49. 反省部屋 3
49. Timeout 3
どれくらいの時間が経った後でしょう。
いつものお仕置き部屋の向こうから聞こえてくるのと、何ら変わらない鍵束の弾む音。
彼女への ‘お仕置き’ が、終わった後。
その日、私の部屋の鍵を持って、牢屋を開けてくれたのは、妹でした。
「お兄様!良かった!ほんとにいた…!」
心底驚いたと共に、裏切られたような気分にさえなったことを覚えています。
私だけが味わって良い、刺激に満ちた秘密の空間を台無しにされたからです。
しかし、彼女の緊張の糸が解けたような声に、自分と同じく、初めて踏み入れた異世界であることは明白でした。
それでも、立派に兄を迎えに来る役目を果たしたのですから、安堵に涙を滲ませるのも、無理はありませんでした。
「待っていて、今、鍵を開けますから…」
まるで、悪者に攫われ、囚われた兄を助け出すかのよう。
その時は、そんな情けない構図の童話があっても読み聞かされることは無かっただろうななどと、取り留めも無く考えておりました。
「どうしたの?お兄様…?」
私のお気に入りだったメイドが、私の不在の際にも、このような懲罰を与えられていたかは、知る由もありません。
ですが、確実なのは、私が在室していた際には、必ず目の前で、彼女への拷問が行われていたことなのです。
それを見に行くために、私は罰を受けていたのです。
純粋に、疑問だったからです。
彼女は、いつになったら、赦して貰えるのだろうかと。
だから、私は定期的に、彼女の安否を確認しにも行っていたのです。
いつもお仕置きの終わりにちらとだけ見える彼女の裸体は、余りにも強烈だった。
段々とやつれ、萎れるよりも激しい勢いで生気を失っていく。
にも拘らず、最初と変わらず、いやそれ以上に艶やかな叫び声を上げさせるのですから。
我が家が抱える使用人たちの腕前は、目を見張るものがあるようです。
すっかり魅了されてしまったとか、加虐的な嗜好が私の悪戯に反映されたなどと、お思いにならないでください。
私は狡い人間です。見守るだけで満足します。
敏感な年ごろにこんな経験をさせられた私は、寧ろ被害者です。
そして私は、父上がこのような場を設けさせた意味を考えようとするぐらいには、根は真面目でした。
これは本当に、私に悪い行いに対する報いを見せるためでしょうか。
違う、と思いました。
私は、跡継ぎとして、父が担う役目の片割れを、罪人を地上から消し去る汚れ仕事の尊さを紹介されているのだ、とも、思いませんでした。
これは私に与えられた、特権でしかない。
「ううん、何でもないよ。」
石畳の上につくった温もりを名残惜しそうに摩り、私は両手を軽く持ち上げて鎖の音を鳴らします。
「迎えに来てくれて、ありがとう。」
「一人で、どうやってここまで…怖くなかった?」
「怖かったよ、お兄様…あのね、角を曲がる回数だけ、御父上が教えてくださったの。」
「でも、いつ右と左間違えちゃわないか、数を数え間違えないか、曲がり角を見落としていないか、不安で不安で、私…」
胸元に抱き着き、啜り泣く彼女を私も抱き返し、ぼんやりと牢の向こう側を眺める。
「ねえ、お兄様。もう悪いことなんてなさらないで?次にまた私、こんなところに一人で歩ける気がしないです。」
「うん…」
「本当にごめんね、エマ。」
でも、嬉しかったでしょ?お父様とお母様に逢えて。
君が夜な夜な、ぐずって泣くの、知っているんだから。
私が悪い子であればあるほど、叱りつけた二人はそれを埋め合わせるように君を可愛がる。
「ちゃんと、良い子にする。心を入れ替えるよ。」
君に良い返事だけをして、また悪いことを繰り返すのだろう。
「だから、もう泣かないで、ね?」
最初は、本当に、そのような純粋な気持ちだったはずです。
――――――――――――――――――――――
自分が両親の立場だったなら、激しい叱責の後に、子供を迎えに行く役目を負うのは、多少気が引けるのは理解できることです。
適役は、確かに妹しかいなかった。
どんな時も、兄を助けに行くのが、私の役目。幼い彼女のそんな言葉が、彼女自身をそう運命付けてしまったのかも知れません。
