42.ウルフィーの銀心 2
42. Wolfir Silverheart 2
そう。火花の散る剥がれた爪の先を眺めながら、疑問を抱いていた。
何のために、Fenrirという狼は、俺の目の前に現れたのだろうと。
より良い群れの未来を導く救世主となるためか。
彼女が寄り添うべき理想の番。
将又、人間に与しようとする害獣。
或いは、俺の好敵手。
そのどれでも無かったことが、今、明らかになりつつある。
単なる、一匹狼だったのだ。
“グルルルルゥゥゥゥ…!!”
そうと分かっただけで、俺は幾らか後ろめたいものを覚えているのだから、こいつに人好しだと罵る資格は無いのだろう。
だが、重要なのは、彼は一匹狼となった理由の為に戦っているということだ。
首を大きく振り上げると、半身を翻して跳び上がる。
俺が失った爪を、欠けた牙を想像して振り翳せば、Fenrirはそれを補うだろう。
しかし、飽くまで俺は、口元に咥えたナイフで、その延長で戦うことを選んだ。
悔しいわけでは無いが、俺がそうすることが合理的だと言っている。
ザシュ…!
及び腰になりつつあるヴァイキングどもを退け、どうにか仕留めようと切先を突き付ける兵士を薙ぎ払い、玉座への道を切り拓く。
“お前に人間相手の立ち回りを教えてやる。”
“まず…その卑屈な構えを止めることだな。”
お前の恩恵を得ようという立場で、生意気だと思うか?
しかし、図星でなければ、お前は息を潜めて俺の傍らに立つまい。
故郷ではそれでも上手くやれていたのかも知らないが、一撃で仕留めることにお前は固執し過ぎていると俺は思う。
‘低く構える’ 利点を、もう一度見直して欲しい。
“利には適っている。お前に、相手を殺す気迫がきちんと伴っていればの話だが。”
俺は、屈辱的敗北を喫したお前との決闘を思い返す。
その気になれば、お前はお伺いを立てることなく、俺の喉を喰い潰せただろうかと。
しかし、絶対的な力量差を前提とした戦い方を、俺はあまり良く思わない。
驕りだとも、恐れだとも言わない。しかし、お前が喰らい付くべき喉は、もっと上空にある。鋼鉄の防具に覆われていることだってある。
その上、視点の高さで負けている俺達が、瞬発力で彼らに訴えても無駄だ。そもそも、あいつらの反応速度はたかが知れているのだから。一瞬を稼ぐことに意味は薄い。
動きが彼らの視界に収められている時点で、対応に違いは無い。
人間が振り翳す刃物の動きは覚えろ。切先のパターンは、そんなに多くない。
手の延長、そういう意味では、短刀が最も与しづらいが、きちんと一撃の距離感を大きく退いて見極めれば、お前の瞬発力なら、対処できる。
だが、人間の手は凄い。
何が凄いかと言うと、殆ど身体の何処にでも触れられることだ。
首元に刃物を持った手を持っていけば、それだけで防御できる。
お前の牙が触れるよりも早く、殆ど反射的にだ。
その事実だけで、お前の渾身の一撃が、お前の追う致命傷へ変わる。
分かったか。
お前の急所だけを狙う戦法は大抵機能しない。お前がいくら強い狼でもだ。
削れ。相手をコントロールしろ。
四肢から、逃げ回る体力から、そいつより弱い仲間から、削るんだ。
大事なところを護ろうとする相手の気持ちを甚く尊重してやれ。
そうすれば、いつの間にか、相手のリソースは枯れている。
喩え周囲のこいつらが、力任せに刃物を振り回すだけでどうにかなる相手ばかりだとしても、それは変わらない。
俺の言葉の意味が分かるか?
お前は、お前が仕留めるべき相手のリソースを、削らなくちゃならない。
お前が殺したい、人の王が護りたいものは何だ?
最早、あいつはこの会場において、己の身を隠すことが出来ないのなら…
“そうだ。距離だな?”
カチンッ
“……!!”
ズドッ!!
