45. 産み落とす大枝
45. Birthing Boughs
“別にそんなことして貰う必要は無い…肉を喰わせろ。仔狼扱いをするな。”
俺は、できるだけ口調を和らげ、しかめ面を崩さない彼女を宥めにかかる。
“なーに言ってるんですか!昨日凍った埋肉で、お腹下したの知ってるんですからね!”
“い、いつの間に…”
“すぐそこでしたでしょ?動くのも辛そうね、Voja…”
“違う…あれは、仲間がくれた肉じゃない。人間の住処で漁った喰い物に中っただけで…”
“どっちにしたって、消化器官が弱ってるんでしょう?”
自分でも驚いていたが、それは、否めなかった。しかし、人間に与えられた喰い物は一切口にせず、一週間を過ごした代償として考えれば、寧ろ、軽いとまで言えたのだ。
“それとも…やっぱり牙、噛みづらいですか?”
“そんなことは全くない。狩りにおいても、支障は無いと断言しよう。”
“なら良かった…”
俺が殊更口調を強めたせいで、彼女は優しく耳を引いて微笑む。
“ほら、消化に良い方が、絶対に治りも早いですし、ね?”
“私も、ほら、慣れてますから、そういうの…安心して…”
そうか。そうだったな。
“Luka…有難いと思っている。本当に。”
“だが、これっきりにしてくれ…”
“…ほんっと、強がりなんですから。”
“分かりました、Voja。でも、今度はちゃんと、新鮮なお肉が良いですよね。”
“ああ、次の狩りには、間に合わせる。”
“そういう意味じゃなくって…もう…!”
怒らせてしまったか。だがそれでお前が俺の元から姿を消してくれたなら。
“はぁ…でも、大の大狼が、吐き戻しを食べる所、見て欲しくないですよね。”
“……本当に済まない。”
“此処、置いておきますから…”
そんな見え透いた羞恥心さえ、段々と解きほぐされてしまいそうで、恐ろしい。
“…静かだな。”
人間の喧騒が消えた朝は、驚くほどに澄んでいて、そんな世界が、縄張りと隣り合わせに存在していることは奇跡だと思えた。
“私がいないと、ですか?”
“ふふっ…悪く受け取り過ぎだ。”
一度解けてざらついた雪の寝床も、身体の通りに窪めば愛おしい。
俺は立ち上がって、思いきり伸びをする。その姿なら、お前に拝まれても構わなかった。
互いに言葉を知らずとも、代々、その’境界’を護り続けて来たことで得られた営みの有難さを、今になって実感する。
しかし、享受する喜びを表現しようと吠えることに酔っていてはならない。俺達は、まさに取り返さねばならぬのだから。
“……。”
“…?ああ、分かったよ…”
彼女は、俺がちゃんと一口でも良いから、腹に収めるところを見たがっている。
安心して貰うためにも、此処は仕方がない、か。
彼女の後姿に目を細め、吐き戻しの臭いを嗅ごうと首を降ろした、その刹那だった。
“お前が俺の治療を拒むことは勿論想定していたとも。”
背後から、如何にも申し訳なさそうな、しかし完璧なタイミングで、邪魔が入った。
“…Fenrirさんっ!!”
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“…昨日は良くも、俺の帰還を尊重するような真似をしてくれたな。”
“それは、礼を述べているのだと受け取っておこう。”
俺は、まだ彼女の体温が残る吐き戻しに目をやり、それを食べ始める前で良かったと安堵する。
しかし、無下にしたくない気持ちも事実だし、食欲をそそられているのも、自分で分かっていた。
けれども、こいつの前では、有り得ないことだな。
そもそも、同じだけ傷ついている、こいつが喰うべきだ。
“そもそも…いや、何でもない。”
俺はもごもごと言いかけていた文句を代わりに飲み込む。
そんな風に吠え始めたら、また喧嘩になって、Lukaが可哀想、か。
“こいつが、さっきから、傷だらけのお前に何があったと、うるさいの何の…”
“そ、そんなことないでしょVojaっ…!でも、一緒にぼろぼろになって帰って来るから…”
Lukaは髭をきらきらと揺らして吠える。
彼女に熱い視線を送るお前を見たかったのだが、それは上手く行かなかった。
“しかし、Voja。お前が戦力外となることは、群れにとって大きな損害だ。俺の申し出を受け取って欲しい気持ちもある。”
“…とはいっても、そこに関しては、全面的にお前を尊重するつもりだから、無理はしないでくれ。”
“問題ない。3本足でも、カバーできる。”
俺は長時間逆さに吊り下げられたことで捻じ曲げられた右後ろ脚の関節をゆすり、答えた。
“お前には、負けるだろう。だが、他の奴には、俊敏さを含めて、絶対に負けない。”
“あら、私になら勝てないかも知れませんよ?”
“そうなったら、俺は引退だ。”
“冗談でも、やめてくださいよ…”
“お前はもともと、足が速いからな。そろそろ、任せても良いかとは、本気で思っているぞ。”
“もうっ、Vojaっ!”
