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52. 不自由な人々 2

52. Gimp 2


「う゛う゛う゛う゛っーー!?ごぼっ、おえ゛え゛え゛ぇ…」


「生理反応を、きちんと示しております。喉に異物を押し込まれれば、きちんと吐く。健康ですね。」


「貴方様には、感じづらい部分かもわかりませんが、此処は大変気温が低い。保存状態が良いというのも、強みなのです。一種の仮死状態に陥るためでしょうか。最低限の給餌で、体力も消費せずに済んでいます。」


「それにここは、海沿いであるのに、驚くほど湿気が少ない。何故だかお分かりですか。」


「地上での活発な交易活動による部分が大きいのです。あれらが勝手に、潮風を吸い取ってくれる。」


「良く、この屋敷が他の貴族にとっては笑いの種であると聞いて来ました。この土地の価値は上がるばかりですが、結局のところ、王都直下の十数管区の人間にとっては、こんな沿岸地帯など、異種の流れ込む、不浄の地でしか無い…」


「ご覧ください。意識を取り戻しても、もう動けません。」


「あれは物理的に、立ち上がれないのです。一週間…この時間が重要なのですが、寝たきりになると、心と体が引き離されてしまう。自律神経、というらしいのですが、それが完全にいかれてしまう。どんなに屈強な男も、身を起こすのでさえ、数日ままならない。そのまま回復の見込みさえ与えなければ、ずっとそのまま。」


「大人しくして頂けると、こちらも助かる次第でして。」


「…ですから、我々は、ヴァイキングであっても、あの屈強な躯体を備えた種族であっても、受け入れの用意が御座います。ぜひともご検討くださいませ。」


「貴方も此方にいらっしゃるまでに、ご覧になられたかと存じますが。屋敷のゴミどもの掃除に手間取っており…」


「お分かりですか。どんなに凶悪な怪物も、縛り上げてしまえば、何も出来ません。

それが、あるべき存在へと生まれ変わるまで、十分な時間を与えてやれる…」


俺が奴隷として被せられていた目隠しの革が、人間の頭をぴったりと覆っていた。

檻の中の世界すら知覚させない。これが獲物には一番効くと知っている。それは狩りにおいても同じことが言えた。縄張りの存在、既に完成した狼の包囲網を知らずに逃走を始めた獲物と同じだった。


そしてそれと同じものが、身体中に巻きつけられ、一本の枯れ木のような寂しさで、牢の中央にぽつんと佇んでいたのだ。

一点の違いがあるとするならば、その幹を支えているのは、地下へと張った根でなく、枝のように伸びて壁まで届いた鎖によってであった。


狼頭の男たちは、そいつの拘束を徐々に解いて行く。

枷の支えを失った細木は、あっけなく倒木する。


どちゃ…


3人もいながら、誰かが支えて、床に寝かせるといったこともなく、しなりを伴わずに軽く弾んだそれは、まるで中身の存在を疑わせた。

外套に染みついた臭いが無ければ、本当に、手がかりの得ようが、なかった。


「……。」


戦利品を羽織っていた狼頭が腕組みをし、顎でしゃくるような仕草で、残りの二人に命じると、彼らは懐から刃物を取り出す。


べり、べり


まるで樹皮を刮ぐように、全身を覆っていた革の拘束を、剥ぎ取って行く。

巻きつけられているだけ、では無いのだ。毛皮を持たない皮膚から離れた裏地が、粘着質に、糸を引いている。


口元に、変な感覚が現れてくる。

俺が獲物の毛皮を噛みちぎり、新鮮な肉へと牙を伸ばすのに、こんな力の入れ具合が自然だった。


そして、ようやく俺は人の王の顔を再び拝めるのかと思いきや…

そうは、ならなかった。


まだ、顔だけは、革で隙間なく覆われたまま。

そのせいで、首より先を失った死骸に見える。

目の前の鉄格子の向こうを拝むことは、許されないらしい。


裸体はすぐ様、鎖に繋がれた。

両前足を天に向けて広げ、腹を晒すようにして膝を折り、無抵抗な姿勢で首を垂れた。


不気味で堪らない。人間の姿を徐々に取り戻す一方で、その間、まるで反応がなく、眠ったよう。


「……。」


ようやく、例の狼男が動いた。

彼自身も、爪は持たない。刃物を携え、大きな指先で、獲物の頭を鷲掴みにする。


それにさえも、無反応だ。


しかし、次の瞬間。

牢の空気が一変する。


ギリッ、ギリ…ギリリ…


“…?”


