挿し、加藤に見せる。

専門的な事は分からないが、確かに、よくテレビで見る脳とは違っていた。


「こちらが、CTの映像です」


もう一枚の写真を看護婦が見せた。


「分かりにくいとは思うのですが」


と医師がボールペンを胸ポケットから取り出し、レントゲンとCTの映像を指した。


「ここと、ここ。血が溜まっているのがお分かりになりますか?」


加藤の方を向き医師が尋ねた。

加藤が頷く。


「普通の人間では考えられないのです、この状態ですと、すぐに亡くなるはずなんです。ですが、野宮さんは生きておられる」


医師が手を戻し、加藤をまっすぐ見た。


「普通患者さんのプライバシーには関わらないようにしているんですが……。失礼な事を尋ねますが、もしや、野宮さんは……話題になっていたあの少女、ですか?」


加藤の体が固まる。

目を開き、看護婦と医師を交互に見た。


「なぜ、そんな事を聞くんだ?」


低い声で加藤が逆に聞き返す。


「何も情報を流すわけじゃないんです。……ただ、こちらの部分は今回の事件で出血したと思われるんですが。もう一方は……徐々に出血したのでは無いかと、思われていまして。……殴られた部分とは随分離れているんです」


医師が淡々と説明する。

加藤は耳を疑った。


「徐々に?」


医師が頷く。甘い香水の匂いがした。


「はい。何度も言いますが、普通は考えられないんです。この状態で生きている事が。手術をしましたが、場所がよくなく、これでもだいぶ減らした方なんです、殴られた方は」


医師が何を言いたいのか加藤にはまだ分かっていなかった。

だから、胸がもやもやした。

苛立ち膝の上の手を握り締めた。


「……この先意識が戻る確率をお話するより前に知っておいて頂きたい。野宮さんは」


医師が一度口を閉じ、目を閉じて深く呼吸をした。

加藤の心臓は早鐘を打つ。


「野宮さんは、いつ亡くなっても可笑しくない状態だと、我々は判断します。意識が戻られても、すぐに亡くなるかもしれない。意識が戻らなくても、それは同じです。……加藤さん、我々の病院では延命治療について同意を求めています。あなたの判断で、署名をいただけますか」


カルテの下からバインダーに挟まれた書類を出して医師が加藤の前に置く。


加藤は目を閉じて、額に両手を当て、俯いた。



病室に戻った加藤の顔は青白かった。

律子は思わず声をかけたが話の内容を聞く事はしなかった。

だが、加藤は椅子に座ると、エスの手を握って聞いてきた事を話し始めた。


律子の息を飲む音が途中何度も聞こえた。


話し終わると二人の間に沈黙が流れる。

時計の秒針の音をたっぷり聞いてから律子が先に口を開いた。


「それで……何と書いたんですか?」


加藤を覗き込む顔は泣きそうに歪んでいた。

律子の顔を見ず、エスの手を握る手に力を込めて加藤が答える。


「延命を望まないと書いた。……エスはもう十分苦しんでるだろう」


答えながら律子に笑いかける加藤もまた泣きそうな顔をしていて、二人は小さく頷いた。


加藤の言葉は本心だった。

律子も自分だったらそう答えると思った。


エスは何も知らず昏々と眠り続ける。

文字通り、何も、知らずに。



その三日後だった。

加藤の携帯に病院から連絡が入ったのは。


「野宮さんの意識が戻られましたよ」


興奮した看護婦が大声で叫ぶ。

寝起きの加藤は意味不明に礼を言いながら慌てて病院へ向かった。

途中、律子が持っているエスの携帯に電話をし、留守電にメッセージを吹き込んだ。


病院の受付をもどかしく思いながらもさっさと済まし、病室へ向かう。


野宮詩織と書かれたプレートの入ったドアをノックする。


「はーい」


弱いけれど、あのいつものエスの声が聞こえて、ゆっくりとドアを開け加藤は中に入った。

立ち止まり、エスを見る。

上半身を起こし、まっすぐに前を向いたエス。


「どなたですか?……律子?」


ドアの閉まる音が加藤の背後で響く。

加藤の表情が怪訝に歪む。

エスがゆっくり音のした方へ顔を向けた。


「……あれ? 誰もいないの?」


首を傾げる顔。

目が開いていない。


「エス……?」


呼びかけた声は掠れていた。

エスの表情が明るくなる。


「加藤さん?」


嬉しそうに笑うエスの顔。

目が開いてない以外は以前のままだった。



「エス?」


もう一度加藤は名前を呼んだ。

ベッドの上でエスは笑顔を見せて、答える。


「そうだよ」


よろよろと加藤がベッドに近づく。

まだエスは目を開けない。


「お前、目が……見えない、のか?」


加藤が途切れ途切れに尋ねる。

エスは笑顔のまま頷いた。


「ね、触って。どこにいるか、分からないよ」


エスが手を伸ばす。

白く、すこし痩せた手。

医師は何て言っていた?

いつ死ぬか分からない?


