第1章 静かに落ちたJOKER ― 何気ない操作が、影を呼ぶ ―
〈第1幕:― JOKER ―〉
月曜の朝。
派遣登録管理部の事務フロアは、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
蛍光灯の白い光が、等間隔で並ぶデスクを照らす。
キーボードを叩く音だけが、規則正しいリズムで流れていく。
その中央。
芦野結月は、Excelのファイルを開きながら軽く肩を落とした。
「……また今日も、入力修正かぁ」
4年目の事務職として、仕事には慣れている。
けれど、今週はミスの修正が多く、心が少しだけ重かった。
結月は深呼吸し、気持ちを切り替えるようにキーボードに指を置く。
——カチッ。
よくわからないが、指がInsertキーを押した感触がした。
「あ、やだ……また押しちゃった」
普段ほとんど使わないキーだ。
でも、押しても特に変わらない。
だから意識しないまま作業を続けた。
数分後、別の列を修正しようとして——
——カチッ。
今度はEscキーが軽やかに沈んだ。
その瞬間、画面が一度だけわずかに揺れた気がした。
「あれ……? 今、なんか変だった……?」
結月はマウスを動かしながら、首を傾げる。
いつもより反応が遅い気もするし、
いつも見ないポップアップが、一瞬だけ表示された気もする。
けれど——
「ま、いっか……」
そのまま仕事に戻ってしまった。
結月は知らない。
その2つのキー操作が、
隠されたコードに触れ、
密かに《トリガー》を引き金として発動したことを。
彼女の画面の奥では、
見えない影がそっと口角を上げていた。
「……始まった」
誰にも聞こえない、静かな声が闇の奥でつぶやいた。
この瞬間、
ぽかぽか邸の3人も、アークシステムズの誰も、
まだ何も知らない。
ただ、ひとつのJOKERが
“無自覚な手”によって引かれたことだけが、
確実に現実となって動き始めていた。
物語はゆっくりと、しかし確実に
“影の領域”へと踏み込んでいく——。




