第2章 微笑まない女(ひと)と、影を知る男 ― 予兆はいつも、静かに始まる ―
情報システム部の端の席。
周囲の会話やキーボード音から、わずかに距離を置くようにして、ひとりの女性が淡々と作業していた。
宮野由維。
派遣登録管理部 管理課の事務職。
黒髪をひとつに束ね、背筋を伸ばしたまま、
人ともモニターとも感情を共有しないような表情で、打鍵を続ける。
「……静か、だなぁ」
結月は斜め向かいの席からそっと宮野を見た。
今日もいつも通り、誰とも目を合わせず、誰にも話しかけない。
当たり障りなく、
ただ淡々と、必要最低限の動きしかしない。
(怒ってるわけじゃないんだよね……たぶん)
結月はそう思うが、宮野から返ってくる空気は冷たいわけではなく、ただ“そこに存在しないような無音さ”だった。
そのとき——
宮野の手元に置かれたスマホが、わずかに光った。
画面には、開発者向けの技術フォーラムアプリの通知。
それを横目に、結月は「え?」と小さく声を漏らした。
(フォーラム……? ゆいさん、システム系の通知なんて見る人だったっけ…?)
事務職の一般社員が見るようなアプリではない。
だが宮野は、何事もないようにスッと通知を消し、また静かにキーボードに戻った。
まるで、何もかも“見せようとしていない”ようだった。
◇◇◇
昼休み。
給湯室に結月が入ると、すでに誰かがポットの前に立っていた。
「……あ。波多野さん」
情報システム部 システム管理課の主任、
波多野樹。
柔らかい物腰だが、人の動きをよく観察しているタイプだ。
「ああ、芦野さん。お疲れさま。お昼?」
「はい、今日はお弁当で……」
波多野は、結月の表情を一瞥しただけで違和感に気づいた。
「……何か気になることでも?」
「えっ……いえ、別に!」
慌てて取り繕ったつもりだが、
結月の声はわかりやすく震えていた。
波多野はコーヒーを注ぎながら、
軽い調子で話題を変える。
「宮野さん、今日も静かだったでしょう?」
「え……あ、はい。いつも、ですけど……」
「彼女、以前は少し違ったんですよ。」
結月は思わず聞き返した。
「えっ……そうなんですか?」
波多野は穏やかに笑うが、
その目の奥だけが笑っていなかった。
「元々、IT展示会でね。小さなブースを出していたエンジニアだった。
あの頃は——今より自由で、明るかった。」
「え……ゆ、由維さんが……エンジニア……?」
結月の頭に、さっきのフォーラムの通知が浮かぶ。
「でも、現場では黙々と事務をしている。
自分の技術を表に出すことは……ほとんどない。」
波多野はコーヒーをゆっくり飲み、一言だけつぶやいた。
「——ああいう静けさは、時に“警告”になる。」
結月の手が、緊張で少し震えた。
◇◇◇
席に戻ると、パソコンの画面が勝手に再起動していた。
「えっ……なにこれ……?」
Excelファイルには問題はない。
ただ、さっき押した Insertキー と Escキー の履歴だけが端末ログに残っていた。
——2つのキーが揃った記録。
それは、誰も知らないまま
《トリガー発動》の証拠として残された痕跡。
結月は、不安を抱えたまま椅子に座り直した。
知らない。
自分の背後で“影”がゆっくり形を成し始めていることを。
そして“その影”を最もよく知る男が
同じフロアで静かに微笑んでいたことにも——。




