52. 不自由な人々
52. Gimp
「こちらです。」
人間の案内した先は、鉄格子の開かれた、大きな檻だった。
狼を捕らえるのには、良心的なくらい大き過ぎると思ったが、それでも彼の前脚は、向かい合う二牢のうち、左手にある方を恭しく指し、俺に入れと促しているように見える。
「ご安心を…貴方を捕らえようなどと、企てたり致しません。」
動けずにいる俺の警戒を解くためか、身を屈めて衣装の裾をたくし上げると、彼は自らその扉を潜った。
「というのも、私はいつも、こうして反対側の牢屋から、立ち会うことにしているのです。」
「ご気分を害されるのも分かります。ですので、貴方様だけでも、向かいの同じ牢か、こちらで…」
「ああ、構いませんか。ありがとうございます。」
彼は、鉄格子の向こうから届きそうなほどの距離に鎮座していた、背丈ほどある台座に腰掛ける。
纏っていた布で膝元を覆い、寛いでいる様子は、とても、捕えた人間を座らせる為のものとは思えない。
この牢屋は、人間を捕らえる為のものであるのだろうという憶測が正しければ、の話だが。
「すぐ始まりますよ。どうぞ楽になさってください。」
あまり落ち着かないが、仕方があるまい。
俺はこいつを視界に入れることのできる適当な地面を選ぶと、半円を描いて、腰を下ろす。
雪の上よりも、うんと冷たい。腹の毛皮を撫でる感触が、不快だった。
予想が正しければ、この部屋に、俺の仕留めた獲物が、運ばれてくるのだろう。
しかし、それだと何故こいつは部屋から背を向けるようにして待つことを勧めたのか。
合点がいかない。俺は視線を人間から外し、獲物が運ばれてくるまでの間、この部屋に何があるかを観察しようと暗闇に目を凝らす。
ザラッ…
“……!”
シャララ…
耳が跳ね、思わず身を起こした。
何かが、いる。
まさか、既にこの檻の中に?臭いも、しなかったはず…
「ご心配なく…何も致しませんよ。」
それが、害のない気配であると分かったのは、最も大きく捉えた音として、衰弱した息遣いがあったからだ。
腹を膨らませない、殆ど死体のする吐息。
何故俺は、それを、眠っていると表現しなかった。
ぼんやりとした黒い塊は、この人間の座る台座に隠れ、その足元に纏わり付くように蠢いた。
金属が擦れる音、天井から伸びる鎖で、繋がれているのだろうか。人間は、捕えた獲物をそうやって晒す。身を以て体験したことだ。
「不手際をお許しください。貴方をお招きすると分かっていながら…」
「ですが、彼女は、もう長いこと此処に居りまして…、動かすのも憚られるのです。」
だが、こいつは…
頭が、見えない。これが、人間では無い、確証が持てない。
四肢も、人間のそれにしては、短いように見えるのだが。
「ぼ……」
…?
唇で、破裂させるような微かな鳴き声も、俺の知っている動物ではない。
“……。”
無闇な詮索は、それが獲物でない限りは、すべきではない。
そうだ。これが人間で無いのなら、あいつは一体、どこにいる?
「……?」
俺が落ち着きを取り戻し、再び座り込んでからも、彼はそわそわした様子で、こちらに視線を向けては、表情を伺う。
何か、喋ることを期待されているのか?
知ったことか。Fenrirの言う通り、本当に狼の見分けがつかないみたいだな。
そもそも、Fenrirは、どうやって人間とコミュニケーションを取る。
まさか、あいつの喉から、人間の言葉が紡ぎ出されるとでも言うのだろうか。
おぞましいことだが、寧ろその方が良い。俺には決して出来ない方法で意思の疎通を行っている方が、決して分かり合えない前提を崩されずに済むから。
もし俺が、表情に狼の言葉を浮かべただけで、こいつが理解できるようになっているというのなら、それはそれで、話が早くもある。
それで、俺は軽く一つ、鼻を鳴らした。
“お膳立ては良い。さっさと始めてくれるか。”
すると彼は、ほっとしたような、―なぜ、人間の機微を俺が想像に任せて感じ取らなくてはならない。そんな表情を浮かべて、目の前に並べられた鉄格子へ向き直った。
「……。」
一瞬、この曖昧な静寂を共に過ごさなくてはならないかに思えたが、
その直後に、俺たちが通ってきた通路の反対側から、複数の足音が響いて伝わった。
どうやら、お目当ての獲物が、運ばれて来たらしい。
俺の想像した通り、Fenrirの手筈通りだったのは、此処までだったと、そう思いたい。
「うおぉぉぉぉ…」
「あぁぁ…うぁぁぁぁ…」
「お゛お゛ぉぉ…うおぉぉ…」
“……!?”
