揺らめく世界
体がとても軽い。
まるで宙に浮いているようだ。普段から拘束具のように体に絡み付いていた重力から解放されたようだった。
先ほどまでとは違い、気持ちまでも軽くなったようだ。
少女は自分の足が地面に付いていないことに気づくのにあまり時間を必要とはしなかった。それは毎日のことで、もう慣れていたから。そもそも、今の彼女に足と呼べるものはなかった。
口からこぽりといくつかの泡が零れ、空を目指して登って行く。
上を見ると、太陽の光を浴びた水面がゆらゆらと揺れ、美しい光の芸術を作り出していた。少女はそれを目を細めて眺めた。
「こっち」
声がした。
男なのか女なのか、いまいち判然としない。あやふやでいて、ふわふわとしていた。
それは人ですらない者の声だと知っている少女は、性別など考えても意味はないのだと思った。
「こっち」
少女は尾を揺らし、声のする方向へと泳ぐ。
小さい頃は尾の使い方も解らず、教えて貰うまでただ下に落ちて目的の場所には地面を這って進んでいた。今では泳ぎは得意となり、後方回転などの少しコツがいる泳ぎもできるようになった。
少女は尾を使って泳ぐことがとても好きだ。
この世界を構成している、清らかで気持ちの良い水が体を撫でる。口を開けると、塩の味が舌をくすぐった。
声はいつも同じ場所からしていた。
この世界の1番下にある洞窟の中から聞こえてくる。そこに生えている光る水草が中を明るく照らしていた。
洞窟の奥は広い。と言っても、広げた手の2、3メートルほど先に壁があるので、見る人によれば狭いと感じるかも知れない。
壁には所々、水草の発する光を反射してエメラルドの輝きを放つ石が埋まっていた。もしかしたらそれは何かの宝石なのかも知れない。
そんなどうくつの中央に、1匹の魚がいた。
黒く鈍い光を放つ真珠のような瞳は、感情を読み取られることを拒むかのように揺れない。
鰭は高価な金魚のもののように大きくて、水の流れによって柔らかく揺らいでいる。まるで天女が羽衣を纏っているかのようだ。
鯱のように滑らかで流れるような美しい身体はエメラルドグリーンの鱗で覆われ、表面をマリンブルーの薄い光の膜が包んでいる。
少女は、魚の形をした海のように思えた。
「こんばんは。あるいは外の世界ではもうおはようかな?」
いつも会って1番初めに聞く文句。
それは優しさを帯びていて、彼あるいは彼女――シーマにとって少女に会うことがとても嬉しいのだと読み取れた。
「今日は君に知らせたいことがあるんだ。とても大切なことだから、良く聞いて欲しい」
少女は何? と聞く変わりに首を傾げる。声を出すことの出来ない彼女はいつも身振り手振りで自分の気持ちをシーマに伝えていた。 シーマは少女の気持ちに答えるかのように言葉を続けた。
「君はこれから、大きな運命の岐路に立たされることになる」
シーマの声はとても静かで落ち着いていた。だからこそ、少女の心に深く重く響く。
「何をするか、どんな未来を選ぶかは当然君次第だ。だが、それによって君や、君の周りの今後が決まってくる。最初は小さなことだが、それを軸に周りを巻き込みいずれは大きな渦になるだろう。巻き込まれた者は無傷では済まない。中心にいる君はもっと傷だらけになる。そうならないために君は考え、行動し、誰よりも自分の心をズタズタに引き裂かなければならない。それが君の運命だ」
少女はシーマの言葉の意味が良く解らなかった。突然運命だ何だのと言われても、今一理解できない。
少女はその気持ちを現すために首を傾げた。
「そうだね。いきなりそんなことを言われても解らないよね。だけど時間がないんだ。だからそのまま聞いて欲しい」
少女はその穏やかさの中に焦った色が滲む声を聞き、もう遮らないようにしようと肯定の意味で頷く。
それを見たシーマは、安心したように言葉を続けた。
「だけど、逃げるという選択肢もあるんだよ。君が生まれ育ったこの島を出れば、長い長い時間の流れの中の、ほんの小さな人間の人生だから君は一生を幸福に過ごすことができるだろう。だがその時は、この島は大きな波に飲まれて沈む。だから、考えて欲しいんだ。自分の進む道を考えて考えて考えて、その上で決めて欲しい。何を犠牲にして、何を守るかを。今は私が何を言っているのか解らないだろうけれど、いずれ解るときが必ず来るから、決めるのはその時でいいんだ。それまでに、心の準備だけでもと思って今日は君にこんなことを話したんだよ」
世界が揺らいだ。
まるで明かりを下げるかのように、段々と辺りが暗くなっていく。
「もう時間のようだね。君とここで会えるのも今日までのようだ。夢から覚めると運命が回りだす。深く入り込めばもう逃げることは許されない。だから、何をするかは自分で選んでくれ」
声の大きさが段々と小さくなる。まるで少女とシーマの間にある見えない壁が分厚くなって行くかのように。
「さようなら。だけどまたすぐに会えるから。その時は君の声を聞けて、君の名前を知ることができる。それはとても楽しみなことだよ」
楽しみだと言ってはいるが、声音は悲しそうに少し震えていると少女は思った。
「次は地上で会うことになるね。その時は君の歌を聞かせて欲しい。私は君の声がとても好きだから――」
世界が暗くなり、消えて行く。少女の意識も元の場所へと帰って行く。
意識が離れる寸前、シーマがごめんねと小さく言った言葉が少女の耳に届いた。