46. 夢の巣の中で
46. Dream Den
「…気分はどうだ、Siriki?」
貴方は僕を背中からどさりと降ろし、雪では無い、柔らかな寝床に身を横たえさせる。
これは…藁、だろうか?
天井は見えなかった。だが、空にしては暗すぎる気もした。
此処は、肌を削る風も吹かない、きっと安全な場所。
「どうだった。」
彼は、興味深げに問いかける。
「神の寵愛と加護に抱かれ、代わって全能の力を振るう感覚は?」
「……。」
「…惨めなものでした。」
「始めに覚えた昂揚が、素晴らしいものであったために、尚更。」
両腕を持ち上げ、手の平に残っていそうな力の残滓を眺めようとするも、一寸先の輪郭も朧だ。
にも拘らず、貴方の鼻先が、すぐ目の前でじっと私に向けられているのを感じるのです。
吐息としてでは無く。寧ろ興味深そうな眼差しとして。
「どういう意味だ。」
「聞かせろ。」
ああ、僕は、いつもの通り、貴方の駒としての資質を問われていたようだ。
決して、感想を聞かれているのではなかったのですね。
そう理解してからではもう遅く、僕は取り繕うだけの気力もなく本音を漏らした。
「何と、言えば良いのでしょう…」
「自分の力で無いこと、それ自体にと言うよりは、…そうして得られる畏敬の念への、惨めさがあった。」
「そしてそれが、罪の意識よりも耐え難いのです。」
「…それでは困るな。」
「やっぱりお前は、向いていないな。神様という奴に。」
「…すみません。」
壁にもたれ掛かった首を力なく垂らし、しかし弱音を挽回する言葉を挟もうと貴方へ手を伸ばす。
「ですが、これからも、貴方の役に立ちます…から…」
「どんなに惨めでも良い、無能で、裸であっても良い…」
「それでも、貴方を崇める国の王様ぐらいは、演じて見せます。」
「だか、ら…」
「……ふふっ。」
貴方は笑った。
まだこの期に及んで縋る以外の言葉を知らないのが憐れだからか。
それとも、僕がまともに貴方の問いに答えらていないからだろうか。
“…ウォォーー…アゥォォオーー”
遠くで、貴方の同胞の声が聞こえる。
「その言葉、忘れるんじゃないぞ。」
ああ、良かった。
あの狼、Vojaも、無事に、皆の元へ帰って来られたのですね。
…段々と、意識が遠のいていく。
「良かっ、た…」
毛皮に貰った温もりを逃がさぬよう身体を縮こめる気力も無く、僕は瞼を降ろした。
――――――――――――――――――――――
それから、どれ程の時間を眠っていたのか分からない。
一日を越えて気を失っていたのか、或いはほんの数時間の微睡みだったのか。
はたまた、死んでしまっていたり。
いや、身体の感覚はあった。
寝床の悪さから来る腰の痛み。
それだけで、この地面は薄暗い地獄の底ではない。
でも此処は…どこだろう。
入り口から僅かに漏れる光で、僅かに視界がある。天井は低くても、ここは石棺の中でも無さそうだ。
そうだ。眠りに落ちる前、狼の吠え声がした。それも、一匹や二匹では無い。終わらぬ遠吠えの合唱。
その中に、きっと貴方も混じっていた。
ここは、狼の縄張りの中だ。
Fenrir様は、Vojaは、何処に?
「……。」
僕が生きているのだから、当然どちらもご無事だろうとは思いながらも、この眼で確かめるまでは、やはり不安だった。
でも、次にVojaが僕を射竦める時、彼は僕を一人の人間以上の存在として、殺しにかかるだろう。
僕の、いやFenrir様の気持ちが、届いていると考えるのは、擬人的な価値観に頼り過ぎだと思った。
僕は、彼にとって脅威だ。噛み付かれても、文句は言えない。
Fenrir様が彼を監視下における状況で無い限り、きっと安全は保障されない。
であれば…安易に動き回らない方が良いか。
生きている証拠として持ち上げた右手を、僕はだらりと横たえる。
それに、外に出て、様子を確かめたい気持ちに、まだ身体を労わってやりたい気持ちが勝った。
もう一度目を閉じれば、もっと気分が良くなる。
そうすれば、次に自分が何をすべきか、考えられるようになって、直ぐ近くに潜んでいるであろう狼達の営みに、思いを馳せる余裕が生まれる。
興味が湧かない訳が無かった。
Fenrir様と出逢う前から、もっと言えば小さい頃から、ぼんやりとした憧れがあった。
誰もいない街の外れの雑木林を、すっきりと晴れた稜線の一角を、じっと目を凝らして見てしまう。
そこに、いませんか、と。
彼らを狩りの対象と捉えたことが無いばかりか、密やかに畏敬の念を抱き、
あわよくば、心を通わせるような機会に巡り合えないかと。そんな夢物語を。ずっと思い描いていたような気がする。
もし、彼らとの交流をFenrir様が、或いはVojaが許してくれたなら、僕は彼らのために何をしてあげられるだろう。
それは、人間をさらには神様を敵に回した僕にとってかけがえのない心の拠り所となるかも知れない。
容態が安定次第、すぐに去らねばならないのは、分かっているけれど。お邪魔させて貰っている僕が、せめて群れに良い印象を残したいと思うのは、Fenrir様一匹への御恩ともまた違う想いだ。
「ふぅー…」
ただ、このまま眠るにしても、もう少し居住まいを正す必要がありそうだ。
でないと、起き上がろうとしたときに、負った傷よりも、節々の鈍い痛みに気を使わなくてはならなそうだ。
そう思い立ち、光の指す方へ、寝返りだけは打っておこうと身を翻した、その時だった。
「……?」
気配、では無い。
身体を動かそうとして、初めて気が付いた。
胸の上に、何かが乗せられていたのだ。そして、その何かが、傾けた拍子に脇に落ちた感触があった。
始めは、ナイフだと思った。僕が握りしめていそうな私物と言えば、思い当たるものはそれしかなかった。
ただ、滑ると言うより、転がるような落ち方は、僕に何か別の存在を示唆していたのだ。
だらりと地面に打ち付けた右手を恐る恐る懐へと運ぶ。
むにゅ…
右脇が、何か柔らかいものを挟んだ。
なっ…何かいるっ!?
