第26章 動きはじめる朝
朝の光が、ゆっくりとぽかぽか邸を満たしていく。
ハーブティーの香り。
カーテン越しの柔らかな太陽。
寝起きの髪を結い直す環。
リビングでストレッチをしている凪。
コーヒーを淹れる柊。
そしてキッチン奥では、灯が静かに結月の様子を見守っていた。
ここだけ時間がやさしく流れているような――
そんな穏やかな朝だった。
◇◇◇
結月は、まだ馴染みきれない“この温度”に戸惑いながら、
カップを両手で包み、ぽそりと言った。
「……朝って……こんなに静かで、あたたかいんですね……」
灯はにこりと微笑む。
「ええ。ここではね。
あなたが安心できる朝を、しばらく過ごせばいいのよ。」
結月はきゅっと唇を噛んだ。
(……こんな言葉……何年ぶりだろう……)
環がすぐ隣に座り、
「結月さん、今日はゆっくりしててくださいね。
わたしたちが戻るまで……ははが一緒にいてくれるので。」
と言うと、
結月はこぼれるように笑った。
「……はい。なんだか……心が軽いです。」
凪はコーヒーを飲みながら椅子を回して、
「安心してください!
ぽかぽか邸はですね〜、見た目以上に保護力が強いんです!
柊先輩がガード担当で、環さんがヒーラーで、灯さんが絶対防御!」
「誰がガード担当だ。」
「ふふ……だって柊、いつも守ってくれるから……」
「はい出た、いちゃいちゃゾーン入りまーす。」
「朝から元気ねぇ、凪くんは。」
全員が笑った。
――その笑い声は、ぽかぽか邸の天井に吸い込まれて消えていく。
まだ“外の影”には届いていない。
◇◇◇
その頃。
玄関が軽くノックされ、
桐生蒼真が静かに姿を見せた。
「おはようございます。
……少し早いですが、準備を。」
柊は頷き、バッグを手に取る。
「動くぞ。」
凪はすぐにPCを抱えて立ち上がる。
「了解でーす!」
環は灯と結月のほうへ向き直り、
「はは、今日もお願いします。
結月さん……大丈夫ですからね。
わたしたち、すぐ戻ります。」
灯は環の頬に手を添えて、
「ええ。行ってらっしゃい。
心配せず、やることをやりなさい。」
結月は胸に手を当て、
震えながらも、はっきりと答えた。
「……いってらっしゃい……
わたし……ここで……待ってます。」
環は結月の手をぎゅっと握る。
「うん。帰ってきます。」
4人は靴を履き、
ぽかぽか邸をあとにした。
扉が閉まる。
その瞬間――
灯の目が、どこか遠くを見るように細められた。
(……風が変わるわね……)
◇◇◇
外へ足を踏み出した4人は、
まだ静かな街を歩きながらアークシステムズへ向かう。
「蒼真。例のログ……もう一度洗うぞ。」
「ええ。あれは……“他人が仕掛けた揺らぎ”です。
波多野さんの痕跡じゃない。」
「僕、昨夜からずっと引っかかってたんですよね。
誰が、“どのタイミングで”触ったのか。」
環は歩きながら呟く。
「……クロノス……関係……ありますか……?」
柊は静かな声で答えた。
「わからん。
だが……動いている“影”があるのは確かだ。」
4人の背に朝日が伸びる。
その影は、
ほんの少しだけ……長く伸びていた。
◇◇◇
ぽかぽか邸。
灯と結月が静かに過ごすリビングの奥、
スマホがブルッと震えた。
差出人不明。
件名すらないメール。
結月が手に取ろうとした瞬間――
灯がそっと彼女の手を止める。
「触らなくていいわ。」
「えっ……?」
灯の表情は穏やかなまま、
しかしその瞳だけが“鋭い光”を宿していた。
「これは……“あの黒い風”ね。」
結月は息を呑んだ。
灯はゆっくりと立ち上がり、
スマホをひっくり返して画面を伏せる。
「大丈夫よ。
あの子たちが……必ず守るわ。」
ぽかぽか邸の朝の光はあたたかい。
だがその下で――
静かに、何かが動き始めていた。




