第4章 影落ちる植物園
1 雨雲の放課後――傘のない帰り道
週明けの午後、授業が終わる頃には曇天が校舎ごと飲み込み、窓ガラスを叩く雨脚がまばらな拍子を刻んでいた。
傘を持っていない生徒たちは昇降口で立ちすくむ。だが島ではスコールのような通り雨は珍しくないらしく、みな慣れた手つきでランドセルや鞄にビニール袋を被せ、足早に駆け出していく。
みおりもカバンを胸に抱え、玄関のひさしで深呼吸した。雨はむせ返るような海の匂いを連れている。潮と土と錆が混ざり、都会のセメントにはない湿りを肌へまとわせた。
ふと、視界を白い影が横切った。哲学の犬だ――そう確信したが、次の瞬間には校門の石垣の向こうへ消えていた。
みおりは雨粒を受け入れるように首をすくめ、犬の進んだ方向へ歩き出した。
2 南国カフェへの小径――水滴と緑の匂い
雨に濡れたクワズイモの葉が大きな掌のように垂れ下がり、路面へ雫を落とす。島の植物は水を含むほど緑を濃くし、葉脈の一つひとつをくっきり浮かび上がらせるから、濡れた小径はまるで熱帯温室の回廊だ。
前回見つけた看板は葉でさらに隠れ、文字の輪郭に水滴が連なっている。“CAFÉ YUAN”。雨粒は矢印を辿る導線となり、みおりの足を誘った。
カフェの引き戸を開けると、鈴の音に重なり湿った空気がすっと抜ける。店内の照明は夕方より暗いが、ランプシェードの橙色が雨の匂いを柔らげた。
3 薄暗い温室へ――マスターの招き
「雨宿りだね」
カウンターの奥で花柄シャツのマスターがほほ笑む。白い犬はカウンター下の籐のバスケットに丸まり、静かにまぶたを伏せていた。
みおりが背中の濡れを気にしながら「ココアを」と告げると、マスターは深く頷き、チョコレート色の粉をミルクに溶かし始める。
やがて湯気の向こうから、低く落ち着いた声が届いた。
「少し、見せたいものがあるんだ。ココアを飲み終えたらついておいで」
マスターは鍵の束を取り出し、カウンター脇の木製の扉を開ける。階段は狭く、裸電球が細い鎖の下で揺れていた。
4 地下――湿りと光の揺らぎ
階段を降りると、空気はぐっと温かく、湿度が肌に膜を張る。金網越しに黄緑の光が揺らぎ、みおりの目を包んだ。
そこは四畳半ほどの温室だった。天井には古い蛍光灯と植物育成用のランプが混ざって吊られ、棚には多肉植物や食虫植物、南洋のラン、苔を敷いた小盆栽があちこちに配置されている。
葉の裏から滴がぽたぽたと落ち、床に敷いた木板に染みを作った。水の音が規則正しい心拍のようで、外の雨音とは異なるリズムだった。
「ここに来ると、呼吸が少し楽になるんだ」
マスターがスプレーボトルでネペンテスの葉に霧を吹きかける。
「植物は黙ってる。でも、確かに生きている。黙って生きるものと過ごす時間は、傷を縫う針みたいに静かで、確かなものなんだ」
みおりは言葉を探したが、胸に広がる感覚を表す語彙が見つからない。黙ってガジュマルの気根に触れると、根は人肌のように柔らかく、生命の温度を秘めていた。
5 木箱の秘密――卵の気配
「それは触らないほうがいい」
マスターの声が低く鳴った。みおりの指先は、温室の最奥、木箱の留め金に触れていた。
「ごめんなさい……」
箱は手のひら大の木枠で、すきまから白い布がのぞく。どこか冷気を帯び、湿った温室の中で異質な存在感を放っている。
マスターは一瞬、視線を泳がせてから背を向けた。
「昔ね、島の海で拾った石を入れてあるんだ。ただの石だよ。古い伝承に出てくる石さ」
口調は穏やかだが、声の裏に震えが潜む。みおりはそれ以上箱に触れなかった。
