41. 狼煙を上げよ 3
41. Ignite the beacon 3
獣のような喚き声を上げながら、こいつは立ち向かっていった。
俺が這い上がろうともしなかった、周囲を囲む壁を乗り越え、俺達を気怠そうに眺める人間に向かって。
俺の飼い主を、殺そうと言うのだ。
ひた隠しにするのが、上手いだけかと思われた殺気は、初めて剥き出しにされて、やり場を失っている。
「ふうん…」
「滑稽だけど…真に迫るものがあるね。流石は戦士ってところだ。」
だが、傍観者を戦場に引き摺り出し、拠り所としていた安心を取り払って尚、状況は絶望的だと言わざるを得ない。
お前が探していた獲物の居場所は分かった。
しかしこの、人間の群れのボスは、そもそもお前との直接対決に乗り気ではない。
恰もお前を、俺と同列と見做し、
俺達に奴隷という役割を着せたまま、始末しようとしている。
「君たち、次の試合を楽しみにしていることは、重々承知の通りだ。」
人の王は、口調に違わぬ演劇的な立ち振る舞いで、周囲に呼び掛ける。
そのお辞儀は恭しく、上げられた顔は微笑みに満ち、追い込まれたという危機感を微塵も滲ませない。
「まず何よりも、神々を味方に付け、その一端に触れた彼らの戦いぶりに、大きな拍手を!」
「しかし、勇敢な諸君。誇り高き戦闘民族たる君たちは、果たして聴衆として退屈してはいなかったかね!」
「そして、羨んだはずだ!彼らと境遇は違えども、かのように戦場を駆け巡ることが出来たならと!」
「我々が目撃したことは確かだ!」
「神の祝福は、惹かれ合い、’伝搬’ する、と。」
「っ?」
隣で、人間が怒号に噎せ返った。
分からない、だがこの王は今何か、この戦況をさえ味方に付ける何かを口にしたらしいのだ。
「今日は無礼講だ!僕が許可しよう!」
「参加権は、今この場にいる誰にでもあることにしよう!」
「この勝負は、まだ着いていないように思われる…従って、彼らを仕留めた者に、その者への掛け金のすべてを褒賞金として贈ろう!!」
『うおぉぉぉぉぉぉぉーーーーーっっ!!』
『なんだって!退屈しねえなあおい!』
『やってやろうじゃねえか!この街は平和ボケしちまってつまんねえと思ってたところだ!』
「きっ…」
「貴様ぁぁぁぁぁっ…!!」
遂に膝を折った、人間の表情が、みるみるうちに、絶望に染められて行く。
それは、俺が戦う前に嗅ぎ取れていた怯えよりも、遥かに色濃く、狩り手の腹を空かせるだろう。
「どちらの勇気にも力を与えてくれた神々に、最高の敬意を払い…」
「彼らを葬ってあげて欲しいものだね。」
そう捨て台詞を吐くと、彼はマントを翻し、最奥の席に再び腰かけた。
“おい…人間…”
俺に分かったことは、二つだけだ。
一つは、お前が戦おうとしていた相手、人の王は、既にこの場に居る全員を、味方に付けてしまっているということ。
“…Fenrirは、お前に何と告げたのだ?”
そしてもう一つは、
「あ…諦める…ものか…」
神様とはこうも恐ろしい。
既にその背中に敗北を認めながらも、
彼は傍らの死体から一本の剣を拾い上げる。
もう一つは、それがこの人間を降伏させるのに、十分では無かったということだった。
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手負いの獣とは、確かに手強い。
下手をすれば、思いも寄らぬ一手によって、此方を致命傷に追い込む。
しかし違う。これは俺が認めた様な、狩人の動きではない。
人間の振るう切先は、惰性と言ってやりたい程に、煽られる体幹に負け、ぶれてまとまりが無かったのだ。
「はぁつ…あぁっ…あ、あぁっ…」
お前がたった今見せたその殺意を、本物だと受け取るならば、
どうして、俺に示してきたような、力の切れ味が無い?
闘技場は、混戦の様相を呈しつつある。
先まで観客として騒ぎ立てていた男たちが、次々と降りて来ては、人間との対決を所望せんと剣を抜く。
頬を赤らめ、目を見開き、完全に会場の雰囲気に呑まれている。
それでも先ほどの、内側から腸を傷つけられた者たちを目の当たりにした後なだけあって、彼らは慎重だった。
見えない境界線があり、その円の内側に入ることを躊躇っている。
まだ、この人間に、神様のご加護があると思えば自然なことだ。
いつまでも戦線に加わらない前衛のせいで、全員で俺達を取り囲んでおきながら、あちらこちらで、揉み合いが起きる始末だ。
しかしその円も次第に収縮し、到頭一人、また一人と、俺達へ挑もうと襲い掛かって来る。
「くっ…そがぁっ…!」
武器は容易く膂力の優れる相手に弾かれ、再び肉を切らせて骨を断つような戦いで、自らの寿命を縮めている。
“グルルルルゥゥゥゥ…”
その魔の手は、当然、俺へも迫っていた。
唸り声程度で退く気が無いと分れば、こんなもの、逃げるより他無い。
俺は、お前とは違うのだからな。
『いいぞっ!やっちまえ!いけーっ!』
こんなもの、会場が小さくなっただけ。
観客と演者の距離が近くなっただけでは無いか。
一体感が増したという意味では無く、その境界が曖昧になったというだけ。
結局、俺達を殴り倒そうとするものと、それを周囲で囃し立てるものが現れ。
それを変わらず頂からゆったりと眺めている、人の長がいるだけ。
もう、収拾が付きそうにないが。
このすべてのヴァイキングを屠らなければ、お前の勝利が無いのだとしたら、
Fenrir、どうやら俺達は、犬死にとなってしまいそうだぞ。
それなのに。
この人間は、目醒めない。
“……。”
何故だ?
