41. 狼煙を上げよ
41. Ignite the Beacon
ずっと、頭の中で響いていた。
『うん。良い感じだ、君。相当に、Fenrirの信頼を得ているようだね?』
『同時に僕は、君の信頼もまた、得ることが出来たと言えそうだ。』
『言った通りだろう?僕の言う通りにすれば、必ず相手の威らに隠れているFenrirを引き摺り出すことができると。』
視界を人間に開かれて尚、何処から語り掛けて来るのか。
『だから、今度は君が、僕の信頼を勝ち取る番だ。』
『見せておくれ、君が不意を打ち、Fenrirの首元に、牙を突き立てる瞬間を。』
『その為に必要な力は、全て、用意させて貰ったよ。君が今までに振るったようにね。』
『大丈夫、まだ動けるよ。見てごらん、あいつの悲しそうな表情を。』
でもそれは、きっと、俺の内側からなんかじゃ無かった。
『そう…そのまま。』
狼が舌を巻くほどの饒舌で。
俺はその囁きに、抗うことが出来なかったのだ。
“Fenrir…”
『安心して群れの元に帰ると良い。』
『僕が、解放してあげるとも。』
『Lukaと、一緒にね。』
“…俺には…長になる資格なんて、無いんだ…”
“お前に言ったこと全部が、俺には出来なかった。”
“何の自覚も無いまま、けれども、散り散りになった同胞たちのことを想うと、皆の頼みを断ることも出来なかったのだ。”
“群れは一度、長を失えば、忽ち総崩れになる。”
“それを俺は、身を以て知ったから…”
“だから一度は、彼女のことを、諦めたのだ!”
“Lukaが、人間の罠に捕らえられた時、俺は最期まで彼女のことを救い出そうと必死だった。”
“けれども、あいつらが彼女を捕虜に、より大きな獲物を誘い出そうとしていると分かっていたから。”
“俺は…彼女を見捨てた。”
“それなのに、彼女は生きていた。”
“お前に救われ、戻ってきたのだ。”
“俺に出来なかったことを、いとも簡単に成し遂げた。お前は、彼女の救世主となり…”
“俺の前に、群れを率いるに相応しい一匹狼として、立ち塞がろうとする。”
“お前と出逢ってから、ずっと考えていた。”
“…俺は、何が間違っていたのだろうか?”
“俺は、群れのことなど、本当はどうでも良くて。”
“最初から、自分の気持ちに正直に、彼女の為に命を賭す覚悟を貫き通せば良かったのか、と。”
“ずっと…ずぅっと、後悔していた……”
“それでも、それでも、俺にはぁ…”
“一匹の為に、全てを犠牲に、”
“長を、滅するような……”
“愛情を…”
“見せられなかったことを……!!”
“ぐ…ふっ…”
Fenrirの口元から、ぼた、ぼたと、血が溢れ出る。
“あぁ…あぁっ…”
『やはり覿面だ。君を殺すために、彼自身が祝福を施しているのだからね。』
これは、俺の牙では無い。
人間が振るう、仮初の刃、感覚は無くても、
誰かが、俺の中でのた打ち回り、
これはお前の命に真に迫るぞと吠え猛っている。
“ごぼっ…ごぼぽっ…!?”
“これで…これで、良いんだなっ…?”
“これで俺は、Lukaを救い出して、群れの元に戻れるんだなっ!?”
“そういうことに、してくれるんだなっ!?”
俺は英雄として、元居た群れに再び迎えられ…
それで…それで…
今度は、何も間違えずに。
愛する君のことだけを考えて。
ドッ…
肉を貫く、鈍い音。
“……っ?”
