第7章 暴走――暴かれる過去
1 ナイフの軌跡、杖の螺旋
湖面に走った銀の弧が、闇の天幕を一瞬だけ裂いた。
マスターの握るナイフは細身だが、刃渡りはみおりの前腕ほどある。照り返す光が水面を跳ね、みおりの頬へ冷たい閃光を当てた。
――怖れは後退しない。
それでもみおりは杖を胸の前で構え、螺旋の刻みが手の平に食い込む痛みで意識をつなぎとめる。
「何を授かった! その目が答えを知っている!」
マスターは声を潰し、湖底の獣のようなうなりを喉に宿す。足元の砂が跳ね、水が飛沫となり靴を濡らす。
みおりは口を開こうとするが、声帯が凍るようで言葉が出ない。胸の奥に残った湖の温度――温かな波が彼女の鼓動と重なり合い、それだけが盾のように心を守る。
フクロウは二人の頭上で静止した。羽ばたきもせず、瞳だけが闇を映す鏡になっている。マスターはその視線に刺され、狂ったように手を伸ばした。
「笑うな……俺を拒むな!」
しかしフクロウは瞬きを一度。湖水が吸い込むように静まり返り、みおりの背後で波紋が閉じた。
2 父の乱入――断ち切る声
洞窟の入口から荒い息づかいが迫った。
「みおり!」
洸一の叫びが、洞窟の壁を雷鳴のように反響しながら走る。ヘッドランプの光が揺れ、暗闇に裂け目を穿つ。
マスターは驚愕のまま刃を構え直し、父娘の間に立ちはだかった。
「来るな!」
洸一は立ち止まらず娘へ駆け寄る。マスターのナイフが半円を描き、父の胸へ迫る。
みおりの杖が閃きの線を横切り、木の先端がナイフの腹を弾いた。金属音が湖底まで落ち、波がざわめく。
刹那、マスターはバランスを崩し、足元の水に膝をついた。
洸一は娘の前へ身を投げ出し、両腕を広げる。
「ナイフを下ろせ! 俺を刺せばいい。娘に触るな……!」
声は裂け、どこか震えを含んでいた。だがその背中は壁のように娘を覆う。みおりは肩越しに父の熱を感じた。
3 告白――氷解する罪
マスターは膝を濡らしたまま、ナイフを握り締める手を見つめる。指が白く変色し、刃の反射が瞳に微かな銀色の涙を投げ返す。
「俺は……救いを乞う資格を失った人間だ」
声は凪いだ湖面のように低い。興奮が引き、代わりに深い凍土の悲鳴だけが残る。
「昔、彼女を殺した。……酔ってもらった言い訳じゃない。恐怖だったんだ。暴力を止められず、彼女を殴り、刃を――」
震えが増し、刃先が水面に落ちた。水に輪が生まれ、マスターの罪を描くように広がる。
「事故として処理された。俺は逃げた。罪を抱えたまま生きるしかなかった。……湖とフクロウに、赦される鍵があると信じた」
沈黙の後、フクロウが羽をふわりと打った。波紋は凪に溶け、光も闇も境界を失う。
洸一が震える声で返す。
「俺も、妻を傷つけた。……赦される資格なんて、あるのか分からない。だが、赦しを――探し続けることはできるはずだ」
マスターは顔を伏せ、肩を震わせる。ナイフは水底へ滑り落ち、沈んだ刃が光を吸い込む。
みおりは父の背を押し、前へ出る。杖の先端を水に浸し、静かに言った。
「フクロウは何もくれなかった。でも……胸が温かくなった。それは赦しじゃなく、わたし自身の鼓動だった」
言いながら気づく。フクロウの微笑みは答えではない。問いに答える力を、自分の内側へ返しただけだ。
4 静けさの中で――選択
湖面を渡る風が止み、世界は息をひそめた。
みおりはマスターへ手を差し出す。
「一緒に帰ろう。罪を抱えたままでも、生きて――芽を育てることはできるはず」
