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47. 薄暮の松歩き

47. Pine Duskwalker


“ああ、ボス!やっと来た!”


“Voja―こっちこっち!!”


夕陽に、黒い影が混じる。

日没が近く、狼の性だ。浮足立っていた。


“早く早く!皆待ってるんだ!あんたに食べさせてやりたくて、待ちきれない!”


数頭が彼に向かって駆け寄るも、Vojaはのんびりとした足取りで、此方に向かって歩みを進めるだけだ。


“おお、おお。待たせたな。”


忽ちご機嫌な狼達に、顎下の毛皮を通過され、周囲を取り囲む挨拶の渦で見えなくなってしまう。


“Voja…心配したぞ。何故遠吠えにも応じず、他の狼たちと一緒に来なかった。”


走れないのは分かっているが、そういうことをされると、皆が不安がる。


“昼寝が捗っただけだ。別にお前を困らせようなどと、他意は無い。”



“それで…?”



Vojaはどうにか彼らの挨拶を振り切り、腫れていない右眼だけを此方に送る。


“グルルルル…!お前達、後にしろ!”


“…こいつの話が聞きたい。”


余りにもしつこいLukaの鼻先に警告の唸り声が上がると、彼女は悪びれた様子も無く身体を転がして、すぐに遠くへ走り去ってしまった。


“どうだった?”


“あ、ああ。皆、お前に良い狩果を知らせてやろうと、皆頑張ってくれた…”


“見せてやりたかったぞ、士気は大層なものだった。”


“ふふ…何も別に、そんなに嬉しそうに報告せんでも良いだろう。”


“別に…嬉しそうになど、していないだろう。ただ、事実として、そうだっただけだ…”



“それでは、上手く行ったのだな。”


“…それは良かった。安心したよ。”



Vojaは自分の表情に何を見たのか、雪の窪みに頬を預けるように目を細めて、そう微笑んだ。

嫌で堪らなかった。自分のことを考えてでは無く、お前自身に、そんなご隠居のような顔をして欲しくなかったのだ。


“し、しかし、お前のように首尾よくとは、到底思っていない。”


“何と言うか、お前に動かして貰っていた常々、その意味をきちんと自分たちで咀嚼していたのだろうな。お前の指導の賜物なのだろう。気付いたら、彼らは俺が何も言わずとも適切な位置に動いていて、俺は飛び掛かるためのタイミングを指揮しただけだった…”


“彼らは優秀だからな。それぐらいのことは平気でやってくれる。胸を張って精鋭と言って良いくらいだ。”


“だから、お前の選出のセンスが良いのはあるが、俺がやってもそんな感じだよ。皆自分で考え、動ける…”


“一対一の展開に持ち込むまでのアシストがあって、あとはきっちり決められるかどうか。それだけだ。”


“そして、お前が獲物を逃がさなかったのなら、あとは全員が束になって襲い掛かるだけの一本道。”


“…お前はそれを、やり遂げたのだろう?であれば何も謙遜する必要は無い。”


“……。”



“さあ、おべっかはこれくらいにしてやる。皆、腹を空かせているのだ。”


“…お前が待たせたのだろうが。”


こんなやり取りを、周囲が微笑ましいと言わんばかりに、きちんと距離を取って見守っているのが気に喰わない。







“何故だ…!この期に及んで、見苦しい…!”


Vojaは、この期に及んで遠慮などをした。


“だから何度言ったらわかる!?俺が先に獲物を口にするのを、彼らが見たら、どう思うか、想像に難くないだろう?”


“そんなことはあるまい。お前が先導して、狩ったのだろう。なら、お前の手柄だ。”


“誰のために皆が頑張って狩りの成功を収めたと思っている!?”


“群れの為だ。”


“っ…”


“お前が言っていることは分かるし、切り分けるべきだと理性に訴えても響くまい。”


“しかし誰かの気分を害するとか、そういう考えは誰も好まないのだ。お前が元居た群れでは知らないが、此処に居る仲間は誰も、そんな風には思わない。”


“お、お前がそう言って同意を求めるのは簡単だが…実際にお前が先に食べないことを気分よく思わない奴がいるのを俺は感じざるを得ない…”


“であれば、そいつが自ら先導して、仲間を募って、率先して獲物を狩れと言え。”


“……。”


Vojaは、周囲にも聞こえる声量で、はっきりと言った。


“別に蔑むつもりは微塵も無いが、俺以外に、それが出来たのがお前だけなのだから、何も言われる筋合いはないと俺は思う。”


“少なくとも、俺が留守にしていた間に、そう言った動きは無かったようだからな。”


“Voja、それは…”


“わかっている。二度も言わせるな。彼らを腰抜けだと言うつもりは無い。”


