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50. 従順な替え玉 2 

50. Malleable Impostor 2


「ええ。昨夜です。地上に出られると仰って…」


「わかりません。従者と思しき死体は、周囲にはございませんでした。」


「お忍びであったのかも、私には…私は偶然、運河沿いに出たところを…」


「はい、誠に申し訳ございません。私のような日陰者に許される行為で無かったこと、猛省しております…どうか…」


「ええ、承知致しました。二度と貴方様のお目に触れぬよう…失礼致します…」




―――



「に…s…」


身体が軽い。ふわふわと浮いているようだ。

今度は…此処は、どこだろう。


何度もこんな感覚に振り回されては、僕は次第に元居た場所さえ忘れてしまいそうだ。


そうだ。

この浮遊感。きっとまだ僕は雪解け水の上を流れている。

僕は…

いや、違う。思い出した。

僕のことを運河下の泥から掬い上げてくれた男は…?

あの、狼たちは…?


「お兄…さ…!」


…?

この声…

どこかで、聞き覚えがある。


身体が、本能的に強張った。

知っている、気がしたのだ。


人殺しの後ろめたさがあるから、ではない。

商いをしていれば、こんな経験はよくある。


店主として無数の顔ぶれと親しく話していると、外で出会った時に、何処かで会ったことがあるけれど、知人ではない誰かに、声をかけられることがある。何故なら相手にとって僕は、足繁くとは行かずとも通い、いつも自分に良くしてくれる、一方的によく知る存在だからだ。

そして、こうした非対称性を十分理解しているからこそ、失礼の無いようにしなくてはという思いから、必死に記憶を辿ろうと、こうした瞬間に身構えてしまうのだ。


でも、こんな口調じゃなかったような。

もっと、冷淡で、語気がきつくて、覇気を纏っていたような。


そうだ。


この声…



「え、あ…」


喉に霜が張っているようだ。

唾を飲み込むのに、とても力がいる。


Aimer(エマ)…?」


もう、凍える気力さえ残っていなかったはずなのに。

ぞわりと、背筋が震えた。


そう呼ばれるべき人間を、僕は知っている筈がなかったのに。


「…っ!!…兄上!?」


身体を支えていたベッドが柔らかに沈む。


僕の寝込みを襲った、あの集団を指揮していた。

確か、配下の一人が、彼女をそのように呼んでいた。


「良かった…!本当に良かった…!」


この発見が、急激に脳を目覚めさせた。

次第に焦点が定まり、朧げだった世界の様子が露わになる。


数刻前まで凍えていた、白銀の世界とは違う意味で、光り輝いていた。

見たことのないほど、煌びやかで使用に耐えなさそうな調度品と、高尚そうだという感想しか湧かない美術品で埋め尽くされた部屋は、それなのに僕が構えた店から机を掃けて4つ並べてもまだ足りない。

僕ら庶民が想像する、王侯の暮らしの具現化とか、そんな風に表現したいところだけれど、そんなものは余りにも想像の域を出なくて、リアリティに欠けていた。

それ故、ただ、僕には別世界としか、捉えることができなかったのだ。

天蓋から垂れる白幕を透く柔らかな光のせいで、僕は天国へと召されたのだと錯覚できるくらいに心地よい。でも、そうだったなら、僕の覚醒を待つ相手は、僕がもっと良く知っている人であるはずだ。


そう…彼女じゃない。この人は…


この人が…Sebaの、妹?


僕を覗き込むようにして降ろされた顔は、金髪の目元だけを隠すほどの長さで覆われていた。

それでも、口元に湛えた気品だけでも、灰色がかった瞳を伏せる苦難の青年を想起させるのには十分だったのだ。

あの兄に対して、この妹であることを、対極そうな性格というだけで納得してしまうのは失礼だろうか。

本当はまだ幼いと自覚した上で、それを押し隠すような、威厳ある語気、ベッドの下から聞こえていた印象とに、ギャップを感じても仕方がないのもわかっている。

だが、もし僕の直感が正しく、いや、彼女がその名を冠することは既にこうして示されてしまった訳だが、血も涙も無い、容赦の無い命令が下せる人物だったはずだ。


本当に、彼女が、僕を死体としてすり替えることを企てた張本人…なのか?

兄を奴隷から解放する為ならば、手段を選ばなかったのだとしても。


この涙は、僕を酷く困惑させた。



「もう…良いじゃない。もう、そんな名前で呼ばなくても良いわ。」


「やっと取り戻せた…」


「もう堅苦しい掟なんて気にしなくて良いじゃない。ずっと一緒よ?これからは、何にも怯えずに生きていける。名前だって、偽らなくて良いわ…!」


「そうでしょ…?」


「お兄ちゃん…」



…?


何だ?



何が起きている?