マスターは顔を上げ、みおりの手を見つめた。目尻に滲む涙は岩塩のように白く砕ける。
洸一も娘の横に膝をつき、ナイフの代わりにマスターの腕を掴む。
「自首しよう。時効でも、罰がなくても、自分で選ぶしかない」
マスターは唇を噛み、力なく笑った。
「ありがとう……だが、俺は自分を赦さない。だから、まず罰の場へ行く」
立ち上がり、湖へ最後の一瞥を投げる。フクロウはもう見えず、湖面の鏡は闇に吸い込まれていく。
5 洞窟を出る――杖が示す帰路
帰路。洞窟の通路を戻る三人の足音が重なり、微かな残響を追い越す。
杖の螺旋は帰り道でも紫の光をわずかに放ち、崩れた段差に差しかかるたび足元を照らした。マスターはナイフを失った代わりにロープを握り、みおりを護るように位置する。
「不思議だ。罪を晒した途端、胸が少し軽い。湖の冷たさが抜けていく」
マスターの呟きは苔の星座に吸われ、通路を静かに灯した。
洞窟出口の水平裂け目に近づくと、夜明け前の潮風が一気に流れ込む。洸一は深く息を吸い、湿った空気を肺へ満たした。
「海の匂いが……こんなに温かかったのか」
父の言葉はみおりの胸を震わせる。罪があるからこそ、人は温かさを感じるのかもしれない。
6 洞窟の口――夜明け前の決別
裂け目から外の空気が雪崩れ込み、三人の額の汗と湖の湿気を瞬時に攫っていった。
まだ東の空は群青だが、黒一色の洞窟に比べれば無限に明るい。星と星のあいだに薄く光の筋が走り、海面は鉛色の鎧のように硬く光った。
みおりは杖を立て、崩れ落ちた岩棚の縁を確認する。引き潮はさらに進み、足元の砂は波に撫でられて黒い絹のように滑らかだ。
マスターが自らロープを解き、洸一へ差し出した。
「港の派出所へ行きます。夜明けと同時に船を出してもらえれば、昼には本島の警察へ届く」
洸一は重い呼吸を整え、頷くだけでロープを受け取った。
洞窟を出る前、みおりは振り返り、闇に向かって深く頭を下げる。湖もフクロウも見えない。ただ暗黒の幕が荒い心拍の残響を吸い込み、静けさだけを返す。
――何もくれない。それでも、私は確かに温かさを感じた。
背後で父が杖を携えた娘の肩をそっと叩き、三人は夜明け前の風の中へ踏み出した。
7 哲学の犬――岬の見送り
崖道を戻る途中、湾曲する砂浜に白い影が立っていた。
哲学の犬。波打ち際までひたひたと水を運ぶ浪頭の先で、子犬はみおりへ尻尾を一度振る。
「問いは、まだ尻尾に絡まるかい?」
みおりが膝を折り、鼻先へ指を伸ばすと、犬はほんの一瞬だけ額を摺り寄せた。
「絡まりは残った。でも、ほどき方が分かった気がする」
「なら、切れた尻尾は生え変わる。牙も、舌も、生きているうちは再構築される」
マスターが犬へ視線を落とし、呆れたように笑った。
「君は本当に犬なのか?」
「犬でも影でも問いでもない。ただ境目を歩くものさ」
犬はそれだけ言い、波の足跡へ溶けていく。薄い朝靄とともにゆらりと消えた頃、水平線の雲が橙を帯び始めた。
8 港――夜明けの告白
勤め人もまだ眠る桟橋で、夜通し灯っていた水銀灯が白々とした息をつく。
派出所の前でマスターは二人に向き直り、深々と頭を下げた。
「ここで終わりにします。……本当に、ありがとう」
洸一は言葉を探し、絞るように返した。
「終わりじゃなく、始まりにすべきだ。少なくとも、俺はそうする」
マスターは苦笑し、「同じ船に乗ってくれるなら心強い」と短く言った。