マルボロ家の没落の後も、密やかに王都での潜伏を続けながら、奴隷としてヴァイキングに売り渡された私を、どうにかして救い出そうとしてくれたのですから。これは最早呪いだ。
きっと、この騒ぎが中央管区にまで知れ渡るのに、2,3日もかかりません。
私が無事に殺されたことを確認したなら、直ちにこの屋敷へと、遣いを寄越すことでしょう。
そう思っていたのに、一週間が過ぎても、音沙汰無しです。
あの狼からも、特段、催促の知らせは来ない。
絶対に、彼方からの接触が約束されているにも拘らず、です。
私は、言われた通りに、交渉材料を持っている。
このカードが私の手元にある限り、あの狼は、私をこの地位から引き摺り落すことは出来ない。
もう、何度その誘惑に打ち負けそうになったか。
彼のことを知りたくて堪らないのに。最も生温い方法としての会話さえ、あの狼は私にお許しにならなかった。
コン、コン…
ギィィィ…
思索の合間に、天井から音がして、眩い光が漏れる。
地下へと続く隠し床の隙間です、執事の抑えた声と共に、お盆が差し出されました。
「坊ちゃま、お食事の用意が出来ております。」
「……。」
数日ぶりに戻った屋敷は、酷い荒れようでした。
一族皆殺しに遭ったマルボロ邸は既に、ヴァイキングどもの持ち物となっており、私の居場所は最早地上の何処にも残されてはいなかったのです。
家柄などには興味が無いようで、ただ贅沢な衣食住が享受できる恰好の別荘として、この土地を略奪の対象としたらしかった。
そして唯一地下へと続くこの道だけが、彼らが一瞥もくれない、私への奉仕の供給路でした。
使用人でも、限られた者しかその存在を知らない。
私は今も、そこに匿われています。
「そっちの方は、変わりないか?」
「ええ、相変わらず、野蛮人どもは、この根城から動くつもりは無いようです。」
「我々は形ばかりに仕えておりますが!本当の主人は貴方様であることは…」
そんなことを聞いているんじゃない。
聞き飽きた文句だ。
助けにも来なかったくせに。
「ああ…そろそろ、この屋敷を占拠している徒党どもを追い出してやらなくては、我慢がならないと思っていた所だ。」
「直に、私が寄越した協力者が現れるだろう。その時は直ぐに、知らせるのだ。」
「ええ、坊ちゃま。仰せの通りに致しますとも。」
お辞儀の下では、そんな気色の悪い微笑みをしているのだな。知りたくなかった。
ぎぃぃぃ…
ばだんっ……
「はぁーーー……」
まるで、居候だ。
それでも、奴隷よりは遥かにまし、か。そう思うことに致しましょう。
私は階段をそそくさと降りながら、お盆に乗せられたパンを口に頬張る。
熱いスープは忽ちに冷えてしまうから、器に口をつけてそのまま啜った。
行儀は悪いですが、生憎、食卓も無いものでして。
咀嚼音が周囲に聞こえているような気がして、囚人が腹を空かせる一因になっていなければ良いのですが。
地上では、ヴァイキングどもが、贅沢に食卓を囲んでいる、その事実だけが我慢ならない。
彼らを一人残らず、此処にぶち込むのに、あの狼の助力はどうしても必要です。
なのに、何故来ない…
気が塞いだ。自室に戻るとしよう。
ええ、退屈しのぎの術は、幾らでもあるのです。
狼が寄越した罪人は、私のお気に入りのメイドの向かいのお部屋にご招待しております。
いつも『坊ちゃま』と呼んだ、あの声のよく届く、私の反省部屋に。
もう歩き慣れました。灯りが無くても、壁に手を触れなくても、辿り着ける。
「……。」
通りすがら、心の中で、彼女に元気かなと挨拶を投げかけてから振り返り、お仕置き部屋へと歩みを進めます。
「どうだ、こいつの様子に、変わりは無いか?」
檻の前で微動だにしない見張りの番人に尋ねました。
「……。」
ゆっくりと首を振る、その頭には、表情を隠すためでしょうか、被り物が嵌められています。
鉄仮面、とかではありません。
本物では無いと思うのですが、獣の頭です。
生気のない、狼の頭の剥製。
これが、人間を戒める役に必要な衣装でしょうか。
私が、あのFenrir狼を好かない理由の一つがこれです。
彼らは信頼できますが、皆こうやって表情を隠します。
半開きの口に、何処を見ているか分からない作り物の瞳。
