第2章 南国カフェと哲学の犬
1 段ボールの山と朝の匂い
翌朝――。
みおりは畳の上に敷いた布団から半身を起こし、まず視界に映った段ボールの壁に小さく嘆息した。昨晩は到着の疲れから倒れ込むように眠ったが、薄明りの中で見る段ボールは灰色の巨塔のようで、家そのものを侵食している感じがした。
伸びをすると、古い天井板がミシ、と鳴った。あれは天井なのか、私の関節なのか分からない。
祖母の家は、夜より朝のほうがいっそう空洞だった。家具がないせいで柱の呼吸がむき出しになり、家全体が膨らんだり縮んだりしているように感じる。
廊下に出ると、既に父が台所で湯を沸かしていた。電気ポットではなく、琺瑯のポットに水を汲み、ガスコンロの古いバーナーへ火をつける――そんな動作をしている父をみおりはほとんど見たことがない。
「……おはよう」
「おはよう。昨夜は眠れたか?」
「うん、まあ。……ちょっと寒かったけど」
父はコンロの火加減を調整しながら「あの押し入れの奥に毛布があったはずだ。今日、探しておく」と簡潔に返した。
彼の声はまだどこか遠く、キッチンの古い換気扇の音に混ざって半分ほど削り取られてしまう。
湯気の立ち上る匂いは、ほんのりとした錆の匂いと混じり、鼻の奥をくすぐった。その金気に、みおりは遠い昔、祖母の家で飲んだインスタントココアの味を思い出した。縁側で「海が見たいか」と祖母に訊かれ、小さな手を引かれて浜へ下りた午後。……記憶はそこだけ鮮明で、そのあとはぼやけている。まるで、昨日観た映画のエンドロールのように。
2 学校へ向かう坂
朝食は缶詰のミネストローネと冷たいパン。父は味に頓着しない人だが、みおりは久々に温かいものを飲んでほっとした。
食後、父が片づけをしている間に、みおりは制服のリボンを締め直す。転入手続きは来週だが、今日は校舎の場所だけ確認しておこうと決めていた。
家を出ると、坂の上から潮風が吹き下りてきた。太陽は雲間から短い光を落とし、まだ湿った石段を照らす。石段の脇にはサボテンやハイビスカスが植わっていて、温帯とはいえ南国の空気を思わせた。
*
坂の途中、白い犬がこちらを見ていた。昨夜港で見かけた影だ、と直感的に分かった。犬はもう少し小柄で、毛並みが陽光を弾いている。おそらく縁の家の飼い犬だろう。首輪はない。
「おはよう……」
みおりが挨拶すると、犬は首を傾げた。それだけで首元の毛並みがふわりと揺れ、まるで「問いは?」とでも言いたげな仕草に見えた。
けれど犬は声を発さず、足音も立てず、細い路地に消えていった。
3 併設校――少人数の校庭
急坂を上り切ると、小さなグラウンドが現れた。白煙のような砂埃が風に乗り、鉄棒のうしろで小学生が二人、何やら低い声で喋っている。
正門には「島立学園」と古い木札。小中併設校で、全校生徒は五十数名しかいないと聞いている。都会の学校で見慣れた雑然とした朝のざわつきはここにはなく、子どもたちの声も海につつまれて小さく丸まっているようだ。
校舎へ近づくと、年配の女性教諭らしき人が掃き出し窓から顔を出し、「転入予定の子? 今は授業中だから、また教頭に電話入れてね」と優しく微笑んだ。みおりは会釈だけして校庭をひと回りし、すぐ坂を下った。
足取りは軽い。けれど胸の奥は重い。
――友だち、できるかな。
問いは潮風にさらわれ、空の色ほど曖昧に溶けていった。
4 鬱蒼とした植物のトンネル
下校時間にはまだ早いが、みおりは遠回りして帰ることにした。少し歩けば港町へ戻れるが、坂の裏手に続く細い小径を選ぶ。
鬱蒼としたクワズイモやトベラが道を覆い、ところどころにブーゲンビリアの赤紫色が混じる。南の植物特有の湿った青臭さが熱帯魚の水槽のようにむっと鼻を突いた。
その奥に木製の看板が立っていた。水色の下地に白いペンキで「CAFÉ YUAN」と書かれ、さらに手書きの矢印が店の方向を示している。
葉をかき分けると、そこだけ開けた空き地にこぢんまりしたコンクリート平屋があった。外壁には蔦がからみ、軒下でガジュマルがぶらさがっている。ドアのガラスを通して、やわらかな橙色の照明が揺れていた。
