表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
海織りの島  作者: k_ai
1/7

第1章 帰郷の潮風

1 フェリーの甲板――灰色の水平線


 揺れているのは船体か自分の心か。

 夏を待ち切れずに梅雨が居残ったままの空は、厚い雲の切れ間に時折うっすら海光をにじませるだけで、真昼なのにどこか薄暗かった。

 フェリーの甲板に立つ桃凪みおりは、吹き付ける潮風に半歩だけ身を引きながら、霞んだ水平線をじっと見つめていた。波頭は弱々しく光を弾き、ところどころで白くちぎれては消える。まるで自分の記憶をかき乱す掌のように、冷たく、湿って、手の内が見えなかった。


 船を包むディーゼルエンジンの低い脈動が、体の奥の鼓動と重なっている。耳の奥で、ざらつく重低音がゆっくり回転しながら降り積もり、それだけで胸の内がざわつくのを感じた。

 耐えきれず、みおりは甲板の手すりへ両手を乗せる。さびた鉄の感触が掌に粘り気を残し、指先が微かに震えた。昔、学校の帰りに公園の鉄棒を思い切り握ったあと、すぐに石鹸で手を洗いたくなったあの感じ――錆びた匂いはいくつになっても幼い焦燥を呼び覚ますらしい。


 とどめを刺すように、背後から声が滑り込む。

「……寒いか?」

 振り返ると、父――桃凪洸一が、ストラップで肩にかけたボストンバッグを押さえたまま、みおりのジャケットの薄さを気にする目をしていた。

 みおりは慌てて首を横に振る。

「平気。……ちょっと風が強いだけだから」

 本当は肩がすくむほど冷たい。それでも少し笑ってみせたのは、父を安心させたかったというより、沈黙が続くのに耐えられなかったからだ。

 洸一は頷きかけ、すぐ視線を海に戻した。その表情は、不安を押し隠すというより、不安ごと自分を海へ沈めるような硬さがあった。


「ねえ、お父さん、ほんとに……あの島で暮らすの?」

 同じ質問を、船に乗ってからだけでも三度は繰り返している。けれど口にするたび、どうしても止められなかった。

 洸一の肩がわずかに揺れる。答えは毎回変わらず短い。

「……仕方ないだろう」

 たった七文字。七文字だけが海風でさらに冷たくなり、みおりの心に降りかかる。

 そう、仕方がない――母が療養施設へ運ばれ、父が東京のマンションを引き払って仕事も最低限のリモート案件だけに切り替えざるを得なかったとき、選択肢は最初からいくつもないようなものだった。しかし、こうして現実が目前に迫ると、「仕方がない」は理由ではなく呪文のようで、自分を縛りつける響きを持っていた。



2 母の影、父の沈黙


 不規則な風が不意に強まり、みおりの黒髪が頬に張り付く。とっさに指で払っても潮気でまたすぐに顔に貼り付いた。

 四か月前――母の発作が激化したあの日の夜、リビングの蛍光灯は細かく瞬いていた。食器棚のガラス扉が砕け、無数の破片がラグの上に散らばる音を、みおりはキッチンの隅で抱えた膝越しに見ていた。

 父の右手からさらに皿が飛び、壁に当たって落ちる。尖った破片の一つが母の頬を掠め、鮮血が飛沫のようにキッチンタイマーに乗った。

 母は叫び、父も叫び返した。

 音はすべてが割れたあとにやって来た異様な静けさに飲み込まれ、みおりの耳には鼓動だけが残った。

 ――その夜の記憶は、プツリとテープの途中で切れたように断続的で、あとは派出所の蛍光灯と、父の震える背中しか思い出せない。


 いま、その背中は甲板で海を見ている。みおりは手すりから手を離し、父の隣へ立つと、そっと問いかけた。

「……お母さん、今日はどうしてるかな」

 洸一は一拍だけ硬直し、ゆっくり息を吐いて答える。

「病院から連絡あったよ。熱はない。午前中は庭の花を見てたって。……先生が言ってた」

「そっか……」

 それ以上の会話が見つからず、二人の間に波の音が滑り込む。そのリズムは不思議なほど一定で、みおりには自分と父の心拍が二重奏になっているように聞こえた。響きは似ているけど、互いの音が重なりきらず、少しずつずれていく。



