雨とバス停と指切り
始めに私がいる。次に彼がいて、それよりも前には犬がいる。引合わせた原因を雨が持っており、それに協力したバス停がある。
雨とバス停と指切り
私と彼の出会いは恥ずかしいほどありきたりなものだった。だから誰にも言わない、そう約束を交わした。
突然、泣き出した空を恨めしく思い、灰色に染まり始めた雲を見上げた。私は雨をかわすフリをしながら走り、目についた古いバス停に駆け込んだ。ボロボロに腐りかけた木材でできた小さなバス停だ。青いペンキで塗装されたベンチの背もたれは錆びており、腰を下ろす部分は少しばかり水滴がついていた。私は鞄からタオルを取り出し、ベンチの水滴を払い除けた後、雨で濡れた髪や制服を拭いた。
雨はしばらく止みそうにない。それどころかますます量を増し、私の気を重くさせた。雨に濡れたせいか、まだ真冬ではないものの、初冬のため身体が冷える。私は空を見上げながら溜め息を吐いた。
「ひどい、雨だね」
隣から声がした。ふいに投げ掛けられた言葉に驚き、私は横へ頭を向けた。そこには私を見下ろしている少年がいた。いつ来たのか全く気がつかなかった。
少年の青い服は雨に濡れ、墨汁をたらした様に真黒い髪には水滴が伝っている。少年は手でパッパッと手際よく水滴を払い除けながら、空に一瞥くれ、
「しばらくは止みそうにないな……」
そうポツリと呟いた後、右端に座る私に対し、少年は左端に座った。ぽっかり空いた空間が妙に気になった。
「傘、忘れたの?」
「あ、はい……。いきなり降ってきたので……」
「そう。大変だったね」
他人事のように同情され、ついあなたはどうなんですか、と訊いた。少年は私の方を向いて、口角を可愛らしく上げて笑んだ。
「僕は置いてきたんだ」
「学校に?」「目の前に。ほら、あそこ」
少年は前方にある道路の向こう側、草が生茂った辺りを指差した。そこには青い傘がひとつ開かれた状態で置いてあった。その傘の下に犬が一匹ダンボールから頭を出している。
「捨て犬、ですか」
「捨て犬、です」
不思議なことをする人だ。何故、ダンボールと犬をこのバス停に持ってこないのか分からない。そうすれば傘を差して帰れるのに。
「あの傘は、空色でしょ」
だから、あの犬の頭上だけ晴れてるんだよ、笑いながらそんなことを言った。少年が言うように犬がいる空間だけが晴れているようだった。しかし、一歩手前に視点を合わせれば雨が見え、雨と道路を隔て、私たちと犬はいる。とても近いのに雨のせいでそれはとても遠くにあるようだった。
それからしばらく沈黙が続いた。だけど、それは当たり前で、そう、当たり前なのに、どこか違和感に似た空気が漂っている。横目でこっそり少年を見ると、彼はジッと犬を見たままだった。彼を見れば見るほど、違和感は積もる。
「どうして、空色の傘を犬に……?」
空色の傘と犬を見ながら尋ねた。前の道路にはさっきから一台も車が通らない、それも違和感なのかもしれない。
「空まで暗かったら、あまりにも酷だからね」
「酷……、ですか」
「……酷、です」
「……嬉しそうに見えます。あの犬。きっとあなたの傘のお陰ですね」
「だといいね」
「…………」
少年は幸せそうに笑った。もうひとつの違和感は、彼の表情だ、と思った。
「そういえば、君の名前は?」
「ミクです。美しい空って書いて美空」
「良い名前だね」
「あなたは?」
「僕の名前は……」
プツリと途切れた。
「え?」
「僕の名前……っていうんだ」
またプツリと途切れた。まるで名前の箇所だけ電源を落としたように雨の音しか聞こえなくなった。
「……さん?」
「そう、……」
聞こえなかったはずなのに不思議なことに私はその名前を呼んでいた。自分の声でも彼の名前の箇所はプツリと途切れ、彼の名前が何か、分からなかった。だけど私は分かっているようだ。やはり何か違和感がある。道路に車が通らないとか、彼の表情とか、空色の傘の空間とか、ダンボールに入った犬とか、彼の聞こえない名前とか、そんなものじゃない違和感。
「雨、早く止むといいですね」「僕は美空ちゃんともっと話したいから、まだ止まないでほしいな」
「話している時間より沈黙の方が長いのにですか?」
「でも、初対面にしてはよく話している方だと思うよ」
「たしかに」
少年はベンチの空間を見つめ、手で触れた。触れた箇所が暖かそうに見えたのは気のせいだろう。
「寄ってもいい?」
私の返事を聞く前に、彼は空間を狭め、私の近くまで寄った。それでも遠慮しているようで一人分ほどの空間は空いたままだった。
また沈黙が始まり、私と少年はただ空を見て、たまに犬を視界に据え、また空へと目線を移す。雨は次第に激しさを和らげていった。あと少し小降りになれば濡れて帰っても大丈夫だろう。
「ねえ、知ってる? 雨が降った後の空は一段と綺麗らしいよ」
眉を虚しく下げて、口角を優しく上げて、少年は言った。どこか寂しそうだ。
「そうですね、虹も出ますし……」
「虹って綺麗なの?」
「ええ、綺麗ですよ。見たことないんですか? 珍しいですね」
「うん、僕は雨しか見たことがないんだ」
そう呟く少年は、薄っすらと透けているようだった。見間違いだと思ったが、どうしても透けているようにしか見えない。少年の後ろにあるボロボロの木が微かに見えた。それに気付いたとき、泣くのを堪えているときのように、ググッと喉に突っ掛かりがあるようだった。声が出ない。
「雨が止む前に、お願いがあるんだけど」
「え……」
「僕とここで逢ったことは、ふたりだけの秘密にしてほしいんだ」
私は頷いた。少年は笑みを浮かべ、小指を差し出した。
「ゆびきり」
指切りをして、少年はまた嬉しそうに笑い、約束だよ、と呟いた。
雨はゆっくりと小降りになり、それと共に少年の身体も薄くなっていく。そして、雨が止むと、少年は静かにいなくなった。しばらく私は少年が座っていた場所を見つめたままでいた。犬を見ると、空色の傘と一緒に道路を隔てた向こう側にポツンといた。道路を一台の車が走り抜け、水渋きが上がった。
初めまして、藤原千世と申します。この作品が初投稿なのでとても緊張しております……。これだけの文書量で2週間ほど掛かりましたが、その間とても楽しく書くことができました。展開が急すぎたなど反省点は多々あると思いますが、それをいかしていければと思います。ここまで読んでくださり本当にありがとうございました。
感想やアドバイスなどあればお時間のあるときにでもよければお願いします。
2006.12.11 藤原千世