40. 常なる狼 3
40. Immerwolf 3
決着がついたのだ。
遂に、狼が、止めを刺した。
少なくとも、観客からは、そのように見えた。
会場のボルテージは、最高潮。
大団円だ。誰もが、口を揃えて褒め称える。
戦場でも滅多にお目に掛かれないスリルを味わい、神の顕現を垣間見た彼らは、植民地における闘技場を、教会以上に神聖な場所として崇め、これからより多くの金と、人間の命を費やすことだろう。
『マルボロ家の末裔、4連勝ならずーっ!』
『ああ、哀れ!奴隷戦士は終ぞ、自由を手に入れることが出来なかったーっ!!』
間もなく、開戦と同じ笛の音が、厳しい冬の夜空を駆け抜けるだろう。
『ん…なんだあ?』
それでも、幕引きとは、さも意外だった。
拍手とも、怒号とも、分からぬ、割れるような観客の鳴き声は、
次第に、どよめきへと変わって行く。
一匹の狼の、乱入によって。
何処から入り込んできたのだろう。
そのような疑問も、排除せよとのお達しも、無かった。
演劇の余韻を楽しむ程度の、エンドロールを眺める程度の興味で、席を立たずに、視線だけを送っている。
“グルルゥゥ…”
先まで戦っていた、満身創痍の狼と同じ体格をした彼は、相手の唸り声による警告に素直に従い、近づこうとする歩みを止めた。
“何をしに、のこのこ出て来た…Fenrir!”
“俺の、この情けない有様を拝みにか?”
Fenrirと呼ばれた狼は、ゆっくりと首を振り、目を伏せる。
“立派に戦うお前の遠吠えに、誘われて来たのだ。”
“であれば…!であるならば!”
“これが、お前が俺に与えたかった試練、いや報復であるとするならば、貴様は何と言葉をかける!?”
人間にさえ見せなかった表情、上唇を剥き出しにして、ありったけの憎しみを、解放された満面で示す。
“ヴヴゥゥゥ…グルルァァァァァァァァッッッ!!”
全身の毛を逆立て、あからさまな臨戦態勢で煽り立てた。
おや、もう一戦、始まるのか?
観客は、俄かに活気づく。
今度は、狼同士の、ドッグファイトだ。騒ぎ立て、賭場を立てるに、値するだろうか?
だが、その敵意も、長くは続かなかった。
それでも応じないどころか、立ち尽くしたままに気弱に零した言葉を聞いて、彼の保てなくなった怒りは、こそげ落ちてしまったのだ。
“お願いだ、Voja…”
“群れの元に、帰って来てくれ。”
“あれはもう、俺の群れじゃない。”
間髪入れずに、Vojaはそう返した。
“次に、同じお願いで俺に首を垂れて見ろ。”
“その脳天を踏みつけ、額にこいつを突き指してやる。”
“お前がいないと…”
“俺は皆のことを…”
“護れない…。”
“聞こえなかったか!?Fenrirっ!!”
絞り出すように、痛切に訴えた本音も、彼は毛先を血で固めた鬣を揺らした。
“はっ…笑わせる。”
“そんな覚悟も無しに、俺の挑戦を受け取ったのであれば、見込み違いだったな。”
“Lukaが、お前の帰りを待っているのだ。”
“……。”
“貴様のそいう言うところに、心底腹が立つんだっ!!”
“自覚が足りていないとかでは無く、お前は根本的に、群れの長に向いていないっ!”
“……そうだと思っている。俺は、群れに拠り所を求めるべきでは無かった。”
“だ、だから俺は、きちんと時を巻き戻すため、お前を連れ戻しに…”
“甘ったれるなっ!”
“……っ?”
“お前が彼女に唆されて、愛情なんぞに勇気を奮わされて…”
“群れ全体のことを顧みようともしないようなぁっ!”
“そんなお人好しな狼だとは、思わなかったっ!!”
“だがっ…、本当にLukaは、お前のことが大好きで…”
“俺をっ…見捨てられないようでどうするっ!?”