“お前の気持ちは、凄く分かるのだ。”
“俺も、傷ついた身体を人間に癒されることを、受け入れ難いと思う気持ちがあったからな。”
“ふん、過去形か。とはいえ、あれだけのことがあってぴんぴんしているようでは、仲間に示しが付かぬ。”
“ああ……そうだな。”
そこで、俺達は口を噤んだ。
そこから先は、彼女が聞きたがっているけれども、決して聞かせたくない、犠牲に纏わる話になる。
俺も、もうそちら側の存在という訳だな。
“Luka、悪いが、洞穴の様子を見に行ってくれるか。もし大丈夫そうなら、後でFenrirを赴かせたい。”
“……?ええ、そうね。わかったわ。”
“それじゃあ、Fenrirさん。また後でお呼びしますから…”
“……?ああ…”
二匹きりになって、Fenrirは彼女の吐き戻しを凝視している。
酷く驚いているという風でも無かったが、異質なものを見る目は、彼女への無礼になりかねないと思った。行かせて正解だった。
“なあ、Fenrir。”
“…うん?”
“取り返せるか?彼らの亡骸を。”
“…分からない。”
“お前の頼みでも、確約は出来ない。”
“だが、あれから闘技場がどうなったか、確かめに行くつもりではいる。”
“…それに、お前とは、取引の件もある。”
Fenrirは、自制心を必死に抱え込むように、きつく目を瞑り、それから熟れた瞳で俺を見た。
それで良い。昨夜のお前は俺の幻想で無くて良かった。
“反故にする気は無い、ということだな。”
俺はその視線に、敢えて答える。
神様じみた力を持った人の王をお前が殺したいというのなら、
お前の下僕を俺に殺させろ。
その条件で、俺はお前達の脱出に力を貸した。
その契約の履行の手段について、なるべく早い段階ではっきりさせておくのは良いことだ。
実際、お前がそういう類で俺をだまくらかすような奴では無いと確信した上で、そう持ち掛けた。
お前はそういう奴だ。裏切られることを酷く嫌い、それ故に自分を相手に投射する。
“俺にはお前が必要だ、Voja。それも、良い関係を保ったままで。”
それに互いが、この平穏に思える早朝の時間を損ないたくないと思っていた。
少なくともそれは、自分たちの為では無かった。
“俺はどうやって、お前が捕らえた人の王の生死を確かめられる?”
“俺が喰い殺せば、口元の臭いで、一発でわかるだろう。それとも、鼻先を触れるような挨拶も、したくないか?”
“お前が直々に手を下すという保証は何処にもない。”
“であれば、お前には定期的に、人間の住処へ赴いて貰わなくてはならない。”
“普通は逆だろう?互いが交渉材料を自分の縄張りに留めて置くものだ。”
“ここには、捕虜を縛る鎖も、封じ込める鉄檻も無い。”
俺達の手札に対称性が無いことは、お前も分かっている筈だ。
Sirikiは俺の言うことなら何でも聞く。お前を含めたすべての狼にだって、従うだろう。
“それに引き換え、お前の捕虜はどうだ。逃げ出さないよう、コントロールできるか?”
“……。逆に、お前ならできるのか。”
“それも悪いが、確約はしてやれない。だが、協力者がいないのなら、自力では、絶対に逃げ出せないようにするつもりだ。所望なら、お前に居場所は教える。お前が赴けるよう、警備に許可させるようにも出来る。”
“つまり、逃がした時は、Sirikiという男がその責任を取ると言うのだな。”
“…それで、構わない。”
“良いだろう。その件に関して、異論は無い。”
“しかしだ。何故、こいつを群れ仲間たちの知覚に触れさせなくてはならない…”
それだけは、純粋な害だ。
“分かっている…俺もこいつを、此処に長居させたいとは思わない。
“状況が複雑なのだ。お前の目の届く範囲でSirikiを回復させることが、一番安全であると言わざるを得ないほどにな…”
“お前が複雑という言葉で煙に巻くとはな。そのヴェリフェラートとか言う人間の住処の内部の事情は知らん。何故、その外で、此処で匿うのが最善という話になる。”
“理由は二つだ。一つに、基本的にあいつは一人じゃ何もできん。俺の眼の届く範囲に居て貰わないと、お前に殺される前に、勝手に野垂れ死んでいく。俺がこの群れから離れるなと言うのなら、必然的にこいつは縄張りの端で待機して貰わなくてはならない。”
“それに、ヴェリフェラートの外にも、人間はいる。そしてそいつらは、同じ人間を標的にする…ヴァイキングもいれば、盗賊の類だって。それでも中より安全だという理由を説明して欲しければ、お前はやはり一度、俺と一緒に捕虜の元へ向かうべきだ。”
そう言うと思った。まあ、いずれな。
それで、もう一つは?
“もう一つはだな…その…”
“…?”
彼は、始め言いにくそうに、しかし自分の発言が怒りを買うことを承知で、こう言った。
“…こいつが無害であることを、お前達に証明したいのだ。”