“しかし、俺が帰って来ないことを前提に動いて欲しかった。それだけだ。”


“……。”




“腹が減った。”


“早くしろ。”




“……。”


俺は、喰わないつもりだった。

後で一匹で、数頭狩って、底なしの胃袋に収めておけば良いと思っていた。

しかし、この臭いに抗えるほど、俺も万全の状態では無い。

衰弱とまではいかないが、狼としての体裁を保てる限界を感じている。


“これだけじゃ、足りないだろう。数日後に、またこれぐらいのを、狩るつもりだ。”


“その時までには、着いて来られるようにしてくれ。”


“お前からは、色々と学んでおきたい…”


そうとだけぼそりと呟くと、彼がどんな表情をするのか見たくなくて、俺は背中の肉に視線を落として齧り付いた。


“遠慮など考えるなよ。気分が悪い。”


“俺だって、腹は減っているのだ。お前の取り分など、どうでも良いと思えるほどにな。”


“ふん…丈夫な胃袋だ。”


人間の料理に毒された俺の舌お前は笑うだろうが。

やはり生肉を食べているときが、一番狼でいられる気がする。







獲物は忽ち、齧り甲斐のある玩具と化した。

旨味もまだ十分にある。暫くは此処で、惰眠を貪ることになるだろう。


狩りの前にあったような、群れの間に走っていた緊張も、解けつつある。

別にそれを、俺の存在を認めたとは捉えないが、少なくともVojaがこうして俺に敬意を示すことに反対する者はいないようだった。

俺としても、彼を侮蔑することなく、曖昧な上下関係を保てれば、それで良いと思っている。


俺は、群れから距離を置き、特別に貰った腿の骨を咥え、いそいそと寝床を拵えている彼の元へと赴いた。


“なんだ…さっき言い出せなかったことでも、思い出したか?”


大きな欠伸と共に、唇の端を舌で舐めとり、そんな憎まれ口を叩く。

身を起こす気は更々無いようだ。俺が見降ろしている構図を気にも留めようとしない。


“Sirikiの行方が、分からなくなった。”


“……。”


しかしこの話題の為に、お前は群れから離れた所で眠りに就こうとしたのだと俺は勝手に解釈している。


目つきを険しくするでもなく、彼は尾の毛繕いを始めた。


“逃げられたのか?”


“言った筈だ。あいつは今、俺に依存せざるを得ない。自分から姿を消すことは絶対に在り得ない。”


“飼い犬にきちんと首輪をつけておかないから、そうなる。”


“お前なら、この周辺で人間が身を隠せそうな場所が無いかと思ってな…”


“何か、知らないか…?”



“なるほど…つまり、狩りの目的が変わった、と。”


“そうは言ってない。お前に腹いっぱい喰わせるための狩りであることに、嘘偽りは無い。”


“ただ、目ぼしい行先きだけは、その下心の元、指定させて貰っただけ、か。”


“…そんなところだ。”



“実際に、人間がそんなに簡単に痕跡を消せるとは思えないんだが、足跡はどこで途絶えた。”


“そもそも、お前がどこにあの人間を匿っていたのかも、俺は知らない訳だし…”


すぐに嘘を吐けなかった。仔を設ける為の洞穴と知らずに彼を匿っていたと分れば、せっかく築きつつある信頼は地に堕ちる。

しかし、俺の僅かな閉口を彼が逃す筈も無いことも知っていた。


“言ってみれば、このハプニングは、お前にとって有利であるように俺には取れてしまう。言っている意味は、わかるよな?”


“お前があいつを、俺の知覚し得ない領域へと手引きしたと、どうして否定できない?”


“ああ…だがしかし、お前があいつを殺したい以上に、俺にとってもあいつは必要なのだ。”


痛い、痛い。俺の毛皮に刺さった槍が、痒みに思える程にだ。


“この辺りに、俺がまだ赴いていないような、人間の集落は無いよな?”


“俺がそんな場所を、縄張りに選ぶと思うか?”


“数人が潜伏できるような、窪地も心当たりは無いよな?”


“お前が知覚できぬのなら、俺が知る由もあるまいよ。”


“……。”


分かっている。

Sirikiの消失は余りにも神隠し()みていて、それ故俺に都合が良すぎている。


“まずいことになった…”


苦しそうに絞り出した俺を見かねて、彼は貪る口を一瞬だけ俺の為に費やす。


“しかし、心当たりが無いわけでは無い。”


“……?”


“気付いたら、別の場所にいた。そういう経験はある。”


“そ、それは、どういう…?”