みおりは思わず扉を押す。鈴がチリン、と鳴く。
わずかなココアの匂いが鼻腔へすべりこみ、見渡すと客は誰もいない。カウンターの向こうで、色褪せた花柄シャツを着た痩せた男性がミルクピッチャーを傾けていた。
その隣に、白い子犬が座っていた。港で、坂で見たのと同じ。
みおりが言葉を探すより速く、男はカップをトレイに乗せ、柔らかい声を放つ。
「いらっしゃい。島の子じゃないね?」
5 マスターとココア
「……その、お客さんじゃなくて、ごめんなさい。道に迷って」
「迷うほど道はないさ。ここにたどり着くのは、たいてい何かを探してる人だ」
男はトレイをカウンターに置き、スツールへ座るよう目線で示した。
「ココア、飲む?」
「えっ……」
「今日は少し冷える。砂糖は控えめだけど、どうかな」
差し出されたカップは薄いピンクの陶器で、湯気は白い霧となって立ち昇っている。
「……いただきます」
喉を通るココアは甘さより、塩を含んだような深い苦味が勝っていた。みおりは目を丸くしたが、体の芯がすぐに温まるのを感じた。
「この犬、触れたいかい?」
マスターが声を潜ませる。みおりはカップを置き、犬を見た。白い毛はふわふわで、耳はやや垂れている。何より瞳が黒く深い。
犬はこちらを真っすぐ見つめ、口を開いた。
「触れたいのかい?」
低く、人の言葉だった。みおりは息を呑む。
驚いてマスターを見るが、彼は眉ひとつ動かさない。
「この犬は特別なんだよ。名前はまだない。好きに呼んでくれたらいい」
みおりは震える声で犬に訊ねる。
「どうして……喋るの?」
犬は尻尾を一度だけ揺らし、静かに答えた。
「問いは尻尾に絡まるものだ。ほどくのは、触れた手次第さ」
意味が分からない。ただ、その声音は夢か幻のように柔らかく、頭の奥で反響し、言葉の輪郭が曖昧なまま溶けた。
6 シロトビ婆――港への帰り道
夕方、店を出ると空は薄紅に染まっていた。みおりは脈の速さがまだ戻らないまま港への緩い坂を下る。
途中、ガソリンスタンド跡の前で痩せた老婆とすれ違った。白い髪をお団子に結び、目尻の深い皺が陰影で強調されている。
老婆はみおりをじろりと見やり、口角を歪めた。
「外から来た子かい……」
かすれた声が風にまぎれ、何か含むように途切れた。
みおりは足を止めようとしたが、怖気が先に足を動かし、婆のほうを見返す余裕もなく坂を下った。
背後でまた、かすかな笑い声がした気がしたが、振り返っても誰もいなかった。
7 夜の玄関――ココアの匂いと父の影
家に着く頃には、海霧が街灯をぼやけさせていた。玄関を開けると、父は座敷で書類を広げながらため息をついている。
「遅かったな。迷わなかったか?」
「うん……迷ったけど、戻ってこれた」
「晩飯は簡単でいいか?」
「いいよ。わたし、あんまりお腹空いてない」
父はテーブルの上の ‟広告シナリオ” と書かれたファイルを閉じ、みおりを一瞥する。目の下の隈が濃い。彼が眠れない夜を過ごしたときの合図だ。
みおりは靴を脱ぎながら、カフェと犬のことを話したくてたまらなかった。けれど言えなかった。喋る犬の話などして、父に心配をかけたくない。母の次は娘までおかしくなったと思われるかもしれない――そんな恐れが、喉元で言葉を塞いだ。
父は台所へ行き、インスタント味噌汁を作り始めた。
みおりは座敷の隅に座り、段ボールの隙間から、港で拾った小石を取り出す。灰色の中に白い縞を帯びた石。港の冷たい水をまだ残しているようで、掌に乗せるとひんやりと心音を奪う。
窓の外で、船の汽笛が二度鳴った。蒸気の尾は見えないのに、音だけが夜の境目を越えて届く。
――問いは尻尾に絡まる。
犬の声が心に響くとき、みおりの指先に小石はしっかりと乗っていた。
*
島の坂道は、潮と土の匂いで出来ている。
その匂いを吸い込むたび、わたしの胸の奥に眠っている質問はほどけるどころか、
さらに絡まり、深く潜っていく。
――いつか、あの犬にもう一度会えるだろうか。
そしてわたしは、あの問いを、本当にほどけるのだろうか。