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50. 従順な替え玉

50. Malleable Impostor


僕が、泳げるかどうか、だって?

知らないよ。試したことが無かったから。


でも、少なくとも、冬の河川に流されたのなら、最早どうすることもできないであろうことだけは理解できた。

落ちる間際、一瞬だけ見上げられた空の光が、再び戻ってくることは無かった。

水を掻くことも出来なかった僕は、運が良かった。もしひっくり返って、体の表面を浮かせて漂流していたら、疾うの昔に水死体として、丸々と肥え太っていたことだろう。


「ごぽぽっ…げほっ、げほっ…はぁっ、はぁっ…」


ザパァ…


「…っ、はぁっ、はぁっ…!」


膨らまない肺に、必死に息を流し込み、その度に唇を触る水の冷たさに、慌てて口を閉じる。

気が狂いそうだった。

これが、延々と続くのだ。


何でも、自分の被る苦痛をそれと結びつけるのは、己に罪の自覚がある証拠だ。

目隠しをされ、呼吸の自由を奪われている。体の自由も、縄が締め付ける痛みさえ麻痺して分からない。

この感覚を、彼らは味わっていたのだ。


でも、彼らはまだ良かったのだ、と僕は抗議などしてみる。

誰かが語りかけてきてくれた。

それは、何者にも代え難い安心だったことだろう。


喩えそれが、狼の姿をした神様の囁きだったとしても。


だめだ。もう、沈む。


「……。」


Fenrir様は、都合の良い手駒を失ったことを、嘆くだろうか。

それとも、僕がこうして、貴方様に試されているとも知らずに、まんまと身勝手な行動で身を滅ぼす一部始終を見ていらっしゃったのだろうか。

試すも何も、私に与えて下さった、最後のチャンスだったのかも知れない。

これで貴方は、心置きなく、手駒を絞れる。都合良く貸しが有り、より貴方の目的に沿った地位を既に手にした、あの男に。


ああ、死ぬにしても。

自省に割かされる時間が余りにも長く感じられるような死に方は、したくなかったなあ。


リフィア。君のことを考え始めたら、もう僕はお終いなんだ。

もうちょっとしたら、Fenrir様との日々に少しの温もりが生まれたら、考えてみようと思っていたことがあるんだ。


もし僕が、きちんと君の死を受け入れて、君の形見を肌身離さず身につけながら、君の分まで頑張って、店を繁盛させようと、前向きな生き方をする未来は、果たしてあっただろうか、と。


もしも、などと言っている時点で、そんなことが無理だったことはわかっている。

きっとどこかで、僕一人ではとても出来ないと泣き崩れて、どうやってこの物語を終えようか考えることに残りの時間を費やした。

狼に唆されたと言い訳ても、それは僕の中に初めからあった種に芽を出させたに過ぎない。


そうだとしても。それが、君が置いていってしまった僕に望む日々なのではないかと一度でも考えてしまった。


あの時だ。

僕が、Fenrir様に、裏切られたと思ってしまった時。


神様に見放されて初めて、人としてまともな生き方を考えるなんて。

彼らは何のために人を導くのだろうね。


ズボッ…

ゴポポッ…ゴポッ


「……?」


懺悔の時間は、此処までだ。


急に、水流に変化が起きた。

見えない水面から引き剥がされ、両手が自由でも届かないであろう深さまで沈められた。分からないが、そんな感覚があった。


すべてが、一瞬の出来事だったように思える。

丸呑みされた小動物でも、嚥下はこのように喉元を滑るだろうか。


「…っ…ぶぐっ…!?」


直後、背後から再び押し戻されるような水圧に押され、僕は最後の息を吐き出してしまう。

口元から漏れた水疱が光り、


「…?」


そう、光ったのだ。

初めて見えた。水面の向こうに、光がある。


漂着することができそうな藁が見えた途端に、僕は縋る右手の感覚を得ていた。


ざぱっ…


気がつけば、水面が僕の口元を濡らして弄ばない。


「う゛…う、う…?」


詰まった水を吐きたくても、咳さえ出せない。

伸ばしたかに思えた右手は、水流に踊っただけで、身体は言うことを聞かないままだ。

だが、浮遊した感覚も無いのだ。

漂流物として、どこかに打ち上げられている。

下半身は使ったままだが。


ここ、は…?


耳に溜まった水が転がるせいで、周囲は静寂という感じがしない。

あの橙の灯りは、何だったんだ?視界は未だ暗く、夜らしいことだけがわかった。

どうにかして、この身体を陸地へ引き上げたい。また河川が僕を引き込もうとする前に。

体が震えさえしないというのが、相当にまずい状況であるのは明白だったからだ。


「……はぁ…あ、ぁ…」


打ち上げられているのは、岩がちで、平たい岸辺だった。

雪で覆われていないのは、良い知らせだ。雪解けが進んでいるということで、故に日当たりがあって、僕の身体は温まる。


胴だけをくねらせるも、蛇よりも拙い動きさえままならない。

顎だけでも引っ掛けられないかと、地面を擦るが、何も感じられない。


鉄の手袋を嵌めたような感覚だからだろうか。

でも妙に、平たいのだ。

いや、雑草が無いにしても、水場に晒された岩場が、こんなに完全に、平たくなるだろうか。

まるで、人工物のようじゃないか。


ごろごろと、虫のように転がっているうちに、耳から水が垂れてきた。

だんだんと、ではなく、急激な聴覚の鋭化によって、僕はいよいよ事態を飲み込みかねる。


「……!!」


「……!?……!」


ざわめきが、どういう内容であるかは、少しも聞き取ることは出来ない。


「…っ!?……!」


しかしそれは、僕が知る、いわゆる‘喧騒’だった。

頭上でしているのは、行き交う人々で橋の継ぎ目が軋む音だ。


嘘だ…此処、

森の中じゃない、のか…?


