第6章 決断の日――杖を受け継ぐ
1 霧の奥で――崖道を進む二つの影
深夜二十三時一五分。
みおりとマスターは、満潮をやり過ごしたばかりの崖道を歩いていた。ヘッドランプの小さな光輪が濡れた岩肌を舐め、潮の引いた跡に残る藻と貝殻が鈍く光を返す。
マスターの網バッグの中で救急キットがわずかに揺れ、ロープの金具がカチリと当たる。その音だけが潮騒と混ざり、夜の空洞で反響した。
みおりはシロトビ婆から借りた杖を右手に、岩棚を踏みしめる。濡れた石は凍る金属のように冷え、靴裏から足首へ痺れを伝えた。
風の強い岬で、マスターが立ち止まる。
「ここが最初の難所だ。洞窟の手前に崩れやすい岩の桟橋がある。潮が上がるまで二十分。急ごう」
みおりは頷き、胸の奥で脈打つ鼓動を押し鎮めた。杖の螺旋模様が月光を反射し、まるで道しるべのように薄紫の光をまとっている。
ふと、耳朶を震わせる低い囁きが風に混ざった。
――お前の問いは、その杖でも重すぎるぞ。
哲学の犬の声だ。しかし振り向いても犬の姿はない。夜風が磯の匂いを強め、囁きを塩へ溶かすだけだった。
2 朝――父との静かなすれ違い
時計の針がさかのぼること十四時間。
月曜日の朝、洸一は珍しく先に玄関を出た。自販機へ行くと言い残し、帰ってきたときには袖口が濡れ、その目は決意と不安が拮抗する鈍い光で曇っていた。
みおりは洗面台で顔を洗いながら背中で察した。――父の中で何かが動き始めた。
だが自分も動く。湖へ行くという決意は、杖と一緒に枕元で固まっている。父の決意と、どちらが先にほどけるか。カチリと歯車が嚙み合う音を感じ、胸の奥で冷たい火花が散った。
3 授業中の幻――海フクロウの影
社会科の授業。桑名先生が離島の歴史を板書するチョークの音が単調に響くなか、みおりの視界がふいに黒く揺らいだ。
教室の窓の外、遠い校庭の柿の木の枝に、白い影――フクロウらしき小さな塊がとまっている。
まばたきするうちに影は揺れ、羽ばたきもせず霧に淡く溶けていった。
みおりは息を呑み、指先を机の縁に押しつけた。木目が皮膚に食い込み痛む。幻か現実か判断できないまま、確信だけが揺るがない。
――フクロウは導いている。私を、湖へ。
4 放課後――シロトビ婆の小屋
下校の鐘が鳴る。今日はすなおの誘いを断り、みおりは坂の裏手へ回った。シロトビ婆が住むという平屋は、潮風で腐食したトタン屋根に石を載せただけの質素な小屋だ。
戸口を叩くと、婆はすぐ現れ、黄色い眼でみおりを測る。
「潮の匂いが濃うなった。覚悟は固まったと見えるね」
「杖、貸してくれてありがとう。返しに来たわけじゃない。……使わせてほしい」
みおりは杖を抱え直す。婆はくくっと喉で笑い、家の奥から古びた革袋を取り出した。
「傷を洗う薬草と、干した海藻を粉にしたもの。血を止める。湖は見た目ほど優しくない」
みおりは袋を受け取り、深く頭を下げた。
「帰ってこれたら返しに来ます」
「帰る場所は、湖が決める。婆さんの世話にならんのなら、それでいい」
婆はそれだけ言い、戸を閉めた。
5 家――嵐前の静けさ
夕刻。家の居間では父がノートパソコンを閉じ、みおりに向き直っていた。
「今日は……家にいるのか?」
一見、穏やかな問い。だが瞳の奥が警戒灯のように明滅している。
みおりは首を横に振った。
「学校の友だちと、海のほうを散歩する」
「夜は危ない。……浜辺ならまだしも、崖は近づくな」
みおりは口を結ぶ。行き先は言えない。ただ父の声に漂う恐怖が、かえって自分を湖へ急がせる。
部屋に沈黙が落ちる。薄明りの中で、二つの影が少しずつ伸び、触れもしないまま揺れ合った。
6 夜――南国カフェ、最後の灯り
二十二時。
みおりは制服の上に母の古いウィンドブレーカーを羽織り、杖を手に南国カフェの扉を押した。店内ではマスターが提灯型ランプを一本吹き消し、残りの灯りだけを濃い闇の中に浮かべている。
「潮はもう引き始めた。支度はいい?」