3 船内――揺れる通路と紙コップのココア


 強い風が吹き込み始め、乗客の何人かは屋内ラウンジへ移動した。みおりも父に続いて狭い通路を歩く。壁に貼られた避難経路図が潮気で反り返り、蛍光灯の下で皺だらけの紙片がちらちら揺れる。

 売店カウンターで紙コップのココアを買い、窓際の席に腰を下ろすと、湯気が丸くうずを巻いた。ココアは思ったより甘く、舌の奥で温度と糖分が混ざり一瞬だけほぐれる。

 父はコーヒーを受け取りながら、無言で窓の外を見やった。窓ガラスに雨粒が貼りつくたび、遠景がゆれて形を変える。

 みおりは紙コップを両手で挟みながら、話題を探すように中身を軽く回した。

「……お父さんは、向こうで仕事どうするの?」

「一応、リモート案件が二つ。あと、講師のオンライン授業を週に数コマ。島のネット環境が良くなってると助かるんだけど」

「……広告の企画もやる?」

「来月まで保留かな。いまは母さんのことと、引っ越しで手一杯だよ」

 会話が続かず、沈黙が戻った。窓の外では漁船が小さく横切り、背後の海面に白い尾を引いた。

 みおりは自分の心が、取り壊し途中の家のように半分崩れかけている気がした。支柱は残っているのに、壁も屋根も不安定で、雨風が吹き込むたび軋む音がする。

 ココアを口に含み、甘さを確かめながら、彼女は心の支柱を探すように息を整えた。



4 島影――遠すぎる岸、近すぎる現実


 乗船からおよそ七十分。アナウンスが到着十分钟前を告げると、船はエンジンを落とし、惰性でゆっくり進み始めた。窓いっぱいに灰色の切り立った岸壁が映り込み、みおりは無意識に息をのむ。

 島は想像以上に高低差があり、港の背後には急な坂と階段が絡み合った細道が見えた。家々は斜面にへばりつくように建ち、屋根の瓦が古い漁網で押さえ込まれている。台風が多い地域らしい。

 甲板へ戻ると、潮の匂いがさっきより濃かった。潮が満ち、潮位が桟橋のぎりぎりまで迫っている。

 タラップが下ろされる。みおりはスーツケースのハンドルを握り、船腹と桟橋のあいだに貼り付く淡い海面を見下ろした。泡立つ水の向こうに、自分の影がゆらめいている。――孤立した島の風景より、その影のほうがずっと遠い場所に感じられた。



5 港――色褪せた看板と鎖の音


 最初に耳に飛び込んだのは、船を固定する錆びた鎖が桟橋の鉄リングに当たる硬い金属音だった。カラン、カラン、と潮風と合わさり、金属の砂が舌に乗るような味を連れてくる。

 桟橋から道へ出ると、昭和の観光ポスターが剥がれ落ちた掲示板が残骸のように立っていた。〈珊瑚と碧の楽園〉と薄く読めるが、実際の景色は灰と錆が主役だ。

 父は荷物を抱え直し、「行こう」とだけ言って歩き出す。

 道路脇の店はほとんどシャッターが降り、古い木造倉庫の戸板が風に揺れて軋んでいる。あまりに人の声がなく、みおりは自分の靴音がやたら響いている気がした。


 ふと、路地の奥で何かが動いた。振り向くと、背の低い猫――かと思ったが、長い尾と白い毛並みが奇妙に整いすぎている。生き物の割に動きが滑らかで、人形のような首振りでこちらを見た。