“なっ……?”
“お前は、トランシルヴァニア山麓南東一帯を支配する、誇り高き狼の長だっ!!”
“掛け替えのない仲間が、これからも群れを離れていくだろう。間違いなくお前は、嫌と言う程経験する。”
“だが、お前は、それさえも、乗り越えると思っていた!!”
“乗り越えてくれると信じていたぁぁっ!!”
“なのに…なのに貴様は…俺を最悪の形で裏切りやがった…!”
“お前に期待していた俺が、馬鹿だった。
お前は、何も分かっちゃいない。“
“ずっと、狼同士の決闘を、単なる序列付けか何かのように、考えて来たんだろう。
そうやって、自分のことだけを悲観し、誤魔化して、負かした相手から、何も学んで来なかったようだな。“
“ああ…”
“そうだな。全てにおいて、俺はその資格が無かった。”
“そう嘆いておけば、許され…!”
“それでもまだ、言わせてくれ。Voja。”
“俺はお前を連れ戻しに来た。”
“Lukaが軽率な勇気を振り絞る前に。”
“ガルァアアアアッッッ!!”
Vojaは吠えた。
踏み出した一歩は、地面を吹き飛ばすほどの衝撃と共に、彼が宣言した通りに飛翔し、狼の額を叩きつけ、地に伏せさせる。
“ぎゃうぅっ?”
ミシ、ミシと圧し掛かる重量感。
狼一匹の力では無かった。
“今度は情け無しだっ!!”
首筋に、後悔の時間を数えさせる慈悲も与えぬ。
頭上に掲げられた刀身は、鈍い輝きを放っていた。
それでも、狼は、藻掻かない。
“ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ーーーーーッッッ”
ズドンッッッ
“はぁっ…はぁっ…あぁ……”
それは、這いつくばる狼の頬を掠め、刀身のすべてを地に埋めたのだ。
“お前を殺したら、誰が群れの先頭に立って尽くす!?”
“貴様を此処で殺したら、誰が群れの長の役目を背負うのだ!?”
“まだお前は!俺に…!目の前の負け犬に頼ろうってのか!?”
“フェンリルウウウゥゥゥゥゥゥッッッ!!”
“……。”
“ごめんな、Voja。”
“本当にごめん……。”
這いつくばったまま、瞳から、大粒の涙を流す。
ぐふ、ぐふと牙の隙間から嗚咽を漏れた。
“こんなに…お前が…辛い思いをしていたと…俺は…”
“もう一匹では、済まされない。”
“Voja…分かった。もう、お前に頼ることはしない。”
“だから彼女に、会ってくれ。俺がお前を此処から生きて連れ出す。”
“力づくで、お前を俺の群れに、引き入れて見せる。”
“……。”
“口先だけでは、響かぬな。”
“だが…それだけ聞いて、安心したよ。”
“彼女は、お前を追って、此処に来ちゃいない。そうなんだな?”
“ああ。間違いない。約束する。”
“そうか……”
“良かった。”
“Luka……”
Vojaは、包丁の柄を抜き取り、砂を払って咥えなおすと、ふらふらと四肢を操り、Fenrirに尾を向けた。
“だがな、俺にも、意地と言うものがある。”
“何のために、敵地に、人間の縄張りに飛び込んできたか…?”
“その目的が達成されないのであれば、俺は此処から出て行くつもりはない。”
“どういう…意味だ?Voja。”
“俺の仲間を見世物のように嬲った相手に巡り合えるまでは!どのような凌辱で俺の魂を蝕もうとも、何度だって狂った獣を演じよう!此処はそういう場所の筈だ!”
“…だから、Fenrir。一つ聞く。”
“お前は、人間に詳しい。多少の関りを持っていることは、透けている。だから、嘘は吐くな。”
Vojaは、脇で仰向けのまま動かない対戦相手の首元すぐ傍に、咥えていた包丁の切っ先を突き刺す。
“こいつは…俺が殺すべき相手か?”