みおりは頷き、リュックの中身を再確認する。婆の薬草袋、タオル、ペットボトル、水に溶ける補給用粉末茶。
「犬は……?」
カウンターを見回すが、白い子犬はいない。
マスターが肩をすくめる。
「あいつは境目を歩く生き物だ。今日は別の波に乗ってるのかもしれない」
その言い回しは冗談めいているが、瞳は暗く、焦りを隠しきれない光を宿す。
店の外へ出ると、霧はほとんど晴れ、海風が星をちらほら覗かせていた。月は細く、波と岩を銀糸で縫っている。
7 崖道の入り口――父の追跡
二人が港を抜ける頃、後方で足音がした。
振り向くと、洸一が杖より白い顔で立っている。手には懐中電灯。
「みおり!」
みおりは胸を掴まれたように息をのむ。父は娘を見て驚愕と恐怖を同時に抱えた表情で近づいた。
「ここへは来るなと言ったはずだ!」
その叫びは心の底からで、夜の静寂を裂く。マスターが一歩進み、父と娘の間に立つ。
「彼女は自分の意思で来た。道の案内は私に任せてもらえないか」
洸一はマスターの肩越しに娘を見つめ、震える声を絞り出す。
「みおり……お願いだ。戻ろう。母さんのところへ、今度一緒に行こう」
みおりは杖を握る手に力を込め、父の目を正面から受け止めた。
「行くね。……お父さんを守りたい。自分を守りたい。そのために湖へ行く」
洸一の目に光がにじむ。彼は口を開きかけ、しかし言葉の代わりに懐中電灯を差し出した。
「これを持っていけ……電池は複数入れてある」
みおりはそれを受け取る。指が触れた瞬間、父の手の震えが伝わる。
そして世界が静かに二つへ分かれた。父は岸に残り、娘は闇へ踏み出す。
8 洞窟前――崩れる桟橋
時計は二十三時五分。
崖道の最奥、洞窟前の岩棚は想像以上に狭かった。波が岩壁を舐め、風が潮を巻き上げる。潮はまだ引いているが、床面の苔は濡れて滑る。
マスターが前へ出て、ロープでみおりの腰を軽く結ぶ。
「ここからは一歩が命取りだ。足を滑らせたら俺が引き上げる」
洞窟の口は黒曜石の裂け目のように暗く、潮で磨かれた岩肌が光を返す。中から潮騒と違う低い音が響く。鼓動のようでも、風で鳴る笛のようでもある。
みおりは杖を突き立て、一歩を刻む。木先端が岩の溝に噛み、螺旋模様が微かに光った。
洞窟の前に立つと、空気がひゅうと細い穴を通る音へ変わった。
――湖は、この奥。
胸の奥で何かが跳ね上がる。怖さではなく、これまで抱えてきた問いが熟し、弾けようとする気配だった。
9 洞窟内部――闇の縫い目を踏む
洞窟に一歩足を踏み入れた瞬間、みおりは世界が布を引き裂くような音を立てて反転するのを感じた。
外の潮騒は途絶え、代わりに低い打鼓音が壁の奥を這う。マスターの懐中電灯が円錐形の光を伸ばし、天井の鍾乳石が濡れた獣の牙のように光を呑み込む。
「冷える。息をゆっくり吐いて」
マスターの声が楔のように闇へ打ち込まれる。
みおりは頬を過ぎる風の温度に気づいた。温室の湿った空気とは違う、古い氷室の匂い。何世代もの潮風が運んだ塩が、岩肌の割れ目で白い鱗粉になっている。
杖の螺旋はここでもかすかに紫色を灯し、曲がり角ごとに進む方向を示すようだった。マスターは足元の砂利を確かめながら地図を確認する。
「ここから三叉路。左は海面、右は石段。右だ」
通路は徐々に下り勾配となり、壁面に黒い苔が密生し始める。ヘッドランプの光が当たるたび、苔が微細に瞬き、星座のように図形を結ぶ。
みおりの耳鳴りが高くなる。苔の発光が脈打ちに同調している気がして、思わず立ち止まった。
「見える?」
マスターが肩越しに訊く。
「苔が……脈を打ってる」
「君の鼓動だ。湖の磁場が心音を映す。気を抜くと歩調を狂わされる」
みおりは頷き、呼吸を整える。心臓が速度を落とすと、苔の瞬きも緩やかに薄れた。
10 回廊の奥――潮の裏声
さらに進むと、壁に水平の切れ込みが走り、隙間から潮騒に似た裏声が漏れる。
「海底とつながる通気孔だ」
マスターが説明しつつ、その裂け目へ手を当てる。冷えた潮風が袖を膨らませ、二人分の影が岩に重なった。