――ただの石、なのだろうか。
背筋をなぞる冷たさが、温室の湿度と奇妙な温度差を作る。
棚に並んだコーヒーの苗、アンスリウムの赤い仏炎苞、カカオの若木……それらが一斉にみおりを観察しているような気配がした。呼吸が浅くなる。
その時、頭の後ろで囁きが聞こえた。
「見てしまったかい?」
哲学の犬の声だ。振り向くと、階段上の影に犬が座り、黒い瞳でこちらを映している。
みおりは思わず箱を視界から外し、犬と目を合わせた。
「何が入ってるのか……知らないほうがいいと思う?」
「問いはほどかれるまで増える。ほどかなければ、尻尾は締まるばかりさ」
犬は静かに告げ、再び階段の影へ溶けた。
6 父の影――すれ違う帰り道
温室を出た頃には雨脚が弱まり、夕闇が店の窓を薄藍に染めていた。
「ありがとう。また来てもいい?」
みおりがカウンターで別れを告げると、マスターはにこりと笑った。
「もちろん。植物は誰とでも静かに話せるからね」
ドアを開け外に出た瞬間、路地の向こうに父の姿があった。
薄灰色の傘を差し、焦った目であたりを見回している。みおりを見つけると、顔が強張った。
「こんな時間まで何をしてる?」
「雨宿り。……友だちの店で」
「店?」
父はカフェの看板を一瞥し、マスターを警戒するように眉を寄せる。
「夕飯、家で用意した。……帰るぞ」
父の声音は刺々しくはない。しかし表情には、みおりが何か隠していると疑う影があった。「友だち」と呼ぶには店主は年上すぎるし、何より父は過去に“信頼が崩れた瞬間”の痛みを知っている。
みおりは言い返す気力をなくし、父の後ろについて歩き始めた。
7 夜――母の手紙、解けない結び目
夕食は缶詰のサンマと炊飯器で炊いた米。みおりは腹を満たしたはずなのに、胸が冷えたままだった。
食後、父が封筒を差し出してくる。
「母さんから、施設を通して届いた」
みおりはびくりと肩を震わせ、手紙を受け取った。宛名は父の字で「桃凪家御中」とある。母が直接は書けない状態らしい。
中には簡単な近況報告と、母が折った折り鶴が一羽。青い千代紙は端が少し破れ、折り目は不揃いだった。
見慣れた母の几帳面さはどこにもない。でも、たしかに母の手がここへ届いている。
涙が滲み、みおりは慌てて目をこする。
父は台所でコップを洗う手を止めず、背中で呟いた。
「母さんは……ゆっくり良くなっていくって。医者が言ってる」
みおりは返事を飲み込み、青い鶴を机に戻した。――家族の問題は、折り鶴のように折り目を辿れば戻るものなのか。それとも折り目そのものが裂けた傷跡なのか。
8 窓の外――潮騒の子守唄
深夜、潮が満ちる轟きが遠くで鳴った。窓辺に座り、みおりはカーテンをわずかに開く。
闇の中で白い犬が庭に立っていた。雨は止み、犬の背で月光が揺れる。
犬は声を出さない。ただ尻尾を一度ゆっくり振った。
――問いは増える。
みおりは胸に息をため、そっと囁いた。
「ほどきたい。……尻尾が締まる前に」
犬は静かに瞬きし、影に戻った。
潮騒が子守歌のように廊下を這い、家全体を波で揺らす。――その揺れがいつか崩壊へつながるのか、再生の鼓動になるのか、誰も教えてくれない。
みおりは布団へ潜り込み、瞼の裏で温室の緑を思い浮かべた。そこに生える静けさは、嵐の夜も変わらず芽を伸ばすのだろうか。
*
秘密は木箱に眠るという。
触れなければ、そこにあると知っているだけで脈を打つ。
触れれば、世界が裂けるほどの音で啼くかもしれない。
それでも私は――
雨で濡れた土の匂いを吸い込みながら、
箱の向こうに芽吹く言葉を、聞き取ろうとしていた。