あの、人違いです。

そう言えなかった。

あなたが探し求めていた人が、誰か、僕は知っています。


「…ごめんなさい。思わず…自分でもびっくりしちゃった。」


「いつぶりかしら、お兄ちゃんだなんて呼んだの。ふふっ…」


「お兄様は、お兄様なのにね。」


ヴァイキングどもが、僕とSebaの替え玉に気が付かないのは、ある種当然のことなのかなと思っていた。

別の人種の顔の見分けがつかないのは、至極当然のことだ。

僕だって、彼らの顔は、全部同じに見えるから。

性別も、年齢も、体格も同じようなヴェリフェラート民は、彼らにとっては同じ顔立ちをした奴隷でしかない。


しかし、彼女が目の前の人間に見ているのは、どうやら血の繋がった兄妹であるらしいのだ。


牢屋のような、湿った、薄暗い部屋の中であっても、そんな人違いが、起こり得るだろうか。


「最後にこうしたの…いつぶりだっただろうね?」


それとなく会話を繋いで、僕は胸元に添えられた彼女の頭に手をやった。

手の甲には、包帯が丁寧に巻かれていた。僕は神様よりも、丁寧な治療を受けていたものと見える。


髪飾りだけが、彼女の煌びやかながらも清楚な衣装から乖離していることに気がついた。

古めかしく、ひび割れた銀細工だった。大切にされてきた形見であるなどと想像して、これも兄との関係を示すものだったらどうしようと生きた心地がしない。

片や僕は丸腰で、一度全てを奪われた設定、本当に助かった。


「6年と、2ヶ月。」


彼女は思い返す素振りもなく、即座に答える。


「私が空の下で、お兄様が土の下で務めを果たすと決めてから、それだけの時間が経ちましたわ。」


「そうか…もう、そんなに…」


マルボロ家が僻境の侯爵で、その家業が国家の防衛である、というようなことは、Seba本人が零していた。それがでっち上げだとは思わなかったが、どうやら嘘を吐いていた訳でもなかったらしい。


そして、言い回しが良く分からなかったが、お互いが離れて暮らすことを余儀無くされていた、ということだろうか。

それがヴァイキングの魔の手によるものか、それともこの家系が抱えている特殊な事情なのか、それは、平民である僕が知る由もない。

ただ、僕が志願した徴兵は2年前で、それが第4次。募集が始まったのがそれよりも1年ほど前だったと記憶しているが、その時点で本業の騎士、兵士の数が枯渇していたと考えると、国民の預かり知らぬところで、既に戦争はこの兄弟の絆を引き裂くように始まっていたのかも知れない。


「狼は…」


僕は口走ってしまった。

真っ先に不安が口を突いた。


それと同時に、彼女の頬と唇にも、緊張が走ったのがわかった。


「狼が、君の元に、現れなかった?」


「……。」


「では、兄上の元にも、あの狼が訪れたのですね?」




「ええ、現れたわ。だからこそ、お兄様を助ける為の計画は現実味を増し、それ故、実行に移すことができた。」


「そして、お兄様を見つけ出すことができた、ということは…」


「上手く、行ったのね…?」


「だから、…私は、此処にいる。そうだろう?」


「…そうだと、思いたい。」



「でも、あまりにも無茶よ!一体何があったの?」


「一人で街を出歩いていたのでは、などと言うものですから…」



「巷では、凄いことになっているわ。」


「それは、どういう…?」


「あ、あの狼は、一体この国で何を…?」


「お兄様は、見ていらっしゃらなかったのね?当然よね、直ぐにでも、第6管区から離れなくてはならなかったのですから…」


「あの狼が用意した生贄、お兄様の身代わりは、ただの人間では無かったようなの。」


「…?」


まずい。顔に出さずにはいられなかったが、それも自然な反応として映るだろうと思った。


Fenrir様が、僕と、それからVojaという狼の身体を借りて、あの場に降臨したことが、想像以上に大ごとになっている。


前に確か仰っていた。

自分が表立って動けない以上、誰かを代行者として仕立て上げる必要がある、と。


そしてVojaの救出を通して、それはどうやら成功したらしい。

今や僕は…いや、Sebaは…


「ヴァイキングに対抗でき得る力を有した、英雄が現れた…って。」


そう。英雄の芽なのだ。


ヴァイキングが血眼になって奴隷を探しているであろうことは勿論、その勝敗を聞きつけた群衆が、市場の情報網を通して瞬く間に国中に広めたのだとしたら。

それは、王侯にまで届いてもおかしい話ではない。


そして…此処までは予定通り、だとしよう。


それから、Fenrir様は、どうなさるおつもりだった?


確かなことは、

僕が今、此処にいることを、

Fenrir様は、想定していない、ということだった。


「そう…」


「それが、問題なんだ。」


「だから、まだ終わっていないと言うべきだよ。エマ。」


二人も、英雄はいらない。

それが、僕が出した答えだった。

そしてそれはまだ、Fenrir様の意思に沿っていると思った。

だから、今まで通り、あなたの手が頭を摘まむ動きを感じられた。

同時に、初めて、僕の自我が漏れ出した瞬間であったと言って、良かったかもしれない。

昇格(Promotion)を一歩前にして、意地でも、盤上に残ってやるぞ、という歩兵の自意識が。


「身代わりは、死んでいない。」


「彼を始末するまで、私たちの安寧は無いと考えるべきだ。」


「……。」


彼の役を演じることを選んだ。

Sebaなら、必ず、こう言うと思った。


「ええ、お兄様なら、そう仰ると思っていたわ。」


「…それが、私の役目でもあるなら、話は早いわね。」


ああ、やっぱり間違いなく、僕があの時僕の暗殺を企てた人だ、と思った。

奴隷が死体となって見つかっても、相応しい扱いをした結果としてそうなっているに過ぎない、寧ろ自然死として扱われる。

だからこそ、彼女は僕の死体を、もっとも扱いやすく、運びやすい形態として選んだ。


それが当初の目的であるのなら、救出作戦に関わった僕は、間違いなく消さなくてはならない。


「この国に、英雄など、必要ないわ。」


「…それが、ヴァイキングを根絶やしにする力であったとしても。」


その大義は、Sebaという男にとっては、全く関係のないことだろう。

けれども兄妹の共通の目的として、何ら異論を挟む余地はないのだ。


「ああ…」


「英雄なんて立てば、人々は家名ではなく人を信じてしまう。」




「そんなものは、新たな反乱の始まりでしかない。」







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