第5章 父と母の傷痕
1 雨上がりの朝――灰色の縫い目
夜明け前に雨は上がった。
屋根瓦を打っていた水滴は潮風に吹き飛ばされ、切れ切れの雲の裏で太陽が淡く光をにじませている。二階のない祖母の家では、夜が明け切る前の濁った光がすぐ畳の上に落ち、みおりの瞼をやわらかく叩いた。
――夢の中で、また母の声を聞いていた。
罵声でも悲鳴でもない。母が昔、広告のレイアウトを見せながら「どう? こっちとこっち、どっちが気持ちいいデザイン?」と問いかける、あの柔らかい声。夢のなかで十歳の自分はそれに答えられず、頬に絵の具をつけたまま首を振って泣いていた。
現実の空気は塩辛く、布団の中の温度は夢の余韻を溶かした。みおりは手を伸ばし、枕元のスマホを開く。
画面に未読メッセージはない。都会の友人たちのタイムラインは、制服の色違いやカラオケの動画で埋まり、自分だけ季節のピンを打ち損ねたような取り残され感が薄く頬を刺す。だが指は何も入力せず、ホームボタンを押し、黒い画面を伏せた。
2 父の視点――封印された夜
その頃、父――桃凪洸一は台所の流しで水音を聞いていた。
蛇口から落ちる滴がシンクに跳ね、銀色の底で細い輪を作る。その輪が弾ける瞬間、洸一の脳裏にあの夜の皿が割れる音が重なった。破片が飛び、ワイングラスの脚が折れ、白い陶器が赤い飛沫を吸い込む――スローモーションの悪夢。
洸一は今、自分の手を見つめている。石鹸で何度洗っても爪の奥に残った薄い溝が、血を思わせる。
昨晩、みおりが崖道から泥だらけで帰ったとき、洸一の喉は砂を詰めたように痛んだ。怒鳴りそうな自分が怖かった。感情が暴発する前に口を閉じたが、逆に娘を遠ざけた。
――どうすれば父親は「守る」ことができる? 手を挙げるのでも、閉じ込めるのでもなく。
答えのない問いが、蛇口の滴と同じ間隔で彼の胸を叩く。
ふと、玄関で木の軋む音がした。洸一は水を止め、タオルで手を拭きながら居間へ戻る。みおりが洗面所へ向かう背中が見えた。
声を掛けようとして、飲み込む。――何を言えばいい?
「崖道は危険だから行くな」と繰り返すだけでは、もう届かないと昨夜悟った。
代わりに、椅子に置きっぱなしにしていた薄い封筒へ手を伸ばす。そこには先週、病院から送られてきた母の主治医の手紙が入っている。内容は母の病状と今後の治療計画。だが洸一は封を開けていない。
封筒を指で押し、紙の角が折れる柔らかな痛みに目を閉じた。――読めば現実になる。読まなければ、まだ選択肢がある。
卑怯な考えだとわかっている。だが、封を切る力は湧かない。
3 みおり――学校までの薄い膜
通学路。今日は晴れ間も覗くが、ぬかるんだ坂道は粘つき、スニーカーの底に湿った土をまとわせた。
前列を歩く三年生が話題を振り、みおりはうなずくだけで言葉を返せない。島に来てから一週間、クラスメイトとの距離は縮まるどころか、透明な膜が挟まったままだ。
校門の前で砂倉すなおが待っていた。
「おはよう。昨日、帰り大丈夫だった?」
「うん……ありがとう」
短い挨拶のあと、みおりは続けようとして言葉が霧消した。――温室で触れた柔らかな葉、あの木箱、哲学の犬の声。それを語ることは、膜の向こうへいきなり手を差し入れるような怖さがあった。
すなおは察したのか、すぐ別の話題に切り替える。
「来月、島の小さな夏祭りがあるの。夜店は少ないけど、花火だけはきれい。……良かったら一緒に行かない?」
「……うん」
