表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
海織りの島  作者: k_ai
7/7

第7章 暴走――暴かれる過去

1 ナイフの軌跡、杖の螺旋


 湖面に走った銀の弧が、闇の天幕を一瞬だけ裂いた。

 マスターの握るナイフは細身だが、刃渡りはみおりの前腕ほどある。照り返す光が水面を跳ね、みおりの頬へ冷たい閃光を当てた。

 ――怖れは後退しない。

 それでもみおりは杖を胸の前で構え、螺旋の刻みが手の平に食い込む痛みで意識をつなぎとめる。


「何を授かった! その目が答えを知っている!」

 マスターは声を潰し、湖底の獣のようなうなりを喉に宿す。足元の砂が跳ね、水が飛沫となり靴を濡らす。

 みおりは口を開こうとするが、声帯が凍るようで言葉が出ない。胸の奥に残った湖の温度――温かな波が彼女の鼓動と重なり合い、それだけが盾のように心を守る。


 フクロウは二人の頭上で静止した。羽ばたきもせず、瞳だけが闇を映す鏡になっている。マスターはその視線に刺され、狂ったように手を伸ばした。

「笑うな……俺を拒むな!」

 しかしフクロウは瞬きを一度。湖水が吸い込むように静まり返り、みおりの背後で波紋が閉じた。



2 父の乱入――断ち切る声


 洞窟の入口から荒い息づかいが迫った。

「みおり!」

 洸一の叫びが、洞窟の壁を雷鳴のように反響しながら走る。ヘッドランプの光が揺れ、暗闇に裂け目を穿つ。

 マスターは驚愕のまま刃を構え直し、父娘の間に立ちはだかった。

「来るな!」

 洸一は立ち止まらず娘へ駆け寄る。マスターのナイフが半円を描き、父の胸へ迫る。

 みおりの杖が閃きの線を横切り、木の先端がナイフの腹を弾いた。金属音が湖底まで落ち、波がざわめく。


 刹那、マスターはバランスを崩し、足元の水に膝をついた。

 洸一は娘の前へ身を投げ出し、両腕を広げる。

「ナイフを下ろせ! 俺を刺せばいい。娘に触るな……!」

 声は裂け、どこか震えを含んでいた。だがその背中は壁のように娘を覆う。みおりは肩越しに父の熱を感じた。



3 告白――氷解する罪


 マスターは膝を濡らしたまま、ナイフを握り締める手を見つめる。指が白く変色し、刃の反射が瞳に微かな銀色の涙を投げ返す。

「俺は……救いを乞う資格を失った人間だ」

 声は凪いだ湖面のように低い。興奮が引き、代わりに深い凍土の悲鳴だけが残る。

「昔、彼女を殺した。……酔ってもらった言い訳じゃない。恐怖だったんだ。暴力を止められず、彼女を殴り、刃を――」

 震えが増し、刃先が水面に落ちた。水に輪が生まれ、マスターの罪を描くように広がる。

「事故として処理された。俺は逃げた。罪を抱えたまま生きるしかなかった。……湖とフクロウに、赦される鍵があると信じた」

 沈黙の後、フクロウが羽をふわりと打った。波紋は凪に溶け、光も闇も境界を失う。


 洸一が震える声で返す。

「俺も、妻を傷つけた。……赦される資格なんて、あるのか分からない。だが、赦しを――探し続けることはできるはずだ」

 マスターは顔を伏せ、肩を震わせる。ナイフは水底へ滑り落ち、沈んだ刃が光を吸い込む。

 みおりは父の背を押し、前へ出る。杖の先端を水に浸し、静かに言った。

「フクロウは何もくれなかった。でも……胸が温かくなった。それは赦しじゃなく、わたし自身の鼓動だった」

 言いながら気づく。フクロウの微笑みは答えではない。問いに答える力を、自分の内側へ返しただけだ。



4 静けさの中で――選択


 湖面を渡る風が止み、世界は息をひそめた。

 みおりはマスターへ手を差し出す。