俺は、傍らで腹這いになったまま、毛皮の脈動を見せない同胞に目をやる。
Fenrir、
まさか、お前が衰弱してしまっているからなのか?
そのせいで、お前はこの人間に十分な力を与えられずにいるのか?
バァン…!
“ぐっ…うぅっ…?”
耳に悪い破裂音がして、その直後に、自分の膝が、がくんと折れた。
“あ゛っ…あぁっ…?”
右の後ろ脚が、言うことを聞かない。
“なんだ…これ…?”
目で追うことが、出来なかったが、人間の使う投擲武器の類であると推察できた。
”今の、は…?”
音の主は、直ぐに確かめることが出来た。
差し詰め、裏切り者に向けられた罰と言ったところか。
人の王が、退屈そうに肘掛けで頬杖をついている。
手に持たれた、折れ曲がった金属のそれから放たれた鏃が、俺を挫いたのだ。
「随分と威勢が良いようだね。勇ましいこと、この上ない。」
「だが、君。僕にばかり目を向けていて…」
「何か大事なことを、忘れていないかい?」
「……っ!?」
“うっ…上だ…!”
俺の警告の吠え声よりも先に、彼は神様の視線の先をいち早く追うことで、絶望的状況を把握する。
「うっ…うぅ……?」
それは、俺が目にしたことのある、狩人の武器だった。
混戦から一早く身を引き、獣を狩る為の弓矢を持ち込んできたもの達がいる。
それも、一本や二本ではない。
弩級隊とでも呼ぶべき数の弓矢によって、回避の一切を許さぬ兵器が完成していたのだ。
客席で酒瓶を投げるだけの腰抜けを押し退け、彼らは狙いを定めた。
“し…まった…!”
舌を巻く役割分担。
人間は、その動きを良く知る兵士が殺し、
すばしこい狼は、狩人の武器で殺せばよい。
「やめ゛ろ゛お゛お゛―――――っっ!!」
甲高い弦の連打音に遅れて、矢羽が風を裂く。
降り注ぐ矢の雨。
覆い潰された天井の景色。
ドスドス、ドスッ…ドドドッ…
“……。”
「あ゛あ゛あ゛あ゛――――っっ!!」
背中に刺さった音の数々に、胸が空いて良いはずだった。
膝を折り、両手を広げ、背中を仰け反らせた彼は、
ケダモノだった。
まるで神々に向けて、吠えているようだった。
何故お前は、そこまでFenrirにしてやれる?
お前が彼に与えて欲しいものは、何だ?
人間の死か?
であればそれは、途方も無くとも、飽食を知らぬ怪物の境地とは程遠いか?
それとも、お前はもっと別の何かの為に、
この狼を?
それは、お前に、
狼への献身にさえ思える
愛撫の所作を促すと?
そう、その手だ。
そうやって触れる、見返りは何なのだ。
何度も、Fenrirと、彼に踊らされているだけの人間を、交互に見つめ。
その場で四肢を折ったまま、
進むことも、戻ることも出来ずにいる。
お前に利用価値のある人間への加担など、もっての外だ。
しかし、より大きな獲物である人の王を逃すことが、ひいてはお前の率いることになる群れの脅威となるのなら。
俺は、4人殺せれば満足だ。
出来ることなら、それで足を洗い、
一介の狼の範疇に収まり、平穏とまでは行かずとも、狼の暮らしを享受したいと思っている。
お前は、何人喰い殺せば、気が済むのだ?
そして、こいつは、この人間は、既に4人殺しているとお前は言った。
こいつに、何人殺させれば、お前は満たされる?
そして、殺させたいのなら、必要な力をやはり、補ってやるべきなのだ。
お前が、神様のように振舞いたいのなら。
でも、そうしない。
“そして、出来ることなら、牙を剥いたこいつに、手を貸してやって欲しい。”
Fenrir。
“さあ…ほんの、一救いで良い。”
それとも…
お前は本当に、’俺に’ 託したと言うのか?
お前が持てる力のすべてを、
たった今、貴様の首元に牙を突き立てた、この俺に?