小さく答えながら、みおりの意識は遠い崖の洞窟をさまよっていた。フクロウの影はなぜ自分の前に現れたのか。――潮に隠された時計が、自分にだけ時を告げたのかもしれない。
4 放課後――影を踏む帰路
授業のあと、みおりはすなおと別れ、校庭の裏門へ回った。昨夜の犬の影が脳裏を離れず、足が南国カフェへ向かう路地をたどる。
すると、裏門の石垣にシロトビ婆が立っていた。
白い髪が長くほどけ、潮風で揺れている。婆はみおりを見るなり口の端を上げた。
「湖が、呼んどるねえ」
「どうして……わたしが行きたいってわかるの?」
「目に波のかけらが浮かんどる。外から来た者はみな、好き放題に問いを拾いよる。けれど尻尾は締まる一方だ」
哲学の犬と同じ言い回しに、みおりは息を止めた。
「湖へ行ける道、教えてほしい」
「道は波が開けるときにだけ見える。杖が要る。わしの杖を預けてやる」
婆は柿渋色の袋から節くれだった木製の杖を取り出す。表面には細かい紋様――潮や風を模した螺旋――が彫り込まれ、握り部分は艶を帯びていた。
「ただし命を落とすかもしれん。覚悟はあるか?」
みおりは杖を両手で受け取り、重さを確かめた。
「……行きます。湖で会ったら、フクロウが何か教えてくれるかもしれないから」
婆は「ひっひ」と笑い、背を向けた。
「問いは湖の底にも絡まる。そのことを忘れるな」
5 家――割れた椀、言葉の裂け目
夕暮れ、帰宅したみおりは玄関で土のついた靴を脱ぎ、杖を荷物の奥へ隠した。
台所では父が味噌汁を温めている。潮と味噌の合わさった匂いが、かすかな温かみを帯びて家に広がる。
「今日、学校はどうだった?」
「……いつもどおり」
食卓に並べられた茶碗は二つ。母の席だけが空いている。その空白が皿や箸の置き所を微妙に歪め、テーブルの重心をずらす。
味噌汁鉢を手に取ったとき、ふと指が滑り、椀のふちが欠けた。小さな破片が畳に落ち、チン、と乾いた音が跳ねる。
父が椀をつかみ、みおりから遠ざけるように机へ置いた。
「……大丈夫か?」
「……ごめんなさい」
謝る声は、欠けたふちと同じ鋭さで耳に戻る。父の目に驚きが走り、それが数秒で後悔と罪悪感に置き換わるのを、みおりは見てしまった。
――あの夜、母を守れなかった自分の無力さ。みおりはそれを思い出し、同時に父の震える拳も蘇った。
言葉が裂け目を作り、二人のあいだの空気が引き裂かれる。
それでも食事は進む。味噌汁の温度を感じることなく、口の中で塩気だけが浮き、喉を通り過ぎた。
6 父の夜――シロトビ婆との邂逅
食後、洸一は表の自販機へ缶コーヒーを買いに行くと言って戸外へ出た。家に居ると、皿の破片の余韻が耳を刺し続ける。
街灯もない坂道を下る途中、白い影が石垣を横切る。哲学の犬だ――洸一は足を止める。犬は一瞥すると、路地の角へ消え、その先にシロトビ婆が立っていた。
「娘が湖へ興味を持っとるそうじゃな」
婆は唐突に切り出した。洸一は警戒し、声を押し殺す。
「あの子はただ……観光気分で…」
「観光気分であの崖道へは行かん。お前さん、娘をよう見張っときんさい。外から来た者だけに掟は破れる。破れた先で、割れ物を踏むのはあの子かもしれんぞ」
洸一は言い返せず、ただ拳を握った。婆の背は闇に溶け、犬の影もいつの間にか消えている。
缶コーヒーの自販機まで来ても、硬貨を入れる指が震え、落ちた百円玉が転がる音が夜気を泡立てた。
7 みおり――携帯の光と母の折り鶴
その頃、みおりは自室でスマホライトをつけ、母から届いた青い折り鶴を回していた。紙の折り目は乱れ、尾羽の先が千切れている。
“湖へ行けば、これを治す方法が見つかる?”