“ヴェリフェラートに潜伏した時のことだ。”


“何の前触れも無かった。俺を含めた、全員が、知覚することもできずに嵌められた。”


“路地裏の一角に入り込んだ、その刹那、足元の眩い光の筋が見えたのが分かった。その柱に包まれた次の瞬間…気付いた頃には、鉄格子の小部屋の中にいたのさ。”


“もう、逃げ出すことは出来なかった。傷の無い捕虜がそこに完成していた。”


それから先のことは、知っての通り、か。


“そういう類の力を、お前も操れるというのなら、目的地へ辿り着くためのヒントになりそうか?”


“今思い返せば、嗅いだことの無い臭いがした。毛皮に擦りつける暇も無かったが、きっと地面に何か埋めていたのだろう。”


……。


縄張りにあったとして、誰も気づかず、ともすれば他の狼が踏んでいた可能性も十分にあり得る、地雷型の罠。


“転送の儀…!!”


神様の仕業だ。身に覚えがあり過ぎる。

誰が?いつ?何の目的で?


最も厄介であることに、

その資質の持ち主であれば、

そいつは自分の為にその術を使える。


下手をすれば、

もうそいつはこの世界にいない。


“なんだ、知っていても、しらばっくれるかと思った。”


弁明の余裕さえ無いと見るや、彼は声を潜めて俺の意志を確認する。


“では、思ったよりも早く、俺をヴェリフェラートへ連れて行くことになりそうなのだな?”


“そう言うことになる。何者かに連れ去られたとしたら、国内以外にあるまい。”


“……。それすらも、貴様の筋書き通りか?”


違う。この筋書きは、明らかに別の誰かに書かれている。

けれど、その誰かを、俺が説明できない。

思い過ごしであると決めつける為に、俺は随分彼を泳がせたつもりであるが。


“あいつを国内に留めてくことが出来ないから、此処へ連れて来た。”


“もしあいつをヴェリフェラートで見つけたなら、お前は俺を信じるか?”



“いいや。お前を信用するかどうかは、お前の方から明確にした取引に関係ない。”


“Sirikiという人間が見つかったなら、俺はそいつの喉首に牙を突き立てるまで、じっと見張り続ける。それだけだ。”


“お前が、あの人間の王の命を欲しがっているのだから、そうするしか無いだろう。”


“俺にとって重要なのは、お前がきちんと、彼の行方が分からなくなったことで、俺がそいつが死んだことと同義とするような決断をしないと理解していることだ。”


“だから、Sirikiが見つからないのなら、人の王が死んだと分かった時点で、取引は終了だ。”


“俺は全力でお前が嫌がることをする。”


“この群れから追い出せば、お前は狼として生きて行けなくなる。”


“お前がそれを止めたくても、俺を殺すことは結局群れを壊滅に追い込む。俺もお前もいなくなれば、この群れは今度こそ統率者を失い、散り散りになるだろう。”


“だから、お前が齎してくれた情報は、俺にとって何にもならない。”


“お前が自分で、あいつのケツを拭くんだな。”


“……。わかっている。”


彼の言う通りだった。

本当に、彼の居場所が分からず、途方に暮れているのを、演技だと見ていること以外は。



“とはいえ、もうお前の物語に片足を突っ込んでしまっているんだ。協力は勿論する。”


“お前がいない間の群れは任せろ。逆に言えば、両方が留守にすることは出来ない。”


“お前がもし、俺に見せたい景色があって、俺だけをヴェリフェラートに向かわせる必要が出て来たなら、言うと良い。”


“……。”


“分かった。”


俺自身もまだ、ほとぼりが冷めるまでは、群れに居させて貰うつもりだったが、どうやらそうも行かないらしい。

それは前向きに考えれば、俺が居心地の良さを感じる前に、一度距離を置くべきであるという示唆にも富んでいる気がする。



“早ければ未明に…けれど今回は、Lukaにも、相談してから発ちたい。”


“そうすると良い。彼女の機嫌はそうそう直らん。”






洞穴へと赴く最中の足取りは、尋常では無く重たかった。

雪の板にずぼりと前脚が嵌って、顎を打つぐらいには、気も緩んでいた。

狩りで神経を尖らせた反動か、それとも回復の機を知った身体の停滞か。


どれも違う。致命的な過ちの正体を見出せずにいる、輪郭の無い不安。

いや、きっといるさ。すぐに見つかる。何も喉元に突き付けられていることは無い。


誰かの毛皮の体温で眠りたい。

洞穴に潜り込むことは、許されるだろうか。


“……?”


振り返ろうとしたのと同時に、春らしからぬ風が戦いだ。


その日の太陽は、山の端に沈む代わり、雲間に隠れるのでも無く、一塊の大きな覆いの中に姿を隠すことにしたらしい。


“見られて…いるのか?”


そうなると、空は幾分か驚くことに違って見える。

山稜線に淡く滲む山吹色に代わって、それは空に走った亀裂だった。


太陽とは、その隙間から覗く神様の目だったのだ。





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