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51. 真面目な身代わり 2

51. Solemn Simulacrum 2


こいつは、何を言っているのだろうと思う。


俺のみていない所で、狩りの最中、頭でもヘラジカに蹴られ、強く打ったか。

将又、群れでの地位を確立できたことで、俺を簡単に騙せる、与し易い相手だと見做すようになったか。


“お前をみすみす、死地に赴かせると思うか…?”


“単にお前が行けば良いだろうと言っているだけだ。”


何か、難しいことを尋ねているだろうか。


“見れば分かるだろう…?俺は、その、今手が離せない…”


“も、もちろんお前が、俺の代わりにLukaとこいつらの御守りをしてくれるって言うのならっ…話は別だが?”


“ああ、不在の間ぐらいは。遊び相手くらいにはなってやろう。”


するとFenrirは、そうじゃないだろうという顔で、上唇を痙攣させる。


“し、しかし、この仔らが、俺を酷く気に入ってしまっているようでだな…”


“お前がずっと独り占めしていたからな。”


“…まるで、本物の父親のように。”


仔狼たちの耳は、たくさんこいつに遊んでもらったせいか、血流良くなってピンク色が濃くなっていた。

お前が進んで相手をすること自体が意外で、Lukaに頼まれて仕方なく、と言った所なのだろうと思っていたが、逆に彼女が焼き餅を焼くようになって、側を転がって執拗に誘惑するあたり、本当に見るに耐えない。

それすら叶わず、最終的に、いじけて何処かへ行ってしまう彼女と、母親の傍が良い甘えん坊の興味を惹こうと必死なお前の構図は、はっきり言って腑抜けていた。


その矢先に切り出されたのだから、嘆息せずにはいられない。


“Sirikiを探しに向かうと言っておいて、何故自ら縄張りから離れづらい状況を作った。”


代わりにヴェリフェラートへ赴いてくれ…だと?

死地とは、良く言ったものだ。気乗りしない提案であることは、お前も承知の上だろうが。


こいつは俺を罠に嵌めようといるのだろうか。

だとしたら余りにも洗練さに欠けていて、何と言うかお前らしく無い。


らしく無い。の一言で一蹴してしまえた。

だが、彼が感じているらしい焦りは、別のものにあるらしかったのだ。


“お前に見て来て欲しいのは、Sirikiの方では無い。”


“何…?”


“俺たちが、狩った獲物の方の様子だ。”







“お前に与奪を委ねているのだから、お前に確かめてもらうことは、理に適っていることのはずだ。”


彼はまたも、とても彼の口から吐かれた言葉とは思えない理屈で、俺に理解を求める。

吠えようとする口元を一々仔狼たちに邪魔され、それはもう微笑ましい。


彼が切り出した本音らしきものに一つだけ、譲歩の余地があるとすれば、これは確かに、俺の方から持ちかけた交渉であるとうことだ。

渋ると、勝手に話が進んでしまって面倒だとは思った。

自己満足とはいえ、人間を殺せる機会を逃すのは惜しい。


Fenrirに嵌められ、群から追い出されるだけの筋書きなら、既に成就していたはずだ。

それなのにお前は俺を奪い返した。

命の保障がある訳では決して無いが、俺は彼の誘いに乗ることにした。


だが、その提案はさらに謎を呼ぶ。


“何故、居場所がはっきりしている人の王の元へ、自分の足で行くのでは駄目なのだ。”


“お前を今から赴かせるにあたって、必要があれば自力で脱出が可能であると知っている上で、理由は二つある。”


“一つは、あの囚われの王に与えられている時間がそんなに残されていないからだ。すぐに赴き、接触して貰う必要がある。”


“…?何故俺の獲物が死に瀕している。”


“水も食料も与えていない。俺が対話の機会を得るまでは、この世界から隔絶しろと伝えてある。”


“俺が接触して、それが対話の場になるのか?”


やはり、本来であれば俺では無く、お前が赴きたいのだ。


“お前はそれが出来るのだろうなと、漠然と理解しているが…俺は人間の言葉など、これっぽっちも耳に入ってこないぞ。”


“そこは、その場に居合わせるのがお前だけにならなければ、十分だ。”


酷く不愉快なことだ、俺は他の人間と居合わせなくてはならないらしい。


“お前は、あの人の王から、何かを聞き出したいのか?”