そんな子どもじみた願いを抱きながら、みおりは杖を枕元に置いた。表面の螺旋は月のない夜でも光を反射する。不思議と手に馴染み、心臓の鼓動と重なり合う。
哲学の犬の囁きが遠くで揺れた。
――尻尾をほどくには、牙を飲み込む覚悟がいる。
みおりは布団を首まで引き上げ、暗闇の中で杖を握り直した。木目が体温を吸い取り、返すように熱を帯びる。その熱が、問われている気がした。
返答は心臓の奥で脈を打つだけ。――行く。必ず湖へ。
8 夜半――封筒を裂く音
深夜一時。
台所の蛍光灯だけが点いている。洸一はテーブルに肘をつき、未開封だった主治医の封筒を見つめていた。指先は紙の端をつまんでは離し、またつまむ。
――読まなければ、娘に説明できない。
そう分かっているのに、破れる紙片の音が、あの夜の皿の破砕音と重なりそうで怖かった。
深呼吸をひとつ。封を裂き、便箋を引き抜く。活字が並ぶだけなのに、文面は脈打って見えた。
〈患者は現在、感情失調と解離症状が交互に出現。暴力性は観察されませんが、二次的な自己否定が強い〉
〈家族面会は段階的に再開を検討。暴力のトラウマ回避のため、初期は短時間・面会室越しでの対応を推奨〉
言葉の意味を追うほど、心が鈍い痛みを帯びる。
――「暴力のトラウマ回避」? 自分がその“暴力”そのものなのだ。
紙は手の中でじわりと湿り、インクの線を滲ませた。洸一は額を押さえ、視界の端で母の折り鶴を見つけた。みおりが机に置き忘れていったのだろう。
千切れた尾羽を親指で撫でながら、彼は心のどこかで決めた。
――面会には行こう。逃げ続ければ、娘にも向き合えない。
廊下で床板がきしむ。振り向くと、みおりの影がふすまの隙間に揺れていた。
「起こしたか?」
咄嗟に封筒と便箋を重ね、胸元へ隠す。みおりは薄いパジャマ姿で首を振った。
「お水……飲みに来ただけ」
声は掠れているが、杖をしっかり握っている。
洸一は気づき、眉をよせた。
「それ……どこで?」
「友だちのお婆さんから。……お守りみたいなもの」
みおりは嘘をついていないが、真実を全部語ってもいない。その曖昧さが父と娘のあいだを冷やした。
洸一は何とか微笑みをつくり、水の入ったコップを手渡す。
「夜は冷える。風邪ひくな」
それだけ言うと、みおりは会釈して戻っていった。
扉が閉まるか閉まらないかの間際、杖の螺旋模様が一瞬、蛍光灯を反射して銀色に光った。
9 雨戸の向こう――父の記憶、娘の決意
畳に戻ったみおりは寝返りを打ち、杖を胸に抱いたまま目を閉じた。
――父は母を救えないまま、今も自分を責め続けている。
その事実が、みおりの胸で重くのしかかる。湖へ行き、フクロウに会えば、本当に何かが変わるのか? 確証はない。だが立ち止まる方が怖かった。
枕元のスマホをとり、画面メモに短く打つ。
“明日 放課後 カフェ 出発の相談”
送信先は自分自身。リマインダー代わりにするしかない。誰かに計画を話すわけにはいかなかった。
10 翌朝――深い霧と杖の重さ
島は夜明けから濃霧に覆われた。家々の屋根が幽霊船の影のようにぼやけ、潮騒の代わりに霧笛が延々と鳴り渡る。
みおりは杖を通学鞄に固定し、玄関で父に顔だけ向けた。
「今日は放課後、友だちのところ寄ってくるね」
洸一は新聞の束を膝に、視線だけ上げる。
「暗くなる前に帰るんだぞ」
「うん」
うそではない。――暗くなる前に港町を出発する予定だ。
