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48. 再拘束

48. Retether


「はぁっ…はぁっ…あぁっ…はぁっ…」


決して、闇雲に走っているという訳ではなかった。

日の出によって段々と色褪せていく空から逃げるように、Fenrir様が一緒に持ち帰ってくれた外套の裾を擦り、ざらざらの山の傾斜を下っていく。

絶対に許されない悪手とは、ヴェリフェラートへ逆戻りしてしまうことだと知っていた。


勝手に逃げ出しておいて、全く想定していない命の危機に晒されるようでは、流石に助けてもらえるとは思えなかった。


途中で何度も、狼の姿がないか、後ろを振り返っては、引き返すなら今しか無いぞと自問する。

そのたびに、懐からずり落ちないように抑えていた違和感が猛烈に熱を放ち、臆病風が背中を摩った。


「こんな…こと、して…」


僕が取った行動は、隠蔽だった。


聞いたことがあったというだけで、実行に移すというのは、余りにも馬鹿げている行いであることは、自分でも分かっていた。




この仔は、喰べられたことにしよう。


狼は、死んだ仔狼の遺体を食べると言う。




それなら、少なくとも洞穴に証拠は残らない。

誰かが食べたことにして、その嘘が貫き通せる訳が無いことも、承知の上だ。

その可能性は、人間である僕にしか思いつかない幼稚だ。誰が食べたのかは、確かめようがなく、有耶無耶になるという希望的観測は。

Fenrir様は、全ての狼の言葉が分かる。信じる信じないの話は別にして、簡単に裏は取れる。


だから、何故こんなことをしたかと問われれば、気が動転していた、としか答えられない。

自分が犯したかも分からない罪だ。隠そうとする意味も、僕が群れを追われるだけで済むなら何も問題は無い。

しかし、Fenrir様が、人間を招き入れた結果として、仔を一匹死なせた、そんな解釈が蔓延るようなら、僕は未然にそれを防ぐべきだ。結局のところ、自分の首を絞めているように思えても、今はその直感に縋るしかない。



懐に忍ばせた手の皺が、毛皮で汗ばんでいる。

僕自身の熱気で、幾分仔狼の死体も温もりを取り戻しているように感じられた。


でも、この仔は鳴かない。

瞑らな眼を瞬かせることもしない。


洞穴を出る前は、こんな風に瞳が白濁していただろうか。

まだ暗かったから、確信がない。


息を吹き返す可能性があったなら、医療兵の見よう見まねで心臓マッサージの一つでも、施してあげられたら良かったのに。この考えに至るのさえ、もう手遅れだろう。


前にも、似たような悔いを強いられたことがある気がする。


そうだ。

リフィアの冷たい身体に、彼女の胸に、似たような思いを抱いていた。

君の身体は、一緒に布団にくるまって、きつく抱きしめても、少しも温まることは無かったけれど。

それでも、君がある朝一緒に目を醒ましてくれるようなおまじないがあるのなら、僕は神様でも狼にでも縋ると。


「……。」


仔狼の亡骸を確認するために立ち止まった僕は、火照った身体を襲う冷汗に諭され、ふと考える。


この仔…どうしよう?


いずれ、見つかるだろう。

仔狼がではない、僕がだ。

なぜなら、此処は狼の縄張り、侵入者の動きは、耳と、鼻によって察知される。


それが、群れの他のどの狼でも無く、Fenrir様によってであれば、まず第一関門は突破した。

洞穴から離れた理由が、他の狼との接触を避ける為であると弁明すれば、それ自体はきっと納得して下さるだろう。


その上で、消えた仔狼の行方を尋ねられた時に。

僕はこの仔をどこに隠せば良い?


仔狼の匂いが纏わりついていること自体は、何ら咎められることは無いだろう。

それは、Fenrir様が僕を巣穴へ匿って下さった時点で織り込み済みのはずだ。


狼たちと僕、どちらを信用するか、それは火を見るより明らかなことだったが、

少なくとも、容疑者の範疇に留まり続ける為には、証拠を隠滅しなくては。


どうしよう。時間が無い。

もう薄暮が訪れる。狼たちが目覚める。


埋めたって、意味はないだろう。

雪解けの勢いのある、川に捨てる?

このまま緩やかな傾斜を降りていけば、地形としては沢があってもおかしくは無い気がする。

一見妙案だが、水が飲める場所は、皆が集まる分、かえって目立ちはしないかだけが懸念される。

でも今の所、一番縋ることの出来そうな選択肢。もちろん、運よく小川に巡り逢えればの話だが。


いや…



本当に、誰かの胃袋の中に収まっていることにするには?



「……。」


馬鹿だ。

幾ら何でもそれは無い。


第一、生肉なんて、食べたことが無い。


毛皮を剥ぐための刃物は持っている。

全部丸々飲み込まなくては、意味が無いが、

食べ終えた毛皮や骨ぐらいなら、水に流せるかも。


でも…丸焼きの鳥がこれくらいなら、食べきれないどころか、平らげられる量だ。



涎が、乾いた舌を潤す。


い、いや…何を考えているんだ!

そんなことしたら、Fenrir様はどんな顔をして僕に同じ罰を与えるだろう?