誰かっ…誰か一緒に寝てる!?
ごんっ……
「いっ……!」
慌てて起こした頭が、天井に激突して、僕は思わず呻き声を上げる。
「ったぁー…」
しかし、それでもう完全に目が醒めた。
目を凝らしてみると、確かにぼんやりと見える。
何かが、僕の腕と胴の間に収まって、身体を温めてくれていたのだ。
びっくりした…全然気が付かなかった。
“ぴー…?”
あっ、起こしちゃった…
僕があげた呻き声に反応したのか、その生き物も小さな鳴き声をあげる。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「君は…だれ…」
掌で撫でてみて、狼の確証が持てない。
Fenrir様に触らせて貰えない経験不足が、此処で効いて来る。
でも、この感じ…
これ…一匹じゃない、ぞ…?
“ぴぃー…ぴぃ…”
“きゅぅぅ…?”
「ちょ、ちょっと待って…待ってっ…」
段々と眼が慣れてきて、僕は到頭自分の置かれている状況を理解した。
「わっ…わ、うわっ…う゛っ…!」
驚きのあまり、二度も頭をぶつけ、しかしこれ以上身体を動かせない呪いにかけられた。
赤ちゃんだ…!これ…!
両手で、下手したら片手で拾い上げられるほどの大きさの仔狼が、全部で…
1,2,3,4,5,…6匹いる!?
「……。」
「嘘だろ…」
なんてこった。Fenrir様は僕をとんでもない場所に匿ったらしい。
それもこれも、信頼の証、ということで良いのだろうか。
少なくとも彼らのお陰で、僕は低体温を免れていたようだし。
「かわいい…な…」
僕のことも、きっと人間とさえ認識していないのだろうなあ。
ひょっとしたら、ご飯を寄越せと鳴いているのかも。
でも…何か変だ。
親狼は、何処に行ってしまったのだろう…?
この仔たち、Fenrir様のこどもで良いんだよね?
普通は母狼が、付きっきりで巣穴にいるものじゃないのかな。
僕の為に気を遣ってくれてということも考えられるけど、どうも腑に落ちない。
ただ、その違和感、疑問も、
もう一つの異変によって、容易く打ち消されたのだ。
果敢に僕の股から腹へよじ登ろうとする仔狼たちを、眺めていて、
一匹だけ、寝坊すけがいた。
せめて、一緒にいてくれた分だけ、温めてあげないといけないかな。
そう思い、他の仔たちの傍に寄せてあげようと毛皮に触れたとき。
「……。」
「こ、此処から、出なきゃ…」
僕は仔狼たちを慌てて身体から引き剥がし、これだけは触った感覚でわかった汚れた外套を引っ掴んで出口を目指す。
「ど、どこに…どこに逃げれば…」
まだ他の狼が来る前に。
見つかったら終わる。
追放どころでは、済まされない。
僕だけが巣穴で休ませて貰っている間に、こんなことがあったと分れば。
証拠を消すには…
「Fenrir様…どこ…何処に、いらっしゃるのですか…?」
「違うんです…違うんです、これは…僕じゃない!僕じゃ…」
空は既に白み、雪も降っていない。
僕でも足元に注意さえすれば、容易に動き回れそうであることが分かった。
入り口から辺りを見渡しても、当然、自分の居場所など、分かる訳が無い。
けれども、此処から離れなくては、本当に大変なことになる。
辺りに聳える立木のどの影にも、狼の影が潜んでいる気がして、僕は文字通り、逃げるようにして洞穴を後にした。
後にこの選択が、僕を破滅に追い込むことが無いように願う。
その冷たさが、他の皆がくれた温もりよりも、強烈に残っている。
狼の仔は、一匹だけ、死んでいたのだ。