キンッ…
ほら…また来た。
耳の奥に残る焼けるような残響。
一体、何なのだ、金属を折り曲げただけの形をした、あの弓は。
俺が目にしてきた中で最も小さく、にも拘らず、ずば抜けて速い矢を放つ。
“流石に来ると分かっていなかったら、反応出来ないな。”
口元には、まだ刃先が受けた振動がびりびりと残っていた。
『…っ!あの狼…!』
指の動きを止めず、瞼も瞬かない。声は歓声の上でも澄んでいた。
『面白いね。不愉快だけど…』
足元には、小さな飛礫が転がっている。
しかしその威力は、あの人間が膝を着くほど。
明らかに、人間を越えた武器だ。
あれで意表を突き、狩られたなら、俺達狼は一溜りも無い。
弓矢に対しては、近寄るほかに無い。
お前が狩りにおいて、そいつを稼ごうとする手段を言ってみろ。
“挟み撃ち。”
…上出来だ。お前が一匹狼では無い証拠だ。
人の王は、再び弓の先端の標準を俺に合わせる。
カチンッ…
バァン!
しかし、矢を放つ直前、何かに気が付いたようだ。
『っ…?』
観客席の傾斜を、ぐるりと回って駆け巡る衝撃波に。
椅子がガラガラと破壊され、途轍もない勢いで、主賓席へと迫る。
“……。”
俺は鼓動の隙間、再び俺の眼前まで一瞬で伸びた矢先を凝視し、
息を吹きかけるぐらいの僅かな抵抗で、
ガッ…
『馬鹿な…!』
『有り得ない…Fenrir無しで、僕の弾を?』
それを凌いだ。
“俺がいつからFenrirの毛皮を纏っていると、錯覚していた?”
『っ…?』
見えぬ大狼の影。
『い、いるっ…!?』
人の王は、堪らずそちらへ弓の照準を変える。
『お前…Fenrirの力なしにっ…!!』
『自力で…!!』
狙いから外れてフリーとなった本体は、観客席へと跳び上がる。
ザッ…
“……まだ…動け、る…”
本音を言えば、ぎりぎりだった。
お前は、生命維持装置だ。少しでも、離れれば、気を失ってしまいそうなぐらいに、身体の輪郭が曖昧だ。
着地で、足が縺れる。
目が回り、視界が上へと滑る。
だが、それでも、
“Fenrirっーーー!!”
こうして、獲物の前で合流できるぐらいの、気力は…
“ヴォジャァァァッッッーーーー!!”
――――――――――――――――――――――
この狼が俺を通して戦おうとしている相手は、俺が思う人間よりも壮大だ。
俺が関わって良い範疇じゃない。
具体的に言えば、俺は、ヴァイキングの強そうな兵士を数人、仇として狩る力があることを示せたなら、鼻高々だと思っていた。
彼がよじ登ろうとしている土俵は、その人間を見えない高みから支配する者たちだ。
群れの長に対して、人の王、それ以上に形容する言葉を俺は知らない。
しかし、人を越えた相手を狩ろうと言うのだと理解できた。
そうすることで、‘お前が当然だと思えなかったこと’は、当然であったのだと納得したいのだ。
それはお前自身の本質に起因する。お前が、狼を越えた何かであるが故と俺は推測する。
だとしたら、お前を他の狼と同じように扱うことは途端に難しくなり、尾を振って迎え入れる訳には行かない。
お前が登り詰めようとしている理想は、必ず俺達を最悪の形で巻き込むことになるからだ。
今、俺が自ら捕虜となって戦い続けているこの有様を、お前のせいだとするつもりは毛ほども無い。
しかし、お前が俺の一生を狂わせるだけの力を持っていたことは事実だ。
俺がお前を本心から一匹狼として迎えるには、どうすれば良いか。
それは、俺がお前の野望を、さっさと叶えさせてやることだろうか。
お前が、誰かの力を借りたがっているのは、この人間の洗脳とでも言うべき心酔ぶりからも見て取れる。
俺さえも、頼ろうと言うのだ。
それだけの力を、秘めておきながら。
それは何故だ?
お前が、お前の力の誇示を嫌うからだ。
俺達は、言わば、身代わり。
そう確信させる理由は、俺に囁きかけ続けた人の王が、ずっとその存在をひた隠しにしようとしてきたからだ。
あれは、見つかりたくなかった。
お前と同じ、はぐれものであるからだ。
見つかってはまずい。誰に?