只でさえ、僕は僕よりも有力そうな候補者と天秤にかけられていそうなのに。

これ以上自分の利用価値を下げるような行いが、貴方の目に止まって良いはずが無い。


そう、Sebaのことだ。


彼は今ごろ、どうしているだろうか。無事に自由の身を手に入れていると良いけれど。

でも彼は、今後のFenrir様の人間に対する代弁者として、余りにも適材であることが、僕にとっては堪らなく歯痒いのだ。

替え玉としての僕はどうだ。

闘技場で神の恩恵に触れた戦士として、自由の身を勝ち取れているかも怪しい。


違う違う。これは、人として、やってはいけないことだ。

飢えに苦しんでいる訳でも無いのに、僕が今まで口にしてきた動物の肉との違いを考える時間では無いのだ。

先までは安全な寝床を分けてくれるどころか、あんなに愛情溢れるひと時を齎してくれたのに。

彼らへの敬意を、こんな形で、踏み躙る訳には行かない。


そうだ。こんな状況でも、捨てずに群れの傍に置いてくださっているFenrir様との関係に波風立てたくないのに。


心臓が痛い。


ああ、逃げたりなんか、しなければ良かった。

初めから正直に言えば、神様はまだ寛大だったかな。



呼吸が整った、少しでも前に進もう。

そう思い直し、股下まで埋まった再び腿に力を込めて、絶望する。


「お、もたい…なっ…」


一度でも歩みを緩めるべきではなかった。

自問自答の時間が、僕の足に鉄球付きの枷を嵌めた。



雪解けが進んでいる。


それは、寒がりな僕でも分かる訪れだった。



そう、僕が汗を掻いているのだ。

ずぼずぼと足の埋まる雪原に藻掻いているだけで、そうなる。

持ち上げることさえ儘ならず、掻き分けて進めるような柔らかさも無い。

こんな獲物、あっという間に追いつかれ、仕留められてしまう。


焦りは、僕を遠くへ、遠くへと急かすのに。

歩調は鈍くなる一方だった。


「はや、く…しない、と…」






そんな獲物の不安とは裏腹に、何のお咎めも無かったのは、ある種の奇跡だった。

頭を掠める枝先の色がはっきりとわかり始めた頃。

僕はどうにか小さな沢らしき底へと辿り着く。


「そんな…」


だが、そこに水の流れは無かった。

汚れた土砂こそ、周囲に見受けられる木の根はあったが、陽だまりがあって溶けたというより、別の生き物が荒らした寝床だろう。

空色に似つかわぬ寒さ。日当たりも良いとは言えず、とても、雪解けには程遠い。


「…だめ、か。」


辺りを見渡しても、仔狼の捨て場は、どうやらこの谷には無さそうだった。


見上げても空を覆うほどの松の木々が立ちはだかるこの傾斜を登るのは、流石に無理だ。

どっと押し寄せる疲れ、引き返すだけの体力も、使い果たしてしまったのではないか。


…だめだ、もう、動けない。


このまま、証拠を抱えたまま、救助を待つしか無いのか。

余りにも絶望的な次の旅路に、僕はとうとう尻餅をその場に着いて座る。



どさっ…



先までの踏み締めた雪の感覚なら、冷たい椅子ぐらいに沈んで終わると思ったのだ。


「…っ?」


しかし、その泥濘に、底は無かった。


ご、ごごっ…


尻から、鈍い地響きが伝わってくる。

その正体を掴みかけた、直後だった。


「う゛っ…あぅっ!?」


内蔵が重力を失う感覚。

前にも感じたことがある気がする。


ごごごごっ…ズドドっ!!


記憶が僕を、逃避させようとしてくれているのかな。

一瞬、青い光が迸った気がした。


子供のときに、遊具の上で逆立ちをした時だろうか。

酷い怪我だったなあ。友達も、親も、大騒ぎだった。

そのせいで、未だに夢に見る。


協会や、城壁の真上で、自分が風に煽られながら、必死に逆立ちをして、バランスを崩すまいとする夢だ。

怖くて、怖くて堪らなかった。

そんなことをしでかす自分が、景色が、地面が。


魘された僕が呟く、逆立ちが怖い、という台詞が。


「うああああああっっ!?」


崩れゆく足元から、僅かに聞こえる、水の音。

既に渓谷へ差し掛かっている、僕の勘それ自体は、正しかったようだ。


足りなかったのは、土地勘の必要とされる山渡りに対する狼の知識。


バッシャーン…!!


落ちた先は、僕が希求したはずの河川だった。

ただ、しっかりとした土台があるように見えていただけで。



きっと狼ならば、地面から聞こえてくる潺で、事前に回避できたのだろう。


「っ…!!」


張り付く冷水に、僕は呼吸の仕方を忘れる。

鳩尾に、拳を捻じ込まれたようだった。


「あ、あ……」


自分が必死に振り絞った悲鳴も、轟音に掻き消されて聞こえない。


踠けない。

足が底を探せない。


助けて。

僕…泳げないんだ。


天井に開いた入り口に、手を伸ばせない。

それはすぐに遠ざかり、僕は狼に丸呑みにされてしまった鼠の気分を味わうらしい。


たとえどこかに取り付く島があっても、見えなくてはしがみ付くことさえ許されない。

水面から顔を出せているのだろうか。息をするのさえ、儘ならない。



終わった。



空洞になった河のトンネルを、消化の悪い僕は、そのまま流されていく。






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