“……。”


“それは、何だ。”


“…その人間が喋る内容に依る。”


そして俺には、それが、聞き取れない、と。


“もう一つは、お前に神の威を借りて貰いたいからだ。”


“また俺に、憑依するのか。それで、お前の目や耳が、俺を通して世界を知覚できる、と?”


Fenrirは、俺が讃える疑念の色が濃くなる前に、付け加えた。


“いいや。そんなことはしない。お前が死に瀕したりしない限り、出来ればそういった身勝手な行為にお前を巻き込みたくはない。”


“ふうん…”


全く解せないが、どうやら俺は、本当に行って帰ってくるだけで、獲物の生存確認と、対話への臨席だけをこなせば良いらしい。


“そもそも、俺が行って、どうにかなるのか。俺がその場で出会うことになる人間は、お前を特別な狼と認識するのかも知れないが、俺はただの…一介の狼に過ぎぬ。”


“案外、お前が思うよりも、人間は俺たちを見ちゃいない。きっとお前の訪問を、丁重に持て成してくれる筈だ。”


“俺たちが、臭いでしか人間を区別できないように、彼らも俺たちを見た目では判別しない。

お前は紛れもなく、闘技場で暴れた哀れな猛獣では無く…人間の言葉を解する奇怪な狼として扱われるだろうさ。“


なるほどな。

そういう視点が持てるのは、お前ならでは、と言ったところか。

群れの護衛にも、役立てて貰いたいものだ。


“…だから、無闇やたらに吠えるんじゃないぞ。物憂げに閉口しているふりをするんだ。”


“お前が人間に対しても思慮深そうな顔を崩さずにいることなど、想像に難く無い。”


人間を出し抜ける知能は必要だ。

お前にそれが欠けていたなら、到底彼らを従えることなど、不可能だったであろうからな。






“…良いだろう。協力しよう”


結局俺は、Fenrirが求めた協力に、応じてやることにした。

なんのことは無い。もっとこいつに苦しんでいて欲しいと思っただけだ。

仔狼らに苛まれたお前は痛快で、鑑賞に値する。

仔守りの地位が確立されるまでの間、いっそのこと、騙されてやってみても構わない。


不運にも繋ぎ止められてしまった命だ。Lukaに零したことは無いし、もう自暴自棄になるのは止めようと言い聞かせてきたが、実際に人間との殺し合いに身を投じられたなら、俺はまた直ちに捕虜であることに没頭するだろう。

でなければ、生死を共にしたいと言ってくれた彼らに示しがつかない。


言ってしまえば、人間への接触は、俺の身の置き場だ。群れに居座る言い訳にも、死ねない理由にもなる。


“それじゃあ、手間をかけるが、頼んだぞ。”


“この臭いは、どのようにして隠滅するつもりだ。…暫くは、霙も降らないぞ。”


俺は爪を喰い込ませ無ければ良く滑る凍土の上に描かれた模様に鼻を近づけた。

こいつが、人間の縄張りへと踏んだ者を攫うための罠であるらしい。

俺にとっては、嗅ぎ覚えのある臭いだ。だが群れでは、共有されたことは無いだろう。

縄張りの境界とはいえ、誰からも隠し通せるとは考えづらい。


“寧ろそれで全く良い。群仲間への警告となるのなら、純粋に有益だ。”


“帰りの脚は、無いのか?”


“悪いが、用意していない。暫くその場に留まって貰っても良い。嫌なら、自力で戻ってきてくれ。”


“用が済んだら、とっとと帰る。”


“それで構わない。”




“じゃあ、気を付けてくれ…Voja。”


Fenrirは、まるで不本意な暫しの別れを惜しむように、俺の頬の毛皮が触れるほどの近さで呻いた。


“お前は、初めてでは無いようだし、耐性があるのだと思っているが、体験としてトラウマになる者も多いのだ。”


“何度も体験させられないことを、切に願っているぞ。”


“ああ、本当に迷惑をかける。”


“…では、頼んだぞ。”


彼が顔を背け、円から右後脚が離れた刹那、模様が月光のような柔らかさで光った。

分かってはいたが、あの時を思い出さずにはいられなかった。

反射的に、尾が股へと撓ったのがわかったが、彼はそれを見てなどいないだろう。



―――



次の瞬間、俺の身体は、今まで踏み締めたことのない感触を得ていた。

しかし、吹き荒ぶ風に靡く毛皮は、目を細めたくなるあの冬を思わせる冷たさだ。

そう、ヴァイキングによって、皆が散り散りになった、あの激寒の季節を。


ヒュゴォォォー……


“……?”