 目が合った瞬間、その白い影は音もなく家の裏手へ滑り込む。

 追おうと一歩踏み出したみおりの腕を、父が掴んだ。

「寄り道するな。……荷物が重いんだ。早く家に着こう」

 父の声は硬く、猫のような何かの存在に気づいた様子はない。

 みおりは小さく頷き、再び濁った迷路のような路地へ視線を戻す。白い影はもうどこにもいなかった。



6 祖母の家――開かれる記憶の空洞


 港から十五分。傾斜のきつい坂を上るにつれ、潮の匂いは弱まり、代わりに干した魚と湿った土の匂いが混ざり合う。古い石段を三段上がると、低い木の門が現れた。塩で黒ずんだ梁には「桃凪」の表札が曇った真鍮で取り付けてある。

 鍵は錆びて固かった。父が二度、三度と回し、ようやく軋む音とともに錠が外れた。引き戸を開けると、室内の空気が一気に流れ出て、ほこりと古木の匂いで鼻がむずむずした。

 おどろくほど静かだ。台所から居間、奥の縁側まで、どこにも生活音がない。時計は止まったまま、畳の上には薄い布団が整えられている。まるで時間が凍っているようだ。

 みおりは玄関口で靴を脱ぎながら、畳に足を置くのをためらった。島へ来る前、母が倒れたときの畳が血の滴を吸い込んだ様子を思い出してしまう。

 父は段ボールを置き、仏間へ行って線香を点けた。祖母の位牌と古い写真が置かれている。若い頃の祖母は笑顔が明るく、みおりに似ていると親戚が言ったことがあった。

 その写真を見ている父の肩が、ほんの少し震えているように見えた。



7 夕暮れ――軋む桟橋の残響


 夕方、みおりは縁側に座って外を眺めた。庭と呼ぶには荒れすぎた土の奥で、錆びた物干し竿がひとり立っている。紫陽花が咲きかけ、振り向けば家の廊下が陰影で折れ曲がり、深い藍色に沈んでいた。

 さっきから、桟橋のあたりで板が軋む音が聞こえる気がする。もちろん物理的に桟橋までは遠いし、風向きもある。――それでも、船が繋がれ、鎖がきしむ金属音がどこかで囁いている。

 潮は満ちていく。

 それは自分の逃げ道を呑み込み、開いた足場ごと奪い去るだろう。

 ふいに喉がからからに乾き、みおりは立ち上がった。父は台所で古いヤカンを探している。声を掛けようとして、やめた。掛けた瞬間、父も自分も何を口にしていいかわからなくなると分かっていたから。

 家の奥でヤカンがカン、と何かに当たる甲高い音をたてる。まるで甲板の鎖がもう一度鳴ったようだった。



8 夜――眠れない船室の続き


 古い掛け布団を敷き、みおりは横になった。畳の藺草が乾いた匂いを放ち、鼻の奥がつんと痛む。障子越しの夜空は雲が千切れ、星が少し覗いている。

 まぶたを閉じても、船のエンジン音と潮風が回り続ける。脳裏に、甲板で見た白い影――猫かもしれない、白い犬かもしれない――が浮かぶ。その毛並みは妙に整い、目だけが人間のように光っていた。

 背筋がぞくりとした。あれが、島で語られる“外から来た者しか見えないもの”なのかもしれない。だとしたら自分はもう、島の不思議に絡め取られ始めているのだ。

 ふいに、母の声が耳の奥で揺れた。

 ――どこにも行かないで。

 幻聴かもしれない。それでも心臓が跳ね、呼吸が速まる。みおりは布団を握りしめ、息を細く吐いた。父の寝息は向かいの部屋から微かに聞こえた。

「大丈夫かな……」

 この言葉は、母のためか父のためか、それとも自分自身に向けたものか。問いかけた瞬間、答えは波音にさらわれ、夜の闇に溶けていった。



軋む桟橋を踏みしめるたび、私は見知らぬ海へ引かれていく。

後戻りはできない。

潮は私が選ばなかった未来をひそかにさらい、

ここへ連れてきた――歪な始まりの予感だけを残して。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