そのせいで、私には、ああも饒舌に喋る狼の像が、人外という枠組みを越えて奇妙に映って仕方がない。
「…そうか。」
一人前の奉仕と従順さを求めるのはお門違いです。
締まりのないように見えて、抵抗力のある罪人を抑え込むだけの体躯を備えた彼らが、普段何を喰っているかなど、容易に想像が着きますが、それで地上での生活を捨てられるというのなら、特段口を挟むつもりはありません。
ギィィ…
ガラガラガラ…
男が開いた鉄格子の扉を潜ると、彼を、というより、姿が見えぬ程に覆う拘束具の塊に、緩く溜め息を吐きました。
革袋は顔の骨格にぴたりと貼り付き、息の度に薄い皮が喉仏を撫でて戻る。その裏では、猿轡と目隠しによって感覚を遮断され、唯一の便りである筈の聴覚さえ耳栓によって世界との距離を削られ、私が立てた音にも反応を示さない。
呪文の一つも書けぬよう、指一本動かせるようにしてはならないとのことでしたので、覚醒する前に、全部焼き鏝でまとめてあります。
これくらいは、大丈夫の範疇でしょう。
始めからあった、背中の刺し傷も、酷いものでしたし。
「……。」
股間にシミがあるが、乾いていました。石畳も、暗く濡れていた形跡はありません。
水も与えていないから、排尿もそのうち収まるとは思っていたが、もう殆ど植物と変わらない。
完璧の、一歩手前です。
脱人間《Dehumanaization》と呼ぶのが、相応しいでしょう。
この層に留まる人間は、須らくそうなる。
その成れの果てが、彼ら拷問吏でもあり、人として死ねなかったが為に教義に書かれた償いさえも希求できない罪人であるのです。
「いつまで、待たせるのだ…」
そうなってしまう前に、
早く、彼との対話を楽しみたくて堪らないのに。
我慢は身体に毒です。
いっそ、犯してしまおうかとさえ思いました。
神様の目が届くのは、地上までであるとするのなら、私は流刑地で最後に与えられた褒賞を、肉のこびり付いた骨を名残惜しそうに舐めるように、楽しむだけです。
その結果として見限られるのなら、万々歳だ。
私は今まで通り、彼女の姿を眺めていられるのなら、それで良いのです。
「しかし…」
願っても無い幸運であるにも拘らず、流石に訝しまずにはいられない状況となって参りました。
別に今までの生活を変わらず享受できるのなら、何の文句も無いとは申し上げましたが。
確かに面倒ごとに巻き込まれるのは御免ですし、その意味で、神様とやらの駒として命を賭すようなことは、断じてしたくない。
しかし、妹の身に、何かあった可能性があるとするならば、彼女に私の救出劇を持ち掛けたというあの狼しかあり得ない。
彼女が私に接触するより先に、彼女へ狼が接触したと考えるのが自然でしょう。
妹に、何と伝えた?
まさか、救出失敗、身代わりの奮闘も虚しく、私は死んだと?
その結果として私がこうしてお役御免と放っておかれるのは、まずいことでしょうか。
私が笠に着ていられる権力さえ残っているのなら、何の問題も無い。
何故なら、私は身代わり諸とも、死んだことにされているのですから、悪用される術などある筈がありません。
本当に、そうでしょうか。
あの日、Fenrir狼の背中に乗せられた青年を、やはり強引にでも引き取るべきでした。
神様の力とかで、強制的に息を吹き返させられているような展開は、やはり望ましくありません。
「仕方ない…」
生存確認のため、もう一度地上に出なくてはならなそうです。
ずっと引き籠るのは、私の死を確認してからでも、遅くは無い。
「静謐な闘技場でしょう。貴方。」
ここの観客席は石で、幕は鉄格子で、演目に合わせて興奮する叫び声は、囚人が漏らしますが。
私はただ、閉幕の鍵を待ち続けているのです。
最後に男にそうとだけ投げかけ、マントを翻したは良いものの、でもやっぱり未練たらたらで振り返ってしまう。
だって、名前も知らないのですよ。
「……。」
股間の疼きを感じてしまっていけない。
もう、限界です。
「今夜、戻ってから、少しだけ…」
ただの独り言です。
決して拷問吏に、その準備をしろとは、一言も命令はしていません。
どれだけ主人の気を遣えるかは、帰ってからのお楽しみと致しましょう。