翼を、受けたらしい。

眼下に、暮れの暗闇に呑まれかけた、人間の縄張りが見える。


全貌をこうして俯瞰できる日がやってくるとは思いもしなかった。

西部に聳える山嶺からでは、こんなものはちっぽけな岩の塊に過ぎぬと思っていたが。

人間が一本一本植えた岩の森は、想像した以上に鬱蒼としていて、ところどころに光が灯り、煙が立ち上っている。


その隙間を駆け抜ける俺たちの、心細かったことよ。

何処にきっと、彼らの亡骸は、まだ取り残されている…


俺は、この透明な光の道筋を、歩けるのか?


その一歩を踏み出した直後、俺は足を滑らせた。


“っ…!?”


世界は、石の喉へと変貌する。


淵も見えなかったのだから、当然の帰結であったように思う。

次の瞬間、俺の身体は大きく傾き、翼を失った冬鳥が如く、地上へと急降下して行く。


俺が全速力で走るよりも、強い風で髭が靡く。

堕ちる、堕ちる、堕ちるー…


不思議と、焦燥感はなかった。

実は今見ている人間の縄張りなど仮初で、俺はさらにその下、地中深くへと突き進んでいくような気がしたからだ。


このままの、速度を保って…



“…。”



ゆっくりと目を開くと、既に空は見えなかった。

四肢は、今度こそ確かな石畳を踏んでいる。


俺が佇む世界は、やはり人間が拵えた檻の中であろうか。

夕暮れでも十分に陽の温もりを感じられた外の世界と比べ、随分と重苦しい冷気が足元を這う。

遥か上空で感じたよりもそれが不快なのは、空気の澱みのせいだ。


これは、俺たちが歩いていた、人間の住処の狭間では無い。

石造りで上下左右を囲まれた一本道だけが続き、両脇に並ぶ小さな火が照らしている。


コツコツ、コツ…


“っ…?”


直ぐにそれが、人間の足音であることは分かった。

しかし困ったことに、俺の方が早く相手の姿を拝めても、そいつが何者であるかを判断する材料を持ち合わせていない。


だから、俺はそのまま、姿を晒すことを選んだ。

ヴァイキングが相手なら、先手を許すだけで済む。

普通の人間なら、狼相手に、それらしい反応を示すだろう。


実際、そいつは一度、俺の気配を感じ取り、立ち止まった。

だが、次に彼が自ら近づくことを選んだのは、間違いなく、狼に対して、人間らしい交流を交わした経験があることを示唆していたのである。


「ああっ…!まさか、いやっ…やっぱりそうだ!Fenrir様、驚かせないでください…」


「もちろん、お待ちしておりました!ええ、何となく、いらっしゃるような気がしていたのです…!」


はじめ、俺はそいつをSirikiと勘違いした。

ほら、やっぱりあいつの自作自演だったじゃないか。


しかし、直ぐにそれは俺の勘違いだときが付いた。

漂ってくる臭いが、俺の毛皮にこびり付いたそれでは無い。流石に直で触れ、血を浴びせ合った相手のそれを間違えることはない。


だが、何処かで会った気がする。

そうだ、朧げながら、記憶している。


Fenrirが、俺たちをヴェリフェラートから脱出させる際に、こいつに人間の王の身柄を引き渡したのだった。

ということは、俺が出会わなくてはならなかった相手とは、正しくこいつで良くて、今から俺を捕えられた獲物の居場所へ案内してくれるのか。


「神様はやはり、見ておられたと言うことですね?ああ、私も改宗してしまいそうだ!」


人間は、多分だが、破顔したような表情で俺を迎える。

そのように見えただけだ。正直、俺をFenrirと見間違えているのかどうかさえ、確証が無い。


「行き交う群衆に愛を撒いたがあったと言うものです、ええ…」


もしかしたら、Fenrirは何処だ、などと問い詰めているのかも知れない。


俺は適当に首を傾げ、反応している、或いは、人間の言葉を理解しているようなふりをする。

とりあえずこいつが、Fenrirに従順な人間であるかどうかだけは、自分の身を守るためにも、見極めなければならない。


「準備はできております。直ぐにでも、始めたいですよね。どうぞこちらへ!」


“…?”


何だ、既に話は通っている風か。

それなら話は早いが。俺はあいつを演じる必要も、もう無いのか?


別にそうだとして、俺がやるべきことが変わる訳でも無いが。


とりあえず、人間は身に纏った長たらしい布を翻して歩き出したので、俺はすぐその後を続くことにした。





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