「一緒に帰ろう。罪を抱えたままでも、生きて――芽を育てることはできるはず」

 マスターは顔を上げ、みおりの手を見つめた。目尻に滲む涙は岩塩のように白く砕ける。

 洸一も娘の横に膝をつき、ナイフの代わりにマスターの腕を掴む。

「自首しよう。時効でも、罰がなくても、自分で選ぶしかない」

 マスターは唇を噛み、力なく笑った。

「ありがとう……だが、俺は自分を赦さない。だから、まず罰の場へ行く」

 立ち上がり、湖へ最後の一瞥を投げる。フクロウはもう見えず、湖面の鏡は闇に吸い込まれていく。



5 洞窟を出る――杖が示す帰路


 帰路。洞窟の通路を戻る三人の足音が重なり、微かな残響を追い越す。

 杖の螺旋は帰り道でも紫の光をわずかに放ち、崩れた段差に差しかかるたび足元を照らした。マスターはナイフを失った代わりにロープを握り、みおりを護るように位置する。

「不思議だ。罪を晒した途端、胸が少し軽い。湖の冷たさが抜けていく」

 マスターの呟きは苔の星座に吸われ、通路を静かに灯した。


 洞窟出口の水平裂け目に近づくと、夜明け前の潮風が一気に流れ込む。洸一は深く息を吸い、湿った空気を肺へ満たした。

「海の匂いが……こんなに温かかったのか」

 父の言葉はみおりの胸を震わせる。罪があるからこそ、人は温かさを感じるのかもしれない。



6 洞窟の口――夜明け前の決別


 裂け目から外の空気が雪崩れ込み、三人の額の汗と湖の湿気を瞬時に攫っていった。

 まだ東の空は群青だが、黒一色の洞窟に比べれば無限に明るい。星と星のあいだに薄く光の筋が走り、海面は鉛色の鎧のように硬く光った。


 みおりは杖を立て、崩れ落ちた岩棚の縁を確認する。引き潮はさらに進み、足元の砂は波に撫でられて黒い絹のように滑らかだ。

 マスターが自らロープを解き、洸一へ差し出した。

「港の派出所へ行きます。夜明けと同時に船を出してもらえれば、昼には本島の警察へ届く」

 洸一は重い呼吸を整え、頷くだけでロープを受け取った。


 洞窟を出る前、みおりは振り返り、闇に向かって深く頭を下げる。湖もフクロウも見えない。ただ暗黒の幕が荒い心拍の残響を吸い込み、静けさだけを返す。

 ――何もくれない。それでも、私は確かに温かさを感じた。

 背後で父が杖を携えた娘の肩をそっと叩き、三人は夜明け前の風の中へ踏み出した。



7 哲学の犬――岬の見送り


 崖道を戻る途中、湾曲する砂浜に白い影が立っていた。

 哲学の犬。波打ち際までひたひたと水を運ぶ浪頭の先で、子犬はみおりへ尻尾を一度振る。

「問いは、まだ尻尾に絡まるかい?」

 みおりが膝を折り、鼻先へ指を伸ばすと、犬はほんの一瞬だけ額を摺り寄せた。

「絡まりは残った。でも、ほどき方が分かった気がする」

「なら、切れた尻尾は生え変わる。牙も、舌も、生きているうちは再構築される」

 マスターが犬へ視線を落とし、呆れたように笑った。

「君は本当に犬なのか?」

「犬でも影でも問いでもない。ただ境目を歩くものさ」

 犬はそれだけ言い、波の足跡へ溶けていく。薄い朝靄とともにゆらりと消えた頃、水平線の雲が橙を帯び始めた。



8 港――夜明けの告白


 勤め人もまだ眠る桟橋で、夜通し灯っていた水銀灯が白々とした息をつく。

 派出所の前でマスターは二人に向き直り、深々と頭を下げた。

「ここで終わりにします。……本当に、ありがとう」

 洸一は言葉を探し、絞るように返した。

「終わりじゃなく、始まりにすべきだ。少なくとも、俺はそうする」

 マスターは苦笑し、「同じ船に乗ってくれるなら心強い」と短く言った。