みおりはマスターの網バッグから救急キットだけを取り出し、手のひらサイズの包帯を差し出す。
「自分で巻ける?」
「巻けるさ。傷跡はいつか語り草になる」
マスターが包帯を胸ポケットへ収めると、港を見下ろす丘の上でシロトビ婆が杖を振っていた。長い白髪を風に散らし、遠目にも眼光が冴える。
「おや、見送りか」
マスターが呟くと、みおりは手を振り返し、声を張った。
「杖、あとで返しに行く!」
婆は大きく頷く。潮風がさらに強く吹き、丈高いススキの穂をなでつけた。
9 家へ――父と娘の距離
祖母の家へ戻った頃、東の空は白金色に満ち、海鳥の群れが遠い稜線を錆色に染めていた。
玄関を開けて靴を脱ぐと、朽ちた木の匂いが夜の湿気を吸い込み、昨日より温かい。
居間の畳で、洸一が娘へ正面から向き合う。
「母さんの病院、来週一緒に行こう。……会えるのは短い時間かもしれない。でも、伝えたいことがある」
みおりは頷き、杖をそっと壁に立てかけた。
「あたしも、話したい。お母さんと――お父さんにも」
その瞬間、二人の影は畳の上で重なり、薄い朝日が輪郭をなめらかに溶かした。
10 植物園の行方――婆の言伝
午後、みおりは杖を返しに婆の小屋を訪ねた。
婆は縁側に腰をかけ、膝に白い子犬を乗せている。犬はみおりを見ると舌を出し、尻尾で膝を軽く叩いた。
「杖、よう働いただろう」
「はい。……ありがとうございました」
みおりが両手で返すと、婆は杖を膝に置き、犬の頭を撫でながら呟いた。
「マスターの植物園、わしが暇つぶしに世話しておくよ。あの男が戻るまで、生き物は生き物として生き続ける」
みおりは胸の奥が温かくなる。婆は顔だけ横に向け、声を潜ませた。
「罪を背負った芽は、光を欲しがる。お主も光を分けてやるといい」
11 夜――父の手紙、母の返事
星が深く瞬く頃、玄関の隙間から郵便が落ちた。封筒には病院の印。
洸一は封を開け、便箋を震える手で読む。数行の公式文、その下に母の筆跡が揺れる。
「海の匂いを思い出しました。あなたの声が潮騒と混ざるのを、もう一度聞きたい」
洸一は唇を噛み、便箋を胸へ当てた。みおりは父の背で震える肩を見つめ、そっと手を添えた。
「行こう。三人で、もう一度」
12 エピローグ――町へ伸びる潮騒
数日後――。
派出所の掲示板には「ユアン・カフェ オーナー自首、過去の未解決事件に関与か」と地元紙の切り抜きが貼られた。港の人々は噂半分、憐憫半分の眼差しで記事を読み、やがて日常の網修理へ戻っていく。
カフェの扉は婆によって開け放たれ、温室のランプは昼夜を問わず植物の芽を照らした。白い犬は時おり店内を歩き、客のいない椅子の上で尻尾を小さく揺らす。
みおりは学校帰りにカフェの前へ立つ。窓越しに揺れる緑が呼吸し、見えない問いを育てている。
――尻尾はほどけた。でも絡まりは終わらない。
胸の奥で温かな波が打つ。問いを抱えたままでも、人は歩き続けられる。
夕焼けの桟橋を渡ると、海は瑠璃色から茜へ変わり、潮騒は鼓動と混ざった。
みおりは風を吸い込み、遠い空に羽ばたく白い影を探す。――フクロウか、それとも問いそのものか。影は穏やかに旋回し、島の上空を見守るように漂った。
*
問いは水面に浮き、尻尾は潮風に揺れる。
絡まりはほどけ、また絡み、新しい結び目を紡いでいく。
それでも歩く。傷を歩幅で測りながら、
光の向こうへ、潮の縁へ。
私たちは、まだ旅の途中。