第3章 涙の礁湖の囁き
1 小さな教室、空席のざわめき
島立学園の昇降口は、潮気の抜けた木の匂いがした。靴箱の列に貼り付く番号札は薄く剥がれ、誰かが貼ったメモの跡が残る。月曜の朝、みおりは転入手続きを終え、仮の体操着袋を抱えて中学部の教室へ向かった。
中二の教室には丸椅子が十四脚しかない。教卓前の黒板で、担任の桑名先生がチョークをすり減らしながら連絡事項を書きつけていた。
「今日から新しい仲間が来ます。桃凪みおりさんです」
先生が紹介すると、クラスメイトは一斉にみおりへ視線を向けた。
だが次の瞬間、その視線は通り雨のように引いていく。遠慮というより、境界線を保つ退き方だ。
前列の女子が柔らかく微笑み、小さな声で「よろしく」と言った。だが隣の席の男子は視線を外し、鉛筆をいじり続ける。
みおりは胸元で手を重ね、やや硬い声で自己紹介した。
「桃凪みおりです。……東京から来ました。よろしくお願いします」
拍手は数秒で終わり、桑名先生は「はい、着席」と指示した。
みおりの席は教室のいちばん後ろ――窓際の空席。そこは転校生が割り当てられるお決まりの場所のようで、窓の外には校庭と向こうの海が見え、潮騒が遠く虫の羽音みたいに震えていた。
2 昼休み――深呼吸の輪郭
昼のチャイムが鳴ると、生徒たちは弁当箱を机に広げた。コンビニも学食もない島では、ほとんどの生徒が自宅から握り飯か、弁当箱に詰めた魚の干物を持ってくる。
みおりは父が買っておいた市販の菓子パンを出したが、袋を破る乾いた音が教室に浮き上がり、罪のように響いた。
前列の女子が振り返った。名前は砂倉すなお。
「パンだけ? 足りる?」
「あ……うん。大丈夫」
「魚嫌い?」
「嫌いじゃないけど……料理が間に合わなくて」
すなおは頷き、自分の弁当箱から銀紙に包んだ焼き鯖を差し出した。
「良かったら。今朝、多かったから」
香ばしい匂いが漂い、みおりは喉を鳴らしそうになる。けれど遠慮が勝ち、頭を下げて断った。
すなおは無理強いせず微笑み、前を向き直る。みおりの視線は窓の外へ戻った。
グラウンドは潮風で砂が乾き、埃の筋が吹き上がっている。校庭の端、小学生の男の子が草野球のマウンドに立ち、声もなくボールを振る。
――声が届かない。
みおりは胸に感じたその言葉を、形にできずに飲み込んだ。
3 衝動――潮と崖と満ち引き
放課後。昇降口を出ると、西日が校舎の壁を煉瓦色に染めていた。
ランドセルを背負った小学生が駆け下りる坂道を避け、みおりは別の緩やかな道を選ぶ。
頭の中に、あのカフェの白い犬――哲学の犬――と、シロトビ婆の湿った声が混じり合う。
〈涙の礁湖には外から来た者だけが行ける〉
――どうして、そんな場所があるの?
問いは潮風に運ばれ、やがて崖沿いの遊歩道へ導く。
遊歩道は柵が朽ち、数メートルごとに石の段差が崩れ落ちている。みおりは足元の砂利が滑るのを感じながら進んだ。海面はまだ遠いが、前方に梯子のような岩肌が続き、洞窟らしき黒い裂け目がのぞく。
満潮時刻を示すサイレンが遠く港で鳴る。――潮が戻る前に引き返さないと危険だ。
だが足は止まらなかった。胸の奥、海水より冷たいものが脈打ち、「湖を見たい」と強く押し出していた。
崖道の先で、突風が吹いた。身体が揺れ、みおりは咄嗟に岩壁へ手をついた。手の平が擦りむけ、細い赤い線が浮かぶ。
痛みより、耳を打つ奇妙な風の音――高く低く、どこかで鳥が鳴くような周波数で耳朶を震わせた。
瞬きすると、洞窟の奥に影が立っている。
小さな影。……鳥のような丸い頭部。――フクロウ?
「だれ……?」
声は海に吸い込まれ、返事はなかった。ただ、影は微かに首を傾け、こちらをじっと見ているようだった。
みおりが一歩踏み出した時、波が崖下で爆ぜた。潮が崖道に飛沫を撒き、足元を濡らす。
ふと我に返り、背筋が凍る。今立っている岩棚は、潮が満ちればすぐに水際になる。
影はもう見えない。洞窟の口は黒いまま。
みおりは震える足で来た道を引き返した。
4 帰宅――泥と怒声
家に着く頃には空が鉛色になり、潮霧が街灯を滲ませていた。玄関戸を開けた瞬間、父の怒気がぶつかってくる。
「どこへ行ってた?」
みおりは口を開くが、あとから気づいた砂まみれの靴と泥のついた制服が、答えを拒む。
「海のほう……ちょっと歩いてただけ」
「危ない場所だ。島の人間でも近づかない崖だぞ」
父の声が上擦る。普段小さな声音が、恐怖を隠すように大きく響いた。
「お父さんに何が分かるの! わたしだって――」
そこから先が言葉にならず、叫びが喉の奥で引っかかる。父の手が震えているのに気づき、みおりの心臓は縮んだ。
母を殴ったあの夜、父の指先は同じように震えていた。それをはっきり思い出し、みおりは恐怖と怒りと哀しみのどれが自分の声なのか分からなくなった。
しばらく押し黙ったあと、父は低く呟く。
「……潮が満ちる前で良かった。気をつけろ」
それ以上は何も言わず、洗面所へ行った。
みおりは玄関に立ち尽くし、泥のついた運動靴を見下ろす。――何が怖いのか、自分にもはっきりしない。ただ胸の奥を冷たい波が引いていった。
5 夜――窓辺の囁き
夜半、窓の外で風が鳴った。みおりは布団を首まで引き上げ、ふと縁側の硝子戸に目を向ける。
――そこに、白い犬がいた。
昼間の坂で見た犬。その毛が月光を吸い、ふちどった光の輪が揺れる。
戸は閉じたままのはずなのに、犬はするりと室内に入り、みおりの足元へ来て座った。
息を飲むと、犬は小さく首を傾げる。
「問いはまた絡まったね」
囁くような声。
「あなた……どうしてここに?」
「尻尾がほどける場所を探していたら、ここへ来た」
みおりは理解できないまま、犬の目を覗き込む。瞳は深い海底のようだ。
犬は尻尾で床を叩く。
「湖を見たいのかい?」
「……見たい。見て、何かが変わるかもしれない」
「変わるのは、湖ではなく君さ。けれど行くなら、潮と風に耳を澄ませるといい」
その瞬間、犬は溶けるように影へ戻り、月光の中に薄れていった。
縁側には誰もいない。風だけが戸の隙間を鳴らし、海の匂いを運ぶ。
みおりは手のひらを握り、心に浮かんだ言葉を静かに確かめた。
――私は、湖へ行く。
潮と風が囁きを運び、障子の影を揺らした。
*
崖の奥で私を見た影――
あれは鳥か、夢か、心の影か。
問いは尻尾に絡まり、満ち引きのたびに締まっていく。
それでも私は歩く。
波が切り立つ音のむこうに、誰かの微笑みを聴くまでは。