 みおりはマスターの網バッグから救急キットだけを取り出し、手のひらサイズの包帯を差し出す。

「自分で巻ける?」

「巻けるさ。傷跡はいつか語り草になる」

 マスターが包帯を胸ポケットへ収めると、港を見下ろす丘の上でシロトビ婆が杖を振っていた。長い白髪を風に散らし、遠目にも眼光が冴える。

「おや、見送りか」

 マスターが呟くと、みおりは手を振り返し、声を張った。

「杖、あとで返しに行く!」

 婆は大きく頷く。潮風がさらに強く吹き、丈高いススキの穂をなでつけた。



9 家へ――父と娘の距離


 祖母の家へ戻った頃、東の空は白金色に満ち、海鳥の群れが遠い稜線を錆色に染めていた。

 玄関を開けて靴を脱ぐと、朽ちた木の匂いが夜の湿気を吸い込み、昨日より温かい。

 居間の畳で、洸一が娘へ正面から向き合う。

「母さんの病院、来週一緒に行こう。……会えるのは短い時間かもしれない。でも、伝えたいことがある」

 みおりは頷き、杖をそっと壁に立てかけた。

「あたしも、話したい。お母さんと――お父さんにも」

 その瞬間、二人の影は畳の上で重なり、薄い朝日が輪郭をなめらかに溶かした。



10 植物園の行方――婆の言伝


 午後、みおりは杖を返しに婆の小屋を訪ねた。

 婆は縁側に腰をかけ、膝に白い子犬を乗せている。犬はみおりを見ると舌を出し、尻尾で膝を軽く叩いた。

「杖、よう働いただろう」

「はい。……ありがとうございました」

 みおりが両手で返すと、婆は杖を膝に置き、犬の頭を撫でながら呟いた。

「マスターの植物園、わしが暇つぶしに世話しておくよ。あの男が戻るまで、生き物は生き物として生き続ける」

 みおりは胸の奥が温かくなる。婆は顔だけ横に向け、声を潜ませた。

「罪を背負った芽は、光を欲しがる。お主も光を分けてやるといい」



11 夜――父の手紙、母の返事


 星が深く瞬く頃、玄関の隙間から郵便が落ちた。封筒には病院の印。

 洸一は封を開け、便箋を震える手で読む。数行の公式文、その下に母の筆跡が揺れる。


「海の匂いを思い出しました。あなたの声が潮騒と混ざるのを、もう一度聞きたい」

 洸一は唇を噛み、便箋を胸へ当てた。みおりは父の背で震える肩を見つめ、そっと手を添えた。

「行こう。三人で、もう一度」



12 エピローグ――町へ伸びる潮騒


 数日後――。

 派出所の掲示板には「ユアン・カフェ オーナー自首、過去の未解決事件に関与か」と地元紙の切り抜きが貼られた。港の人々は噂半分、憐憫半分の眼差しで記事を読み、やがて日常の網修理へ戻っていく。

 カフェの扉は婆によって開け放たれ、温室のランプは昼夜を問わず植物の芽を照らした。白い犬は時おり店内を歩き、客のいない椅子の上で尻尾を小さく揺らす。


 みおりは学校帰りにカフェの前へ立つ。窓越しに揺れる緑が呼吸し、見えない問いを育てている。

 ――尻尾はほどけた。でも絡まりは終わらない。

 胸の奥で温かな波が打つ。問いを抱えたままでも、人は歩き続けられる。


 夕焼けの桟橋を渡ると、海は瑠璃色から茜へ変わり、潮騒は鼓動と混ざった。

 みおりは風を吸い込み、遠い空に羽ばたく白い影を探す。――フクロウか、それとも問いそのものか。影は穏やかに旋回し、島の上空を見守るように漂った。



問いは水面に浮き、尻尾は潮風に揺れる。

絡まりはほどけ、また絡み、新しい結び目を紡いでいく。

それでも歩く。傷を歩幅で測りながら、

光の向こうへ、潮の縁へ。

私たちは、まだ旅の途中。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