みおりは影の重なりが父と自分の距離を想起させ、胸を締めつける。父はいま、港の闇で何を思うのか。――戻る道は既に交わらない。
「父親を思った?」
マスターが小声で問う。
みおりは驚きながらも頷いた。
「親の影は深い。けれど影は闇でしか測れない。湖の光を見れば、別の長さが見える」
その言葉は慰めとも警告とも取れたが、みおりは杖を握り直した。
11 石段――水音の階
右の通路は幅が狭まり、やがて急な石段となった。段の端に沿って細い水流が流れ、足を置くたび冷水が靴へ染みる。
マスターが懐中電灯を高く掲げると、段の上端に石造りのアーチが見えた。アーチには古い文字が刻まれ、潮で半ば削れている。
「読める?」
「……古い島言葉だ。“水脈の門”と刻んである」
みおりの名と同じ音に、胸がざわつく。マスターは少し視線を逸らし、再び石段を登り始めた。
十七段目で突然、足が滑った。みおりは咄嗟に杖を突き、ロープが張る。マスターが後ろから支え、胸を押しとどめる。
足元の石段が崩れ、黒い水が噴き上がった。
「ここからは古の湧き水が通ってる。石が脆い、気をつけて」
みおりは頷き、脈打つ水音を背に踏みなおす。不意に杖の螺旋が強く光り、崩れた段の奥に淡い青白い輝きを映し出した。
――湖の水?
光はすぐに消える。マスターが息を呑む音だけが残った。
12 地底の前室――湖面の気配
石段を登り切ると、広い空洞に出た。天井は低く、岩の折り重なりが数千の鱗のように影をつくる。空洞の中央で霧の柱がゆっくり回転し、僅かな光を乱反射する。
マスターは肩で息をしながら指差した。
「この先に湖がある。満潮まで五十分。今は最も水位が低い。……君が行くといい。僕はここで待つ」
みおりは顔を上げる。
「一緒に来ないの?」
「湖は外から来た者を選ぶ。僕は何度も失敗した。……君なら、フクロウに会える」
言葉の端に滲む羨望と焦燥。みおりは気づかぬふりで口を閉じ、小さく頷いた。
杖を灯り代わりに、霧の柱へ近づく。足元は湿った砂で柔らかく、靴が沈むたび冷気が足首を締めた。
霧を抜けると、視界が急に開ける。黒い水面が洞窟の壁を鏡のように映し、そこだけ夜空を捻じ曲げたような深い紺が揺らいでいる。
13 湖辺――微笑む気配
みおりは息を呑み、水際に膝をついた。杖先が水をかすめ、さざ波が光を砕く。そのとき、頭上で羽ばたきの気配がした。
白く淡く、羽を広げた影――海フクロウだ。フクロウはみおりの真上で羽をひと振りし、水面に降り立つ。足元の水は波紋を立てず、影だけが揺れる。
黒い羽縁が月を溶かし、瞳は鏡のように静止していた。
みおりは言葉を発せず、ただ胸の中心で問いを差し出す。
――どうすれば父と母が癒える? 私は何者になればいい?
フクロウは小さく首を傾げ、嘴の先で空気をすくう。光の粒がこぼれ、湖上に雪のように舞う。
音はない。だが心臓が水面と同じ速さで打ち、湖がみおりの血管を流れるような錯覚が身を包む。
ふいに、背後でマスターの声が上ずった。
「見えたのか? 何を教えてもらった?」
みおりは振り返る。マスターが数歩先へ踏み込み、ロープが張り詰める。
フクロウはマスターを見ると、羽をひと振りした。水面に小さな波が立ち、マスターの靴底を濡らす。
「なぜ……僕には何も……!」
マスターの声は震え、焦りが喉を絞った。
14 暴走の萌芽――ナイフの光
次の瞬間、マスターは腰のシースから細いナイフを抜いた。刃は湖の光を斜めに裂き、みおりの目を射抜く。
「何を授かった? 教えろ。――俺は救われなければ、生きる意味がないんだ!」
みおりは杖を両手で構える。言葉を探す暇はない。フクロウは再び羽ばたき、二人の頭上を旋回した。
水面に波紋が広がる。問いがほどけ、同時に刃が闇を裂いた。
みおりの心臓が大きく脈動し、杖の螺旋が鋭く光った。
その光が章を断ち切るように闇を裂き――
湖と影が交差する瞬間、問いは次の試練へと姿を変えた。