人間がいる。

人間がいる場所で、打ち上げられている?


眼球が震え始めた。必死に頭を回転させ、事態を飲み込もうとするも、頭を覆う滑り(ぬめり)だけは溶けない。


此処は、じゃあ…水路、なのか?


王都を南西から東部コンスタンツァ港に向けて流れる運河の何処か。そんなのあり得るだろうか?

西部城壁の遥か向こうから此処まで、何にも引き止められることなく流れ着いた?


確信が持てない。左右を岩壁に切り取られ、視界の端に、先まで見えていた空の模様も暗雲に覆われてしまっていた。

違う…此処は、橋の下だ。一度だけ仰向けに水面へ浮いた僕が見たのは、どこかの塔が放つ灯りだったらしい。


けれども、空は明らかに、夜の運河の色をしていた。

何かがおかしい。水の流れがどれだけ早くても、これは。


でも…そんなことは、些細な錯誤だ。

人がいる場所なら、どうにかして、引き上げて貰えないか。

陽の光が身体を温めてくれるまで、息を保っていられるような気は、とてもしない。


そうだ。僕が懐に隠していた、狼の仔は?

冷たくなった亡骸が、今の僕を温めてくれることは無くても、何処かで逸れてしまっていないか、この期に及んで心配になった。


でも、もう確かめようが無い。


「……。」


終わった。

管区にも依るのだろうが、用水路は、汚いと相場が決まっている。

出会えたとしても、吐き気を抑えられなくなった飲んだくれぐらいか。それでも十分ありがたいが。

もう首より下は動かなかった。

瞼を閉じぬよう下から抑えて、目玉を回すぐらいしか、することがない。

すぐ対岸にも、僕と同じような漂流物の溜まり場ができている。


あれも、水死体だったりしないだろうか。

6、7管区あたりに面していたら、無い話ではない。


身包み剥がされた旅人が、ああして身元も分からないように脱人間化されて、まるで無かったことにされるんだ。


「……!?」


冷徹な心臓が、変に軋んだ。

突如、その塊が、頭を擡げたのだ。


一瞬、僕は未だ神様の戦いの淵に転がされていて、怪物の類を見せられていると思った。

あれが本当に水死体の積まれた泥で、それらが折り重なって出来た縫合体。

そんな子供じみた妄想が、いつだって暗闇を恐ろしいものにする。


“ウッフ…!ウッフ!!”


しかし、違った。


野犬だとすぐに分かった。

これは進歩だ。Fenrir様がVojaに対してして見せた吠え声とは、機嫌が違う。


そして、こいつは餌を求めて漁る場所を間違えている。

僕なら、ヴァイキングの彷徨く繁華街を教えてあげられるのに。


そいつは、対岸にある僕を見ている、ような気がした。

生きていることを示せなければ、彼らは僕を喰いものとして扱うだろうか?


“ヴァウッ!!ウッフウッフ!!”


びくりとした。いや、身体は寸分も動かなかったが。

すぐ、うなじのあたりで、けたたましい吠え声があり、直後に生暖かい舌が這う感触が走ったのだ。


「おお、まだ人間の形を保っている。運が良かったなあ。」


……?

人だ。人がいる。


「今日はご馳走だ。済まないな。最近は水でぶよぶよになった死体しか喰わせてやれなくて。」


こんなところに、浮浪者か?


「またご命令が降りてこれば良いんだが、此処最近は暇が続いていてな…」




「おい…まじかよ。」


「嘘だろ、そんなっ!」


「しっかりして下さい!!一体なぜっ!?」


え…?

耳にまだ水が残っているのだろうか。くぐもった声で男が呼びかける。


「まずいぞ、まずいことになった…!!」


肩を抱かれ、脈を取るような仕草で首元に触れた直後、慣れた手つきで身体を転がし、水を吐かせようと胸元を押す。


「うっ…ぐっ…ぶっ…」


「ああ、息はある…良かった…!」


「良かった…神様は、見捨てなどしなかったのだ。」




「スゥー…」



「アウォォォォォーーーー……!!」



…?

遠吠え?


Fenrir様が聞いたら、不機嫌そうに鼻を鳴らすに違いないが、それでも僕には十分に響いた。


この人、何者、だ…?

がたいが良さそうな男性ということしか、分からない。



「お前たち、済まない、この方は喰わせてやれない!」


周囲で甘えた唸り声を出す野犬たちに向かって、そう叫び、もう一度僕を膝下に抱える。

一瞬、彼の口から吐かれたものだとは到底思えない、獣皮のような、蒸れた臭いがこの男からもした気がした。

これ、は…?


「すぐに、安全な場所へお連れ致します。」


「ですから、しっかり気を持って下さい!」




「坊ちゃま!」




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