前足に隠れて、何の音か、一瞬理解が遅れた。

しかしどうやら、まだ人間に痛みの反応が見られないあたり−尤も、本当に生きていればの話だが、彼が刃先で擦り刻もうとしているのは、分厚い革の拘束具のようだ。


そうだ、抉じ開けようとしている。

あの部位は…人間で言うところの。


そうだ、口だ。


無事に、穴は開いた。

その先に、赤みを含んだ内側が見える。

唇を傷つけてしまったようだ。水平に切られた傷穴から、濃色の液が垂れる。

或いは、ようやく外界との繋がりを得て滴る涎だろうか。餌を強請って叫ぶ幼鳥のように。


もしかすると、それは口では無いのかもしれなかった。

Fenrirが指摘したように、狼である俺が、人間の顔に疎いが為に、正しい構造の把握を出来ずにいるとするなら、あれは、肉に新しく開かれた一つの傷口でしか無いとも言うことができる。


「……。」


その証拠に、彼はその口から声を出さない。


だが、ようやく開かれた穴に、役割を持たせようとしているのは確かだった。


それは…


次に狼頭が手にしたのは、刃物では無かった。

前足の半分の長さも無い。寸胴形で、鈍く光っている。これも武器の類か?

殴る、叩きつける、そうした目的であれば、もっと長く、棘の類を生やしていそうなものだが。


ごっ…ごぼっ…


“……っ!?”


一切の躊躇がない。

その棒の先端が押し込まれる為の穴だったのだ。


“な、にを…?”


初め、それが何を意味しているのかが、分からなかった。


しかし、目的は達成させられたと、否応なしに理解させられる。

喉元をこれでもかと擽られ、ようやく、人間が、動き出す。


首元の突起が、ぐわ、と動いた。


「う゛っ…う゛ぅっ…」


同時に、鼻をもう片方の手で摘む。


「ぐぅぅっ!?」


その瞬間、胸元に大きな隆起が起こり、棒が引き抜かれた。

俺は、息を吹き返す命の躍動を、こんな形で目にすることになる。


「げぇぇっ…!ぐえぇぇっ…!!」


今度こそ、滴り落ちたのは、彼の口元に、長い間讃えられていた涎だ。


「お゛っ…お゛ぉっ…」


またその直後に、棒が収められ、頭が緩く首を振ろうと踠いたのが分かった。

しかし、その不快感の正体を理解できているだろうか。


「嚥下ができそうですね。後で食事の様子も、ご覧になりますか。きちんとこの状態を保てると信頼いただきたい。」


Fenrirの話が正しければ、一週間ぶりにようやく与えられた刺激が、これだと言うことになる。

まだ、夢現の区別もつかぬままに齎された、俺が闘技場で体験していた世界がこれだったら。


「ですが、それよりも、対話の可能な状態まで、進めて差し上げます。すぐに、ご用意できるかと。」


ジュッ…


「う゛う゛う゛う゛ぅぅぅぅぅーーーーーっ!?」


「高が燭台の火で…」


芳しい臭いと、笑い声と共に、彼の四肢に、感情が戻ったのが分かった。


不思議な前足の肉球をしている。指がすべて繋がって、そこだけ見れば、狼と大差ない。

それらが、びく、びくと、水を失って跳ねる魚のような力のなさだった。


「ですが、熱に対しての反射も、きちんと残っています。段々と、戻って来ますよ。」


そして、全身で見れば、おおよそ暴れるに至らないのだ。

何と言えば良いのだろう。身体を縛る枷よりも、もっと、のっぺりとした厚みに、縛られている。


あの…顔の周りの拘束のせいだろうか。


「自分の叫び声が理解できるようになれば、もう殆ど、達成されたも同然です。」


あれは、人間にとって、何かを奪う意味合いがあるのか?


まだ、結びつけられずにいる。

俺は、どう自らの喜びに結びつけたら良いかを考える段階に至っていない。

この奴隷と同じく、受容すらままならないのだ。



「…Fenrir様。」



一つだけ、人間に対して深められた理解とは。

笑顔の表象、それぐらいだろうか。




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