4. 山積みのご馳走 3
4. My Lies Piled Up 3
でも、本当に、こんなことが起こるなんて思わなかった。
“……?”
一度、互いの匂いを分け合っただけの、それだけの貴方が。
本当に、私が眠っている間、ずっと待っていてくれていただなんて。
“……ようやくお目覚めか。”
一緒に、くっついてくれていたなら、もっと嬉しかったけれど。
でも、貴方の匂い、夢の中でも、強く感じていた。
“こ、れ…って……?”
ぶるぶると震える瞼。
目の前の光景は、到底私には理解しがたいものだった。
昨日までの厳しい吹雪が嘘のように、すっきりとした朝でした。
雪原がきらきらと眩しくて、毛皮を撫でる風も、今だけは牙を震わせず、代わりに心地よく頬を撫でている。
身体は、変わらず寒くて堪らなかったし、今までで一番、具合は悪かったけれど。
そんなことはどうでも良くなってしまうぐらい、貴方が目の前にいることが信じられなかった。
挨拶も短く、早々に姿を消してしまった貴方が、戻って来てくれたなんて。
“あ…の…”
私が言葉を上手く選べずにいる中、
平穏な烏の囀りと、
ガツガツと、一心不乱に肉を貪る音だけが響いている。
彼は、朝食を喫しているらしかった。
“どうした、喰わないのか?”
“え…?”
“お前の為に、という訳じゃないが。いつもより余分に狩り過ぎた。”
どの動物一頭を取っても、異様だった。
噛み傷というか、狼に狩られた形跡がまるでない。首元の部分の肉が、大きく抉り取られていることを除けば、だけれど。それも彼の嗜好によって、まっさきに齧り付かれているだけなのかも分からなかった。
和やかな光景だと思っていたのは、私の目に、貴方のことしか映っていなかったからだったみたいです。
目の前には、夥しい数の、骨だけになった死骸が転がっていて、
彼の周りは、血飛沫で、行儀悪く染まっていた。
それが自分を守るための境界線だと言っているように、彼と私の間には距離があった。
まさか、一晩のうちに…これらを全部…?
それも、たった一匹で…?
“ほら、そこのは全部、お前のものだ。”
自分よりも図体の大きい動物たちが山のように積まれた光景に、思わずぎょっとする。
い、一体、どうなってるの…?
“い、いいんですか…?”
“暫く、まともな獲物にありつけていなさそうだからな。欲しければくれてやる。”
“い、一頭だって全部、食べきれない…です。”
“そうか?出来るだけ詰め込んだ方が良いと思うが…”
“お前がそう言うならば、残りは頂くとしよう。”
“こいつらに、これだけのご馳走をくれてやる必要は無いしな。”
“グルルルゥゥゥッ”
“アァーッ…カァーッ…”
“あっちへ行け!お前たちの分は無いと、何度言ったら分かる!?”
彼は、苛立ちが頂点に達したのか、汚れた牙を剥きだしにし、身を起こして唸り声をあげた。
きっと、私が眠っている間にも、煩わしい攻防を続けていたのだろう。
“卑しい奴らだ。さっき、切れ端を与えてやったと言うのに…”
“喰うんだ。最初は胃が受け付けないだろうが…危険な状態だ。早いところ脱した方が良い。”
彼は、私を一瞥すること無く、ぶっきらぼうに気遣う。
“で、でも、どうして…”
“理由が無いと、いけないのか?”
“……。”
喰って掛かるような口調では無かった。けれども私の、その不用意な一言が、彼を酷く不愉快にさせてしまったことだけは分かった。
素直に、ありがとうって、言えば良いだけなのに。
“い、いただき、ます…”
目の前に転がされ、啄まれぬよう守られていたらしい肉塊は、私が鼻先を近づけると、何やら香ばしい臭いを放ち、久しく訴えかけることの無かった食欲を強烈に呼び覚ます。
“ほ、本当に、食べて良いの…?”
“他に、優先すべき狼がいたか?”
“……。”
“そうだな、これで俺に何か見返りがあるとすれば…”
“お前には、俺の案内役となって貰いたい。”
“え……?”
口元を丹念に舐めると、彼は自分の前脚をじっと見つめ、それからまた肉塊に齧り付いた。
“俺は、お前が逸れた群れと、接触したいと思っている。”
“辿り着いた際に、お前から紹介して貰えると、相手側としても安心だろうと考えた。”
“み、皆のところに…ですか?”
でも、貴方なら、絶対に一匹で辿り着けるのに。
実際、そう思って、元居た群れの方角を伝えたつもりだった。
“お前が、群れにはもう合わせる顔が無い、と言うのなら、話は別だが。”
“そ、そんなことは無いです…”
彼らだって、こんなに頼もしい仲間ができるなら、拒む理由なんて一つも無いだろう。
Vojaだけは、嫌な顔をするかも知れないけれど…
長の地位を賭けた戦いに発展するかどうかは、彼のアプローチの仕方次第だろうか。
だとしたら、私が仲介役を買って出るのは、適任であるという気もした。
“別に、すぐにとは言わない。しかしお前がどうしようと、遅かれ早かれ、彼らとは会うつもりだ。”
閉口してしまったのは、申し訳ないと思っています。
けど分からない。本当に、そんな理由ですか?
私のことを、心の底では、どう思っているのだろう。
ただの、可哀想な、群れ逸れの狼だと思っているのかな?
“…それに、お前には、色々と他にも聞きたいことがある。”
そう言って彼は、決して私自身には向けなかった鋭い眼差しで、尾の方を睨んだ。
“その傷…狩の途中でつけられたものじゃないな。”
“……。”
いつの間に、右足のこと…
ひょっとして、思っていたよりも、近づかれていたのかしら。
“群れの中での争いでつけられたものだと思っていたが、それも違うらしい。”
“お前、人間と…少なくともその痕跡に、接触したことがあるな?”
“知っているんですか…?”
“その、揃った噛み傷、見覚えがある。あいつらが仕掛けた罠を踏んだ仲間が、そんな傷を負っていた。”
“…狼の牙よりも鋭く並んだ刃に、噛みつかれたんです。”
皆が助けてくれて、どうにかしてその場から脱出できましたけど。
その後も、噛まれた痕は酷くなる一方で、到頭引き摺って歩くことさえ難しくなった私は、群れから離脱することを選んだのだった。
“仲間の素早い救出に、感謝することだな。見たところ、壊死もしていない。”
“俺が救えなかったそいつは、噛まれた足の切断を余儀なくされた。”
“…ごめんなさい…”
“誰に謝っているのかは知らないが、お前は幸運だ。”
“数日で、元通りにしてやる。”
“……?”
元通りに…?
どうして、そんなことが出来ると、はっきりと口調で言えてしまうのだろう。
“代わりに、お前が人間の匂いを捉えた場所も、案内して貰いたい。”
“危険地帯は、絶対に把握しておきたいからな。これは絶対だ。約束してくれ。”
“え、ええ。わ、わかりました…”
初めて出会った時から、そんな雰囲気は纏っていたけれど。
狩りの成果と言い、彼は、私が今まで出会ったことの無い狼であることが、段々と確信に変わりつつあるのだった。
この狼は…
“安心しろ、お前がこれ以上苦しむことは、絶対に無い。”
……?
“そう信じて、身を委ね、今の苦しさと精一杯向き合っていれば良いのだ。”
“だから、食べてくれ。”
“もう大丈夫なんだ、そう思えて、きっと気が緩む。そこから快方に向かって行く。”
“…俺があいつに救われた時は、そうだった。”