学校への道は霧が深く、足元さえ霞む。今日は誰も話しかけてこなかった。クラスの空気が湿度でさらに重くなり、みおりは動くたび制服の布が肌に貼り付くのを感じた。
11 放課後――決行前夜の約束
授業が終わると、みおりは机を拭いてすなおに微笑んだ。
「明日、よかったら放課後おしゃべりして帰らない?」
自分がいない明日の約束を取り付ける――それは後ろめたい保険。でもすなおは嬉しそうに頷いた。
三十分後、みおりは門を出て南国カフェへ向かった。霧はまだ解けず、植物の葉先で水滴が光る。
カフェの扉を開けると、マスターは地図を広げて待っていた。
「杖は?」
「ここに」
みおりは鞄から取り出す。マスターは目を細め、螺旋模様を撫でた。
「今夜は月が欠ける。潮は二十三時にいちばん引く。そのとき崖道に入れば、洞窟の前の岩棚を歩ける。――戻れるかどうかは賭けだ」
「覚悟はできてる」
犬がカウンター下から現れ、尻尾で床を叩く。
「問いは深く潜ったね」
みおりは頷く。
「父が心配する。でも、行く」
マスターは地図を折り、ポケットに入れた。
「二十二時、ここに集合しよう。必要なものは僕が準備する。……怖ければ断ってもいい」
「怖い。でも……逃げたくない」
マスターの瞳にかすかな光が宿り、静かに手を差し出す。みおりは握手を返した。彼の掌は思ったより冷たかった。
12 父の覚悟――静かな割れる音
夜。
みおりが外出の準備をすると、廊下で父と鉢合わせた。杖は布で巻き隠してある。
「また出かけるのか?」
「……ちょっと散歩」
洸一は娘の背を見て何かを察したが、問いたださなかった。代わりに、未開封のままだったもう一通の封筒を差し出す。
「母さんの写真だ。病院で撮った。……見ておくか?」
みおりは手を伸ばしたが、指が震えた。受け取れば足がすくみ、湖へ行く力を失いそうだ。
「……帰ってきてから見るよ」
軽く微笑むと、玄関の戸を開ける。海霧はまだ厚い。刹那、父が背後でぽつりと言った。
「みおり――俺はもう、誰も傷つけたくない。でも、どう守ればいいかも分からない」
みおりは振り向かず、靴ひもを締めながら答える。
「わたし、変わりたい。……お父さんも、大丈夫になるように」
扉を閉じる直前、皿が割れるような小さな音が耳の奥で弾けた。それは後悔の悲鳴かもしれないし、勇気の始まりの合図かもしれなかった。
13 霧を裂いて――出発
時計は二十二時。南国カフェの前に集うと、マスターは網バッグにロープ、懐中電灯、救急セットを詰めていた。犬は店の入り口に座り、月の欠片を映したような瞳で二人を見送る。
「潮は低い。行こう」
杖を握り、みおりは暗い路地へ踏み出した。霧が肌を撫で、潮の匂いが強まる。
哲学の犬が一歩だけ前に出て、低く告げた。
「問いは崖下でも絡まる。戻れない尻尾ほど、ほどけるときは鋭い」
みおりは犬の頭をそっと撫でた。温かい。
「戻れなくなっても、答えを見つけたい」
犬は黙って尻尾を振った。
マスターが先に立ち、二人は港を抜け、崖道の入口へ消えた。背後で犬の鳴き声が一度だけ遠吠えのように長く伸び、霧と潮に溶けていく。
時計の針は進む。
問いをほどく旅は、もう始まっている。
*
尻尾をほどく手は、痛みを知る手。
痛みを恐れて閉じた手は、波の底で沈黙を抱く。
だから私は杖を握り、傷を抱きしめて歩く。
湖の水面が、まだ見えない闇の向こうで
静かに脈を打っている。