或いは、Fenrir。お前が俺を此処へ向かわせた本当の理由とは、やはり俺を試す意味合いが主であったのか?
そうだとしたら、俺を出来れば巻き込みたくないなどと抜かした貴様の喉首に楯突いてやる。
もし無事に帰ることが、出来たのなら。
人間の遠吠えなど、初めて耳にするが、とても聞けたものではないな。
彼らもまた、俺たちのそれを、そう思っているのだろうか。
低い声が石を這い、高い声は鉄に跳ね返って細く割れる。
獲物を運ぶ数人の足音に呼応するように、次々と伝搬するそれは、まるで呻き声だ。
ようやく理解できた。
ここは、人間の獲物を捕らえる為だけに作られた、人間の縄張りなのだ。
そして、此奴は、その縄張りのリーダー。
Fenrirは、彼に全幅の信頼を寄せ、俺の獲物も託したのに違いない。
何が起こっている?Fenrirと志を同じくする者が、Siriki以外にも居たとして。
人間が、人間を狩るなんてことが…あり得るのか?
「内心、心が躍っております。いつもとは違う…これは…」
「きっと、本音を吐露できる、秘密を共有できるお相手を、見つけることが出来たからに違いありません。」
人間は、興奮気味に、俺に向かって話しかける。
「改めて感謝申し上げます。Fenrir様…私を救ってくださって。」
「ですからこれは、ある種の貴方への歓待であると受け取っていただきたいのです。」
「待てよ、ならば、私は貴方をこの玉座に座らせて差し上げるべきだったかも、ふふっ…」
しかし、そんなものは、例え俺が人間の言葉を解していたとしても、忽ち興味が薄れる。
目の前に現れたのは、こいつに比べれば、確かに人間を狩り、首輪を嵌めて繋ぐ役目を担うのに適していそうな人間だった。
屈強な体格が、足元まで伸びる、身に纏った黒布の上からでも見て取れる。
“…グルルルルッ…!”
だが、そんな特徴は取るに足らなかった。
彼らが、俺の想像したことのないような怪物で無いとするなら、それはまさしく狼に対する冒涜と言えたから。
3人のうちの一人が、俺の唸り声に反応して、こちらを向いた。
首元に贅沢に狼の毛皮を遇らったマントを身に纏った、群れであれば、お前が長だろう。
「……。」
正気のない、狼の顔が、
口を半開きにしたまま、目の奥を動かさずに、こちらを見下ろしている。
“う、あ…?”
一瞬、しかし十分に錯乱させられた。
三匹の、仲間たちの顔が、脳裏にちらついて、俺は牙を引き、一切の敵意の姿勢を解いてしまったのだ。
「非礼をお赦しください。彼らは、彼らの教義に従って、戒めとして人間であってはならない。」
その後、しばらくそいつは、俺を注視していたように見えたが、やがて振り返ると、自らの仕事に戻ることにしたらしい。
外套を脱ぎ下ろし、人間の身体を露わにすると、俺たちがいる檻…では無く、反対側の鉄格子に前足をかける。
ギィィィィ…
ガラガラガラ…
……?
鉄格子の前に捨てられたマントに鼻先を近づけ、ようやく俺は彼らの存在意義を理解する。
裾が、泥と犬毛のようなもので汚れているが…あの獲物が、観客席で身に纏っていたものだ。
染み付いている臭いも、間違いない。
この男の匂いに上書きされきってしまう前だ、その根本に、きちんとある。
ということは、つまり…
まさか、初めから目の前の檻の中にいたとは。
この檻に飼われている人間に、俺が気づけなかったように、殆どその息遣いを消されていたらしい。
鉄格子の向こうが、壁に生えた火で灯され、遂に姿を現す。
“あ、あぁ…”
俺が狩った人間の生存を確かめるついでに、そいつの顔を拝んで、ある種の高揚感に浸ることができれば、それで終わりだと思っていたが。
とんだ見当違いだったようだ。
「……。」
剥ぎ取った衣装が、その証明に必要なほどに。
俺の獲物はもう、人間である権利を剥がされている。
この狼頭の人間よりも、さらに。
そしてそれが、檻の中で、呼吸だけを続けている。