もうすぐ死ぬから目が見えなくなったのだろうか。


加藤がそっと手を触れる。

エスがその手を握り返し、引っ張った。

ベッドの側まで引っ張られ、エスが腰あたりに抱きついてくる。


「加藤さん」


頬を加藤の腹に摺り寄せ、本当に嬉しそうにその名を呼んだ。

加藤は空いた手でエスの包帯がついた頭をそっと優しく撫でた。


「ごめんね」


エスの声が震える。

鼻にかかったような声になって、続ける。


「よかった死ななくて。また加藤さんに会えてよかった」


抱きつく力が強くなった。


加藤ははっとする。

エスは未来をもう見ることが出来ないのではないかと。

「……もう、見えないのか?」


加藤の言葉にエスが小さく頷いた。

笑顔を向けていたけれど内心は不安で堪らないはずなのだと、加藤は思った。

普通の人になったのに、それはエスにとって不安でしかないのだと。


「そうか。普通になったんだな」


加藤はそう言うのが精一杯だった。


「……うん。いいの。これで良いんだよ」


だから、言えなかった。

お前の頭の中に血が溜まっていて、いつ死ぬか分からないなんて。


口が裂けても言えなかった。


「何が良いんだ?」


加藤がゆっくりエスを自分の体から外して、手を握ったまま、椅子に座った。

エスは首を傾げ、加藤の顔よりすこしずれた所を見つめていた。


「お前の我侭だよ」


笑みを浮かべながらエスの頬を片手で撫でる。

エスが笑う。


エスがいつ死ぬか分からないなら、自分はそのエスの残った人生を幸せにする為に生きようと、加藤は思っていた。

だから、エスがおずおずと言った我侭をあっさりと飲み込んだ。



「本当にこの時のエスは綺麗でしたね」


窓際に置かれたテーブルに座って出されたコーヒーを飲んでいた律子がぽつりと洩らした。


あのマンションのテーブルで律子と加藤は座っていた。

部屋にはたくさんの写真が飾られ、その中の一枚を見ながら律子は洩らしたのだ。


「ん、そうだな。あの時が一番幸せそうだった。……女の子なら憧れるんだろう?」


加藤は伸びた髭に手をやり、撫でながら、自身もコーヒーを口にする。


「……嫌味、ですか、加藤さん」


律子が上目遣いで軽く加藤を睨んだ。


あれから五年が経っていた。

律子は無事、大学を卒業し就職も決まった。

加藤は雑誌社を辞め、エスの援助を受けてレストランを開業し、軌道に乗った。


律子がこの部屋を訪れるのは一年ぶりになる。


一年前、エスはこの家の寝室で加藤と律子に見守られながらひっそりと息を引き取った。

覚悟が出来ていた二人は最後までエスを笑顔で送り、エスの手を握り続けた。

あの時エスが言ったのは加藤との結婚だった。

他は何もいらないから、ずっと一緒に居て欲しいと、それだけ言った。


加藤は二つ返事で受け入れ、次の日には婚姻届を持ってきた。

そこで初めて知ったのだが、エスは十八だった。


目の見えないエスの代わりに律子が代筆し、その日の内に加藤は役所に提出した。


安物だけど、と買ってきたシルバーの指輪を次の日にはエスの薬指に嵌め、自分も同じデザインの指輪を嵌めた。


退院を待って結婚式を知人だけで上げた時、エスは初めてみんなの前で涙を見せた。

その場に居合わせた律子と加藤以外の面々は驚き、エスも人間だったと口々に洩らした。



「で、今日、私を呼んだのは思い出話をするため、ですか?」


律子がコーヒーカップをソーサーの上において、加藤を見た。

加藤が首を振り、テーブルに無造作に置いてあった茶封筒から分厚い本を出す。

インクの匂いがまだ強いその本を律子に向かって差し出す。

律子がそれを受け取り、タイトルを見て顔を上げた。


「エス……って、加藤さん、まさか」


加藤が頷く。


「お前には言ってなかったんだけどな、エスの遺言だったんだ。自分の事を書いて本を出して欲しいって」


ポケットから新しい煙草を一本取り出し、火をつける。

煙を吸って吐き出し、律子の言葉を待った。


「……遺言?」


律子がページをめくり、加藤が灰皿に煙草の灰を落とした。


「だから、お前にも迷惑が掛かるかも知れないと思ってな。発売前に渡しておこうと」


口元に煙草を持っていきながら加藤が答える。


「そうですか。……エスが」


律子は本を閉じて胸に抱いた。


「加藤さんの本は絶対売れるよって、言い残したんだぜ。……どう思う? 予知、だったのか」


加藤が煙草を押し消して呟いた。

律子は困った顔をして首を振った。


「さぁ……、私たちには見えませんから」


まったくだと加藤が頷いた。


「そうだな。……飯、食ってくだろう? 今日は一周忌なんだし」


手を伸ばし伸びをしながら加藤が言う。


「良いんですか? ご馳走になります」


律子が笑みを浮かべて頷いた。

外はすっかり夕方になっていた。


「じゃ出来るまで読んでてくれよ。……エスの大好きだったものでも作るか」


加藤は立ち上がりキッチンへと消えた。

律子はその背を見ながら本を開く。



一ページ目にはこう書かれていた。


『この本を大好きな加藤さんと律子へ』



律子にはそこにエスの笑顔が見えた気がした。

ご拝読ありがとうございました。

駄文ですがいかがだったでしょうか。


また次の機会もよろしくお願いいたします。

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