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40. 常なる狼 4

40. Immerwolf 4


二匹の狼の間で、どのような会話が為されているか、僕には分からなかった。

けれども、Fenrir様の真意を、どうにか掴むことが出来ていたらしいことだけは、理解できた。


良かった。

僕は狼を殺さずに、済んだ。

この戦いは、終わったのだ。


そう思ったのも束の間。


彼らの展開は、有り得ぬ方向へと進んでいるらしい。


“これは、俺の群れに毒を盛り、殺した人間のうちの一人か…?”


再び喉元に突き付けられた包丁。

今までのどの一撃よりも、僕の命に迫る。


「Fenrir様…」


「これは…?」


“答えろっ!Fenrirっ!!”


“違う…Voja。こいつは、俺が従えている人間だ。害はない。”


“嘘は吐くなと言った筈だ!”


“お前がLukaに振舞った喰い物の臭いの中に、こいつのそれが紛れ込んでいた。”


“俺が今、咥えている、この柄にも、同じものが染みついている。”


“……。”


“お前に、俺を本気にさせる志があると言うのなら、俺には、こいつの命を奪う権利がある。”


“手土産なしには、帰れぬ。お前は俺を連れ戻したくば、目的を達成させて貰おう。”


“Fenrir。俺が言っている意味が、解るな?”


“ああ……”


逆さに映るFenrir様は、僕と対戦相手の狼を視線だけで交互に見つめている。

明らかだった。僕に狼への止めを思いとどまらせておきながら、今は彼に、僕へこの包丁を突き立てることを、促そうと、少なくとも許可しようとしている。


“そいつは、狼にとって、狩るべき存在だ。”


“フシュウルルゥゥウ…!!”


喉元から溢れる唸り声と共に、上唇の痙攣で髭がぴくりと動いた。

そうでなくとも、殺気で、Fenrir様が許可を降ろしたことは明白だったのだ。


「お、お待ちください…!」


裏切られた気分、と言えば、貴方は嘲笑うのでしょうか?

しかし、こうして今、貴方の意志を理解し、お役に立つことが出来たと言うのに、

これで…用済み、なのですか?


ふと、全て初めから、貴方の筋書き通りである気がした。

相手の大玉を獲るのに、此方が生かすべき駒はどれか。犠牲にすべき駒はどれか。


これで、貴方は、人間と狼、いずれにおいても重要な駒を配下に収めることが出来た。

一人は、コンスタンツァ港を含む沿岸全土の軍事力を支配する侯爵の一人息子。

もう一匹は、恐らく貴方が一介の狼として身を窶すことを保証してくれる、強大な群れの長。

どちらも、一度操ってしまえば、伴って動く駒の数とその恩恵は計り知れない。

費用はこれ以上無い程軽く済んだ。

たった一人の、哀れな寡夫の命と引き換えに。


“だがVoja、そいつを今殺す訳には…”


「う゛う゛っ…」


“こいつに手向けの言葉を吠えてやれよ!Fenrirっ!”


獲物を逃さぬよう、前脚がずっしりと胸の上に置かれた。

肺が軋み、思わず呻き声を上げる。

死力を出し尽くし、そして我が主のお力添えを失った今、抵抗する気力も無かった。


“見ろっ!お前に裏切られて悲しいという顔だ!”


命乞いにも、人間の言葉で嘲ることすら、してくれない。


“俺だって、不本意ではある…出来ることなら、正々堂々と、狩り殺してやりたかったぜ!”


“それは、本当だ。…さっきの言葉は、嘘なんかじゃない。”


“…まあ、お前に聞こえている訳も無い、か。”



“素晴らしき狩人の名は、後でFenrirに聞いておいてやる。”


「フェンリル…さ、ま…」


そんな…


動けない四肢の代わりに、胴を必死で捩じる。

どうにかして、貴方に僕の目を見て欲しい。


この戦いを通して、何かを変えられたと確信していた、犬のような僕のことを。


せめて、僕に分かるように、笑って?

これから、貴方の為に、死ぬのだと分かるように?

でないと、でないと、僕は、これから先どうして良いか…


“グルル…”


“待てっ!Vojaッッ!!”




「……?」


“……?”




“命令だ、Voja。”


“そいつを今此処で殺すことは、許さない。”


“ほーう…?”


“訳を聞こうか?我が狼殿。”


彼はお道化て、それもかなり上機嫌に、嗤っている。


狼の垂れた舌を裏側から眺めるのは、初めてだった。

裏に刻み込まれた襞は薄黒く、意識を失いつつある獲物が時間を潰すのには丁度良い観察対象だったろうと思った。


“俺を納得させられる理由とやらをな?”


“……。”




“そいつは、俺の獲物だからだ。”




“……。”


はっ、はっ、はっ…

荒い息遣いと共に脈動する喉の毛皮を凝視し、じっと待つ。


Fenrir様…?


今、何と……

仰ったのです?




“…なるほどな。”


“だから、俺が殺すまで、待て。”


“何故、俺の代わりに殺ろうとしない!?”


“今、此処で!!”



“俺がお前を信用するための証左として、何故もっとも手頃な土産を渡そうとしないっ!?”


“…代わりに、お前の目の前で、喉を喰い破ると、約束しよう。”


“だから、それまで待って欲しい。”


“到底、納得しがたい言い訳だな?”


“…必要なのだ。これ以上に利用価値のある繋がりはそうそうない。”


“はっ…!結局それが本音か?”




“結局、こいつも俺も、お前にとって今は必要というだけだろうが、違うか!?”


“そうだな…究極的には、そうかも知れない。”


“であれば、交渉は不成立だ。”


“お前にとって利用価値のある人間を俺が殺せない限り、俺がお前の群れに加わることはない。”


“こんな、囚われの身で在ろうとも、こいつらの仇を討つまで…”


“俺に、帰る場所は無い。”


“そうLukaに、伝えておけ。”




“ほら、そろそろお開きのようだ。”


「……?」


両脇から、数人のヴァイキングが降りて来る。


『ちぇーっ、何だよ。これから狼のお食事タイムが生で見られると思ったのによー…』


『これ以上待っても仕方ないだろ、次の試合時間が迫ってるんだ!』


『そうだよな、此処から狼同士のドッグファイトって演目には、ならねえよな。』


『噛み付かれないように気を付けろよ。弱っているとは言え、さっきの戦いぶりからして…』


『ああ、俺達の知ってる狼じゃねえ…』


『すげえよなぁ…憑いちまってる。』


先までは絶対的な安心のもと、観衆側に回っていた彼らが、両手に、各々武器を持ち、にじり寄って来る。


“また、俺を生け捕りにするつもりだ。”


“お前も気絶するまでこん棒で殴られたくなければ、逃げることだ。”


“俺と一緒に、飼い犬として、此処に留まってくれると言うのなら、話は別だがな。”


“真に受けるなよ。お前は、自分の役割を、理解したと言った。”


“その言葉さえ、無価値にして、俺を悲しませてくれるな。”


Fenrir様が、膝を折った狼に慌てて駆け寄る。


“ぐふっ…お゛ぉっ…げぇぇ……?”


“Vojaっ!?しっかりしろ!気をしっかり持て!”




“どうしても、駄目か…?Voja。”




“……ああ。”


“悪かったな、Fenrir。”




ズドッ……




僕は、Fenrir様の毛皮に、今まで決して見せなかった傷を見た。


首元に、百足のように這う、巨大な噛み傷を。



そして、それをなぞるように宛がわれた。




包丁から滴る血の生温さを知ったのだ。




“お前を裏切ることに、なってしまって。”





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