ドスッ、ドスッ……
“ふっ……ふ…げほっ…がぁっ…”
“あ、あぁ…”
痺れを切らした、ヴァイキングらの横槍が入ったのだ。
皮肉なことに、それは俺の眼には、俺へ加勢するように映った。
『なんてことだ…彼らは礼儀と言うものを知らない。』
「ほらっ、次の試合の邪魔だっ!何処の犬コロだか知らねえが、ご退場願うぜ!」
Fenrirは、彼らにとっての、景品とは成りえないらしい。
彼だけに、切先の見えぬ深さまで、槍が突き立てられている。
「おいおい!何だよっ、共喰い?面白そうだろ、見せろ見せろーっ!!」
「そうも行くかっ、金にならない勝負は、ここじゃやっちゃいねえんだからよ!」
“Fenrir…もう一つ、伝えておきたいことがある。”
“お前には、この声が聞こえ無いだろう。”
『君…!君自身の手で、終わらせてあげるのが情けと言うものだ。』
『そのまま、一思いに振り抜いてあげて。』
『人間なんかに、止めを刺されるくらいなら…彼もそう願っている筈だよ?』
今もまだ、頭の中で、巡り巡る。
俺の弱くて、醜い塊を美化しようと連なる、薄ら寒い詩句。
ふざけるな。
分かっているのだ。こいつが群れの長として生き残らなければならない器であることは。
その一点において、俺が吐いた言葉に、嘘は無いのだ。
“だが俺がやったことは、すべて俺の意志だ。”
“こいつに嗾けられたのでもなければ、操られていたのでもない。”
“お前におけるこの人間とは、断じて違う。”
“それだけは…はっきりさせておきたいのだ。”
“あ゛あ゛っ…あ゛、ぎゃあぅっ?”
「死んだか…?」
反応を見る為だけに、柄が、捩じられたのだ。
彼の悲鳴が、痙攣が、刃を通して伝わってくる。
「こいつっ…まだ…!」
“あ゛ぎゃぁっ…?や゛めっ…きゃぅっ?”
確かに、こんな奴、どんな人間でも敵わないだろう。どれだけ痛めつけ、弱らせても、勝負にならない。
俺がつくった隙を逃さず、排除するのが賢明ということか。
だとすれば、俺は助言を受け入れるべきなのか?
お前が此処で、未来永劫戦い続ける結末は、彼女に一縷の望みを抱かせるようなもの。
そんな躊躇が、此処まで勇気を振り絞った俺自身を嘲笑う。
“Fenrir…”
お前に聞いたって、仕方が無いのに。
何を期待しているのだ、俺は。
パチパチパチパチ……
何処からともなく聞こえる、一人だけの拍手。
“……?”
震える瞼を開き、観客席へと視線を移す。
そう、このシーンを目にして、スタンディングオベーションなどに陶酔する、美的観点の持ち主がいるのだ。
『ありがとう。素晴らしいものを見せて貰った…!』
『そしておめでとう。君の勝ちだ。』
“この声…”
ああ、その特等席に、座って、見ていやがったのか。
こいつが、俺の協力者。
一人だけ、狩人にそぐわない体格の男がいる。
狼の毛皮をフードにあしらったマントを、足元まで立派に垂らして纏い、
人間の長にでも収まっているのか、頭には簡素な金色の冠を抱いていた。
頬を染め、瞳に涙を滲ませ、本気で感動しているようですらあった。
俺の視線を認めると、両手を広げて、互いが通じ合っていることを確かめようなどとする。
“……。”
悔しいという気持ちは、一切ない。
この人間の姿をした神様が、人間のように、俺から何かを奪おうとしなかったからだろう。
それ故に、こいつを好く感情も、湧き上がって来ない。
恩だって、今こうして、返したのだから。
風格こそ、王様らしいと言えばそうだが、それでいて人間に身を窶せるほどの、道化者。
人相だって、臭いだって、Fenrirならば、何らかの心当たりがあるのだろうが、或いは…いや、俺には、関係の無い話だ。
俺はこのまま、重い身体を引き摺り、闘技場を去るだけ。
この脚じゃ、長旅になるだろうな。
意識を保って、群れの元へ、辿り着けるだろうか。
正直、自信が無い。
だが、群れを想う気持ちが、俺の吐いた言葉で薄まることもまた無いのだ。
何処かで、力尽きて欲しいなどという誘惑に負けることなく、俺はきっと。
“Vojaっ…!”
“……?”
“ヴヴゥゥゥッ…ウゥゥゥゥゥッ…”
何だ…?Fenrir。
俺の醜い本性を曝け出したのだ。
悲鳴混じりに、貴様の誹りの一つや二つ、聞いてやるとも。
“…その話、ごほっ…Lukaにはぁ、内緒にしておいてやるよ。”
“…?ああ…そうしてくれると助かる。”
“正直言って、驚いてしまった。”
“はぁっ…はぁっ…でも…俺には、お前にこんなことをさせた気持ちが…”
“当然だと、思って欲しくないんだ。”
“…?どういう意味だ。”
“理由さえ伴わぬ…お前を定義づけるとさえ思えた決断。それさえいつか、踏み躙られ、否定される。”
“あぁっ…あぁ…俺は普通の狼より、幾分か長生きでね。分かるんだよ。”
“お前の愛した日々が、ある日突然崩れたように。”
“何が、言いたい…?”