それはこいつしか知るまい。
しかし、そんなリスクを伴う代行者となるのは御免だ。
お前に協力することとで得られる恩恵は、俺の目的を大きく超えるだろう。
しかし、度を越えている。
やがて仕留められる運命を着せられ、お前の身代わりを演じること。
それは、俺が狼でなくなることを意味する。
俺は狼でありたい。
降りたい。お前と同じ土俵で、戦いたくない。
――――――――――――――――――――――
再び開ける視界。定まる焦点。
ぼろぼろの自分の姿を背後から見下ろす操縦席は、新鮮だ。
ひな壇を駆け上がる度に、王との高度差が縮む。
“行くぞ…Fenrirっ!!”
此処まで詰めた間合い、にも拘らず、まだ弓矢に頼るか?
取り回しの良さが売りらしいな。
俺が跳び上がり、襲い掛かる瞬間を、射抜こうと言うのだ。
煙の上る矢先を構え、強張った表情で俺を待つ。
鼻に刺さる金属臭、矢先は毒でも塗りたくってあるのに違いない。
“……良いだろう。”
やっと、こいつは同じ土俵で戦うことを選んだ。
つまり、お前の負けだ。
“伏せろっ…!”
ヒュン…!
一発目の弾丸が、耳の間をすり抜ける。
照準を一瞬だけ迷わせたかに思えたが、冷静に堪えたな。
カチンッ
“……っ!!”
次の矢の装填時間が、思ったよりも速い。
跳び上がろうとするその瞬間を…狩られる!
“ふふっ…!”
“まだ、グリップは残っているんだ…!”
両前脚を折って、肘を地面へ近づける。
ギュ…!
狼爪が剥がれそうになる程の力だったが、減速には十分だ。
身体の自由を徐々に奪われていく過程で身に着けた回避方法だ。
『何っ…』
Fenrirの爪に頼るよりも、僅かに速い。
目の前、鼻先を鏃が掠める。
“今だ…!”
俺は今度こそ地面から身を浮かせ…
『……?』
その場で、一度、腹を見せて二本脚で立ち上がり、剥製の如く静止した。
どうだ、人間だぞ、と。
間抜けな威嚇の格好で。ピタリ、と止めた。
いいや、頬だけは、折れた牙を隠せず緩んでいたな。
その動きに、加勢しようとする神様さえも騙される。
ズズズッ…
フェイントを掛けられた巨大な鉤爪が、遅れて空を切った。
一度、二度と、凄まじい勢いで振り下ろされる前脚の衝撃が、
実体を失い、人の王をすり抜け、
ダァーンッ…ダァーン!!
カチカチ…カチンッ
弾を、喰い尽くした。
“敵を騙すなら、当然、味方から。ということだな。”
『しまっ…』
“仕留めるのは、俺で良い。”
俺は咥えていた刃の切っ先を、
今だけは真っすぐに、人の首元に向かって突き立てたのだ。
――――――――――――――――――――――
…そう。
俺は、飽くまで俺が立つこの地で、戦い続けるべきなのだ。
俺の獲物は、やはり人の王では無い。
飽くまで、この人間だ。
それは、お前の脚を引っ張るだろう。
それで良い。
お前を、群れの内の一匹の狼としてやることが、俺がお前にできることだと思う。
お節介だろうな。
しかし、それを望む狼が、一匹や二匹いることが、
お前を鈍らせることが、
お前の思う当然でないことへの理解になれば嬉しいと思う次第だ。
――――――――――――――――――――――
『こ…後悔……する、よ…』
“だろうな。”
“しかし、お前が瀕死の重傷を負いつつ、なお口を聞けることは、幾つか有益な帰結を産むと思わないか。”
“お前だって、知りたいことがあるだろう?”
“交換条件と行こう、Fenrir。”
“俺は、こいつを殺さない。”
“お前が大事に抱えている、その人間を殺すなとの命だったな、リーダー。”
“そいつの命と引き換えだ。”
“そいつを俺に寄越さない限り、俺はお前にこいつの命を奪うことを許さない。”
“その条件を呑むなら、今この場から、お前とその人間、それからこいつ…”
“全員運び出してやる。”
“それくらい出来るだろ?お前の本来の躯体になれば?”
……交渉成立だな。
“よろしく、Siriki。”
“お前は、俺の獲物であり、”
“Fenrir様との対等な駆け引きを持ち掛ける為の、大事な捕虜だ。”
“…せいぜい、お互い、狂わされた者同士、仲良くしようじゃないか。”