“当然だとする、お前の前提とする気持ちの拠り所が…お前自身にあるものならば。”
“…それで良いということだ。”
“……?”
“彼女を守ることだけに振り回され…それを拠り所にすることだけは、しないで欲しい。”
“何、を……言って…?”
“彼女を守り続けることは、当然か?当然でなかったから、お前は一度、彼女にお別れを言った。そんなお前を責めるつもりは、毛頭ない。”
“ただ彼女を愛するお前の中に理由を問い続け、お前にはそれを信じ切って欲しいと、そう思っているのだ。”
“お前が彼女を愛する気持ちが、ひょっとしたことで、消えてしまわないように。”
“それは前提に出来ない。でも理由なんて何でも良い。何でも良いから…立ち戻れる出来事が、必要なのだ。”
“愛して貰えるのは、当然だと思い込んでいた俺が…”
“俺が犯した過ちを、群れの友へ、そう送らせて貰いたいと思っている。”
“そう…だいぶ後になって初めて、相手の立場になって考えたことだ。”
Fenrirは、そう言い終えると、身体をぶるぶると震わせ、落ち窪んだ瞳で俺に笑いかけたのだ。
そして。
ドチャ…
俺の傍らで、Fenrirは崩れ落ちた。
その重みに耐えきれず、同時に口元から、包丁が零れ落ちる。
「…Siriki。」
「傷は…まだ、痛むか?」
……?
「いいえ…もう、平気です。」
「聞かせろ。」
「どんな味だ?」
ゆっくりと、視線を落とす。
頭だけを交差し合い、首元に包丁を突き立てていた、その俺達の間で、
Fenrirの身体を抱きしめている人間がいる。
「不味い…吐きそうです。」
顔面の殆どを、彼の喉元に埋め、
俺達と何ら変わらない嗚咽を漏らしながら。
「そうか…まあ、旨いと言われたら、それはそれで不愉快だったか。」
「変な味を覚えずに済んだ、そう思うことにしよう。」
「…神様も、少しは自らの命を危険に晒し、慈悲をかけねばなるまい。」
Fenrirは眠たそうな口調で、その表情は微睡みに微笑んでいる。
「貴重な血液を…こうして、分け与えてやったのだ。無駄にはするなよ。」
「俺に代わって…動けるな?」
「勿論です。…Fenrir!」
「だから…だから、死なないで…」
「お前に護って貰う程、墜ちちゃいない。」
「…そうは言っても、これでも身体は生身の狼だ。俺に生きていて欲しければ、その後に腹いっぱいの獲物を喰わせる仕事が残っている。」
「そう、ですね…貴方の好みは、Sebaよりは詳しいはずです。」
「ああ…まだお前には、働いて貰わねばらなない。」
「当然です。我が大神。」
「ふん…余り苦戦するなよ。」
“ば、かな…?”
彼の毛皮を震えながらにきつく握りしめる人間の右手を見て、目を見開く。
“ぼろぼろにしてやった身体が…?”
まさか、まだ戦わせると言うのか…?
“そして、ああ、Voja!”
“っ……?”
“見つけてやれなくて、済まなかった。”
“ずっと、待っていてくれたのに。”
“……。”
ぐっと、涙腺を握られるような口調だった。
“Voja!俺はお前を解放する…!”
“そしてお前の凱旋に相応しい獲物を、お前は今見つけたのだ!”
“俺の、獲物…だと?”
“何のために、ヴェリフェラートへ潜り込んだ?”
“お前が殺したいと希った相手は、もっと、もっと大物だっただろう?”
“だからこんな小物、捨て置け…!小動物では、お前の飢餓は満たされまい…”
“そして、出来ることなら、牙を剥いたこいつに、手を貸してやって欲しい。”
“足手纏いだが、利益になる。お前の戦況を覆すのに抱えない。”
“さあ…ほんの、一救いで良い。”
Fenrirは、にたりと笑い、先端の僅かに欠けた、血塗れの牙を俺に晒した。
“舌で、この牙を奇麗にするぐらいの一舐めで。”
“狼が、狼に力を貸すのだ。最短の結びつきで、その一端を垣間見せんと言うのだ。”
“最早、敵う相手はいないと、思わないか?”
“…我が、狼よ。”




